草津(滋賀)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
石部宿(51)から草津宿(52)へ<br /><br />表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 草津 広重画】<br />瓢泉堂は名物姥ケ餅(うばがもち)を商う姥ケ茶屋跡です。<br />広重は草津として名物立場であった姥ケ茶屋と画面の右手に矢橋道追分道標を描いています。<br />かつて佐々木氏が滅ぼされたとき、遺児を託された乳母が、養育のため餅を作って街道を行き交う人々に売り歩いたという、この餅を「うばがもち」と呼ぶ。<br /><br />{草津宿}<br />東海道五十三次のうち、江戸より52番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒の本陣、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました。また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。

東海道53次、No38 石部宿(51)から草津宿(52)へ

1いいね!

2018/06/22 - 2018/06/22

261位(同エリア301件中)

0

38

ムッシュ

ムッシュさん

石部宿(51)から草津宿(52)へ

表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 草津 広重画】
瓢泉堂は名物姥ケ餅(うばがもち)を商う姥ケ茶屋跡です。
広重は草津として名物立場であった姥ケ茶屋と画面の右手に矢橋道追分道標を描いています。
かつて佐々木氏が滅ぼされたとき、遺児を託された乳母が、養育のため餅を作って街道を行き交う人々に売り歩いたという、この餅を「うばがもち」と呼ぶ。

{草津宿}
東海道五十三次のうち、江戸より52番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒の本陣、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました。また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。

旅行の満足度
4.5
  • この地は、JR草津線手原駅に近い。上釣池のそば。<br />【9代将軍足柄義尚公の陣所ゆかりの石碑】<br />「義尚」の陣地がこの辺りにあり、それは「鈎(まがり)の陣」と呼ばれていた。<br />権威が失墜した足利幕府の再興を図る為、第九代将軍義尚は、1487年幕府に反抗する六角高頼を討伐するためこの地に来たが、25歳の若さで病没となった。<br /><br />鈎(まがり)の陣のいわれ  <br />室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣2年病を得、延徳元年3月25歳の若さで、当地で陣没した。本陣跡は西約300mの永正寺の一帯である。<br /><br /><br />

    この地は、JR草津線手原駅に近い。上釣池のそば。
    【9代将軍足柄義尚公の陣所ゆかりの石碑】
    「義尚」の陣地がこの辺りにあり、それは「鈎(まがり)の陣」と呼ばれていた。
    権威が失墜した足利幕府の再興を図る為、第九代将軍義尚は、1487年幕府に反抗する六角高頼を討伐するためこの地に来たが、25歳の若さで病没となった。

    鈎(まがり)の陣のいわれ  
    室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣2年病を得、延徳元年3月25歳の若さで、当地で陣没した。本陣跡は西約300mの永正寺の一帯である。


  • 【右側は、領界石「従是西膳所領」と左側は【田楽発祥の地碑】<br />目川立場の田楽茶屋元伊勢屋跡です、亭主は岡野五左衛門でした、目川菜飯田楽が名物でした、目川立場には三軒の田楽茶屋がありました。<br /><br />【目川立場田楽茶屋】 <br />元伊勢屋 東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。天明時代当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。与謝蕪村に師事しその力量は「よく師法を受け筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の賢に供す」と記録されている。(案内板)<br /><br />「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡<br />東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。<br />ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。<br />天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。 与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。<br />作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。」

    【右側は、領界石「従是西膳所領」と左側は【田楽発祥の地碑】
    目川立場の田楽茶屋元伊勢屋跡です、亭主は岡野五左衛門でした、目川菜飯田楽が名物でした、目川立場には三軒の田楽茶屋がありました。

    【目川立場田楽茶屋】 
    元伊勢屋 東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。天明時代当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。与謝蕪村に師事しその力量は「よく師法を受け筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の賢に供す」と記録されている。(案内板)

    「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡
    東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
    ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
    天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。 与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。
    作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。」

  • 名代 目川田楽茶屋 古志まや屋跡亭主は小嶋屋寺田徳兵衛でした。<br /><br />「めがわ田楽 由来<br />関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)、東海道に伝馬制を制定した。宿駅が定められ草津宿や石部宿が置かれた。宿場には人馬の継ぎ立てを行う問屋場や公用宿の本陣職が指名されて宿場機能が整えられていった。<br />旅をする人達が旅に必要な物を総て宿場町で賄うことが出来ないため、幕府は宿場と宿場の中間に 「間の宿」 を置き、ここで必要な物が整えられるようにした。<br />間の宿の中心施設が立場である。 石部宿と草津宿間には六地蔵の 「梅ノ木立場」 と、岡の 「目川立場」 が置かれた。<br />目川立場を担ったのが屋号を 「伊勢屋」 とした岡野五左衛門家である。 伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」 として売り出した。主食=菜飯。副食=田楽。お酒=菊の水。の三点セットである。 「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」 と大評判になり、商品名の 「めがわ田楽」 は全国へ波及していった。<br />京都・大阪・江戸にも 「めがわ田楽」 の店が営業していると 「江戸総鹿子大全」 や「守貞漫稿」 等に記録されている。<br />岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の 「こじまや」 や西岡家の 「京いせや」 が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁盛の様子を今に伝えている。大田蜀山人は 「改元紀行」 (享和元年=1801)に<br />『目川の立場には、菜飯と田楽とありと、今いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし。ここに目川とも女川とも染め付けたる茶碗もて、茶をすすむ。めずらかなれば二ッとも買ひぬ。銘酒あり。御銘菊の水と記せり』と記している。<br />めがわ田楽の復元に当たっては、「田楽茶屋こじまやの伝承の味付け」 を忠実に守って復元した。」

    名代 目川田楽茶屋 古志まや屋跡亭主は小嶋屋寺田徳兵衛でした。

    「めがわ田楽 由来
    関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)、東海道に伝馬制を制定した。宿駅が定められ草津宿や石部宿が置かれた。宿場には人馬の継ぎ立てを行う問屋場や公用宿の本陣職が指名されて宿場機能が整えられていった。
    旅をする人達が旅に必要な物を総て宿場町で賄うことが出来ないため、幕府は宿場と宿場の中間に 「間の宿」 を置き、ここで必要な物が整えられるようにした。
    間の宿の中心施設が立場である。 石部宿と草津宿間には六地蔵の 「梅ノ木立場」 と、岡の 「目川立場」 が置かれた。
    目川立場を担ったのが屋号を 「伊勢屋」 とした岡野五左衛門家である。 伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」 として売り出した。主食=菜飯。副食=田楽。お酒=菊の水。の三点セットである。 「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」 と大評判になり、商品名の 「めがわ田楽」 は全国へ波及していった。
    京都・大阪・江戸にも 「めがわ田楽」 の店が営業していると 「江戸総鹿子大全」 や「守貞漫稿」 等に記録されている。
    岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の 「こじまや」 や西岡家の 「京いせや」 が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁盛の様子を今に伝えている。大田蜀山人は 「改元紀行」 (享和元年=1801)に
    『目川の立場には、菜飯と田楽とありと、今いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし。ここに目川とも女川とも染め付けたる茶碗もて、茶をすすむ。めずらかなれば二ッとも買ひぬ。銘酒あり。御銘菊の水と記せり』と記している。
    めがわ田楽の復元に当たっては、「田楽茶屋こじまやの伝承の味付け」 を忠実に守って復元した。」

  • 東海道間の宿(あいのしゅく)岡村碑<br /><br />「名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡<br />東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。<br />ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し<br />東海道の名物となった。<br />田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田家)、京伊勢屋(西岡家)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。 当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。伊勢屋は、元伊勢屋と京伊勢屋の2つあり、古しま屋と合わせて三軒の茶屋が田楽を扱ったようです。」

    東海道間の宿(あいのしゅく)岡村碑

    「名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡
    東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
    ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し
    東海道の名物となった。
    田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田家)、京伊勢屋(西岡家)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。 当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。伊勢屋は、元伊勢屋と京伊勢屋の2つあり、古しま屋と合わせて三軒の茶屋が田楽を扱ったようです。」

  • 【史跡 老牛馬養生所跡】<br />岡村から小柿(おがき)村に入ると右手に「史蹟老牛馬養生所跡標石」がある、老廃牛馬の打はぎ(屠殺)を見た、庄屋岸岡長右衛門が天保12年(1830年)ここに老牛馬が余生を静かに過ごせる養生所を設立しました。<br /><br />栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。<br />               治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会<br /><br />「史蹟 老牛馬養生所跡<br />栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、 これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、 ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。」

    【史跡 老牛馬養生所跡】
    岡村から小柿(おがき)村に入ると右手に「史蹟老牛馬養生所跡標石」がある、老廃牛馬の打はぎ(屠殺)を見た、庄屋岸岡長右衛門が天保12年(1830年)ここに老牛馬が余生を静かに過ごせる養生所を設立しました。

    栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。
                   治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会

    「史蹟 老牛馬養生所跡
    栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、 これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、 ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。」

  • 【草津宿東口(江戸方)】<br />火袋付石造道標があります、文化13年(1816年)の建立の常夜灯火袋付き石造り道標で、「右金勝寺(こんしょうじ)志がらき道」「左東海道いせ道」「文化十三年丙子三月建」と刻まれています。<br /><br />草津宿に入って来ました<br />草津宿は”中山道との追分”や”琵琶湖舟運の矢橋湊への矢橋街道の追分”を控え、交通の要衝として大いに賑わった。正徳二年(1712年)には人馬の荷の重さを検査する貫目改所が設置されました。<br /><br />草津宿の江戸方の入口にあたる草津川の堤の上に建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816)3月に建てられました。「右金勝寺志からき道」「左東海道いせ道」とそれそれ行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました。(草津市教育委員会)

    【草津宿東口(江戸方)】
    火袋付石造道標があります、文化13年(1816年)の建立の常夜灯火袋付き石造り道標で、「右金勝寺(こんしょうじ)志がらき道」「左東海道いせ道」「文化十三年丙子三月建」と刻まれています。

    草津宿に入って来ました
    草津宿は”中山道との追分”や”琵琶湖舟運の矢橋湊への矢橋街道の追分”を控え、交通の要衝として大いに賑わった。正徳二年(1712年)には人馬の荷の重さを検査する貫目改所が設置されました。

    草津宿の江戸方の入口にあたる草津川の堤の上に建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816)3月に建てられました。「右金勝寺志からき道」「左東海道いせ道」とそれそれ行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました。(草津市教育委員会)

  • 続いて、追分道標碑。東海道道と中山道の合流地。<br /><br />【道標 右東海道いせみち 左中山道美のじ】<br />ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。<br />トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは1丈4尺7寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、 宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。」

    続いて、追分道標碑。東海道道と中山道の合流地。

    【道標 右東海道いせみち 左中山道美のじ】
    ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。
    トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは1丈4尺7寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、 宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。」

  • 【追分道標】<br />ここが、中山道の終点。即ち、中山道と東海道の合流点です。<br />日本橋から中山道経由で128里30町7間(約505.9km)<br />この追分の突当り手前の右手に火袋付石造道標があります、文化13年(1816年)の建立で「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。<br />街道を往来する人々の寄進によって建てられた。<br /><br />『常夜燈』。<br />文化13年(1816)建立で高さ4mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていた。<br /><br />【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)<br />  道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基<br />  ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。<br /><br />     草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

    【追分道標】
    ここが、中山道の終点。即ち、中山道と東海道の合流点です。
    日本橋から中山道経由で128里30町7間(約505.9km)
    この追分の突当り手前の右手に火袋付石造道標があります、文化13年(1816年)の建立で「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。
    街道を往来する人々の寄進によって建てられた。

    『常夜燈』。
    文化13年(1816)建立で高さ4mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていた。

    【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)
      道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基
      ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。

         草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

  • 名所図会に見る渡し場の風景。<br />隧道入口横に上記の解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせることが出来たのであった。<br />草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかるのであった。<br /><br /><br />「草津川の渡し場」<br />草津川は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった「天井川」です。<br /><br />「旧草津川の成り立ち」<br />この草津川跡地公園は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫などが行われるようになりました。江戸時代中頃より、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重の浮世絵からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、中山道口から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩に願い出ています。<br />旧草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水量が流れる川でした。

    名所図会に見る渡し場の風景。
    隧道入口横に上記の解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせることが出来たのであった。
    草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかるのであった。


    「草津川の渡し場」
    草津川は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった「天井川」です。

    「旧草津川の成り立ち」
    この草津川跡地公園は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫などが行われるようになりました。江戸時代中頃より、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重の浮世絵からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、中山道口から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩に願い出ています。
    旧草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水量が流れる川でした。

  • 著作権フリー作品「木曽街道六十九次」からの画像<br />「木曽海道六拾九次之内 草津追分 草津川の川渡絵 英泉」68 

    著作権フリー作品「木曽街道六十九次」からの画像
    「木曽海道六拾九次之内 草津追分 草津川の川渡絵 英泉」68 

  • 草津宿のマップ<br />L 字の家並筋が東海道。川渡筋が中山道。

    草津宿のマップ
    L 字の家並筋が東海道。川渡筋が中山道。

  • 一つ上の名所図会と位置関係はおなじです。

    一つ上の名所図会と位置関係はおなじです。

  • 石造り道標の説明<br />「この道標は、東海道と中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2㎝を測り、 江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。<br />道標竿部南面に 「右 東海道いせみち」、西面に 「左 中仙道美のぢ」 と東海道、中山道の行先が刻まれています。<br />また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。<br />なお、草津4丁目の立木神社境内には延宝8年(1680)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。」

    石造り道標の説明
    「この道標は、東海道と中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2㎝を測り、 江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
    道標竿部南面に 「右 東海道いせみち」、西面に 「左 中仙道美のぢ」 と東海道、中山道の行先が刻まれています。
    また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。
    なお、草津4丁目の立木神社境内には延宝8年(1680)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。」

  • ミニ高札場。復元モデル。<br /><br />【草津宿の高札場】<br />  高札場は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政九年(1797)の「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」によると、屋根つきで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ一丈三尺(約3.9m)、幅一丈五尺(約4.5m)で、石垣の上に建てられていた。掲げられていた高札は、親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ、荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序の維持を定めたものなど、多いときには十枚が掲げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは、宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。

    ミニ高札場。復元モデル。

    【草津宿の高札場】
      高札場は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政九年(1797)の「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」によると、屋根つきで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ一丈三尺(約3.9m)、幅一丈五尺(約4.5m)で、石垣の上に建てられていた。掲げられていた高札は、親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ、荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序の維持を定めたものなど、多いときには十枚が掲げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは、宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。

  • くさつ風景の記憶絵の表示板

    くさつ風景の記憶絵の表示板

  • 【草津本陣の説明板】<br />草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣廃止まで、代々本陣職を勤めた。<br />本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定された。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えています。

    【草津本陣の説明板】
    草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣廃止まで、代々本陣職を勤めた。
    本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定された。現在、全国に残る本陣の中でも最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えています。

  • 草津本陣への正面入り口<br /><br />「草津歴史街道・東海道<br />東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。<br />その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。」

    草津本陣への正面入り口

    「草津歴史街道・東海道
    東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
    その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。」

  • 草津本陣の入口山門<br />敷地1,300坪、建坪468坪、部屋数39室、総畳数は268畳半で、現存する本陣遺構の中では最大級です、一般公開されています。<br /><br />『史跡 草津宿本陣』は、江戸時代の休泊施設。街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設として活用され、草津宿には2軒あった。現在1軒が残っており、内部を見学をすることが可能。<br />本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は栗太郡役所や公民館として使用されていたが、昭和24年に国の史跡に指定され、その後も公民館として活用されて来た。現在、全国に残る本陣の中で最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えているのであった。<br />

    草津本陣の入口山門
    敷地1,300坪、建坪468坪、部屋数39室、総畳数は268畳半で、現存する本陣遺構の中では最大級です、一般公開されています。

    『史跡 草津宿本陣』は、江戸時代の休泊施設。街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設として活用され、草津宿には2軒あった。現在1軒が残っており、内部を見学をすることが可能。
    本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は栗太郡役所や公民館として使用されていたが、昭和24年に国の史跡に指定され、その後も公民館として活用されて来た。現在、全国に残る本陣の中で最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えているのであった。

  • 【草津宿田中本陣跡】 入場見学可。<br />田中七左衛門本陣。<br />【草津宿本陣】<br />草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。<br />  史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726㎡にのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。<br />  この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年~文久三年頃(1846年~1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。<br />  敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。<br />  また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されていま

    【草津宿田中本陣跡】 入場見学可。
    田中七左衛門本陣。
    【草津宿本陣】
    草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。
      史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726㎡にのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
      この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年~文久三年頃(1846年~1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
      敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。
      また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されていま

  • 本陣の玄関先。式台と玄関広間。では、中に入りましょう。<br /><br />『玄関 式台の間』には宿札の掲場(復元)がされていた。<br />大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。<br />宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという<br />説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

    本陣の玄関先。式台と玄関広間。では、中に入りましょう。

    『玄関 式台の間』には宿札の掲場(復元)がされていた。
    大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。
    宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという
    説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

  • 本陣に旅人の看板。現在もホテル入口に客名簿が表示されてるのと同じかな?<br />宿帳には、大石内蔵助、吉良上野介、明治天皇、皇女和宮、土方歳三、シーボルトなど有名人の名前が残る。<br /><br />【宿札の掲場(復元)】<br /> 大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。<br /><br /> 宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。<br />  ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

    本陣に旅人の看板。現在もホテル入口に客名簿が表示されてるのと同じかな?
    宿帳には、大石内蔵助、吉良上野介、明治天皇、皇女和宮、土方歳三、シーボルトなど有名人の名前が残る。

    【宿札の掲場(復元)】
     大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。

     宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。
      ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

  • 本陣の中庭。明治天皇もお見えになられたようです。

    本陣の中庭。明治天皇もお見えになられたようです。

  • 本陣見学を終え、街道歩きに戻ります。これは、政所です。<br />白壁と格子造りの『太田酒造道灌蔵』があった。『太田酒造株式会社』の表札も。

    本陣見学を終え、街道歩きに戻ります。これは、政所です。
    白壁と格子造りの『太田酒造道灌蔵』があった。『太田酒造株式会社』の表札も。

  • 【草津の政所説明板】<br />太田家は代々問屋場の総取締役を勤め、草津の政所(まんどころ)と呼ばれました。江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていた。

    【草津の政所説明板】
    太田家は代々問屋場の総取締役を勤め、草津の政所(まんどころ)と呼ばれました。江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていた。

  • 【太田酒造 銘酒「道灌」の蔵元】<br />江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。<br /> 太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。以後酒造りを生業として発展。今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。

    【太田酒造 銘酒「道灌」の蔵元】
    江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。
     太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。以後酒造りを生業として発展。今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。

  • 【立木神社】の鳥居。<br />神護景雲元年(767)の創建。樹齢400年のご神木ウラジロガシがある。また、旧追分道標や鹿の狛犬が保存されている。延宝8年(1680年)11月建立は県内最古の石造道標である。<br />祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が神護景雲元年(767年)常陸國鹿島を発ってこの地に鎮座し、手に持っていた柿の杖を刺すと枝葉が繁茂したところから立木神社と称するようになりました、狛犬は鹿になっています、草津宿、矢倉村の氏神です。

    【立木神社】の鳥居。
    神護景雲元年(767)の創建。樹齢400年のご神木ウラジロガシがある。また、旧追分道標や鹿の狛犬が保存されている。延宝8年(1680年)11月建立は県内最古の石造道標である。
    祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が神護景雲元年(767年)常陸國鹿島を発ってこの地に鎮座し、手に持っていた柿の杖を刺すと枝葉が繁茂したところから立木神社と称するようになりました、狛犬は鹿になっています、草津宿、矢倉村の氏神です。

  • 立木神社の境内には【稲荷神社】もあります。<br />立木神社は、草津宿の氏神で「伊勢参宮名所図絵」にも紹介されている。境内にはかつて追分にあった県内最古の石造り道標がある。

    立木神社の境内には【稲荷神社】もあります。
    立木神社は、草津宿の氏神で「伊勢参宮名所図絵」にも紹介されている。境内にはかつて追分にあった県内最古の石造り道標がある。

  • 寛政十年(1798)建立の【矢橋(やばせ)道追分道標】<br />「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」です、道標の手前を右に進む筋が矢橋道です、琵琶湖の矢橋湊に至ります。<br />矢橋湊は近江八景の一つ矢橋帰帆として知られ、大津への舟渡しがあり、東海道より三里程短い為、人気がありました、しかし比叡おろしが強いと舟止めとなり、旅人はここで瀬田唐橋か、矢橋湊かと思案したようだ。<br />「瀬田へ廻ろか 矢橋へ出よか ここが思案の 姥ケ餅」<br />「武士(もののふ)の 矢橋の舟は 早くとも 急がば廻れ 瀬田の唐橋」<br />諺(ことわざ)の急がば廻れの語源になった歌です。<br />

    寛政十年(1798)建立の【矢橋(やばせ)道追分道標】
    「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」です、道標の手前を右に進む筋が矢橋道です、琵琶湖の矢橋湊に至ります。
    矢橋湊は近江八景の一つ矢橋帰帆として知られ、大津への舟渡しがあり、東海道より三里程短い為、人気がありました、しかし比叡おろしが強いと舟止めとなり、旅人はここで瀬田唐橋か、矢橋湊かと思案したようだ。
    「瀬田へ廻ろか 矢橋へ出よか ここが思案の 姥ケ餅」
    「武士(もののふ)の 矢橋の舟は 早くとも 急がば廻れ 瀬田の唐橋」
    諺(ことわざ)の急がば廻れの語源になった歌です。

  • 【野路萩の玉川】<br />平安時代、源俊頼が<br />「あすもこん 野路の玉川荻こえて 色なる波に 月宿りけり」<br />と詠んだところだ<br />かつては、泉の湧水量も多く、形も遥かに大きなものであった。現在も泉が湧く。<br />これは近くの十禅寺川の伏流水。旅人の喉を潤した。

    【野路萩の玉川】
    平安時代、源俊頼が
    「あすもこん 野路の玉川荻こえて 色なる波に 月宿りけり」
    と詠んだところだ
    かつては、泉の湧水量も多く、形も遥かに大きなものであった。現在も泉が湧く。
    これは近くの十禅寺川の伏流水。旅人の喉を潤した。

  • 【野路萩の玉川】(草津市)<br />ここ野路の玉川は、平安時代末(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉川のひとつとして知られています。野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました。<br />野路の玉川は、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます

    【野路萩の玉川】(草津市)
    ここ野路の玉川は、平安時代末(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉川のひとつとして知られています。野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました。
    野路の玉川は、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます

  • 【野路荻の玉川】<br />玉のような清水が湧くところを由来としてる<br /><br /> ・高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山<br /> ・卯花の玉川 摂津-卯花 高槻市三筒牧<br /> ・井出の玉川 山城-山吹 京都府井出町<br /> ・野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜<br /> ・調布の玉川 武蔵-調布 東京都北多摩郡<br /> ・野路の玉川 近江-萩   滋賀県草津市<br />並びに祠があり、地蔵尊が安置されています、この地には多数の地蔵尊が祀られ、大事にされています。<br />

    【野路荻の玉川】
    玉のような清水が湧くところを由来としてる

     ・高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山
     ・卯花の玉川 摂津-卯花 高槻市三筒牧
     ・井出の玉川 山城-山吹 京都府井出町
     ・野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜
     ・調布の玉川 武蔵-調布 東京都北多摩郡
     ・野路の玉川 近江-萩   滋賀県草津市
    並びに祠があり、地蔵尊が安置されています、この地には多数の地蔵尊が祀られ、大事にされています。

  • 【東海道立場跡と月輪池】<br />池の前に東海道立場跡標石があります、大萱新田村の立場跡です。<br />後ろには池。この池に月輪(つきのわ)が落ちる姿が美しいと言われた。<br />月輪殿九条兼實の荘園があった。

    【東海道立場跡と月輪池】
    池の前に東海道立場跡標石があります、大萱新田村の立場跡です。
    後ろには池。この池に月輪(つきのわ)が落ちる姿が美しいと言われた。
    月輪殿九条兼實の荘園があった。

  • 【一里坂跡】 住所も大江町一里山と呼ぶ。<br />もう大津市に入りました。JR瀬田駅に近い、地名も”一里山”残る地にたつ一里坂碑。<br />月輪から一里山に入り、長沢川を一里山橋で渡ると、一里山二丁目北交差点の手前左手に一里塚趾碑があります、<br />月輪池の一里塚跡です、塚木は松。江戸日本橋より数えて120里目です、地名の一里山は、この一里塚に由来しています。<br />*大江町という地名は、平安時代の貴族で歌人の大江千里が、この地を開発したことに由来している。

    【一里坂跡】 住所も大江町一里山と呼ぶ。
    もう大津市に入りました。JR瀬田駅に近い、地名も”一里山”残る地にたつ一里坂碑。
    月輪から一里山に入り、長沢川を一里山橋で渡ると、一里山二丁目北交差点の手前左手に一里塚趾碑があります、
    月輪池の一里塚跡です、塚木は松。江戸日本橋より数えて120里目です、地名の一里山は、この一里塚に由来しています。
    *大江町という地名は、平安時代の貴族で歌人の大江千里が、この地を開発したことに由来している。

  • 【瀬田の唐橋袂】 琵琶湖まで到着です。<br />*近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つ。古来から軍事上の要地であった。吉田大橋、矢作橋とともに東海道三大橋のひとつです。<br />*古代から「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれ、壬申の乱、承久の乱、建武の戦、源平合戦、応仁の乱の毎に戦場となり、焼失しています。<br />*橋の袂の常夜灯の隣の石碑は、山崎茶酔句碑「松風の 帆にとどかず 夕霞」<br />*俵藤太秀郷は、この橋の上で、瀬田川に住む龍神にあい、その依頼により三上山の大ムカデを退治した。<br />*この橋は、宇治橋、山崎橋とともに、天下三名橋の一つ。<br />

    【瀬田の唐橋袂】 琵琶湖まで到着です。
    *近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本三大名橋の一つ。古来から軍事上の要地であった。吉田大橋、矢作橋とともに東海道三大橋のひとつです。
    *古代から「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれ、壬申の乱、承久の乱、建武の戦、源平合戦、応仁の乱の毎に戦場となり、焼失しています。
    *橋の袂の常夜灯の隣の石碑は、山崎茶酔句碑「松風の 帆にとどかず 夕霞」
    *俵藤太秀郷は、この橋の上で、瀬田川に住む龍神にあい、その依頼により三上山の大ムカデを退治した。
    *この橋は、宇治橋、山崎橋とともに、天下三名橋の一つ。

1いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP