2018/05/18 - 2018/05/18
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ムッシュさん
土山宿を発って水口宿へ
表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 水口 広重画】51 です
水口のかんぴょうは、「東海道五十三次・水口」に描かれたことから全国に知られるようになった。
青空の下、白いかんぴようが干される風景は初夏の風物詩。
- 旅行の満足度
- 5.0
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右手の小路口に道標が二基建っている。(南土山交差点)
*向って右の道標は文化4年(1807年)の建立で「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」と刻まれ、日野、八幡を経て多賀大社や北国街道への道標。
*左の道標は天明8年(1788年)の建立で「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれ、高野の世継観音(永源寺)への道標。
ここから笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。
寛永17年(1640年)三代将軍家光の乳母春日局が将軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した際に、この往還は整備拡張されました。
*朝廷は毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社に詣でる際に、この道が利用されたところから御代参街道と呼ばれました。
「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ
作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。 俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。 後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。 芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。 代表的な句集や編書に
「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。」
【道標 御代参街道起点】
この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右糾めに進む道が旧東海道である。
御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、
中山道愛知川海宿手前の小幡まての十里余りの脇往還である。 この道は中世においても重要な間道であったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。
寛永十七年(1640年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、 帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。
ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明八年(一七八八年)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。
もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち」文化四年(一八○七年)と刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。」 -
【地安禅寺】
瀧樹神社の表参道の先の右手に福慧山地安禅寺があります。
黄檗宗の『福慧山 金毛院 地安寺』は、龍渓禅師による開山で皇室と縁深く、境内には後水尾法皇の像・位牌を安置した御影堂などがあった。 -
【地安禅寺】
鐘楼門(2階建ての山門)が見事です。境内の御影堂には御水尾法皇お位牌が安置されている。
【地安寺と後水尾法皇・林丘寺宮】
後水尾法皇(1596-1680)は地安寺を開山した龍渓和尚に深く帰依され、その関りから崩御の後、皇女の照山元遥尼(1634-1727・出家前の名は朱宮光子内親王)から法皇の木像と位牌が地安寺に下附された。また地安寺には特に金毛院という院号が授けられ、法皇の三回忌には尼直筆の観音経が納められた。
法皇は京都の修学院離宮を造営され、その隣には光子内親王の山荘が建てられていたが、法皇崩御の後に林丘寺という尼寺に改められ、内親王は出家された。林丘寺は尼門跡寺院として後には音羽御所とも呼ばれた。またその寺名から照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれ、和歌と画に長けた方であった。
法皇の木像が納められている御影堂が境内に建てられた頃、この鐘楼門前の参道両脇には林丘寺宮が茶の木を植栽され、毎年1月、5月、10月にはここで収穫された茶葉が鈴渓茶・仁泉茶の銘で林丘寺に献納されていた。
この茶畑は昭和の初めまで栽培されていたが、現在ではここにある一樹のみが記念として残されている。」 -
地安禅寺
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地安禅寺の改修記念物
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【地安禅寺の御詠歌碑】
『甲賀西国第二十六番札所 福慧山 地安寺 御詠歌』
「ふくえたら のやまさとざと おしなべて たみのちやすく すむべかりけり」 -
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【東海道反野畷石碑】大日川(堀切川)の掘割説明板。
大日川は、野洲川の支流で、大雨が降ると氾濫し市場村や大野村は大きな被害を被った。境に堤を築いてたら、市場村に被害。そこで元禄十二年(1699)総延長907mの掘割を築いた。
「大日川(堀切川)堀割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。
大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(一六九九年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長五○四間、 川幅四間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(一七○三年)に完成した。」 -
松並木の名残り。大日川を渡ると大野の旧東海道松並木が始まります。
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赤甫亭みよしがあります、【三好赤甫(せきほ)旧跡】です、
俳諧を修行し、この地方の俳諧の基礎を築きました。
句碑「ほととぎす 早苗にかげを のこし行く」
京に上り東福寺の虚白に俳諧を学び、幕末から明治にかけて活躍し、この地方の俳諧の基礎を築いた。
赤甫は待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嵯峨上田村の宍戸霞洲に就き、教えを請うたが、晩年、家業を子に譲り、京都に上り、東福寺の虚白につき、十年余り修業され、その間、京都大阪の諸大家と交わった。その後、郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎をきずかれている。俳著に「窓あかり」がある。
碑銘 「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」
平成三年三月ニ十五日 土山町教育委員会 -
【今郷の一里塚】が復元されています、江戸日本橋より数えて112里目です。
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こんな土壁の家
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【水口宿東見付跡】横田の渡しの冠木門のモニュメント
天和二年(1682)、水口が水口藩の城下町になると桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれた。江戸口とも呼ばれる。 -
国道307号線と山川橋を渡ると水口宿の入口になります。渡った右側に「東海道水口宿・田町」の石柱が立っていました。
【東見付跡】
見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。
この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。
特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。
なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。 -
水口宿のお散歩マップ
【東海道横田の渡について】
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名がある。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれた。そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。(案内板) -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五十三次 水口・名物干瓢 広重画】
広重は水口宿西はずれの農家の干瓢(かんぴょう)作りの景を描いています。
干瓢の栽培が盛んであった下野國の壬生城主であった加藤嘉矩(よしのり)が正徳2年(1712年)水口藩に転封となり、壬生の干瓢作りをこの地に伝えました、これにより干瓢は水口宿の名物になりました。 -
【旅籠町曳山蔵】があります、
水口の曳山は享保二十年(1735年)に九基の曳山が巡幸し、その後一町毎に曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したといいます、当地の曳山は二層露店式人形屋台です。
「曳山蔵 田町・片町
全幅:3.85m 全長:4.83m 全高:6.20m 車径:1.20m
水口曳山祭 水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(一七一六~三五)に宿場町であり、城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する
都市型祭礼祭。 賑やかな曳山巡行と、江戸祭囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。
4月19日宵宮 4月20日例大祭・曳山巡行
「水口曳山祭」滋賀県指定無形民俗文化財
「曳山16基」甲賀市指定有形民俗文化財」 -
【高札場跡】
「お達し」を公示する掲示板でまちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に設置されました。水口宿では、作坂町と旅龍町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。
江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。特に寛永一七年(一六ニニ)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、密告への賞金制度等が掲示されました。」 -
三筋の辻
「東海道水口宿」
水口は道によって開け、道のよって発展した所です。 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(一五八五)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。関ヶ原合戦翌年の慶長六年(一六○一)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(一八四三)の記録によれば、家数六九二(うち旅籠屋四十一)を数え、この地に小規模ながらも水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。
このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。 また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。」 -
三筋の辻。左が街道
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【三筋の町角】
【宿場町の水口】
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。
宿場名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。 -
【曳山時計台】
山車と合体したからくり時計。定時に山車からくりが動くようです。
曳山を模した時計台があります、曳山の模型が組み込まれています。
【曳山の由来】
江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。
曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。
当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。
「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。 -
「宿場町の水口
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。 宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し 「命二つのなかに生たる桜かな」 の句を残しています。庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。
宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。」 -
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ベンガラ連格子
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【水口宿本陣跡】
鵜飼伝左衛門本陣。 -
水口宿本陣跡の石碑
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【水口神社】
「当社は主祭神大水口宿禰命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住され たと思われる土地開拓の祖神である。
配祀は大己貴命、素盞嗚尊、稲田姫命である。当社は三代実録貞観元年(八五九)正 月甲申の条に「従五位下水口神に従五位 上を授く」と
あり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国百五十五座、甲賀郡八 座の一つとされる。明治元年(一八六八)九月 明治天皇御東幸の砌、勅使を差遣せら れた。
什宝に女神坐像がある。木像長七寸八分(二三・五センチ)垂髪で両手を袖に入れて、前に拱いた半身像で彩色を施している 簡素な中に藤原期神像の特色を示し、 国の重要文化財に指定されている。また 本殿前方に建つ六角石燈籠は、南北朝時 代康永元年(一三四二)の刻銘を持ち近江式 の装飾文を飾る優品で町の文化財に指定されている。
四月二十日の例祭には神輿渡御の儀とと もに曳山巡行を行う。水口曳山として
県無形民俗文化財に指定され、多くの参詣者観光客で賑わう。」 -
【水口神社】
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【水口城と堀】
水口城は3代将軍・徳川家光が京都への上洛の際の宿館として築かせた城です。小堀政一(遠州)が作事奉行を務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれましたが、けっきょくこの御殿が将軍の宿舎として使われたのは築城時の家光上洛の一度だけでした。現在、本丸跡は水口高校の運動場として利用されています。
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並みが形成されていたが、天正十三年(1585)には、羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。関ヶ原合戦後この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、甲賀郡の中心都市として基礎が築かれました。家康はしばしばこの地を通行し、宿内か大徳寺に宿泊している。
寛永十一年(1634)、京都に上洛することになった三代将軍家光は、道中となる水口に専用の宿館を築かせた。これが水口城である。作業奉行は、建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたった。
城は堀と石垣を巡らした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられた。その建築構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものであった。
家光上洛後は番城として幕府の管轄に置かれたが、天和二年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至った。
維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年滋賀県の史跡に指定された。近年整備が行われ、内部に「水口城資料館」がある。
*水口城は湧水を利用した堀に水をたたえていたことから別名「碧水城」と呼ばれていた。 -
【水口城】
三代将軍家光の上洛に際し、寛永11年(1634年)作事奉行の小堀遠州に築かせた宿館(水口御茶屋)でした。
天和2年(1683年)加藤朋友(あきとも)が入封し、水口藩二万五千石の居城となりました。
水口城は湧水を利用した薬研堀に水を満々とたたえていたところから碧水城(へきすいじょう)と呼ばれました。
「滋賀県指定史跡 水口城跡(別名・碧水城)
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていましたが、天正十三年(一五八五)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せました。
関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています。寛永十一年(一六三四)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。
城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものでした。
その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和二年(一六八二)に加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年(一九七二)滋賀県の史跡に指定されました。
平成三年(一九九一)出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館いたしました。」 -
【水口城・碧水城(へきすいじょう)】
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期に町並みが形成されたが、天正13年(1585)には、羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、城下町として発展。関ヶ原合戦後この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定。家康はしばしばこの地を通行し、宿内か大徳寺に宿泊している。寛永11年(1634)、京都に上洛することになった三代将軍家光は、道中となる水口に専用の宿館を築かせた。これが水口城である。
作業奉行は、小堀遠江守政一(遠州)があたった。城は堀と石垣を巡らした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられた。その建築構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたもの。家光上洛後は番城として幕府の管轄に置かれたが、天和2年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至った。維新後は廃城となり、本丸敷地のみは保存され、昭和47年滋賀県の史跡に指定された。(案内板) -
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徳川家宿館遺跡として保存整備された。(水口城資料館)
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寛永11年(1634年)三代将軍家光上洛の際の居館として水口城が築かれました、天和2年(1682年)水口藩が成立した、以降は城下町として整備されました。
天保14年(1843年)頃の水口宿の宿内家数は692軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒、宿内人口は2,692人で、宿長は東西22町6間(約2.4km)でした。 -
【小坂町標石と水口石】
この力石は浮世絵師国芳が錦絵に描いている。
「東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。
この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。」 -
【水口力石】の説明
東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。 -
【五十鈴神社】
本殿は神明造りで、境内のヒノキは水口町の古木名木指定。
祭神は天照皇大神。
「五十鈴神社由緒」
五十鈴神社は、天照大御神をお祀りしています。
藤原時代の長寛2年(1164)に設けられた 「御厨」制度により御厨田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」 として称え奉ったのがその創始です。
江戸時代の天和2年(1682)から、水口城主として加藤明友候が政を掌った間、「神明宮」
と称して信仰も厚く御影石、手洗鉢の寄進をされています。その後の歴代藩主の信仰も厚く、由緒深い宮です。明治4年(1871)「五十鈴神社」 と改称されました。
その他に、稲荷、八坂、愛宕、秋葉、島姫(弁財天)の各神社をお祀りしています。」 -
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【水口一里塚碑】。【林口の一里塚跡】。江戸日本橋より113里目。
「一里塚跡
一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに築かれたもので、東海道では慶長九年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。
塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。」 -
【水口の渡し】
横田川の常夜灯です。対岸にも建てられています。
この常夜燈は文政5年(1822年)地元の村々だけでなく京都・大阪の人々を含めた万人講で建設されたもので、総丈7mを超え、笠石2,3m四方、周囲17,3m玉垣に乗っている東海道随一の規模を誇っています。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場がはっきり分かるように目印として建てられました。シーボルトの「江戸参府紀行」には、「この川岸には金比羅さんを祈念した石灯籠、火をともす大きな台がある」と述べています
「東海道横田渡
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで 「横田川」 と呼ばれてきました。
伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも
「横田河橋」の名が見えています。
江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。
「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人で大いに賑わいました。」
「横田渡の歴史
横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、
「酒人郷横田河橋」 として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。 この石垣は当時の橋台の一部です。その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。」 -
文政5年(1822)に建てられた。高さ10.5mと東海道で一番高い常夜灯。
手前は、冠木門
【横田渡常夜燈】
旧東海道筋にあたるこの地は、往年、諸国より江戸参勤交代をはじめ、夜中に及ぶ往来が頻繁で、四艘の船で旅客を扱ったが交通は困難していた。
文政5五年(1806年)、近在の石工にこの燈篭を造らせ燈台の役目をなさしめた。自来、東海道を往来する者も迷うことがなくなった。この燈篭は、高さ10.5m、笠石2.7m四方で、周りは7.3mの玉垣を築いており、本群石造品では最大のものとされ、江戸後期に創られたものながら交通工芸、民俗的な価値あるものとして町の文化財に指定された。(案内板より)
「東海道横田渡常夜燈(水口町指定文化財)
この巨大な石燈籠は文政五年(一八二二)増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。その高さは一○・五メートル、燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで、道中でも最大級のものとされています。 建造には多額の費用を要したため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。
明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。」 -
野洲川
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