2018/06/22 - 2018/06/22
1200位(同エリア1621件中)
ムッシュさん
草津宿(52)から大津宿(53)へ
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
浮世絵は、【東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋 広重画】
広重は画面の左下にこんこんと湧き出る走井と名物走井餅を商う走井茶屋を描いています。旅人は、この茶屋で喉の渇きを癒した。
茶屋の前の街道には荷を満載した牛車が連ねています、大津湊に陸揚された産物や米は牛車で大消費地である京方面にたゆまなく輸送されました。
この位置は、現在の月心寺にあたり、走井の井筒(井戸)は今も残されている。自由に見学可。井戸と共に走井餅も街道の名物で、現在も大津の代表的、銘菓。
大津宿は湖上交通の重要な港として栄えた。東海道の宿場の中で最大の人口を有した。
【新規追加ニュース】
こちら2021年の荒廃した蝉丸神社の件。
既に、屋根に穴があいて倒壊の危機に遭遇してる。
2018年から、改修が始まってるようですが、総額1億超えの費用に対して、現在も3000万円以上のCF を募集してるようです。
懐の厚い方協力してあげて下さい。
- 旅行の満足度
- 4.5
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2021年7月のネットニュースで見つけました。情報紹介まで(2枚フォト)。
これは2018年の姿。旧東海道歩きの「大津編」で立ち寄った蝉丸神社です。台風被害などでシートが掛けられていました。
この後も、荒廃と修復が続いてるようです。
神社関連フォトは、この旅行記の18枚目あたりにあります。 -
こちら2021年の荒廃した姿。
既に、屋根に穴があいて倒壊の危機に遭遇してる。
2018年から、改修が始まってるようですが、総額1億超えの費用に対して、現在も3000万円以上のCF を募集してるようです。
懐の厚い方協力してあげて下さい。 -
ここからは、旧東海道歩きの旅行記です。
【粟津の一里塚跡碑】
粟津の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて121里目です。 -
【義仲寺】の山門。大津市馬場一丁目
古くは、琵琶湖に面した景勝の地。
境内には松尾芭蕉の墓もあり。
天台宗朝日山義仲(ぎちゅう)寺があります。源平合戦で討ち死にした木曽義仲の愛妾巴御前が尼となり、ここに草庵を結び、義仲を供養したところから巴寺とも呼ばれました。
境内には木曽義仲を供養する宝篋印塔や巴御前の菩提を弔う巴地蔵堂があります。
木曽義仲の供養塔と並んで松尾芭蕉の墓があります、元禄七年(1694)大坂で客死した芭蕉はこよなく義仲を敬愛し、死後は義仲寺に葬るよう遺言しました。
境内には芭蕉の門人又弦(ゆうげん)句碑
*「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」、芭蕉辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」等があります。 -
義仲寺山門
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【巴御前の墓と伝わる巴塚】
側室巴御前の塚。武勇優れた美女。 -
【義仲公墓(木曽塚)】
源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれた。芭蕉翁は木曽塚と唱えた。 -
【松尾芭蕉の墓】
俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。
無名庵で句会も盛んに行われた。
元禄七年(1694年)10月12日大坂の旅舎で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により義仲墓の横に葬られた。又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名。
*去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入り、葬儀、深夜に埋葬した。 -
芭蕉が最期に詠んだ句として有名な「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」の句碑
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【翁堂】
天井の絵は、江戸時代の天才画家 伊藤若冲筆四季花卉の図。描いた天井画15枚12種類が翁堂にある -
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この付近、【ロシア国皇太子さん遭難の地=此附近露国皇太子遭難之地碑】
明治24年(1891年)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。
当時ロシアは強大国の為、国民を不安のどん底におとしいれた。
大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。
しかし、大津地裁で開かれた大審院法廷では謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し「司法権の独立」を貫き通しました -
大津の町は、琵琶湖の舟運を利用した近江商人の町として栄え、東海道最大規模の宿場となりました。
天保14年(1843年)の頃、大津宿の宿内家数は3,650軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠71軒で、宿内人口は14,892人でした。 -
著作権フリー作品「木曽街道六十九次」からの画像
【木曽海道六拾九次之内 【大津】 広重画】
これは、琵琶湖畔随一の湊です。北国や湖畔の産物が上陸し、ここからは牛車で京上方方面に輸送されました。
京都から逢坂峠を越え、東海道を近江に向かうと大津宿。 -
【大津宿本陣跡碑】
大津宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒があった。宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町の機能を併せもった大津宿は、東海道五十三次の宿場の中でも最大の人口を有し、大変賑わっていた。
また、本陣跡碑の立つこ八町通りは、上関寺町から札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも。この辺り、本陣、脇本陣、旅籠が軒を連ね、宿の中心地だった。
*大塚嘉右衛門本陣跡。 -
京阪鉄道京津線の踏切
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【蝉丸宮】
平安時代前期の貴族で文人の小野岑守(おののみねもり)が逢坂関の鎮守として弘仁13(822年)に関明神を創建したのが始まりで、その後平安中期の盲目の琵琶法師蝉丸が逢坂山に住み、死後、ここに合祀され関蝉丸神社となり、音曲芸道の祖として信仰を集めるようになりました。
境内に
蝉丸歌碑「これやこの ゆくもかえるも わかれては 志るもしらぬも 逢坂の関」
紀貫之歌碑「逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒」があります。
境内の左奥に時雨燈籠があります、鎌倉時代の石燈籠で国重要文化財です。
謡曲『蝉丸』と『関蝉丸神杜』
「幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをすることが未来への助けになると諦めた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方、延喜帝第三皇女逆髪(さかがみ)の宮も前世の業因強く遠くの果てまで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に惹かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていくという今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸能の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。」 -
蝉丸神社下社。豪雨、強風のせいか、相当傷んできた模様。
その途中右手にあるのが蝉丸(せみまる)神社の下社蝉丸は琵琶の名手で、音曲諸芸道の神であるから奉納される絵馬も芸道に関するものが多い。参道口に音曲芸道祖神碑がある。 -
春日町交差点を越し、東海道本線逢坂山トンネル東口を眼下に見て進むと右手に関蝉丸神社下社があります
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【逢坂山の関所跡碑】
天下の三関(さんかん)の一つの逢坂山関址である。
三関とは、「伊勢国鈴鹿」、「美濃国不破」そして「近江国逢坂」である。
かつては相坂、合坂とも書かれた。逢うという文字と、人との間を隔てる関所との組み合わせから和歌等に多数詠み込まれたところである
蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れても 知るも知らぬも逢坂の関」は良く知られている -
蝉丸歌碑。「これやこの ゆくもかえるも わかれては 志るもしらぬも 逢坂の関」
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【清少納言の歌碑】
「夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の関は許さじ」
清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
訳:夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、
函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)
蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、 皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。
三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」
訳 : 恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」
その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。 -
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名神高速道路の高架をくぐると、右手に【関蝉丸神社上社】があります、下社と同様に逢坂関の鎮守として創建されました。
蝉丸神社上社。疲れもあり、階段を見て、上がるのを遠慮しました。 -
右手の段上には大谷村の鎮守【蝉丸神社】が鎮座しています、天慶9年(946年)の創建で、蝉丸を祀っています。
蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖神として崇敬されました。
「郷社關蝉丸神社由緒略歴
一 當神社は嵯峨天皇御宇弘仁十三年(822)三月近江守小野朝臣岑守 逢坂山の山上山下の
ニ所分析して坂神稱奉 是 當富社鎮座起原なり
上社祭 神猿田彦命 相殿蝉丸靈 所在地大津市上片原町
下社祭神 豊玉姫命或道反大神と云ふ 相殿蝉丸靈 所在地大津市清水町
一 文徳天皇御宇天安元年(857)四月に改めて逢阪の関を闘設し、當社関所の鎮護神と崇敬し給い坂神を関明神と稱し奉る
一 圓融天嘔御宇天禄二年(971)五月論旨を給い、當神社を音曲藝道祖神とせられる。爾来明治維新迄斯道専念の人士へ希望に任せ免許状を下附せらる
一 朱雀天皇御宇天慶六年(943)九月詔を奉し、蝉丸霊を二所に合祈し仍て關大明神蝉丸宮と稱し奉る
一 正徳三年(1713)十二月二日ニ品覺尊観王法幣御參拜あらせらる
一 享保十七年(1732)四月二十五日実相院宮義周観王法幣御参拝あらせらる
一 文政六年(1823)季冬正二位平朝臣時章卿は音曲隆昌祈願の皐賽として自筆の法華経を奉納せらる
一 文政九年(1826)八月平松前大納言より和琴(銘瀧水)一面に譜若菜巻を添えて奉納し音曲隆昌を祈願せらる
一 當神社祭神は陸海路を守護し給ふとて旅行の安全を祈り、殊には音曲藝道祖神として一般人士の信仰厚く亦髢の祖 神なるとて人毛製造組合亦女髪結等の信仰多し
一 祭日往古は九月二十四日、今は五月二十四日に氏子十二ヶ町ぺ御輿の渡御あり
一 大谷町蝉丸神社は當神社の分社なり、或る年の神事に神奥は逢坂山の峠限にて大谷町三ヶ町は氏子中より離して大谷御林山の一部を借用しささやかなる社殿を造営して萬治(万治)三年
當神社の御分靈を奉戴して三ヶ町(上大谷 中大谷 下大谷)氏神とす
蝉丸社の三所にあるは之が爲なり」 -
旧道に入ると左手に有名な【”かねよ】”。
明治五年(1872)創業の「鰻と玉子の名店かねよ」があります。峠の茶屋であった。 -
-
日本画家・橋本関雪の別荘跡で知られる「月心寺」には走井の井戸あり。
かつて、ココには、山から湧き出た清水を使った走井餅を商う大谷立場があった。
走井付近は、以前の中山道歩きと重複しますので、情報整理します。
旅行記【中山道 No48.石山寺にお参りして、大津宿を。今回は大津を抜けて山科駅まで】と工程は同じ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10520410/
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