2018/06/21 - 2018/06/21
257位(同エリア309件中)
ムッシュさん
水口宿(50)から石部宿(51)へ
石部宿は、本陣2軒(小島本陣、三大寺本陣)、脇本陣0、旅籠32軒を含む458軒が両脇1,6kmの間に建ち並んでいました。人口は、約1600人。
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内・ 石部 『目川ノ里』広重画】
「目川ノ里」はこの先、草津宿に近い所にあった。名物『目川菜飯田楽』を茶屋を描いている。
菜飯は刻んだ青菜を入れて炊いた塩味の飯です、田楽は串に刺した豆腐に味噌を塗り、焼いたものです、菜飯田楽はここが発祥地といわれています。
手前で踊っているのは、当時流行った『伊勢踊り』を踊りながら伊勢参りに向かう一行。
- 旅行の満足度
- 4.0
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明治天皇聖蹟の碑
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JR三雲駅近く。
右の石碑が、寛政9年(1797年)建立の藤房卿墓所妙感寺道標「萬里小路藤房卿古跡 雲照山妙感寺従是十四丁」、奥左が、立志神社道標です
*藤房は鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の側近であった。 -
旧東海道碑
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石部宿マップ。野洲川沿いに街道はあります。
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天井川の『大沙川隧道(おおすながわずいどう)』
大沙川は東海道の上を流れる天井川である。 奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がりいつしか家や田畑よりも高くなったもので、川の氾濫を防ぐため、土手を高く築き直した結果、川の方が、このように高いところを流れるようになったものである。 明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、花崗岩の切り石積みの頑丈な構造で地元では『吉永のマンポ』と呼ばれ親しまれている。
「日本最古の石造トンネルが湖南市吉永にある『大沙川腱道』で明治17年外国人技師を招いて造られました。地元では「まんぽ」とトンネルのことを呼び『大沙川隨道』のことも「吉永のまんぽ」と呼んでいます,
この「まんぽ」一説には鉱山などの「間歩(まぶ)」という穴から来たといわれます。またフランス人が話していた「メインフルー」というトンネルつまりマンホールから来たという説もあります。湖南では「まんぽ」ですが、地域により「まんぼ」「まんぼう」「まんぽり」などと変化しています。そして2年後の明治19年東海道の夏見一針に『由良谷川隨道』と『家棟川隨道』が造られ、大正6年野洲に『家棟隨道』が造られましたが、『家棟川隨道』は昭和54年.『家棟隨道』は平成18年に撤去され、天井川の石造隨道は『大沙川隨道』と『由良谷川隨道』のみになりました。」 -
天井川の大砂川隧道の堤上に、【樹齢750年の弘法杉】が聳えています。
天井川は、明治十七年(1884)築造。
弘法大師がここで昼食をとり、使用した杉箸が根ついたものと言われてる。
【弘法杉】 甲西町指定文化財(史跡名勝天然記念物) 指定第一号(昭和52年10月指定)
旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手に箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
一節によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうち1本が倒れたともいわれている -
【夏見の一里塚碑】江戸日本橋より115番目。
「夏見一里塚
一里塚とは、大きな道路の側に1里(約3.927km)毎に旅人の目印として設置した塚(土盛)である。
一里塚か全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年に江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出iされ、徳川家康の命を受け大久保長安の指揮のもとに行われ、10年ほどで完了した。塚の大きさは5間(約9m)四方、高さは一丈(約3m)で多くは榎が植えられ.木陰で旅人が休息をとれるよう配慮されていた。
この夏見の一里は、江戸の日本橋から115里の地点にあり.東の先は水口(泉)に.西の先は石部にそれぞれ一里塚があります.しかし.多くあった一里毒も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり.そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のような跡地を示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺いちりつかで、このような塚がここにもあったと想像されます。」 -
愛宕碑。愛宕神社のお札を貼ります
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【北島酒造】 場所は家棟川の近く。
文化二年(1805年)の創業、銘酒「御代栄(みよさかえ)」の蔵元です。 -
この場所は、甲西駅の近くで、家棟川橋の近くです。
「奉両宮常夜燈」と刻まれている。伊勢神宮の外宮、内宮の両宮を指しています。
南照寺は、天台宗美松山。延歴二十四年(805)の開基。本尊は阿弥陀如来。 -
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石部宿常夜灯(現代版)
ここは目見改場(めみえあらためば)でした。京方面からの参勤交代の大名行列はここで衣装を改め隊列を整えて宿場に入った。
野洲川と山々の美しい風景が望める湖南市の西部に位置するのが最盛期には216軒の商や、62軒の旅籠が軒を連ねていた石部宿。
「京たち石部泊り」と言われた。 -
石部城跡説明板
野洲川と山々の美しい風景が望める湖南市の西部に位置するのが、最盛期にはl216軒の商屋や62軒の旅籠が軒を連ねた石部宿。当時は、伊勢路への街道として多くの人の往来で賑わっていた。京都から石部までは約36kmで、朝京を出発すると、夕方ころ到着することから、「京立ち石部泊まり」と言われていた。 -
石部宿高札場跡説明板=現在、石部宿道の広場となっている。
【石部宿】
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並みが形成されていたが、天正十三年(1585)には、羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。関ヶ原合戦後この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、甲賀郡の中心都市として基礎が築かれました。家康はしばしばこの地を通行し、宿内か大徳寺に宿泊している。
寛永十一年(1634)、京都に上洛することになった三代将軍家光は、道中となる水口に専用の宿館を築かせた。これが水口城である。作業奉行は、建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたった。
城は堀と石垣を巡らした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられた。その建築構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものであった。
家光上洛後は番城として幕府の管轄に置かれたが、天和二年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至った。
維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年滋賀県の史跡に指定された。近年整備が行われ、内部に「水口城資料館」がある。
「高札場跡
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを
木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、 現在の県道113号線
(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと
伝えられている。約80㎝程度の石垣の上にたっていた。元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。 -
石部宿公園にある宿案内。宿場について。
東海道五拾三次(石部)田楽茶屋にて
石部宿は「京立ち石部泊り」といわれ、京を旅立った旅人の一泊目にあたり、大いに賑わいました。
石部金吉の諺は宿外れの金山から起こったものです、これは多分に飯盛女を置かない、堅い宿場を揶揄(やゆ)した意味が込められています。
天保14年(1843年)の頃、石部宿の宿内家数は458軒、うち本陣2、旅籠32軒、宿内人口は1,606人で、宿長は東西45町3間(約4.9km)でした。 -
石部宿公園にある宿案内。東寺長寿寺について。
奈良時代に良弁が開いたと伝えられている。本堂は国宝。
『東寺 長壽寺』の絵、
「 長壽寺は僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子降誕により子安地蔵尊を安置する国宝寺院です」 -
石部宿公園にある宿案内。西寺常楽寺について。
常楽寺本堂は南北朝時代に再建されたもの。三重の塔は室町時代の建立。
『西寺 常楽寺』の絵
「千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です」。 -
石部宿常盤館跡と問屋場跡の説明版
「石部宿 常盤館跡
石部中央道の辺広場より南へ約五○メートル行った殿城道あたりにあった。
二階建てのかなり大きな建物であり、席は前列の左右が一等席、その後ろが二等席で中央が桝席になり、一番後は三等席で、その他は桟敷席になっていた。 二階は特等席であった。
「石部宿 問屋場跡
石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務)を行なうところを問屋と呼び、いつも役人が三名~五名程在中し人馬の継立をする必要な仕事を分担して賑わっていました。 場所は、石部中央の信号から北へ百メートル程の砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています。」
中央に回り舞台が設置されており、このような規模の芝居小屋はこの付近にはなく、遠方から観客が集まったと伝えられる。 大正八年に火災により焼失し、その為に当館の資料はなにも残っていない。」 -
石部宿公園の【道の辺広場】、ここは元高札場跡地。(石部中央)
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現在の宿駅資料館
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内・ 石部 『目川ノ里』 広重画】
「水口から9.3キロ.この間に広重の描いた目川ノ里があります.
春の景色らしく、遠くに見える三上山も春霞の彼方に眠っているような穏やかさのなか、街道を行く伊勢参りの人々の賑やかな声が聞こえてくるようです。中央に大きく構えるのは菜飯や田楽が名物の伊勢屋。人々の描写が実に巧みで、風景と伊勢屋の旅情に彩りをそえています。賑やかな人々にかまわず、荷を負った二人の農夫の姿が村落の情緒を感じさせてくれます。」 -
【石部宿小島本陣跡碑(石部中央)】
慶安3年(1650年)に創建され、承応元年(1652年)膳所藩より本陣職を許されました、敷地2,845坪、建坪775坪でした。これは、東海道でも群を抜く広さを誇った。
宿泊実績では、徳川家茂14代将軍、一橋慶喜、近藤勇、明治天皇などそうそうたるメンバーです。
【石部宿 小島本陣跡】
小島本陣は、慶安三年(1650)吉川代官の屋敷あとに創建され、承応元年(1652)に膳所藩主本多俊次公、康将公に忠勤の功により本陣職を拝命された。
この本陣は、間口四十五間、奥行三十一間、敷地二八四五坪、建坪七七五坪、表門、裏門二、番所等があり、鉤、刺股、突替、道具を飾り立てその奥に玄明、大広間等二十六部屋がみられた。
小島本陣は、東海道にあった豪壮鮮麗な建物であったと道中記事に記されている。こうした壮麗な本陣も老朽化により昭和四十三年に取り壊され、現在に至っている。
その間、天皇、皇族、大名、幕府の高官が宿泊し、その記録も宿帳に残されており、明治元年京(京都)より江戸(東京)に都が遷されるにあたり、明治天皇が御宿泊され、それらの貴重な資料も現存している。
小島本陣古文書一式 石部町
平成九年三月 石部町教育委員会 -
【石部宿一里塚碑」
江戸より数えて116番目。
「この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。
又ここから約七十メートルばかり東に行った所に一里塚があった。道路南側に約三十センチメートル四方のコンクリートの枠が哩められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である。」
そしてこの心太(トコロテン)にまつわる歌が残っていると。
「いさぎよき 菜摘(夏見)の茶屋のところてん 水からくりの まわす人形」
この歌の意味は、「背後の山から湧水を引いて、その水で心太を冷やし、その冷やした水でからくり人形を動かして、旅人の目を楽しませた。」
「石部一里塚跡
慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。 北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。 これより西は梅ノ木の立場にあった。」 -
西の見付跡碑
「見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見付」 といわれています。東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入り口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西2ヶ所にありました。 見附の西側には目見改場が設けられていました。」 -
西の見付跡(石部西)
「石部宿 西縄手
縄手とは立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあたることから西縄手と
呼ばれていました。江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木がありました。」
『西の見附跡』と同じ広重の浮世絵・「東海道 石部」が添えられていた。 -
【和中散本舗】 栗東市六地蔵
道中薬和中散ぜざい(是斎)の本家です。慶長十六年(1611)徳川家康が
野洲郡永原陣屋で腹痛を起こし、この薬を服用するとたちどころに快癒したところから、家康が、「和中散」と命名し、評判になりました。
道中薬として広く普及。
大きな古い建物で、旧和中散本舗の大角弥右衛門家である 道の反対側には、、大角家住宅隠居所がある。薬を売るだけでなく大名、公家の休憩所にもなった。 和中散は腹痛や暑気あたりによく効く漢方薬で、特に梅木の和中散は「徳川家康」が腹痛を起こした時、ここの和中散を服用して以来街道で有名になった。 -
和中散本舗の正面
和中散本舗は、家康が腹痛の際に服用した薬で広く「道中薬」として普及したそうです。シーボルトも立ち寄ったという屋敷は、国指定重要文化財です。
六地蔵村には立場が置かれ、梅木(うめのき)立場と呼ばれました、和中散本舗は茶屋本陣を勤め、小堀遠州作の庭があり、シーボルトも立ち寄っています(国指定名勝)。 -
【大角家住宅隠居所】
豪商・大角弥右衛門の邸宅は、薬を売るだけでなく、大名や公家たちの休憩所になっていた。敷地内には薬師堂があります
「大角屋住宅隠居所
隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。
その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。
建物は床と付書院を備えた6畳の座敷の南に4畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の4室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。
この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。」
【大角氏庭園】 国指定名勝(平成13年1月29日指定)
書院の南庭(離れ家の西庭)である。正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。
平成十六年三月 滋賀県教育委員会
【備考】
国指定史跡 旧和中散本舗 昭和二十四年七月十三日指定
重要文化財 大角家住宅 昭和二十九年三月二十日指定
【大角家住宅隠居所】 重要文化財
桁行12.9m、梁間7.0m、入母屋造、四面庇付、
南面突出部 桁行5.9m、 梁間6.9m、入母屋造、南面、東面及び西面庇付、
東面玄関、南面押入附属、玄関千鳥破風付、本瓦葺 江戸時代中期
隠居所は、真向いの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。
その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和四十六年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。
建物は床と付け書院を備えた六畳の座敷の南に四畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の四室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している
この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。
平成七年三月 滋賀県教育委員会 -
【大角家住宅隠居所(国重要文化財)】
桁行12.9m、梁間7m、入母屋造、四面庇付、南面突出部 桁行5.9m、 梁間6.9m、入母屋造、南面、東面及び西面庇付、東面玄関、南面押入附属、玄関千鳥破風付、本瓦葺。
江戸時代中期隠居所は、真向いの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。その後、所蔵文書より10数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。建物は床と付け書院を備えた六畳の座敷の南に四畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の4室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。の建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。(滋賀県教育委員会) -
大角家住宅隠居所。敷地内には薬師堂がある
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旧和中散本舗と大角邸宅は、道を挟んで向いがわに建つ。
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六地蔵一里塚
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六地蔵古絵図の石碑。
ここには【六地蔵の一里塚】が立つ。江戸より117番目。 -
JR手原駅のそば。
『手原稲荷神社』前の十字路左角に『素月漢詩碑』があった。
中央の碑に
『?栗太八景??リンク 手原行人
雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々 寛延3年12月 素月作』
と刻まれていた。
「雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天 終日鞭を著け痩せ馬は馳せ
往来故(ふる)くから有り幾年々」と。
左の碑に
『手原を通る旅人 雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑る万里天 終日鞭を著け
痩馬は馳せ 往来故くから有り幾年々』と。
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