2018/07/15 - 2018/07/15
619位(同エリア2853件中)
愛吉さん
世田谷生涯大学OBで新たに出掛けま専科を結成しました。
その第2回催事としてテーマを「新宿の江戸を歩く」に設定、下見も済ませ催行を7月19日に決定します。
下見は6月27日と7月15日の2回、特に7月15日は暑さを避ける為地下連絡歩道を歩こうと、何処の出口を利用したら目的地に一番近いかの検索に出掛けました。
でも全行程を地下歩道という訳にいかず、1/3程に限定されます。
しかし連日の猛暑、熱中症による救急搬送や死亡の報道が続きます、やむなく中止と決定し皆に連絡をします。
従いこの旅行記は下見2回の集大成となります。
ルートは以下の如くです。
集合新宿駅東口ライオン広場午前10時~天龍寺(追出しの鐘他)~太宗寺(江戸六地蔵、閻魔大王像他)~正受院(奪衣婆像他)~成覚寺(遊女の投込み寺)~花園神社(徳川入府より古い新宿の総鎮守)
表紙は太宗寺の閻魔大王像と奪衣婆像
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
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新宿駅東口ライオン広場
新宿駅は日本で乗降客が一番多い駅、かっては東口が新宿駅の正面出入口でした。
前の通りが青梅街道、現在の新宿通りで伊勢丹等商店が並びます。 -
この広場の一画に西条八十のモニュメントが在ります。
むさし野なりしこの里の
昔のすがた偲ばせて
小畔の花のむれと咲く
ビルのネオンの赤き花 西条八十
昭和初期の作詩と思われます。 -
その先広場の片隅にあるのが赤大理石の馬水槽。
明治35年にロンドンの水槽協会から東京市に贈られたもので、当時ロンドンで使用されていたものと同型。
上部が馬の水飲用、下が犬猫用。
当初は有楽町の東京市役所前におかれましたが、大正に入り役目を終えお蔵入り、昭和39年記念物としてこの地に設置されました。 -
横から見ると反対側に人間用の水飲み場もあります。
人間と動物共存のシンボルだそうです。
これを見たら直ちに地下に潜り青梅街道の下を伊勢丹迄進み、そこを右折旧甲州街道の地下歩道に入ります。
ここが江戸時代、内藤新宿の追分と呼ばれ、日本橋から来た甲州街道が青梅街道と二つに分かれる処。
宿場としては日本橋から下宿、仲宿、上宿と続き、ここは上宿の外れでした。 -
甲州街道の地下歩道を70米程進み、E5の出口を地上に上がると、そこは天龍寺の門前。
天龍寺は当初牛込に在り、江戸城裏鬼門鎮護の寺とされましたが、1683年火災により当地に移転しました。 -
門には葵の紋が付いています。
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この寺を有名にしているのが時の鐘=追出しの鐘です。
江戸時代直参旗本は原則外泊は認められません、しかしこれを大きく解釈して明け六つに江戸市中にいればお目こぼしとなる風習が生まれます。
ここ天龍寺の時の鐘は、何処の鐘よりも早く明け六つ前に鳴りだします、四谷の大木戸はすぐそこです。
街道最初の宿場はどこも江戸の遊興地、岡場所らしい仕組みに感心します。 -
これが追出しの鐘。
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墓地の前には六地蔵が並びます。
見学後は再びE5の出入口から地下歩道に逃げ込みます。 -
次に地上に上がるのは、追分にあるC4出口。
江戸から続く追分団子の店があります。
ここは内藤新宿の上宿、宿場外れになります、宿場の中心仲宿に向い日本橋方向に歩き始めます、昔の街道筋です。 -
内藤新宿の中央仲宿にあるのが太宗寺、本陣、馬立て場も仲宿に在りました。
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境内に入ると、すぐ右に江戸六地蔵の一つが鎮座します。
道中の無事を願う庶民が街道の始点に設置したものです。
江戸以来多くの旅人を見守ってきたお地蔵様です。
1712年の建立、地蔵には寄進者の名前が彫りこまれています。 -
説明文をお読みください。
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又境内の片隅には焔魔堂があります。
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閻王殿の扁額。
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中を覗いて見ましょう。
江戸時代より内藤新宿のお閻魔様として信仰を集めた像です。
普段は扉が締められ金網越の拝観ですが、1年の内1月と7月の藪入りだけ扉が開けられます、今年の7月の藪入りは15日と16日の2日間の御開帳です。 -
閻魔様をアップで写します。
舌を抜く金梃子も用意されています。
新宿区の指定文化財です。 -
解説文。
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隣に鎮座する奪衣婆像。
奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から六文の渡し賃を回収します、持っていないと着ている衣服を取り上げるあくどい婆さんです。
これにより死人に六文持たせる風習が生まれました。
又衣服をはぎ取る処から妓楼の商売神と崇められます。 -
解説文
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本堂の横から裏に掛けては広大な墓地が広がります。
その墓地の正面にあるのが、信州高遠藩、内藤正勝の墓所です。 -
墓地の脇に建つ案内板。
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本堂の脇には、内藤家の墓地より掘り出された切支丹灯篭が展示されます。
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脇に建つ解説板。
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不動堂
焔魔堂に対面して建つています。 -
本尊の三日月不動尊。
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解説板
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新宿山の手七福神、布袋尊。
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横に回ってみると古い看板、堂建設時の寄進者名簿でしょうか。
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不動堂の横には塩かけ地蔵。
庶民の願い事を叶えて呉れるお地蔵様。
願い事をするときには、お参りした後お地蔵さまの身体についた塩を少々頂き、家の煮炊きに使用して食します。
そうすると願いが叶うというのです、叶ったならばお礼に改めて塩を振りかけお参りします。
霊験あらたかなお地蔵さんなのです。 -
太宗寺を出て、その塀に沿って北に二百米程行くと靖国通りに出ます。
その角に在るのが正受院。 -
ここにも正受院の奪衣婆として有名な像があります。
幕末のころ風邪が流行り、咳止めに霊験有として江戸中から参詣人を集めました、あまりにも参詣人が多いので、幕府は一時参詣を禁止し、門を閉ざさせた程です。 -
これがその像です。
像の底書によると、元禄14年に当寺の7世住職に収めたと書かれていますが、元禄14年は新宿開設の2年後、開設に尽力した当寺の7世住職に新宿廓の代表者がお礼に納めたものと思われます。
なんといっても奪衣婆は廓の商売神ですからね。 -
又この寺は江戸時代から針供養の寺として知られます、昭和の戦前まで門前には豆腐屋が2軒あったそうです。
その為東京和裁技術師会が昭和32年に針塚を建て、毎年2月8日に針供養を続けています。
隣にある銅像は和裁技術師として人間国宝に指定された小見外次郎氏です、昭和38年の建立になります。 -
平和の鐘
昭和18年金属回収で供出された鐘が戦後アメリカで見つかり返還されました。 -
解説板
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正受院の隣は成覚寺、昔内藤新宿の投込寺と云われた寺です。
内藤新宿の飯盛り女が死亡すると、裸にされ俵に詰められ、この寺の共同墓地に投込まれました。 -
寺に入ると直ぐ左側に旭地蔵尊があります、元旭町(新宿4丁目)の玉川上水畔に在ったものです。
この台下に男女の戒名が幾組も並んで記されます。
これらは寛文12年(1800)~文化12年(1814)に玉川上水に身を投げて心中した町人と飯盛り女の戒名です、未だ十台の女性の名もありました。
解説文が読めますでしょうか。 -
旭地蔵をアップします。
台座の丸い部分を拡大すると戒名が読み取れます。
又左の四角い石はこの地蔵を建てた人達の芳名禄になります。 -
隣には解説文に書かれた江戸末期の戯作者、恋川春町の墓。
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少し離れた植込みの中に「子供合埋碑」が建っています。
子供とは飯盛り女の事、又人身売買を美化した表現、そしてはしなくもその女性達がほんの少女に過ぎなかった事を表しています。
この墓は万延元年(1860)11月に旅籠屋中により建てられました、当初は最奥の総墓と呼ばれる共同墓地の脇にありましたが、昭和31年の区画整理によりここに移転したものです。
尚ここに葬られた飯盛り女の数は3千人とも3千2百人ともいわれます。
説明板を拡大して読んで見て下さい。 -
子供合埋碑の横に白糸塚があります。
白糸とは当時の新宿で一番の売れっ子、それに通い詰めた御家人鈴木主水、挙句の果てに妻子が自殺したので、鈴木主水も家事取締り不届きとして切腹させられます、その後白糸も後追い自殺をしたので当時江戸中の評判となります。
昭和31年総墓改葬の折、この塚が見付かりました、白糸馴染み客の一人が置いたものでしょう、その他女性の名を書いた塚が6ッ発見されたそうです。
名前の判るのは3千分の7でしかありません。 -
塚をアップで写します。
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最後に訪ねたのが新宿5丁目の花園神社。
家康入府前よりこの地の総鎮守です。 -
由緒記をお読み下さい。
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本殿です。
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日曜日には骨董市が開かれます。
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江戸時代の新宿はトウガラシとカボチャの生産地でした。
新宿繁華街の発展は江戸時代の宿場から始まりました、今回の旅はその名残を求めての歩きでしたが、気候に恵まれなかった為、再度計画の予定です。
終
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