2016/04/04 - 2016/04/04
43位(同エリア246件中)
junemayさん
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広島県には足を踏み入れたことがありますが、広島市と宮島のある廿日市には長年行きたい願望があったものの、チャンスはなかなか訪れませんでした。暫くの間LCCに浮気していたら、ある日JALさまからお便りが。あらあら!「マイルの有効期限が2月末で切れます」ですって。チャンス到来かしら? ディスカウントマイルなら、なんとか国内往復できる程度のわずかばかりのマイルしかないのだけれど。
2月中に席を押さえて、3月にすわ広島!と思ったのですが、3月は航空会社にとって稼ぎ時らしくて、まさかのディスカウントマイルの対象外。だったら4月は? 無理よね? と見てみたら、ばっちり対象月になっているじゃあないですか。
ラッキー!! 3月より4月が狙い目とは知りませんでした。こりゃあ行くっきゃないねと、その場で羽田⇔広島便をポチッとクリックして押さえました。いつものように、メインの行き先だけ決めて、宿を押さえて、心ウキウキ、まことにアバウトな旅の始まりです。
4月3日 羽田空港→広島空港→広島市
4月4日★ 広島市→岩国→広島市
4月5日 広島市→宮島→広島市
4月6日 広島市→竹原→広島市
4月7日 広島市→西条(東広島市)→広島空港→羽田空港
やや遅めの昼ご飯を摂っている間に、雨は止んだようです。やったね! 吉香神社に参拝する前に、錦雲閣をちょいと見て参りましょう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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錦雲閣はほしで茶屋の脇にある小道を通って見にいけるようです。かつては堀に沿って石垣の上に櫓があったのでしょうか?。
旧藩主の館が明治に入って公園として整備され、一般に公開しようとした際に、櫓に似せて建てられたとありました。古いものではないので歴史的価値はないのですが、あまりにジャストフィットの佇まいゆえ、ふぅ~とため息が漏れてしまいます。 -
錦雲閣正面に到着です。傍にある説明板によると、やはりここに3階建ての南櫓があったとのこと。その在りし日の光景を偲んでの建造だったのでしょうね。
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桁行6間、梁行4間、入母屋造りの立派な屋根が目を引きます。
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壁がないので、夏はともかく冬は寒さが身に染みそう。開口部に沿って木のベンチのような棚板が巡っています。私が入った時、一人いた前任者は欧米人。室内から額縁のような外の景色を写していました。
旧藩主関連の絵馬を奉納するための絵馬堂というのが表向きの建築理由ですが、見渡した限りでは貴重な絵馬は現存していないようでした。 -
私のボロカメラだと、この位にしか撮れませんが、満開の桜を額縁で切り取った景色を楽しむことができる、素晴らしい空間でした。
あっこれって額縁って言いませんよね? -
イチオシ
なぜかもう一度、しつこくやっていますよ。
これも額縁にはなっていませんねえ・・・何をしたいんだね、君は! -
身を乗り出して、堀を写した方が私は好きかも・・・
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錦雲閣から北側の城山を見上げた1枚。桜の影になっていますが、先ほど吉香神社に入ってくるときに渡った石橋も見えていました。
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錦雲閣を出て、吉香神社境内をぶらぶら。
最初に見つけたのは、作曲家にして海軍軍人であった、田中穂積の胸像と彼の作曲した「美しき天然」の歌碑。全く存じ上げない方ですが、吉川藩士の次男として岩国で誕生したのだそう。
「美しき天然」という曲は日本初のワルツだと聞いて興味を持ち、YouTubeで聞いてみたら、昔どこかで聞いたことがあったような哀愁のメロディが流れてきました。チンドン屋さんのテーマソングですって。ご興味ある方はこちらからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=GXgkpTmpA80 -
参道に戻って本殿に向かう途中、今まで見たことのない、立派な岩山の上の狛犬の姿を目にしましたよ。こちらが拝殿に向かって左側の狛犬。
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そしてこちらが右側です。東京のある団体が奉献したもののようですが、岩と松と狛犬の三部構成。周りに置かれている石の囲いまで奉献したのかしら?
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吉香神社の拝殿前の神門とその手前の鳥居です。とても格式高そうな神社ですねえ。
ここに至るまで、食事前に渡った石橋の参道から一直線。1885年(明治18年)に吉川家歴代の神霊を祭る3つの神社が1つになったと聞いたので、建物も同時期に建てられたのかと思ったら、拝殿は1728年(享保13年)に別の場所に造営されたものをここに移築したとのことでした。 -
神門を潜ります。神門、鳥居、拝殿、本殿および幣殿は国指定の重要文化財です。
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吉香神社拝殿です。丸が9つお花のように並んだ紋「蛇の目九曜紋」は吉川氏の家紋でした。屋根は入母屋造り妻入ですが、少々変わった形ですね。両側面に庇が付いていますよ。
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中でも私の目を惹いたのは、拝殿の天井でした。木の特性が存分に生かされた格天井は建造者の質の高さを感じます。
とても美しいです。 -
拝殿脇の苔のじゅうたんがまた美しかった!
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吉香神社の本殿と拝殿の屋根を、左側に回って撮ってみました。この屋根本当に優美です。
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参道を戻る途中、岩山の狛犬付近を背後から撮っています。中央の鳥居も味わい十分!
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参道を山側に折れると、突き当りに吉香神社の末社 褒忠社(ほうちゅうしゃ)がありました。ここは初代藩主吉川広家が忠臣の供養を行う回向所として使用していた場所で、廃藩後に神社となったと説明がありました。仏教と神道がここでも混ざり合っていますね。
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褒忠社の奥には、庭園があって、散り行く桜の花びらが浮かぶ池が静かなたたずまいを見せていました。ここまで来ると観光客は誰もいません。名所旧跡に行っても、混雑しているのはほんの狭いエリアであることが良く分かります。
池を眺めながらほっと一息つきました。錦帯橋の事しか頭になかった岩国でしたが、知らない町が少しずつベールを剥いで行くときに感じる高揚感に似た感情が湧き上がってくるのを覚えました。中途半端な知識よりもまるっきり知らない方が新鮮。これを感じたくて旅をしているのかもねえ。 -
誰もいない桜の園。またもや独り占めしてしまいましたよ。
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長方形の堀から錦雲閣の角を曲がって、吉香神社の参道と平行に伸びている幅の狭い堀沿いの道です。どこもかしこもピンク色で縁取られていますよ。
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雨の後なので少々足場は悪いけれど、来たばかりの町で、私が独り占めしている秘密の散歩道。ここはアジサイの季節にはさぞかし華やかになるのでしょうね。
右側の石垣が続いている内側が、藩主吉川家の御土居跡です。一国一城令で山頂の城が壊されてからは、吉川家歴代はここを拠点として国を治めて来ました。 -
御土居跡から東に抜ける石橋を通って吉香神社を後にします。
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この図を見ると地理がよくわかりますよ。
今私がいるところが手前の橋の上。左側に見えているコーナーの櫓の位置に現在錦雲閣が建っています。 -
イチオシ
1年に1週間しか見られない化粧姿をもう1枚お見せしましょう。岩国にはもう一度来る機会があっても、桜と重なることは難しいでしょうから、私にとっては一生で一度の花日和です。
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橋を渡ったところにあったのは、1892年(明治25年)になってから最後の藩主吉川 経健(きっかわ つねたけ)が建てた旧吉川邸厩門です。住居建築として有形登録文化財の指定を受けています。
長さが30mもある横長の門に連子窓がしゃれていますね。 -
さぞかし立派なお屋敷がこの奥にあるはずと思ったのですが、肝心のお屋敷は1949年(昭和24年)に岡山の後楽園に移築されていました。売却されたのかしら・・・鶴鳴館という名前で結婚式場や宴会場として現在でも利用されているそうですよ。
惜しむべくはこの無粋なペアの工事用コーン。折角の景色をぶち壊していますねえ。 -
厩門の南隣に建つ和洋折衷の石造りの建物は、先ほど山頂のお城から簡単に見つけられた桜一杯の岩国徴古館。今は博物館になっているそうですが、一体何のために建てられたものなのでしょう? 山頂の項でも書きましたが、この徴古館、物資のない終戦間際の1945年(昭和20年)3月に竣工しています。戦時中に建てなければならない理由があったのでしょうか?
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吉川家の団体である吉川報効会(奉公会ではなく、報効会!)が起工した建物であることは分かりましたが、一体なぜ? という疑問を解消するような記事は見つかりませんでした。今日は月曜日で定休日のため入場できなかったのがとても残念。中には藩政時代の古文書や工芸品、錦帯橋建設に関わる資料等が展示されているそうですが、吉川家に伝わるお宝の類を収納するためだけだったとしたら、立派過ぎますよね。
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石造り、鉄筋コンクリート製に見えますが、鉄が手に入らない時代だったため、なんと「竹筋コンクリート造」なのだそうですよ! それが戦後70年以上立派に持ちこたえているというわけですね。強度に問題はないのかなあ・・・
設計者は建築家の佐藤武夫。早稲田大学出身で、代表作「大隈講堂」は彼と建築家佐藤功一の共作だそうです。
外側はどこか無骨ですが、「錦帯橋のような曲線を生かした内部」と書かれているので、その対比を味わえなくてまことに残念でした。 -
岩国徴古館前から見た錦雲閣。
またもやコーンが!!! はっきり言って邪魔なんですけれど・・・蹴飛ばしてやりたかった/// -
徴古館の角を左折すると、またもや古めかしい門? 建物? が目の前に現れましたよ。
後で調べたら、ここには第7代藩主吉川経倫の隠居所として造られた昌明館という屋敷があって、今見ているものはその付属の長屋だそうです。実はこの吉川経倫、吉川家の主君である毛利家の分家でお隣の藩でもある周防徳山藩第5代毛利広豊の九男で、幕府の許可を得て吉川家に養子に入り家督を継いだという経歴の持ち主。 -
経倫の時代、岩国藩の財政は火の車で、破たん寸前の状況でしたが、それでも小さな藩の九男でいるよりは良かったのかな?
隠居所は経倫が長男に家督を譲った翌年の1793年(寛政5年)に完成。この建物は彼亡き後は明治になるまで、吉川家の岩国における拠点として利用されたそうです。 -
少し先に門があり、そこに「吉川資料館」という看板が出ていました。
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その名前の通り、吉川家の歴史資料館です。徴古館が定休日だったため、せめてここくらいは見学しようとという気持ちで入場したのですが、吉川家のことをほとんど知らない者にとっては少々難易度の高い展示でした。
吉川資料館の門は昌明館時代の物を使用しています。 -
昌明館の門を内側から見た1枚。門自体は18世紀末の建築様式をよく留めている物であると書かれていましたが、瓦は新しく見えますね。
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門から入った先の展示スペースには鎌倉時代から始まる長~い吉川家の年表がありました。
13代吉川元経が毛利元就の妹と、元就が元経の妹と結婚したことから吉川家は毛利家と姻戚関係になったこと、関ケ原で豊臣方について領地を失いながらも吉川家が毛利家のために奔走したこと、両家が江戸時代のある時期には不仲になること などが細かく記されていて、ざっくりとした歴史を頭に入れたつもりだったのですがね。中入ったらきれいさっぱり忘れていました。 -
すっかり綺麗にお化粧直しが行われた吉川資料館中庭です。ここまでは誰でも自由に入場することが出来ます。
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少々入りにくい資料館入口。ここから先は撮影禁止でした。今となっては何も覚えていないので、私のような馬耳東風さんには時間の無駄だったかもしれません。(´・ω・`)
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これはどこにあった1枚かなあ。。。毛利元就の次男、つまり三本の矢(兄の毛利隆元、弟の小早川隆景)の一人で、後に吉川家に養子となった吉川元春の肖像です。負けを知らない文武兼備の戦国武将として知られています。
これが唯一記憶に残っている1枚です。他にも国の重要文化財の指定を受けている工芸品や資料が多数展示されていました。 -
吉川資料館にいたのは正味15分足らずでした。てへっ!!
元来た道を少し戻り、今度は細長い堀の中央に架かる橋を渡ります。 -
南半分の堀は鼻菖蒲園となっていて、一番奥に佐々木小次郎の像があったらしいのですが、ここからでは良く見えませんねえ。
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本日何度目かとなる錦雲閣です。この風景を目の当りにしたら、撮らずにはいられません。
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吉香神社参道の石橋を入れてもう1枚。
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櫻花に酔いしれております。そのまま堀沿いに歩き、ロープウェイ山麓駅を越えて山にぶつかった辺りにある白山比咩(ひめ)神社です。白山信仰が盛んになり、加賀国 (石川県) 白山神社を勧請したものです。
地図を見たら、先ほど訪れた褒忠社はこのすぐ右手にありました。吉香神社の参道から歩いてぐるっと一周してきたことになります。 -
白山比咩神社に隣接してあったのがこちらの錦川水神社。錦川の水恩に感謝の意を表すため?、1974年(昭和49年)に岩国市観光協会が作った神社ですって。
神社ってかくも簡単に作れるものなのでしょうかねえ・・・ -
さて、せっかくなので(っていつもの事ですが)白山比咩神社にもお参りしていきましょう。こちらの神社も隣接する吉香神社同様、本殿、拝殿は神門と板塀で囲まれた中にありました。
造られたのは1898年 (明治31年) ですが、拝殿は2004年(平成16年)に火災で焼失。建て替えられたものです。 -
この文字が書かれた左右の石柱 注連柱(しめばしら と読むらしい)は鳥居と同等なものなのでしょうか? 大小2種類ありますよ。私の住んでいる関東地方ではあまり見かけません。
そうそう、この注連柱二つ上の錦川水神社にもありましたね。 -
平成になって消失して再建された拝殿です。写真を見る限りは、明治時期に建てられたものと同じ様式で復元されたようです。
この神社の境内から城山に上る登山道が伸びていました。山の神様ですものね。まずはここで拝んでから山に上るのが習わしだったのでしょう。 -
拝殿から見た注連柱と神門です。ここには聖域に相応しい、厳かな、それでいて穏やかな空気が流れていました。
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白山比咩神社の前の道に戻り、南西方面に少し進むと右手にあるお城のような岩国美術館+柏原コレクション。先ほどロープウェイから屋根だけ見えていました。刀剣を始めとする古武具の展示館としては日本有数だそうですよ。あまり興味がないので、私は素通り。
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家屋はないのに土塀だけが続く道を見ると、同じ山口の毛利家のお膝元萩の町を思い出します。
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ちょいと戻って、先ほどロープウェイに乗るためにすっ飛ばしたこちらの住宅を覗いていきましょう。旧目加田(めかだ)家住宅です。
目加田家は近江の国目加田出身で、関ケ原以前より吉川元春に仕えてきた中級武士の一家。 -
石垣とやや粗末な板塀の奥に、何やらとても変わった瓦屋根が見えていて、ロープウェイに急いで向かった時から気になっていたんです。
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瓦が3種類使われていますが、こんな具合に配置されている屋根を見たのは初めて。
通常よく見る瓦は、左側に「袖」(切り込み)がある「左片袖瓦」なのですが、ここでは両側に袖のある両袖瓦、平瓦が交互に使われているのです。そしてところどころにある丸い巴瓦がとても良いアクセントになっていますね。面白~い! -
ボランティアガイドさんにお聞きしたところ、この瓦は岩国特有のものだということでした。ガイドさんにとってみれば岩国なら割合見られる瓦のようで、珍しいものでもなんでもないと言ったご様子。もう少し瓦に纏わる話を聞きたかったのですが、すぐに話題を変えられてしまいました。
通りに面した方に見えている開口部は玄関かしら? 木枠より中には入れないようです。 -
こちらの瓦の方が見やすいわ。中央の瓦には両側に「袖」がついているのがお分かりいただけるでしょうか? その両側は「袖」のない平瓦になっていますね。
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旧目加田家住宅は18世紀後半ごろに建てられた中級武士の屋敷で、昭和48年までは目加田氏の子孫の方が住まわれていたそうですが、その後市に譲渡され、1974年(昭和49年)には国の重要文化財の指定を受けています。この家平屋にしかみえませんが、実は2階建て。身分の高い武士が通りを歩いても見下ろすことのないよう、通りに面した部分には2階部分に窓がないとのこと。ザ・武士道の精神を感じます。
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あっ 高い所に窓発見! 2階というよりは屋根裏のような場所なのでしょうか? 錦川の氾濫を想定して二階建てにしたという説もあります。
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家には入れなかったので、周りをぐるっと一周します。屋敷内を水路が通っていましたが、池は見当たりませんでした。何に使ったのかしら?
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ガイドさんとは専ら塀越しに見えている、お隣の「白蛇の館」の話題で盛り上がります。観光地に付き物の客寄せ施設なのかと思い、訪問するつもりはなかったのですが、ガイドさんが大変興味深い施設だとのたまうので、すっかりその気になってしまいました。珍しい白い蛇が見られるだけでなく、蛇の特性も学べる施設なのだそう。
なんでも、蛇が物や動物を丸飲み込みする際には、あごの関節が外れるようになっているそうです。更に下あごの骨は左右に分かれて、それぞれが別々に動くのだとか。考えてもみたことのない分野ですが、面白そうなので、時間もあることだし、この後行ってみますか・・・ -
目加田家住宅、通りと反対側に出てきました。地図で言うと東向きで、お庭に面しています。こちら側に回るとなるほど2階建てということが良く分かります。
屋根に天窓がある部分は台所かと思ったら、少々出っ張った部分は茶室でした。大変変わった造りの家で、もう少しちゃんと説明を聞けばよかった。蛇の話に終始しちゃって肝心の住宅の事、あまり記憶にありません。
この袖瓦を用いた家にはその後おめにかかっていませんので、貴重な出会いに感謝です。 -
毎度おなじみとなりました。唐突に舞台は「岩国シロヘビの館」へと移りますよ。
岩国には白子 アルビノ遺伝子が一代限りではなく固定化された蛇(青大将)が生息していて、1972年 (昭和47年) には国の天然記念物に指定されたとのこと。こちらは「岩国白蛇物語」展示の一幕。米蔵でネズミを食べるシロヘビを発見した場面だったかなあ・・・ -
物語の後は、シロヘビ百科ブースでシロヘビのお勉強です。
こちらは蛇の卵(この写真では大きさが伝わりませんね)。 -
そして長い抜け殻。シロヘビは青大将の仲間で、長さ1.8mほどにまで成長します。性格はおとなしく、毒はないとのことですが、やはり山道で出会いたくないなあ。
こちらのコーナーで先ほどのガイドさんは詳しく骨格を学んだようですが、不真面目な私はチラ見で通り過ぎました。自分より大きなものを飲み込む時には、あごの関節が外れる。それだけで十分? -
いたいた! 確かに白いわぁ・・・
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と思ったらこちらの赤ちゃん蛇は白ではなく、ピンク蛇? 目も真っ赤です。成長するにつれ、白さを増していくのだとか。
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こちらのシロヘビは勿論大人。かなりの長さですが、とぐろを巻いているとよくわかりませんね。
シロヘビが害獣であるネズミを食べる、人間に害を及ぼさない等から幸運を呼ぶ「家の守り神」、「神様のお使い」と呼ばれてここ岩国で大切に扱われて来た歴史が良く分かりました。現在でもシロヘビの保護及び保存活動が市民ベースで続いています。 -
漫画家の漆原友紀氏による「岩国のシロヘビ」の原画が展示されていました。額縁のガラスが反射してあまり綺麗に撮れていないけれど、そのうちの2枚だけ紹介。
川西から歩いてきた道を思い出させるのどかな田園風景です。山に架かる霧が良いなあ・・・ -
シロヘビのルーツであるとされる米蔵の場面が描かれた1枚がとても気に入ったのですが、残念なことに大ボケでした。
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春休み中の子供達で大人気のシロヘビの館。「岩国でしかお目にかかれないもの」がまた一つ増えてしまいました。地域限定に弱いんだなあ。
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さあ、時刻は午後3時40分。まだまだ歩けそうですよ。雨の心配もなさそう。ということで、「岩国シロヘビの館」を出て、城山山麓沿いの道を南西へ。
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左側に吉香公園の桜が続きます。
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錦帯橋を渡って来たこちらの横山地区には、城山と錦川の間のほんのわずかな平地しかありません。その平地のどん詰まり近くに、藩主吉川家代々の墓所がありました。
これも何かのご縁ですから、墓参りをしていきましょう。 -
丁寧な解説付きの案内板が設置されていました。
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墓所内には、第6代藩主である吉川経永(きっかわつねなが)以外の藩主とその妻、子供たちの墓がありました。ちなみにこの経永は遺言により横山実相院に葬られましたが、水害により流出。後に新吉川家墓所に移されています。彼の時代は藩の財政が悪化し、暗黒時代だったと言われていますが、そのことと何か関係あるのかしら?
見えているのは蛇の目9曜の家紋のついた吉川家納骨堂です。 -
第1代は山の上にあったので、失礼して、中に同じような五輪塔が並ぶこちらの門をくぐります。
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右から2代藩主 吉川広正 戒名浄性院
続いてその奥方で毛利輝元の長女たけ 戒名高玄院
そして3代藩主 吉川広嘉 戒名玄真院 広正とたけの長男です。この方が独立禅師を招いて錦帯橋を作った、文化面において吉川家では一番の功績のあった藩主です。 -
どういう順番。格付けがあるのかは分かりませんが、5つ並んだ五輪塔のうちの中央の三方の墓が一番立派で、全墓所の中心になっているように思えました。
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4代と6代の正室の墓の背後はもう崖になっていました。
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こちらは、お子様たちの墓所だったような記憶。
全部で51基もの墓が並んだこの墓所は、城山山麓の静寂な森の中にあって、永い眠りについた者達にとってはまことに理想的な環境でした。小国に相応しい謙虚さを備えながらも、大きな石の五輪塔が林立するさまは壮観でしたよ。 -
吉川家墓所よりさらに南西へと続く道を辿ります。「これより紅葉谷」という道標が見えて参りました。
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江戸時代から寺が多く集まっていた場所ですが、今でも2つの寺が残っているそうです。道も間もなく終点と書かれていますので、行けるところまで行って見ましょう。
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1軒目のお寺がこちらの臨済宗永興寺(ようこうじ)。「名勝 永興寺庭園」の立て札が立っています。お邪魔しま~す。
鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に大内氏によって創建された岩国一の古刹です。 -
境内に入ってすぐに現れたのはこちらの枯山水。
庭園というのはこの枯山水のことでしょうか? 節穴のような私の目にもなんだかとても新しいもののように見えましたよ。 -
門をくぐってすぐの本堂前にあったこちらの枯山水を見ただけで奥には回らなかったのですが、今調べたらどうやら別の枯山水庭園が裏にあったようです。
紛らわしいですよね。江戸時代に作られた、岩国市指定文化財の庭園にしては重みが感じられないなとは思ったのですがね。でも訪問者が誰もおらず、本堂前に腰を下ろしてゆっくりできたので良いとしますか。 -
気を取り直して次参りましょう。
曹洞宗洞泉寺です。吉川氏の菩提寺で、先ほど訪れた吉川氏墓所も、こちらの寺に属しています。
まずはきちんと手入れがされた植栽が出迎えてくれました。 -
植栽の奥には階段が見えますが、本堂の姿はありません。真っ直ぐ行くと山にぶつかってしまうから、どこかで道は曲がるはず。
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本堂へのアプローチはワクワクドキドキです。木々が死角を作っていて、階段の先、どう進むのか、この時点になってもわかりません。
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ようやく見えてきたと思ったら、また門と塀がありましたよ。いやぁ、気に入りました。このお寺。
門前に見えている曲がった木は白梅。このお寺は梅のお寺としても知られているそうです。 -
中でも有名なのは、こちらの樹齢が300年の臥龍梅。開花の時期は観光客でにぎわうそうですが、今はひっそり。誰にも会うことはありませんでした。
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山門内部がちょっと変わっていましたよ。左右にこんな壇があって、小さな仏像が安置されていました。木のぬくもりが感じられる造りです。
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反対側はやや殺風景?
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山門から本堂までは、今までのアプローチがなんだったの?というくらい離れていません。ごくごく当たり前の、よく見かける造りの本堂でした。
残念なことに、門をくぐった途端に先ほどのワクワク感が消えてしまいました。勝手に興奮しただけでしょって言われそうですが・・・(´・ω・`) -
吉香公園から続く道の一番奥にあるのが紅葉谷公園の六角亭です。この先には城山に上る登山道しかありません。
六角亭は朝鮮総督を務めていた岩国出身の長谷川好道元帥が朝鮮から贈られ、現在の韓国京畿道にあったものを1918年( 大正7年)ここに移したと案内板に書かれていました。いささか地味ではありますが、碧色に塗られた柱が大陸らしいですね。確か丹青(タンチョン)と呼ばれている伝統的な色彩の一つであるようです。 -
そしてこの公園で、錦帯橋建設のコンサルタント的役割を果たした独立(どくりゅう)禅師の碑を見つけましたよ。
現地では全く読めず、お手上げ状態でしたが、
一勺源頭水作池 流通頼有何全支
と書いてあるそうです。
意味ですか? 悲しいかな、今もってお手上げ状態が続いております。 -
紅葉谷公園最後の訪問地は、こちらの梅が枝薬師。先ほど訪ねた六角亭よりも小さな六角形をしたお堂で、由来記によると、元禄の頃の寺社記に登場している薬師様で、「昔は梅が枝の渡りの辺りにあり、本尊は行基の作」だそう。
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その後薬師堂は転々と神社、寺の境内を渡り歩き、多くの寺が廃寺となる中、一時は本尊だけ寺に預かりの身となった時期もあったが、現在は洞泉寺の計らいによりお堂が建てられた とありました。
凄い数の千羽鶴が奉献されていました。ご近所の方々の厚い信仰心が伝わってきました。薬師様も安住の地が得られて良かったねえ。 -
冬枯れから一気に春を迎えて、苔も新芽が出てきましたよ。遠目にはわからないけれど、近くによると
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ご覧の通り! 色鮮やか
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紅葉谷公園からの帰りは別のルートを通り、レトロな雰囲気の時代工房というお店の前を通ります。
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河童がちょいと気になりましたけれど、眺めただけでお店には入らず。
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行きとは別の角度からの吉香公園の噴水そばを通り過ぎ、
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もう一度香川家の長屋門前を通過。
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幹がねじれた桜木を愛でながら進んでいくと・・・
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ここに出ます。ソフトクリーム100種類。
よく見るとこのお店、行きのお店と違いましたね。行きに見たのは「むさし」。今度は「佐々木屋小次郎商店」。
思わず笑ってしまいました。山口県に入ると、途端にこれです。巌流島からは遠いのにねえ・・・ -
なぜかこの辺りに来ると、観光客多数発見。ソフトクリームだけ食べて帰っちゃうのかなあ?
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私は、春爛漫の岩国を、錦帯橋の上から再度楽しみます。
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高い建物が1軒もないのが風情ありますね。桜並木はなかったでしょうけれど、吉川氏が治めていたころと、あまり変わらない景色なのではないかしら?
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さあて。念願の錦帯橋の橋脚が良く見える河原にやって参りましたよ。
石畳と橋脚の美しさに惚れ惚れ! -
錦帯橋が着工276年後の1950年(昭和25年)の台風で流失した際に、新しい工法による橋を架けるべきという意見もあったのこと。地元愛に溢れた方々が頑張って下さったおかげで今があります。
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4つの島(橋台)が中央3連の迫持式(せりもちしき)と呼ばれるアーチをしっかりと支えます。支持柱のないアーチ部分の長さ(アーチスパン)は35.1m。これは木造アーチとしては世界最長だそうですよ。
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頑強な島(橋台)部分を激写。
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三連のアーチが35.1m×3で105.3m。
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それに両端の桁橋構造部分がそれぞれ34.8m×2で69.6m。それに島(橋台)部分の4.6m×4=18.4mを足すと、全長193.3m! 古い橋はアーチ部分、桁橋部分とも多少の長さの違いがありましたが、2001年から2003年(平成13年~15年)にかけて「平成の架け替え」が行われた結果、それぞれの寸法がぴたっと合っちゃいました。素晴らしい!
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イチオシ
これを見たかったんです。
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木組みがなんて素晴らしいんでしょう。V字型のトラス部材が多数使われていますよ。
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そして、亀の甲羅のように形が整えられた亀甲石畳が見事です。
実は島部分の上流側が水圧を和らげるために、尖った部分があることを確かめたかったのですが、ここからじゃ、うまく確かめられませんね。 -
橋桁下部が真っ暗に写ってしまいました。
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両端の桁橋部分は割とシンプルな構造でした。気が済むまで、首が痛くなるのを忘れて見上げておりました。
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下流側に長く敷かれた石畳です。前の旅行記で、上流側の実に3倍の面積に敷かれていると書きましたが、広さを実感。
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やれやれ、どうやらこれで気が済んだようですよ。
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最後の写真は、錦帯橋を渡った真ん前にある老舗旅館白為(しらため)の、高価な錦鯉の放流です。
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どの鯉を見ても立派! 丸々と太って元気そう。
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この後吉川氏の城下町をそぞろ歩こうと思ったのですが、駅に向かうバスが到着すると、気が変わってさっさと飛び乗ってしまいました。
今気が付きましたよ。道の駅 ならぬ 「橋の駅」。 -
錦帯橋が描かれた派手なバスで岩国駅へ。名物の岩国寿司も食べ忘れたので、またお邪魔しますからね。
ということで、岩国市編終了。この続きは、サクラ満開 春爛漫の山陽路 その4 宮島(前編)で!
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