2018/09/13 - 2018/09/13
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ムッシュさん
表紙写真は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」画像を使用
【東海道五十三次 京都 広重作】
いよいよラストスパート。大津宿(52)から京都三条大橋へ。旧東海道を踏破です!万歳!!
いよいよ三条大橋です、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命により、増田長盛が奉行となり、それまでの橋を石柱の大橋に改修。
江戸時代は幕府直轄の公儀橋として流失のたびごとに幕府の経費で架け替え、修復が行われました。
広重は東山三十六峰を背景に鴨川に架かる三条大橋の賑わいを描いています。山の中腹には、清水寺、八坂の塔が描かれている。橋を往来する人々は、番傘をさす袴姿の武士や、被衣を被った公家の女性などが描かれている。
橋上からは、比叡山、東山、北山が望める。
東海道名所図会は「三条の橋は東国より平安城に至る喉口となり、貴賤の行く人常に多くして皇州(みやこ)の繁花は此橋上に見えたり」と評しています。
- 旅行の満足度
- 4.5
-
街道はいよいよ近江國(滋賀県)から山城國(京都府)に入ります。
Y字路があり。そこが【伏見道追分道標】です
この追分道標には「みき京みち」「ひだりはふしみみち」とある。右が東海道です。
右手の浄土宗西山禅林寺派当麻寺を過ぎると、左手に宝永四年(1707)建立の五条別れ道標「右ハ 三条通」「左ハ 五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐま きよ水 道」があります。ひがしにし六条は東本願寺、西本願寺、今ぐまは今熊野観音寺、大佛は方広寺の大仏、きよ水は清水寺です。
右の道が京都三条方面へ。またこの辺りで大津市から京都市へ境です。
*左隣の道標は【蓮如上人道標】がある。枚方の出口御坊光善寺の上人廟への道標。 -
旧東海道に入り、程なく、この山科の追分に着くこの道路の左側が京都府で、右側滋賀県大津市であるそして此処は追分
「みぎハ京みち三条通り、ひだりハふしみみち」とある。
左は、伏見、淀、枚方(ひらかた)、守口の4宿を経て、大阪高麗橋に通じる「大坂道」である。東海道57次とは、この4宿を加えた言い方である。旧東海道は、右の狭い道を行くことになる。
幕府は大名が京に入るのを嫌ったので、伏見道を利用した。 -
四ノ宮に入り、右手の京阪鉄道京津線四宮駅を過ぎると右手に【臨済宗南禅寺派徳林庵】があります。
境内の六角堂には山科地蔵が安置されています、この地蔵は平安時代初期の公家で文人の小野篁(おののたかむら)が桜の大木から六体の地蔵を造立した内の一体です、後白河天皇は京の出入り口六ケ所に一体づつ安置し、京へ入り込む悪霊封じとしました。
人康(さねやす)親王の供養塔がある。琵琶の名手であったが、高熱が元で失明し、宮中を追われてしまうまった。傍らには、蝉丸法師の供養塔がある。 -
庭先に、車石。
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【天智天皇陵】
天智天皇陵があります、第三十八代天智天皇陵墓の上円下方墳があります、天智天皇は大化の改新を断行し、古代天皇制を確立しました。
御陵入口の左手に日時計があります、天智天皇が日本で初めて奈良の明日香に漏刻(ろうこく、水時計)を作り、時を告げたことにちなんだものです。 -
日ノ岡峠越の旧道は旧東海道標石を右手に見て、最後の地蔵尊の先で三条通に合流します。
スグ先に車石の轍の上に米俵を積んだ大八車のモニュメントがあります
こちら車石の上を大八車で進む様子を展示してある。車輪の下に、車石を並べて敷いてあります。
【車石の広場】
平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施した。本事業の完成を記念して、三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。
平成十六年一月 京都市 -
こちら車石公園
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蹴上のインクライン部。トンネルを抜けると南禅寺。
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三条通を進むと左手に【坂本龍馬お龍「結婚式場」跡標石】があります。
標石の側面には「此付近青蓮院塔頭(たっちゅう)金蔵寺(こんぞうじ)跡」と刻まれています。元治元年(1864年)六月池田屋事件、七月禁門の変が起きた直後の八月初旬に坂本龍馬とお龍はここにあった金蔵寺の本堂で内祝言(ないしゅうげん)を挙げました。 -
【白川橋道標】
左に行くと祇園。白川に架かる三条白川橋がある
橋の袂に江戸時代からの古い道標がある
「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」と彫られている
白川の静かな佇まいの両岸には古い料亭や旅館が立ち並んでいるところだ
いよいよ京都の中心という感じである。あと700mで三条大橋である。
ここから左に入って白川に沿って進むと、餅虎の所に弘化二年(1845年)建立の道標「東梅宮並 明智光秀墳」「あけちみつひて」があります、ここを左折すると左手に明智光秀の塚があります。
光秀は天正10年(1582年)本能寺の変後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、近江坂本城へ逃れる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で農民の竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てました、家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられています。餅寅では光秀饅頭を商っています。 -
三条大橋手前の左手に、御所に向って拝礼する【高山彦九郎正之像】がある。
延享4年(1747)上野國新田郡細谷村に生まれる、まだ幕府の権力が強い時代に尊王思想を鼓吹し、幕藩体制を厳しく批判し、幕末勤王の志士達に多くの影響を与え、明治維新の先駆的な人物として知られています、寛政5年(1793年)久留米にて志半ばで自刃して果てました。
辞世「朽ちはてて 身は土となり 墓なくも 心は国を 守らんものを」
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
【高山彦九郎正之】
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年~1793年)の姿を写したものである。高山彦九郎は、群馬県の出身である。十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、必ずこの銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。
その姿は
「大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと」 橘曙覧 と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上
遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水アサノサ
と謡いつがれた。
京都市観光部振興課 -
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いよいよ【京都三条大橋】を渡ります。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の命により、増田長盛が奉行となり、それまでの橋を石柱の大橋に改修。江戸時代は幕府直轄の公儀橋として流失のたびごとに幕府の経費で架け替え、修復が行われました。 -
三条大橋。これを渡り切ればゴールです。左(南)側渡り詰の手前二本目の擬宝珠に池田屋騒動の際に付いたという刀傷があります。
江戸日本橋から京都まで126里6町1間。 -
三条大橋より鴨川を見る。
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橋を渡りきると、東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛と喜多八が出迎えてくれます!!立像はやや小柄です。
これで、東海道五十三次踏破。無事にゴール出来ました。万歳、\(^o^)/!
江戸日本橋から京都まで百二十六里六町一間。 -
その横に、これは、京から江戸への旅人の安全祈願札ですね。
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