2018/11/15 - 2018/11/16
726位(同エリア1063件中)
ムッシュさん
南伊豆の下田を散策。黒舟が寄港した開国歴史の街です
- 旅行の満足度
- 4.5
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伊豆急下田駅のゲートです
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下部に見える鎖のある場所が改札ゾーンです。関所のイメージのようです。
海の玄関、下田にも関所はありました。 -
伊豆下田、須崎恵比須島にて。遠方は石廊崎方面。
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伊豆下田、須崎恵比須島にて。遠くは外海。アメリカ方向かな??
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伊豆下田、須崎恵比須島。遠くの豆粒の島は、伊豆七島。
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伊豆下田、須崎恵比須島。遠くの島は、伊豆七島。
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若山牧水歌碑
「友が守る灯台はあはれわだなかの蟹めく岩に白く立ち居り」
*神子元島が最もよく見える景勝地として、恵比須島に建てられました。
*若山牧水は神子元島灯台守をしていた大学時代の旧友を訪れ、一週間も島に滞在し、その間に詠んだ詩は歌集秋風に収められています。 -
若山牧水歌碑の裏面
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西田佐知子の歌「エリカの花散るとき」の記念碑
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遠くに伊豆七島
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島の周囲は遊歩道になっている。
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宿泊ホテルの玄関 ”季一遊 ときいちゆう”。立派なリゾートホテルです。
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季一遊 ホテルのロビー
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下田駅前
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まどが浜海遊公園
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寝姿山。女性が横向きに寝てる姿に似た山ということ。
小さく左端に立つは、竜馬像。 -
これが【坂本龍馬像】
なぜに竜馬か?? 勝海舟と巡り合い場所です。
文久2年、1862年、広く世界を知るため、土佐藩を脱藩した坂本龍馬は勝海舟の門下に入った。脱藩という罪を背負った龍馬の身を案じ、翌年、勝海舟は下田の宝福寺で前土佐藩主・山内容堂に面会し、龍馬の脱藩赦免を願い出ました。同年、一旦は赦免された龍馬は再び脱藩し、その後、亀山社中を設立、薩長連合を成立させた。
宝福寺は現在、龍馬ゆかりの地として、龍馬も歴史を伝えています。
フォトは浜海遊公園内に立つ「龍馬志の像」 -
弁天神社
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海遊公園道から海沿いに、【吉田松陰の小径】へと来ました。
弁天島の斜交層里という地層。 -
弁天島の斜交層里という地層。
弁天島は、幕末、吉田松陰が外航を企てた島として有名。
ここは、数百万年前に爆発した海底火山の影響を受けた地層だそうです。 -
アロエと風車の組み合わせ。
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この地域、【アロエの群生】
お肌の手入れにはアロエは欠かせないとか。 -
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ハリスの小路碑
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「吉田松陰拘禁之跡
幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来港したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず、翌嘉永7年(1854年)3月再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所が、ここ長命寺(廃寺)であった。 さらに平滑(ひらなめ)の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な1頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。」 -
吉田松陰は、長州萩の生まれ。金子重輔と共に下田に来訪。世界の情勢を知るために、小船をペリーの旗艦ポーハタン号に乗り込み海外密航を試みたが断られ、柿崎海岸に送り返された。松陰は自首し、拘禁され、取り調べを受け、江戸送りとなった。伝馬町の牢に入れられ、萩に護送された。松下村塾を開き、久坂玄随、伊藤博文、山形有朋、品川弥次郎など多くの英才を輩出し、明治維新の原動力となった。
【吉田松陰上陸の碑】
吉田松陰は、海外密航を決意し柿崎弁天島より小舟を漕ぎ出し、ペリーの旗艦ボーハタン号に乗り付けた。
しかし海外渡航は国禁であり、ペリーは穏やかに拒絶し、送り返した。送り返された松陰が上陸した地点が、この場所である。」 -
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吉田松蔭が脱国を企てた海岸
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松蔭が密航を企てた弁天島の西に建設された公園には
「踏海の朝」と題した吉田松陰と金子重輔の銅像が建っている -
御影石
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御影石の説明
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恵比寿神社
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ジオパーク。恵比須島遺跡
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下田の歴史。
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歴史散策のスタート口
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さて、下田市内歴史道散策です
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稲田寺(とうでんじ)
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稲田寺(とうでんじ)本堂
稲田寺(とうでんじ)は、通りから奥まった目立たないお寺ですが、お吉の恋人だった船大工”鶴松”の墓があり、下田名所としてかかせない由緒ある寺院です。 -
開国時期の【稲田寺(とうでんじ)】 文正元年(1466)法蓮社本誉創立
稲田寺は、下田市では数少ない浄土宗のお寺で、15世紀の中頃に開かれたと伝えられています。また、仏像の漂着伝説の多い南伊豆地域でもめずらしい、開山上人の漂着伝説を持つという。
山門を入って右側の阿弥陀堂に、平安時代後期の阿弥陀如来坐像(下岡市指定文化財)が安置されている。大浦にあった稲田寺末庵の西向院から移された客仏である。檜材の寄木造りで、像高は208センチメートルの南伊豆には例をみない大像である。
近世の補修もみられるが、丸顔の穏やかな面相や、ゆるやかな肉どりは、定朝様式の典型的な作風を示している。後世の作と恩われる観音・勢至菩蔭を両脇に従え、三尊形式をつくっている。
幕末開港時には、ロシア使節プチャーチンとの文渉に当たった応接掛川路聖謨(せいぼ)の宿舎となり、その後下田奉行伊沢美作守が宿舎とし、安政の東海地震・津浪*1854)後、ここ稲田寺は仮奉行所ともなった。
なお、山門を入って左側には、安政の東海地震(1854)後の大津浪で犠牲となった人連を供養する津なみ塚が建立されている。また、お吉の夫となった川井又五郎(幼名鶴松)の墓もみられる。 -
【海善寺(かいぜんじ)】:第41番札所 海善寺 ? 伊豆88遍路
*あじさい寺として有名。バクチ打ちで知られた伊豆の金平の墓があります
*1350年に開創された後、1590年にこの場所に移った。
かつてここには、下田領主であった「戸田忠次」の居館が建っていた。
三門が素晴らしい! 江戸時代当時のお寺の面影が三門から感じられる
*観応元年(1350)の開創。
正式名称は、「富厳山 天気院 海善寺」で、浄土宗のお寺戦です。
ご本尊は、「阿弥陀如来像」です。豆州八十八箇所霊場・四十一番札所となっています。
下田領主の戸田忠次の居住した館の跡です。
文久3年(1863年)暮れに、徳川14代将軍家茂が上洛する途中で強風に遭遇し、当寺にて年を越したと伝えられています* -
宝福寺
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宝副寺
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【宝福寺】
*1854年、日米和親交渉にあたり日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた場所。
*それより以前、滞在中の土佐藩主山内容堂に勝海舟が謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許された寺としても知られています。晴れて、坂本龍馬の飛翔が始まった。 -
この宝福寺には、お吉の墓や関連資料の展示が観れる。
【宝福寺(下田市)】
概要: 八幡山宝福寺は静岡県下田市一丁目に境内を構えている浄土真宗本願寺派の寺院です。宝福寺宝福寺の創建は室町時代末期の永禄2年(1559)、織田信長の弾圧により当地に逃れた了善(本願寺第11世顕如の法孫)が開いたのが始まりと伝えられています(真言宗の前身寺院を真宗寺院に改宗開山したとされます)。江戸時代末期の嘉永7年(1854)に仮の下田奉行所となり日米和親条約の際、日本側の会議や打ち合わせ場所として重要な役割を持ちました。文久3年(1863)には土佐藩主山内容堂が宝福寺に宿営し、そこを訊ねた勝海舟が坂本竜馬脱藩の罪の許しを請い認められています。
慶応元年(1865)には韮山代官江川太郎左衛門英武の本陣となり境内で農兵の修練が行われました。又、ハリスに仕え、悲劇の最後を遂げたお吉の菩提寺と知られ、境内にはお吉の墓や、お吉記念館が建てられています。 -
山内容堂と勝海舟謁見の寺
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山内容堂と勝海舟謁見の寺
「文久三年一月十五日、山内容堂は宝福寺に滞在、当寺を訪れた勝海舟正の請を容れ、坂本龍馬の脱藩を免罪。宝福寺は龍馬の維新回天の飛翔の原点となった。
平成二十年一月十五日建立」 -
【了仙寺】
日米和親条約の細目、付属条約を締結したお寺、
【由緒】
寛永12年(1635年)に第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって了仙寺が創建されました。創建された了仙寺には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じました。以降、歴代将軍から朱印状が下賜されています。従って、了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵です。 -
【webより】
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に武藏国横浜村(現在の横浜市、横浜開港資料館の建つ場所)で締結された全12ヶ条からなる日米和親条約(正式名:日本國米利堅合衆國和親條約/Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)では第2条に下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)ことが記載されていました。
締結後も日米間で交渉は継続し、交渉の場は伊豆国下田の了仙寺へと移され、嘉永7年5月22日(1854年6月17日)に細則を定めた下田条約(全13ヶ条)が締結され、ようやくペリー艦隊は6月1日(6月25日)に下田を去り、琉球へ立ち寄って琉球王国とも通商条約を締結しています。
了仙寺で締結された付属条約である下田条約では、
「アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。」
ーということが定められました。
境内にある五輪塔は、私財を投げ打ち武ヶ浜波除を築いたことでも知られる下田奉行2代・今村正長、4代・今村正成、5代・今村正信の墓で、いずれも江戸時代初期のもの。
また古墳時代築造の横穴古墳もありますが立ち入ることはできません(人骨、勾玉、水晶製切子玉、金銅製腕輪、耳飾、土師器、須恵器などが出土)。
宝物館では、徳川歴代将軍が了仙寺へ発給した朱印状、武田信玄の家督譲状、黒船・異文化交流関連史料(原本3000点以上)などを収蔵展示しています(2ヶ月~3ヶ月ごとに展示替えを実施)。
徳川歴代将軍が朱印状を出し、寺紋も徳川家と同じ三つ葉葵が許されているのは、開山した行学院日朝(身延山久遠寺第11世)が、大坂の陣で眼病を患った徳川家康の病気平癒を祈願し、成就したからだと伝えられています。
現存する本堂は文政9年(1826年)築で、ペリー提督と幕府がが応接所兼交渉場所とした当時のもの。
ちなみに有名なペリーロード(下田に上陸したペリー一行が了仙寺まで行進した道)は、了仙寺の参道ということに。 -
前フォトの説明
『国指定史跡文化財 了仙寺』
「法順山 了仙寺 日蓮宗 寛永十二年(一六三五)創建 開山 日朝第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行 父・彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助に
あたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
本堂南側の基城の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。
第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四大伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である
(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられてる。
嘉永7年(安政元年ー1854)3月、神奈川県において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。
ここ、了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休憩所となった。なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金鋼製の腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。 下田市」 -
了仙寺におけるアメリカの軍事訓練の様子(webより借用)
上の写真に掲示されているのがこちらです。 -
【長楽寺】
大浦山長楽寺は静岡県下田市三丁目に境内を構えている高野山真言宗の寺院です。長楽寺の創建は不詳ですが、当初は薬師院長楽寺と号し、別所にあったとされ、室町時代末期の弘治3年(1557)、尊有が真言宗の寺院として改めて開山し現在地に境内を遷しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により廃寺に追い込まれましたが、宝光院長命寺と合併する事で再興しています。境内は高台に位置する景勝地で長楽寺の梵鐘は、伊豆八景の一つに数えられ下田市民から親しまれた存在でしたが第二次世界大戦中に供出されました。
又、長楽寺は幕末の外交の舞台でもあり安政元年(1854)には権筒井政憲(旗本:目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任)・川路聖謨(旗本:佐渡奉行、普請奉行、公事方勘定奉行を歴任)とプチャーチン(ロシア使節海軍中将)との間で日露和親条約(日露通好条約)が締結され、安政2年(1855)には掛井戸対馬守等と米国使節アダムス中佐との間に日米和親条約批准書の交換が行われています。長楽寺は幕末の外交史上貴重な存在で昭和46年(1971)に下田市指定史跡に指定されています。
伊豆八十八ヶ所四十二番札所(札所本尊:薬師如来・御詠歌:くもりなき 瑠璃の光に 長楽寺 人の心の 月ぞすみける)。
伊豆横道三十三ヶ所霊場二十三番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・旧宝光院長命寺本尊)。
伊豆国七福神:大就弁財天。山号:大浦山。宗派:高野山真言宗。本尊:薬師如来。 -
長楽寺は日露和親条約締結の交渉が行われた場所。
ロシアの使節プチャーチンと日本側全権との間で、日露和親条約は結ばれた。
【大浦山長楽寺 真言宗 弘治元年(一五五五)中興開山尊有により再興】
「安政元年(一八五四)十二月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の筒に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫鳥以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。また、同二年(一八五五)一月、米国使節アダムズ中佐と日本側応接掛井戸島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。参道左側の高台にあった梵鐘は良く響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。
現在の鐘楼と梵鐘は昭和五一年に再建されたものである。なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されている。」 -
静岡県下田市、ペリー艦隊来航記念碑のある下田港から了仙寺へと続く平滑川沿いの道が、ペリーロード。嘉永7年5月13日(1854年6月8日)、軍楽隊演奏に合わせ300人ものペリー艦隊水兵が行進し、下田の人々を驚かせた道です。現在では喫茶店や骨董店が並び、散策に絶好の道に。
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京の白川通り風の風情あり。川沿いのペリー通り。
【webより借用】
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約により、下田港の即時開港、箱館港の翌年開港が決まり、下田沖に停泊したペリー艦隊7隻(ペリー提督は旗艦ポーハタンに乗船/サスケハナは中国へ、サラトガは本国へ条約を携えて帰ったため、下田には7隻が来航)。
ペリー艦隊の下田滞在は70日を数え、そのうち1ヶ月は翌年3月開港となる箱館の調査に費やしています。
非公式ながら、3月24日、ペリー提督は、わずか7人を随行させて弁天橋近くに上陸し、休息所として提供された了仙寺までの約700mを移動。
了仙寺では、黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、お茶の接待(保命酒、みかんの一種・九年母、菓子など)を受けています。
ペリーがわずかな随行とともに歩いた道も、現在のペリーロードで、とくに逢坂橋から続く弥治川沿いは、昔ながらの雰囲気を色濃く残しています。
逢坂橋近くに並ぶ古い建物は、骨董屋や喫茶店などになっており、町歩きを存分に楽しむことができます。
ペリーロードを歩くなら、まず了仙寺を拝観し、寺に車を停めて出かけるのがおすすめ。
ペリーロード周辺には伊豆軟石を使った古い家が残されていますが、伊豆軟石には火山から流れ出した溶岩の「堅石」と、火山が噴出した火山灰や軽石からなる凝灰岩と呼ばれる地層の「軟石」の2種類あり、加工に向くのは、ペリーロードにも使われる軟石。
嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、ペリー提督は上陸して了仙寺本堂で、和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田条約を締結、5月25日に条約書の交換が行なわれ、目的を果たしたペリー艦隊は6月1日帰国のため、下田港を出港しています。
ペリー提督が下田に滞在した70日間には、下田奉行設置、ペリー提督上陸、吉田松陰・金子重輔の密航事件、ポーハタン等5隻による箱館港への事前調査、日米和親条約附録下田条約調印、欠乏品供給の名目による事実上の貿易開始と目まぐるしく歴史が動いています。
大役を担ったペリーは、帰国後、1857年に海軍を退役し、『ペリー艦隊日本遠征記』(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)の執筆に尽力、1858年3月4日ニューヨークで死去(63歳)しています。 -
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下田ペリー通り。見事ななまこ壁の家屋です。
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ペリー上陸の碑
下田港の稲生沢川河口、ペリー上陸記念公園に立つのが、ペリー艦隊来航記念碑。嘉永7年3月21日(1854年4月18日)、ポーハタン号に乗船したマシュー・ペリー提督は、下田港に入港。ペリー提督の胸像、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られています。 -
ペリーは蒸気機関を軍艦に採用したことで「蒸気海軍」の始祖と言われた。1854年横浜において日米和親条約12ケ条を結び、下田、箱館の2港を開港。
調印後、軍艦7隻を下田に入港させ、和親条約の細目、付属条約を了仙寺にて締結した。
【ペリー上陸の碑】
嘉永七年(安取元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親桑約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。
下田港か外洋と接近していて安全に容易に近づけること、舶の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった
下田に、ペリー艦隊か次々と入港した。ペリー艦隊の乗組員が上陸したのか、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、『ペリー上陸の碑』が建てられた。この記倉碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の鐘は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。」 -
日米和親条約締結の主役、ぺリー像。
ペリー艦隊が上陸した地に立つ像。
「ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ
1854年の日米和親条約調印から150 1周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を祝う時である。
1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に向けて出航した。
今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。
アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。
アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」 -
日本の最初の開港地。下田に続き、翌年箱館が開港された。
「日米友好の灯
この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューボート黒船祭のおり、「NEW!!わかふじ国体」の矩火リレーに使用するため採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。矩火リレーとして利用後、
平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに
点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。日米友好の灯宣言下田市は、日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、両国民の交流に貢献することを宣言します。」 -
下田の港。丘公園より俯瞰した風景。
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この下田にお城があったとさ。城址記念石碑
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『下岡蓮杖翁之碑』
日本の写真技術の開祖は、西の上野彦馬、東の下岡蓮杖と言われています。
下岡蓮杖は、安政3年に米使ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学びました。
文久元年(1861)横浜弁天通に写真館を開業し、後に東京の浅草で多数の門下を養成し、日本における写真技術の先駆者となりました。日本での写真技術の隆盛は下岡蓮杖の功績によるとして、全関東写真連盟と当時の下田町によって、昭和3年5月13日にこの碑が建立された。 -
【下岡蓮杖】
幕末から明治時代の写真家。下田で1819年、文政6年年に生まれた。玉泉寺のアメリカ領事館に勤め、総領事ハリスや通訳官ヒュースケンを通じて西洋の文化に目覚めた。横浜で写真家ウイルソンからカメラを入手、1862年に写真館「全楽堂」を横浜弁天通りに開業。江戸の鵜飼玉川、長崎の上野彦馬とともに職業写真家の先駆者とされる。蓮杖の業績を讃え下田公園ないには蓮杖の像が建てられている。
【下岡蓮杖(1823~1914)】
「わが国写真師の開祖となった下岡蓮杖は、浦賀船改番所問屋である下田町中原町の桜田家に生まれ、久之助と称しました。
少年の頃、狩野薫川の門に入り、狩野派の絵を学びました。江戸の薩摩藩屋敷で銀板写真を見て、その精巧さに驚歎したことを転機に写真術の習得を志しました。
嘉永6(1853)年30歳の時に蓮杖と号しました。安政3(1856)年、ハリスが玉泉寺を領事館にすると、下田奉行所の足軽となり、外国人との接触の機会を得ました。オランダ人通訳ヒュースケンから写真の手ほどきを受け、下田開港場が閉鎖されると横浜に出て、米人ウンシンと知り合い、彼の帰国の際写真機を譲り受けました。そして、実験を重ね、辛苦の末ようやく湿版写真術を習得しました。横浜野毛ついで弁天町に写真館を開業、画家としての心得を生かして人工着色や画像の演出を行い、写真館は繁昌しました。蓮杖の門下からは優れた写真家が輩出しました。
写真の他、牛乳搾取業、京浜間乗合馬車の開設、石版印刷等多方面に活動し、明治日本の近代化に貢献しました。
なお、靖国神社遊就館に蓮杖の描いた「函館戦争図」「台湾戦争図」の巨大油絵が
残されている。」 -
下岡連杖の説明
*日本の写真家(写真師)、画家。「蓮杖」は号で、通称は久之助。横浜を中心に活躍、 上野彦馬や鵜飼玉川らと並び、日本最初期の写真家である。
*写真記念館:日本商業写真の開祖 伊豆の下田にあり。 カメラファン必見! 日本最初の商業写真家・ 下岡蓮杖の貴重な遺品の数々を公開しています。 -
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【史跡 安直楼】
この建物は唐人お吉が明治15年より料亭 「安直楼」 を経営した店でお吉の没後当店が寿司店を開業。
以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、 現在下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。
二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存してありますのでどうぞお気軽にお入り下さい。 安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます。 (主人敬白)」 -
ハリスに仕えた“お吉”が、1882年に小料理屋を営んだ建物。
ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かでしたが、お吉は「唐人」と罵られ、横浜に出ることになる。そこで鶴松と会い、共に下田にもどり、結婚し髪結い業を始めるが、程なく鶴松と離別。そのご、小料理屋「安直楼」を営むも、酒に溺れる生活が続き、最後は、現在のお吉が縁で水死してしまった。
【安直楼】
米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が明治15(1882)年に、小料理屋を営んだ建物です。安政4(1857)年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消します。
年月を経て、当家 「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。
幕末開港の陰に咲いた一輪の花お吉は、明治23(1890)年に稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。48歳であった。
なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている。」 -
なまこ壁の2階屋。
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長屋町にある”なまこ壁の家”。
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【旧澤村邸】
1985年に下田市の歴史的建築物に指定された「なまこ壁」と「伊豆石」を特徴とする旧民家。旧下田ドックの創業者で、戦前には旧下田町の町長を務めた澤村久右衛門氏が、1915年に建築し市へ寄贈したもの -
酒屋さんの表札。創業は明治20年。てことは、1888年。てことは143年前創業の酒屋さんです。
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古い資料が、店内に沢山展示されています。商品看板やら。なじみの名前もちらほら。
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古い資料が、店内に沢山展示されています。商品宣伝ポスターなどコマーシャル品。
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古い資料が、店内に沢山展示されています。看板やら登録証やら。
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古い資料が、店内に沢山展示されています。
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土藤商店に残っている”昔の勘定帳”。筆字も上手く、きれいに保存されています。
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