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JICA手配の現地語学研修中の18年4月12日の木曜日。課外授業としてポート・ロイヤル(Port Royal)に出掛けた。名目は授業だが実質は観光。10時半頃にニュー・キングストン(New Kingston)を出発。予定ではもう少し早く出発予定だったが、最初人数が乗れないバンが来て、代車を手配するのに少し時間が掛かった。運転手含めて10人なのに、どう考えても8人しか乗れないバンに乗れると主張するジャマイカ乗合バス方式に賛同できなかった私たち。<br /><br />30分ほどでポート・ロイヤルに到着。ポート・ロイヤルはカグウェイ湾(Cagway Bay)の陸繋島の先端にある人口2000人ほどの小さな漁村。だが、今は小さな村だが、歴史的には大きな意味を持つ町であった。17世紀後半、この町は世界で最も豊かで、最も酷いところとして知られていた。それ以前、ジャマイカはコロンブス以降スペイン支配下にあったが、首都はサンティアゴ・デ・ラ・ベガ(Santiago de la Vega:今のスパニッシュ・タウン)に置かれ、ここは全く重要な地域ではなかった。名前もタイノ族(Taino)時代からのままカグウェイ(Caguay/Caguaya/Cagway)と呼ばれており、帆船の清掃や修復に使われるだけの村だった。それが1655年のイングランド(当時はクロムウェル(Oliver Cromwell)支配下の共和国)のジャマイカ侵攻により一変する。イングランドはこの町をポート・ロイヤルと改名し事実上の首都とし、入植を進めた。そして、ここはやがては2000軒の家が建ち、6500人が暮らし、500艘の船が停泊できる、カリブ海随一の港湾都市となった。<br /><br />その背景はと云うと、当時世界を牛耳っていたのはスペイン。いち早く新大陸に進出し、北アメリカのフロリダ、西インド諸島、ブラジルを除くほぼ全ての南アメリカ大陸を傘下に収めていた。新大陸からは銀をはじめとする膨大な富が船でヨーロッパに運ばれていた。スペイン人以外のヨーロッパ人も一旗揚げるべく多くが海を渡ってきたが、スペインが全てを牛耳っておりうまく行かず、ブーカン(boucan)という木の網を使って豚や牛の燻製を作り、海岸を通る船に売るようになったものがいた。彼らはフランス語でブーキャンニエ(boucanier)と云われたが、それが英語読みに変化してバッカニア(buccaneer)となった。彼らは貧した時には海賊活動も行い、1630年頃、スペインに追われて現在のハイチ(Haiti)の北西のトルトゥーガ島(スペイン語: Isla Tortuga)に集まった。1635年にスペイン討伐軍によりこの島のバッカニアは一掃されるが、スペインに追われたことで本格的で組織化された海賊となり、カリブ海全域に広がっていった。そして、そのバッカニアに敵国船への攻撃を許す私掠(しりゃく)免許(Letter of Marque)を与えて受け入れたのがイングランド。その本拠地がこのポート・ロイヤル。<br /><br />イングランドはスペインの牙城を崩すために、バッカニア達にスペイン船を襲わせ、スペインの富を略奪する。彼らはイングランド公認の海賊となった。ポート・ロイヤルは海賊たちが持ち帰る略奪品で溢れかえり、その金を狙ってパブ、売春宿、カジノが林立。こうして、ここは世界で最も豊かで、最も酷い町となった。パイレーツ・オブ・カリビアンの第1作、呪われた海賊たち(2003年:Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl)はそんなポート・ロイヤルを舞台として始まる(ロケ地はセント・ビンセント)。ただ、そんな繁栄(?)も長くは続かなかった。1670年に王政復古したイングランドとスペインの間にマドリード条約(Treaty of Madrid)が結ばれ、ジャマイカでのイングランドの主権を認める代わりにバッカニアの排除が約束された。徐々にイングランド資本は撤退し、バッカニアの拿捕も行われるようになり、ポート・ロイヤルは衰退していった。そして、止めを刺したのが、1692年6月7日、カリブ海で発生した巨大地震。ポート・ロイヤルは地震とその後に起こった津波で壊滅した。町は3分の2がカリブ海に沈んだ。新世界のソドムと呼ばれたとおりに滅んだのである。沈んだ町は今も海中にあり、発掘作業が行われている。<br /><br />ポート・ロイヤルに関係ないがその後のバッカニアはイングランドの庇護がなくなり、どの国の船でも襲う純然たる海賊に変貌した。当時はイングランド領のバハマ(Bahamas)にあるニュー・プロヴィデンス島(New Providence)を新たな本拠地とし、イングランドもこれを見て見ぬ振りをし、ここが第2のポート・ロイヤルとなった。しかし、それもつかの間、イングランドとスコットランドが統合して出来たイギリス(グレートブリテン王国:Kingdom of Great Britain)は北アメリカ植民地の経営に注力し、その航海を妨害する海賊たちが邪魔になってきた。1716年、大規模な海賊討伐隊を結成。そして、1772年、大海賊のバーソロミュー・ロバーツ(Bartholomew Roberts)が戦死し、海賊たちの一時代が幕を閉じた。<br /><br />話をポート・ロイヤルに戻す。1692年の大地震の後、ポート・ロイヤルはいったん復活するのだが、その話は置いておいて、今回訪ねたのは1656年にイングランドが作ったチャールズ砦(Fort Charles)。2度の地震で被害を受けたが、海にも沈まず一部の設備が残っている。ここは、入植を進めたイングランドが入植者をスペインから守るために最初に造った砦。最初はピューリタン革命を起こしたオリヴァー・クロムウェルに因んでクロムウェル砦(Fort Cromwell)と名付けられたが、1660年の王政復古で国王となったチャールズ2世に因んで1662年に改称された。1692年の大地震で受けた被害は1699年に修復された。<br /><br />ポート・ロイヤルにはこの時代、次々と砦が築かれた。1673年にジェームズ砦(Fort James:チャールズ2世の弟、のちのジェームズ2世から)、1678年にカーライル砦(Fort Carlisle:当時の植民地総督の名前)とルパート砦(Fort Rupert:イングランド海軍卿を務めたプリンス・ルパート(Prince Rupert)から)、1678年から80年の間にモーガン砦(Fort Morgan:代理総督まで成り上がったバッカニアの頭領、ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)から)、80年以降にウォーカー砦(Fort Walker:チャールズ砦の司令官の名前)と全部で6つの砦が築かれたのだが、チャールズ砦以外は1692年の地震と津波で海に沈んだ。<br /><br />門を潜り砦の中へ入る。城のように立派な塁壁、そしてアーチ型になった砲台から突き出される古い大砲。ここは最盛期(1765年)には、500人の駐屯軍と104基の大砲を擁する防衛拠点だった。壁の内側にある2階建ての白い建物は海事博物館。1692年の大地震の後にがれきの中から集められた品物が展示されており、ガイドが説明してくれる。1692年の津波の様子を描いた絵に目を引かれた。博物館の奥には牢屋として使われていた建物があり、今はバーとなっている。<br /><br />砦の外、入口と反対側に広がる広場に傾いたレンガ造りの建物と砲台の跡がある。建物は大砲の保管庫だったが、1692年のではなく1907年の地震で地盤が緩み、片側が沈下し、大きく傾いた形になっている。1888年に建てられたもの。中に入ると、平衡感覚を失ったような奇妙な感覚を覚えるのでギディ・ハウス(Giddy House:目くらましの家)と呼ばれている。隣にある砲台も一部傾き砂に埋もれている。この場所は浅瀬が何世紀にも渡る沈泥の堆積によって陸地へと変わったところで、地盤が緩い。砲台の横には長さ5mの巨砲も残されている。<br /><br />セント・ピーター教会(St. Peter&#39;s Church)の前を通って町に戻る。この教会も1692年の地震でつぶれ、さらに再建されたものは1703年の火事で焼け、今の教会は1725から6年に掛けて再建されたもの。地震やハリケーンを想定して小さく、低く作られており、時計台はなく、庭に鐘付き堂が作られている。内部のオルガンは1745年製で、彫刻された木製の柱で支えられている。庭には1692年の地震から奇跡的に逃げおおせた教会員の墓もある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2027396110663736.1073743719.100001801017376&amp;type=1&amp;l=6736eda557<br /><br />この後、この地域で有名なシーフードレストラン、グローリア(Gloria&#39;s)で、美味しいシーフードを食べて満足した。<br />https://www.findyello.com/jamaica/Glorias/profile<br /><br />以上

キングストン ポート・ロイヤル (Port Royal, Kingston)

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2018/04/12 - 2018/04/12

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ちふゆ

ちふゆさん

JICA手配の現地語学研修中の18年4月12日の木曜日。課外授業としてポート・ロイヤル(Port Royal)に出掛けた。名目は授業だが実質は観光。10時半頃にニュー・キングストン(New Kingston)を出発。予定ではもう少し早く出発予定だったが、最初人数が乗れないバンが来て、代車を手配するのに少し時間が掛かった。運転手含めて10人なのに、どう考えても8人しか乗れないバンに乗れると主張するジャマイカ乗合バス方式に賛同できなかった私たち。

30分ほどでポート・ロイヤルに到着。ポート・ロイヤルはカグウェイ湾(Cagway Bay)の陸繋島の先端にある人口2000人ほどの小さな漁村。だが、今は小さな村だが、歴史的には大きな意味を持つ町であった。17世紀後半、この町は世界で最も豊かで、最も酷いところとして知られていた。それ以前、ジャマイカはコロンブス以降スペイン支配下にあったが、首都はサンティアゴ・デ・ラ・ベガ(Santiago de la Vega:今のスパニッシュ・タウン)に置かれ、ここは全く重要な地域ではなかった。名前もタイノ族(Taino)時代からのままカグウェイ(Caguay/Caguaya/Cagway)と呼ばれており、帆船の清掃や修復に使われるだけの村だった。それが1655年のイングランド(当時はクロムウェル(Oliver Cromwell)支配下の共和国)のジャマイカ侵攻により一変する。イングランドはこの町をポート・ロイヤルと改名し事実上の首都とし、入植を進めた。そして、ここはやがては2000軒の家が建ち、6500人が暮らし、500艘の船が停泊できる、カリブ海随一の港湾都市となった。

その背景はと云うと、当時世界を牛耳っていたのはスペイン。いち早く新大陸に進出し、北アメリカのフロリダ、西インド諸島、ブラジルを除くほぼ全ての南アメリカ大陸を傘下に収めていた。新大陸からは銀をはじめとする膨大な富が船でヨーロッパに運ばれていた。スペイン人以外のヨーロッパ人も一旗揚げるべく多くが海を渡ってきたが、スペインが全てを牛耳っておりうまく行かず、ブーカン(boucan)という木の網を使って豚や牛の燻製を作り、海岸を通る船に売るようになったものがいた。彼らはフランス語でブーキャンニエ(boucanier)と云われたが、それが英語読みに変化してバッカニア(buccaneer)となった。彼らは貧した時には海賊活動も行い、1630年頃、スペインに追われて現在のハイチ(Haiti)の北西のトルトゥーガ島(スペイン語: Isla Tortuga)に集まった。1635年にスペイン討伐軍によりこの島のバッカニアは一掃されるが、スペインに追われたことで本格的で組織化された海賊となり、カリブ海全域に広がっていった。そして、そのバッカニアに敵国船への攻撃を許す私掠(しりゃく)免許(Letter of Marque)を与えて受け入れたのがイングランド。その本拠地がこのポート・ロイヤル。

イングランドはスペインの牙城を崩すために、バッカニア達にスペイン船を襲わせ、スペインの富を略奪する。彼らはイングランド公認の海賊となった。ポート・ロイヤルは海賊たちが持ち帰る略奪品で溢れかえり、その金を狙ってパブ、売春宿、カジノが林立。こうして、ここは世界で最も豊かで、最も酷い町となった。パイレーツ・オブ・カリビアンの第1作、呪われた海賊たち(2003年:Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl)はそんなポート・ロイヤルを舞台として始まる(ロケ地はセント・ビンセント)。ただ、そんな繁栄(?)も長くは続かなかった。1670年に王政復古したイングランドとスペインの間にマドリード条約(Treaty of Madrid)が結ばれ、ジャマイカでのイングランドの主権を認める代わりにバッカニアの排除が約束された。徐々にイングランド資本は撤退し、バッカニアの拿捕も行われるようになり、ポート・ロイヤルは衰退していった。そして、止めを刺したのが、1692年6月7日、カリブ海で発生した巨大地震。ポート・ロイヤルは地震とその後に起こった津波で壊滅した。町は3分の2がカリブ海に沈んだ。新世界のソドムと呼ばれたとおりに滅んだのである。沈んだ町は今も海中にあり、発掘作業が行われている。

ポート・ロイヤルに関係ないがその後のバッカニアはイングランドの庇護がなくなり、どの国の船でも襲う純然たる海賊に変貌した。当時はイングランド領のバハマ(Bahamas)にあるニュー・プロヴィデンス島(New Providence)を新たな本拠地とし、イングランドもこれを見て見ぬ振りをし、ここが第2のポート・ロイヤルとなった。しかし、それもつかの間、イングランドとスコットランドが統合して出来たイギリス(グレートブリテン王国:Kingdom of Great Britain)は北アメリカ植民地の経営に注力し、その航海を妨害する海賊たちが邪魔になってきた。1716年、大規模な海賊討伐隊を結成。そして、1772年、大海賊のバーソロミュー・ロバーツ(Bartholomew Roberts)が戦死し、海賊たちの一時代が幕を閉じた。

話をポート・ロイヤルに戻す。1692年の大地震の後、ポート・ロイヤルはいったん復活するのだが、その話は置いておいて、今回訪ねたのは1656年にイングランドが作ったチャールズ砦(Fort Charles)。2度の地震で被害を受けたが、海にも沈まず一部の設備が残っている。ここは、入植を進めたイングランドが入植者をスペインから守るために最初に造った砦。最初はピューリタン革命を起こしたオリヴァー・クロムウェルに因んでクロムウェル砦(Fort Cromwell)と名付けられたが、1660年の王政復古で国王となったチャールズ2世に因んで1662年に改称された。1692年の大地震で受けた被害は1699年に修復された。

ポート・ロイヤルにはこの時代、次々と砦が築かれた。1673年にジェームズ砦(Fort James:チャールズ2世の弟、のちのジェームズ2世から)、1678年にカーライル砦(Fort Carlisle:当時の植民地総督の名前)とルパート砦(Fort Rupert:イングランド海軍卿を務めたプリンス・ルパート(Prince Rupert)から)、1678年から80年の間にモーガン砦(Fort Morgan:代理総督まで成り上がったバッカニアの頭領、ヘンリー・モーガン(Henry Morgan)から)、80年以降にウォーカー砦(Fort Walker:チャールズ砦の司令官の名前)と全部で6つの砦が築かれたのだが、チャールズ砦以外は1692年の地震と津波で海に沈んだ。

門を潜り砦の中へ入る。城のように立派な塁壁、そしてアーチ型になった砲台から突き出される古い大砲。ここは最盛期(1765年)には、500人の駐屯軍と104基の大砲を擁する防衛拠点だった。壁の内側にある2階建ての白い建物は海事博物館。1692年の大地震の後にがれきの中から集められた品物が展示されており、ガイドが説明してくれる。1692年の津波の様子を描いた絵に目を引かれた。博物館の奥には牢屋として使われていた建物があり、今はバーとなっている。

砦の外、入口と反対側に広がる広場に傾いたレンガ造りの建物と砲台の跡がある。建物は大砲の保管庫だったが、1692年のではなく1907年の地震で地盤が緩み、片側が沈下し、大きく傾いた形になっている。1888年に建てられたもの。中に入ると、平衡感覚を失ったような奇妙な感覚を覚えるのでギディ・ハウス(Giddy House:目くらましの家)と呼ばれている。隣にある砲台も一部傾き砂に埋もれている。この場所は浅瀬が何世紀にも渡る沈泥の堆積によって陸地へと変わったところで、地盤が緩い。砲台の横には長さ5mの巨砲も残されている。

セント・ピーター教会(St. Peter's Church)の前を通って町に戻る。この教会も1692年の地震でつぶれ、さらに再建されたものは1703年の火事で焼け、今の教会は1725から6年に掛けて再建されたもの。地震やハリケーンを想定して小さく、低く作られており、時計台はなく、庭に鐘付き堂が作られている。内部のオルガンは1745年製で、彫刻された木製の柱で支えられている。庭には1692年の地震から奇跡的に逃げおおせた教会員の墓もある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2027396110663736.1073743719.100001801017376&type=1&l=6736eda557

この後、この地域で有名なシーフードレストラン、グローリア(Gloria's)で、美味しいシーフードを食べて満足した。
https://www.findyello.com/jamaica/Glorias/profile

以上

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