2018/02/21 - 2018/02/28
76位(同エリア532件中)
アーサーさん
阪急交通社の「お一人様参加限定【エミレーツ航空利用】古代神秘のペトラ遺跡と死海 聖地エルサレムへの旅8日間 」に参加してきました。
行程は
1日)成田夜発 ドバイへ。
2日)関西空港発のツアーメンバーと合流して ヨルダンのアンマン空港へ
バスで マタバ等を観光してペトラへ。
3日)徒歩でペトラ遺跡を観光。
4日)バスで死海へ。浮遊体験
5日)イスラエルへの国境を陸路越えて、それからパレスチナへの検問所ポイントを通過して、ベツレヘムの生誕教会などを訪れ、エルサレムで宿泊。
6日)エルサレム旧市街を中心に 徒歩で観光。
7日)バスでヨルダンに戻り、首都アンマンのレストランで昼食後 空港へ
8日)ドバイ空港を経由して 成田へ 夕刻帰着。
定番を一通り見れました。
写真は定番の「嘆きの壁と岩のドーム」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
(序)
中近東は私にとって遠い国。(中東と中近東の違いも意識したことは無い。)ただ それでいて 気になることが 時に起きる。古くは 数次の中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、昨今はシリア内戦とか。その度に原油価格が変動して 私達の生活にも波及する。
人類の歴史的にもメソポタミア(現在のイラクの辺りだが)は四大文明発祥の地の一つ。そして エルサレムは キリスト教の発祥の地 またユダヤ教の イスラム教の聖地。何となく気になるエリアだった。
それで日頃 野次馬根性で中近東には行ってみたいと漠然と思っていた。行ったところで何が分かるわけでは無いだろうとは承知していたが。 -
(1)2月21日(水)
①
秋に阪急交通社からメールで「ペトラ遺跡と死海 聖地エルサレムへの旅8日間」の案内が来た。シリアやイラクやレバノンやガザ地区に行く勇気は私には無論無く、適当なパックツアーの行程と判断した。一人旅前提の旅行料金が 282,610円は格安に思えた。2月下旬は避寒旅行にもなるかと考え 申し込んだ。
体力的にツアーの皆さんに付いていけるか 不安だったので 歩行の練習を心がけたが 旅の準備は殆どしなかった。出発の2週間前に 図書館で「地球の歩き方」ガイドブックを借りてきて 必要なページのコピーを取ったぐらい。
写真は出発の当日 いつもの成田空港行きのアクセス特急に乗る。成田は羽田と比べて遠い。それだけ私も歳を取ったと言うことを実感する。(70歳) -
②
空港で 宅配便のカウンターに行き、スーツケースを受け取り、阪急交通社のカウンターで航空券(Eチケットなどを)受領して、エミレーツのカウンターでチェックインをする。JALのマイレージ登録をしてくれた。(帰国後 確認したら 片道700マイルほど付いていた。)それから いつもの出国手続きなどをして、搭乗口で待つ。
(プライオリティパスのラウンジ利用は出国手続きの前にするべきだったのに 失念する。やはり搭乗前に 一息ついてラウンジでその時を過ごすパターンが普通だと思う。)
写真は0319便の搭乗口。ほぼ満席の客。 -
③
搭乗のエアバス機は設備も新しく シートも心なしかゆったりのイメージ。
隣席の客はアラビア服の若い男性客。年寄りの私に過剰なほど親切。ペットボトルの日本茶を呉れた。食事も旨く 直ぐに寝る体制に入る。飛行時間ドバイ空港まで約12時間。熟睡は出来ないが 目を閉じて過ごす。
(ドバイの乗継ぎ場で その若い客に再度合い へんこつ爺さんを自己反省して 英語で感謝の気持ちで挨拶する。) -
(2)2月22日(木)
①
ドバイ空港は一度利用したことがあったが、その時は添乗員の同行で ほぼ記憶が部分的。ターミナル3のコンコースBにバスは着いたようで セキュリティチェックの後の電光掲示板で見たら アンマン行きはコンコースC出発みたいで 歩いて行ける。
それで歩いたが 空港は途方も無く広い。乗継ぎ時間は4時間近くと充分有るが。
写真はコンコースCの入り口。そこで一休みして プライオリティパスのラウンジの場所のコピーを リュックから取り出して確認する。 -
②
「MARHABA LOUNGE」にまず 入り、軽食と飲み物を戴く。ラウンジにはシャワーあるらしいが 仮眠所は無かった。WI-FIを接続してメールなどを確認して過ごす。 -
③
フライト情報の画面があったので そこでもう一度0901便の出発ゲートを確認する。構内の大型スクリーンの表示は 出発便が多くて 直ぐ標示が動くので私は不安だった。出発ゲートNo C43を確認して 時間が来て ラウンジを出る。 -
④
C43ゲートに移動して 関西空港発のツアーメンバーと合流を待つ。今回は成田から七名、関空から十三名 計二十名のお客らしい。(男性9名、女性11名だった。) -
⑤
アンマン行きの飛行機は定刻 8時に離陸した。少し小型機で満席。ヨルダン行きの飛行機なのに 結構日本人及び 東洋系観光客が乗っていて驚く。(珍しくフィリピンのツアーグループもいた。)世界は狭くなっている。 -
⑥
飛行時間3時間40分で アンマンのクイーン・アリア空港に定刻(現地時間)9時40分に着陸した。空港はこぢんまりとした 新しい国際空港の様子。思っていたより寒く 日本からのジャンパーを脱ぐと寒い。 -
⑦
ツアーグループの一名の荷物が行方不明となり、約1時間待機ロス。ドバイ空港でミスしたみたい。(乗継ぎ便はその危険性があり、手荷物に当座の着替えなどの準備が確かに必要と思った。翌日の午後ホテルに行方不明の荷物はホテルに届けられたが。)
写真は そのアンマンの空港荷物受取場。 -
⑧
迎えの現地観光会社の大型バスに乗り込み、近くのマタバへ出発。
写真は空港駐車場から 空港を写す。大きなヨルダン国旗がはためいていた。
空は日本の冬空のイメージではない。 -
⑨
空港からの道には緑が薄く見え、土地は豊饒ではないが 畑作地のイメージ。 -
⑩
1時間足らずで マタバの町に至り、田舎町の様相。
写真はロータリーに飾られていたモニュメント。 -
⑪
車窓から見えるお店の様相はかなり昔の日本。果物は豊富そうだが。 -
⑫
町の中心部付近に近づき 渋滞が激しくなる。道路舗装などの社会資本の蓄積も遅れている様子。
さっそく お祈りの呼びかけ「アザーン」の声が バスの中にも届く。アラブに来たなと実感する。 -
⑬
写真は目的の聖ジョージ教会。
最初に 別館の施設で現地ガイドさんから モザイク地図の模写で説明を受ける。
西暦6世紀頃作成の世界で最も古い地図だとかで、聖地エルサレムの描写を含んでいるとの説明を受けたが 私にはイラストの感じで地図の概念とは違った。 -
⑭
それから 教会内部の「床モザイク地図」とご対面。異教徒の私には 欠損した昔の案内イラスト図にしか見えなかった。
それより イスラム社会の中で キリスト教会がこうして歴史を重ねて来ていることが驚きだった。 -
⑮
少しマタバの街を歩き、それから バスで「ネボ山」に向かう。
12時を過ぎ ネボ山近くの観光ドライブインでランチを取る。 -
⑯
添乗員さんの車中での説明で ヨルダン・イスラエルの料理は同じような食材で 似たような料理しかでないと 言い訳のような牽制をされていたが 私にはツアー時のバイキング式の普通の料理だった。デザートが砂糖の味が濃く閉口したが。 -
⑰
ドライブインの窓から眺める風景には 緑が少ない。石だらけの土壌。 -
⑱
食後 バスで少し進み、駐車場から「ネボ山」には歩いて向かう。
私は「ネボ山」のことはまったく知らなかった。(旧約聖書)「申命記の最後にいたる章によると、ネボ山は神がイスラエルの民に与えられた約束の地をヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所とされる。」(ウィキペディア)だそうです。
子供の頃 「十戒」の映画を見たことはあったが 殆ど記憶はない。 -
⑲
2000年に訪れたヨハネ・パウロ2世の記念碑が入り口近くにあった。ここはカトリックの聖地でもあるみたい。
(旧約聖書とキリスト教の関係も私にはよく分からない。) -
⑳
丘の上には 現代的なキリスト教会が見えてくる。 -
21)
モーゼに眺望させたと言われている 同じ場所に立って見渡す。
もやがかって 私には死海やヨルダン川やエリコも見えない。
ただ 砂山の連続に見えた。 -
22)
(4世紀後半にモーセの死の場所をしのんで建てられたとかの教会の跡地に建てらた)現代の教会の内部に入り、見学する。 -
23)
確かに 一部の床に 遺構やモザイク床が残っていた。 -
24)
それから バスは南に向かい、一路ペトラへ。
砂漠の中を自動車専用道路で向かう。
途中 トイレ休憩を兼ねて ドライブインに寄る。コーヒー1ドル。店の人は親切だった。 -
25)
バスは脇道のペトラの町に向かう 山岳部を通り、暗くなって ホテル「EDOM」に着く。(写真は翌日昼撮影) -
26)
ホテルの部屋は広くて 暖房も効いたが お湯の温度は低くシャワーの湯量は限られたものだった。あらかじめ添乗員さんから聞いていたので 納得していたが。
(WI-FIは5ドルの有料だったので使わず。) -
27)
食事はホテル内のバイキング形式で ランチの時より品数が多く 美味しかった。 -
28)
食後 ホテル近くの土産物店が並ぶ商店街をふらつく。 -
29)
翌日の飲料水を購入し、ついでに ナッツの詰め合わせをお土産代わりに衝動買い。(安かったが 日本に帰り食べたら 皮が付いたままで これでは割高。)
ホテルに帰り、軽く洗濯をし 明日の用意をして 11時頃就寝。
最近のツアーでは 添乗員さんから 主な時間と場所等のメモを頂けるので助かる。年寄りは自分でメモするのもいい加減だし、記憶も曖昧。 -
(3)2月23日(金)
①
朝 7時前に目覚めて 窓を開けたら 雨が降っていた。ちょっと歩きにくいなぁと懸念する。
窓外の風景は 町は静かで 空き地の目立つ中に ホテルの宿泊施設が多く見られた。
夜に近い早朝 お祈りの呼びかけ「アザーン」の響きがベッドの中に届いていたのを思い出す。 -
②
朝食後 9時前に ホテルを出発して 雨の中を ペトラ遺跡の入場ゲートに向かう。歩いて10分も掛からないところに ゲートはあった。
ところが 事情が良く分からないが そこでストップ。入場規制中だとかで 一旦ホテルの部屋に帰って待機となる。
(ホテルが近いのは便利だが、本日の徒歩行程の時間的余裕が無くなる心配はあった。)
写真はストップになった入場ゲート。 -
③
1時間後 再出発。雨は少し小止みになる。
写真はゲートを入り、博物館の施設や休憩所、土産物店を抜け、切符確認所の辺り。
本日から ガイドイヤホンを使用開始。 -
④
掲示地図の前で 概要の説明を受ける。本日は落石のため 途中で侵入禁止なっているとか。写真の右側のアラブ人男性が現地ガイドのムハンマドさん。 -
⑤
なだらかな坂を下って ルートに入る。左側に厩舎が見える。
事前に添乗員さんから 馬車、ロバ、ラクダの利用は伝染病感染の恐れから禁止されていた。
私は 歩行補助のノルディックポールを持参して歩いた。 -
⑥
公園入り口から シーク入り口まで約700mは 左側の馬道と右側の人道は分離されていた。
結構多くの人が歩いている。 -
⑦
早速 「オベリスクの墓」の遺跡が見えてくる。1世紀に岩肌を彫り込んで作られたとか。 -
⑧
シーク入り口の前に 前夜からの雨で発生したのか 水の流れがあった。当時の人々にもシークに水が流れ込まない水利技術がそれなりに必要だったのが分かる。 -
⑨
写真はシークの入り口。道は更になだらかに下がっていく。少しぬかるんでいた。 -
⑩
巨石の狭間を歩いて行く。 -
⑪
所々に ナバタイの神を祭ったモニュメントや古代の水路跡が残っている。
ガイドさんの説明が 最初は耳から聞こえていたが 私が先を急ぎイヤフォンは聞こえなくなった。
時に 馬車が横を通っていくが それほど気にならない。 -
⑫
途中で見掛けた 魚が2匹いるようにも見えた造形物。砂岩系で出来ているのか 造作し易そうに思えた。 -
⑬
大分歩き、岩の狭間に現代の人工造作物を見掛ける。
どうも それほど強固ではないが 落石時の頭上防護の施設みたい。急いでトンネル状の施設をくぐり抜ける。確かに落石があったら一溜まりも無い。 -
⑭
また 現代の砂防ダムのような施設も 脇道の狭間に見掛ける。確かに想定外の鉄砲水が発生したら ここは危険と思える。自然の造形は素晴らしいが危険と隣り合わせも思い知った。 -
⑮
シークの入り口から1キロ強で 岩の狭間の向こうに エル・ハズネ(宝物殿)が見えてきた。
最後の水たまりを越え、心高鳴りご対面へ。 -
⑯
勝手に想像していたより 実際の横幅は小さかった。
陽光の当たり具合が弱いのか 岩肌の色から「薔薇色の都市」と呼ばれている風には見えなかった。
広場にはベトウィン族のラクダ観光試乗の人達がいた。 -
⑰
日本の弥生時代に 砂漠の僻地でここまで壮大な建築物を作り上げる文化があったことは驚き。装飾物も見事。地中海のギリシャ文化の伝播がここまで及んでいたのか? -
⑱
現地ガイドさん一行が追いついてきて 説明してくれる。なるほど よく見れば 岩を掘削・加工するときに使った足場の址が 壁面に残っている。 -
⑲
地下には フェンスで遮られ入ることは出来なかったが、埋蔵文化財の発掘調査が行われたそうだ。
添乗員さんが観光ポリスに聞いて、もうこれ以上進めないと判断されて 一行は引き返すことになる。全行程の三分の一しか行っていなくて残念だが、ここまで来れたことに 私は満足した。 -
⑳
左手の丘に向かって 進んでいる人もいたが ちょっと私にはリスクがあるなと思えた。
頭上に小型のドローンを飛ばしている人もいて 規制の無い海外環境では自己判断が大事だなと思った。 -
21)
それから 続々やって来る観光客に逆らって 同じ道を引き返す。
心なしか 天気も良くなり 客数も増えたみたい。馬車の往来も増え、馬の路上での落とし物も増える。でも時をおかずに 清掃の係の人が片付けている。
私はグズグズと写真を撮ったりしていて グループの最後に追いつかれ 慌てて歩く。それでもなかなか追いつかない。みなさん早足。(私が遅足。) -
22)
やっと 約2キロの緩い上り坂を歩き、12時過ぎ 最終グループで昼食レストランに着く。
写真は遺構も残したレストラン入り口 -
23)
変更されたランチの場所は 格上のホテルの食堂。美味しく戴く。
一応ランチ後自由解散となり、それぞれで行動となる。
後ほど 夕食の席で隣り合わせた男性の方の話に寄れば 数名の方が再度ペトラ遺跡の当初計画(エド・ディル修道院まで)の踏破を試まれたそうだ。馬車も利用した方もいたみたいだったが 約5時間で私が朝歩いた距離の3倍を行かれた行動力と判断に驚く。私には到底無理だった。
写真は格上のホテルに飾ってあった切り花 -
24)
私は取りあえず、近くのペトラビジターセンターの博物館に入り、見学する。 -
25)
内容は良く分からないが 展示時代の間隔が長期間に渡り 凄そう。 -
26)
当時 ペトラが交易の一つのポイントになっていたみたい。金属資源や香料が運ばれたようだ。
確かに 我々農耕民族と異なり、この地はラクダを駆使した交易商人の色彩が強いのだろう。 -
27)
地下から発掘された水利用の配管材料。我々が明治になって使いだした物を約2000年前から使っていたとは驚き。もっとも このエリアでの「水」の価値は日本の我々とは違ってもっと貴重だっただろうけれど。 -
28)
縄文式土器とよく似た ダイナミックな焼き物。 -
29)
それから カフェに入り WI-FIを繋ぎ 日本と連絡したりして 時間を潰す。
また お土産屋さん等を見て ホテルに帰る。それから部屋で NHKの国際放送を見て 夕食の時間を待つ。
夕食後 早めに眠る。海外で「無為」という贅沢な時間。(クルーズ旅行を経験すると 年寄りには これもありかなぁと思えてくる。) -
(4)2月24日(土)
①
朝9時前に ホテルを出発し、死海へ。
途中バスを降りて 見晴らし台からペトラの方向を写す。
今日は天気も晴れている。 -
②
途中 道路の切り落としから 地層の断面が見え 珍しくて写す。
この地でも 地層に圧力が掛かり ねじ曲げられて面白い景観を示していた。我々の知らない地球の歴史があるのだなと思った。実際ペトラも地震にあい 壊滅したことがあったとか。 -
③
GPS受信の「MAPS ME」を いつものように持参していた。幹線道路の「砂漠道路」に戻り、北のアンマンにバスは向かっていた。 -
④
途中 道路脇で 羊の放牧をしている人を 何度か見掛ける。痩せた土地にみえるが そうでもないのかな。 -
⑤
自動車専用道路の脇で トイレ休憩を兼ね 土産物店に入る。異国情緒の品が並んでいたが結構高い。「断捨離」の年寄りには無縁。 -
⑥
アンマンに近づけば 緑が増えてくる。バスはインターチェンジで西に向かうルートに変更。いよいよ死海方面。 -
⑦
バスはヨルダンの山側から 海抜マイナス約400メートルにどんどん下っていく。
海面下400Mの陸地のイメージがピンと来ない。つまり海と結ばれた河川が無いと言うこと。理屈の上では分かるが 島国の人間の皮膚感覚では? -
⑧
死海が遠くにかすんで見える所で 死海のお土産グッズ店に入る。 -
⑨
ヨルダン側の方が イスラエル側より安いと添乗員さんのお勧め。
クレオパトラが使用したとか言う「死海の泥パック」は日本の家庭配水管を詰まらせるのでやめておいた方が無難とも注意を受ける。 -
⑩
品揃え等は野暮ったいけれど 結構大きな店。
お土産に化粧品セットを購入。 -
⑪
それから直ぐに 今晩の宿「ラマダリゾート」へ到着。 -
⑫
ホテルは西洋スタイルのリゾート風 新しそうで広いイメージ。 -
⑬
早速 ランチタイム。 -
⑭
食後 部屋に入り、海水パンツに着替える。2月下旬でまだ寒いだろうと思っていたけれど 気分的に大丈夫そう。足に浸かって冷たければ それはその時と思う。 -
⑮
部屋のベランダから眺めると 何となく未開発のところが残り 2000年前のキリストの時代からこの死海の風景はあまり変わっていないのではとも思える。 -
⑯
上手い具合に ホテルの専用海岸へのシャトルバスに直ぐ乗れて バスで海岸に送って貰う。専用海岸と言っても 施設的には大した物はなかったが。(小屋とシャワーと折りたたみビーチチェアーとタオルぐらい。)
バスを降りた所から 海を見下ろし 写す。 -
⑰
数人の人が泳いでいたので 早速私も海に入る。それ程冷たくはなかった。 -
⑱
確かに 浮くことは浮く。ただ下手に動くと 体が回転しそう。
最初 自分で自分の写真を撮ろうとして カメラを高く掲げて シャッターを押そうとしたら 体が回転しそうになり慌てた。それで ツアーの方に撮って貰った。
信じられないが 死海の海水浴中に死亡した方もいるみたい。 -
⑲
浮遊体験も果たしたし 人も増えてきたので シャトルバスでホテルに戻る。
後日 私の爪の甘皮が剥がれる。やはり海水の塩分がきつい所為かと思えた。(すぐに直ったが。)
季節が冬の所為か ホテルのプールサイドでは人影は少なかった。 -
⑳
部屋のベランダから死海を眺めていると 静かな夕暮れになり それから小さな明かりが 遠くの村落につき出した。2000年以上前から ここでも人の営みがあったのだろうと思われた。
日が完全に暮れて 対岸のイスラエルの地の明かりも微かに見えた。 -
21)
夕食も リゾートホテルの華やかな物だった。死海周辺は土壌も豊かなのか 野菜の種類も多く、新鮮だった。
部屋でもシャワーだったが 湯量も満足のいくものだった。
今晩も 年寄りは 広い部屋で早く眠る。(ホテルの周りには 何にも無い。) -
(5)
2月25日(日)
①
今日は国境越えで 時間的安全を考えてか 5時半にモーニングコールが鳴る。
ベランダを出てみるとまだ死海は眠っていた。
「アザーン」の呼びかけが聞こえたのかどうか定かではない。3っ日もいると 一日5回のアザーンに不感症になっている。 -
②
6時半にスーツケースを出し、朝食。7時半前にホテルをバスで出発。イスラエルとの国境越えで 何となく緊張感が一行に漂う。 -
③
ホテルからすぐ近くの国境チェックポイントに向かう。バス内で出国税15ドルとパスポートを預け、チェックポイントの構内駐車のバス内で待つ。30分位で 手続きは完了して 国境を越え、バスに乗車のまま イスラエル側のチェックポイントへ。
写真はヨルダン側チェックポイントの構内が見えてきたところを写す。不測の事態を恐れ 実際の国境アレンビー橋(キング・フセイン橋)を写す勇気は無かった。 -
④
それから 国境の砂漠地帯を越え イスラエル側のチェックポイントの施設の前でバスを降り、個々人で入国審査。パスポート審査が2段階で 顔写真入りのIDガードを渡されるのが特殊みたい。管理のIT化が進んでいる雰囲気だが 窓口は(片言の日本語を交え)旅行客へのフレンドリーな対応の感じ。
審査ゾーンを出てきたところで 現地ガイドさん(日本出身の女性)に会う。
建物の外で イスラエル側のバスが待っていた。 -
⑤
イスラエル側に入ると 道路は整備されている。
ガイドさんは日本語で キリスト教の関係で説明してくれるが 私は基礎知識が無くて ちんぷんかんぷん。
写真の右側は死海方面。左側はエリコ方面。(写真は車の後方を写す。)たしかにエリコ方面は植栽がなされいた。エリコでは紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落があったとか。 -
⑥
バスは高速道路を西に向かう。先進国の風景の中に 突如 トタン屋根もどきの あばら家集落の散在が見えてくる。ガイドさんの説明によると 国家の統制下に置かれない 放牧民「ベトウィン」だそうだ。彼等には国境も無いのらしい。ちょっと不思議な世界。 -
⑦
バスは順調に走り 国境から1時間も経たずに 突如の感じでエルサレムに対面。テレビなどで よく見掛ける黄金の丸い屋根「岩のドーム」が ちらっと見える。 -
⑧
バスは直ぐにエルサレムの市街地を走る。路面電車が走り、見慣れた先進国の風景。
朝出発したヨルダンの風景が嘘のよう。 -
⑨
旧市街の城壁も見えてくる。 -
⑩
西北の郊外にバスは少し走ると 街中に突如として 異様な高い塀が続く。パレスチナとの境界の壁(分離壁)だった。
ガイドさんの説明によればこの壁でエルサレムの市民生活の安寧が実現したとのこと。 -
⑪
我々 日本人観光客はイスラエル側の観光車でチェックポイントを 何の支障も無く通過した。チェックポイントはパレスチナ労働者も毎日の通勤に使用するところで 写真の撮影は禁止されていた。バスの中から見るパレスチナ側エリアは何となく暗そうな気分がした。通過自体は一瞬のことで 高速道路の料金所の通過より記憶に残らなかった。
直ぐに バスは壁の横に停車した。 -
⑫
バスを降りると 道の向こうには 壁の上の監視塔が見える。私達は写真左側の土産物店に入った。 -
⑬
キリスト教関係のグッズが中心の店だった。アラブ人の店の人もいて 私は混がらった。確か パレスチナ側に入り、イスラム教のエリアに入ったはずだのに アラブ人がキリスト教の信仰グッズを勧めてくる。ここでは 不思議でも何でも無いことらしい。 -
⑭
店の 外で監視塔をアップで見れば こちらを監視している緊張感が漂う。下の壁には各種のプロパガンダのポスターが描かれたり 貼られている。 -
⑮
店を出て バスを進めれば 壁アートが続く。 -
⑯
分離壁は町内の普通の生活の中に 道路を隔て 国境を作った感じ。こちらはパレスチナ側だけれど 壁一つ向こう側にはイスラエルの生活が 又あるのだろう。 -
⑰
バスは直ぐに キリスト生誕の地 ベツレヘムの町に差し掛かる。丘の多い町。 -
⑱
バスはバスセンターの地下のような所に止まり そこで降りた。
店の感じが雑多で アラブの感じ。 -
⑲
聖誕教会への坂を上っていく。両サイドはお土産屋さん等で 日本の参詣道路の賑わいを歩いている気分。(半分観光気分。) -
⑳
広場の向こうに 生誕教会の建物が見えた。敷地のフェンスも何もない 剥き出しの固まりの建築物。(「歩き方」によると十字軍の時代に防御のため 要塞化されたとか。) -
21)
「謙虚のドア」と称されている 一人だけ頭を下げて通れる出入り口から教会に入る。 -
22)
パレスチナの現地ガイドさんも加わり、本日 日曜日でミサが行われているため「生誕教会」の地下には入れなくて 待ち行列が延々と続いている旨 説明があった。確かに 動かない行列の人々の姿が見える。但し教会に5ドル寄付してくれるなら 30分パスできるルートを案内してあげる。一回につき5人までだけれども。と説明があった。素早く5名の方が意思表示をして そのガイドさんに従った。
取り残された我々は 隣のフランシスコ派修道院に行き 見学する。
教会前の立像は ヘブライ語の聖書をラテン語に翻訳したヒエロニムスの像。キリスト教が伝播するのに貢献したらしい。 -
23)
その「聖カテリーナ教会」もミサ中で 我々は入れない。(写真はガラス越しに写す。厳粛な雰囲気)
先程のガイドさんが戻ってきて 次の5人を誘う。躊躇したが 外で待っていても仕方が無いと思い ガイドさんに従う。
案内されたのは 動かない列の 前の方に出来ている 横切り用の通路。そのガイドさんが 居なくなると 当然 前後の人達から 質問から始まり 非難の声が沸き上がる。ちょと耐えられ無くなると前に 次の5人を連れてガイドさんが戻ってきた。現地のガイドさん達は 列の外にベンチを持ち出し 我々に座って待てという。傍の聖職者の身なりをした人も その動きを黙認しているように思われる。 -
24)
ベンチに座って30分程待つ。(イヤホンガイドを通じて イスラエルガイドさんの声も聞こえていたので 安心して。)
ベンチでたまたま足を組んでいると 現地ガイドさんから注意を受ける。多分足の組み方が十字になり キリスト教では非礼に当たるのだろうと思った。動かない行列の 黙って耐えて立っている人達は 巡礼の人達に見えた。私はのんきに 天井からつり下げられた数々のランプはプロテスタントやカトリックとは異なるギリシャ正教のものかと思いを巡らせていた。 -
25)
地下に向かう階段の付近で動きがあった。私はその動きに出来た 空間に割り込んだ。直ぐ動きは止まり、そこから地下への入り口で遮っている居る人が見えた。
それから階段の不安定なステップで暫し待つ。信者達は無言でスクラムを組み、一歩たりとも割り込みを許さない。日本人が小声で連絡するのを 静寂を維持するために 厳しく制する。
彼等は長年の信仰生活の極限の一つに出会う瞬間に心ときめいているのだろう。大多数の日本人はディズニーランドの催しに並んでいる気分、落差は大きい。
写真はその地下への入り口。 -
26)
閉鎖が解かれ 階段を降りる。
地下の家庭の暖炉のような祭壇では イエスが生まれ 羊の飼い葉桶で眠ったとか言われている その飼い葉桶らしきものに手を触れて 信者達は膝をつき 祈りを捧げている。写真はその飼い葉桶。 -
27)
また 地下の狭い空間には 何かいわれがありそうな 複数の燭台の入ったガラスケースに蝋燭が捧げられている。そして 壁には聖画が掲げられていた。
地下を出て、私は現地ガイドさんに5ドルを払った。(一人払わない人が居て 仕方なく イスラエルガイドさんが代わりに支払った。パレスチナ側ガイドさんとは此処で別れた。) -
28)
それから 再集合して バスに戻り 近くのランチ会場に向かう。
写真はそのランチ会場入り口。 -
29)
レストランでは 各国からの 多くの参拝の終了した人達が 安堵した感じでランチを食べていた。内容はヨルダンで食べた食事と似ていた。 -
30)
食後 バスは直ぐ横の 羊飼いの野の教会の前を通過。多くの方が参拝に入っていた。 -
31)
バスの中では ガイドさんが聖書に出てくる地名 由来と見えてくる場所を説明しているが私は馬耳東風。ただ もうすぐイスラエル管理地に入る辺りから 建物の風景が変わってくる。塀の向こうは 新興住宅の建設ラッシュ。塀際に迫っている様相。こちら側は空地が続くが。 -
32)
殆ど ノンストップのイメージで 検問ポイントを我々は通り抜け、イスラエル側に戻る。道が広くなり 車が増え 車が新しそうに見える。先進国の現代に戻った風。 -
33)
それから エルサレムの中心にある「イスラエル博物館」へ行く。 -
34)
最初に第2神殿時代(紀元前538年~紀元後70年)のエルサレムの模型を見る。
実際の50分の1の縮尺だが かなり精巧で巨大。キリストが生まれる前に これだけの建造物を作る文化がすでにあったと言うことに驚く。 -
35)
それから 「死海写本館」を見学。紀元前3~2世紀の文字文化の進化が予想できる。
内部は写真禁止だが とにかく当時ここの住民が一定の文化を有していたことは分かる。
写真右後方は イスラエルの国会議事堂。 -
36)
それから 自由見学で博物館を見て回る。とんでもなく広い敷地と施設。イスラエルの国家威信をかけているように思える。 -
37)
最初にモダンアートが中心になった美術棟に入る。 -
38)
広すぎて回れない。私は 芸術品としてそんなに感銘もしなかった。 -
39)
考古学棟にも 入る。これには圧倒されて これは人類共通の資産だと訳も分からず つぶやきながら 集合時間になって退出する。 -
40)
そして エルサレムの宿泊ホテルに入る。ホテル名は「プリマパレス」。市の中心部に位置していた。 -
41)
夕食の前に 添乗員さんが近くの スーパーに案内してくれる。 -
42)
庶民的なスーパーで 野菜も豊富だが 現代の日本人から見て 期待していたより 古い感覚の店。生活実態がこの程度だろうかと思った。 -
43)
もう一軒 近くのディスカウントストアにも回ってみる。「プリム祭」がもうすぐ始まるとかで 仮装のグッズが売られていたが 安物のイメージ。
外に出ると寒い。居心地の良い町では無い。 -
44)
夕食のメニューはユダヤ人の食事の典型らしいが 私に違和感はない。美味しく戴けれた。
ホテルはユダヤ教の関係もあるらしい。正統派の服装をしている人達を見掛ける。 -
45)
エルサレムでは バスタブを久しぶりに利用出来た。トイレにペーパーも流せられた。
イスラエルガイドさんから 海水からの還元利用が進んでいると聞いていたが 成る程と思う。イスラエルは自然との調和と言うより IT化を始め 自然の克服への意欲が強いのかなと思った。 -
(7)
2月27日(火)
①
夜 雨が降っていたらしいが バスで出発する頃 止んでいた。今日は歩く時間が長くて助かる。念のため ノルディックウオークのストックを一本だけ持参する。 -
②
旧市街への城門で最も美しいと言われた「ダマスカス門」を車中から写す。 -
③
最初に「オリーブ山」の麓 ゲッセマネの園に行く。オリーブの古木が風格を持って茂っていた。 -
④
それから 隣の「万国民の教会」(別名「苦悶の教会」)に寄る。イエスが最後の夜を過ごした地とか言われている。 -
⑤
教会内部で 説教が行われていた。 教会の現存建物は20世紀初頭に再建されたとか。 -
⑥
次にバスで移動して 歩いて糞門から旧市街へ入場しようとしたら 丁度 ユダヤの少年の「バル・ミツバ」儀式の行列に出くわす。13歳の男性の大人へ仲間入りの儀式らしい。 -
⑦
糞門を入ったところで セキュリティチェックがあり 空港と同じような扱い。
写真はチェックポイントを過ぎたところから写す。 「エルサレム考古学公園」(発掘調査中)とその上の「アルアクサ・モスク」(銀のドーム) -
⑧
そして 「嘆きの壁」とご対面。
左側の男性専用部分に 「キッパ」(小さな帽子)を被り進む。
キッパは篭の中に入り 無償提供。被っていないと 注意される。 -
⑨
確かに 壁の間には 願い事を書いた紙片が挟まれている。(その紙片が涙に見えたそうだ。)
私は 同じように壁に手をやり「争いのない世界の平和」を祈った。 -
⑩
壁の前の広場では 写真のように 柵越しの母親達女性に見守られながら バル・ミツバの儀式(金属製の巻き取り式のユダヤ教の経典?を読み上げている。)が行われていた。ユダヤ人とユダヤ教は いまもかなり密接に結びついているらしい。ユダヤ教の信者がユダヤ人? -
⑪
それから 嘆きの壁の脇の建物から 地下に入り 長々と降りて歩く。途中 地下の壁の礼拝所は ユダヤ教の信者のみの礼拝所みたいで 我々異教徒は その一角に近づけない。写真も撮れない。制止を無視して写真を撮っていた女性に 殴り掛からん勢いで怒鳴られる。(それを無視して 取り続ける日本のおばさんパワーもかなりなもの。) -
⑫
発掘はまだ進んでいるようで 巨石の構築物を作り上げた文化に驚嘆する。現在のエルサレムがこの上に立っていることが信じられない。 -
⑬
地下には 貯水用の池が幾つかあった。どう歩いたのか分からなくて、地下の規模感は私は分からなかったが 1キロ近く歩いた気がした。 -
⑬
突如 明るい地上に出る。そこはムスリム地区で 直ぐ近くに「ヴィアドロローサ」(苦難の道)が続いている。 -
⑭
ガイドさんは 更に詳しく この「苦難の道」を語ってくれる。
第1留のイエスが裁判を受けたとされる総督官邸の跡地から始まり、番号毎の「掲示」に従って説明してくれる。
写真は「エッケ・ホモ・アーチ」(第2留)を越えたところ。 -
⑮
「第1留」の「死刑判決を受けた場所」。小さな教会になっていた。 -
⑯
信者の人達が 木製の十字架を担ぎ 祈りながら行進していく。キリストの追体験だろうか。 -
⑰
第3留「最初に倒れた場所」 -
⑱
第5留「イエスが手をついた石壁」?この辺りから 写真の記録と私の記憶はこんがらがっていく。 -
⑲
途中 トイレ休憩とジュース休憩をしたところ。道はムスリム地区の普通の路地に見える。 -
⑳
キリスト教徒地区の聖墳墓教会が見えるところに 木製の十字架が置かれていたので 私は 試しに背負ってみた。軽そうに見えたが 結構重い。 -
21)
本日から急遽 聖墳墓教会への入場が禁止されたそうで 建物の外の空地から 教会の外観を見学する。だから第10留から最後の教会内の第14留等はは見れなかった。非常に残念だが 個人的には「ヴィアドロローサ」を充分堪能した。
写真はキリストが眠っている聖墳墓教会の外観
処刑にされたゴルゴタの丘は(子供の頃見た絵本で勝手に 野の小高い山と想像していたが、)むしろ高台の感じ。いまは教会の建物の高低差に吸収されてしまっていた。 -
22)
ちょうど 空地に猫がいたので 写す。まじめくさった顔をして 逃げずに無視。
(実際 エルサレムには猫が多く居た。何か保護をしているみたい。) -
23)
聖墳墓教会への入場口に回り 閉められた扉を写す。右側のゴルゴタの丘への狭い階段の所には信者達がぎっしり腰掛けていた。世界からの訪問者だろうか。何を思って静かに座って その時を過ごしているのだろうと疑問だった。
伝え聞いたところに寄ると 教会が税金を払わないので 市役所が突然閉鎖したとのこと。凄く世俗極まりないことに私には思えた。でも それもまたこの地の現実。 -
24)
それから アルメニア人地区のレストランに入り ランチを戴く。
アルメニアのことは殆ど知らない。でもここエルサレムではよく見聞きした。アルメニアは 4世紀世界ではじめてキリスト教を国教化したことで有名だそうだ。 -
25)
それから シオン門を通り 城壁外の「ダビデ王の」墓に向かう。
シオン門は狭く 車がクランクを ハンドルを切り返して進む。見ていると実際車が壁に接触した。その上の壁には無数の銃弾の痕。ガイドさんの話に寄ると 中東戦争で イスラエル側の英雄的な戦いがあり その痕だという。
日本に帰りちょっと調べてみたら 1948年の第一次中東戦争の後 旧エルサレムはヨルダンの管轄下だった。そして1968年の第三次中東戦争の後 イスラエルの管轄下に変わる。だから 旧エルサレムが今の形になって 50年。長いと言ったら長いし、短いと言ったら短い。 -
26)
ダビデ王のお墓に参った記憶は無く ダビデ王の像の前で説明を聞いていたことしか思い出せない。ダビデ王は私の中では遠い西欧の神話の一コマ。像が実際的な琴を抱えているのが不思議な気がした。 -
27)
近くの キリストが弟子達と最後の晩餐を取ったと言われている部屋を訪ね 説明を聞く。(殺風景な空間)
多くの信者が訪問していた。 -
28)
更に シオンの丘の「マリア永眠教会」を訪ねる。新しくて随分大きな教会。 -
29)
祭壇は現代的なデッサンだった。
何か「聖地巡り」の気分。異教徒には余り有り難くも感じない。 -
30)
更に城壁内に戻り 旧市街の 中央を貫く アーケードに向かう。
列柱の遺跡と共にある 商店街。
アーケードの地下広場では若いイスラエルの女性兵士達が休憩していた。徴兵制のイスラエルではよく町なかで 若い兵士の集団を見掛けた。腰に自動小銃をぶら下げ軍服で歩いている。ガイドさんの説明によると銃弾は入っていないそうだ。(また人口構成比20%のアラブ人は徴兵制の範疇外。) -
31)
広場で約1時間の自由解散。私はフラフラと地下のような狭い商店街を歩く。通りは歴史を感じさせ 道の真ん中に井戸が残る。狭そうな個人経営の店は 一部アート販売のモダンな店もあったが 大部分は昔ながらの店。1キロ近く歩いて引き返す。
こんな 昔が残った生活空間に ひしめき合って 複雑な異民族・宗教関係で生きていくのか 理解出来ないものがあった。それとも 表のルールと違う 歴史を越えた裏の生活ルールでもあるのだろうか? -
32)
日本のおばさん達の数名は ガイドさんに連れられて ダイアモンドの販売を見に行ったみたい。
地下広場で座って 待っていたら 壁に旧市街の地図があり、写す。
旧市街は1キロ四方みたい。思っていたより狭い。アーケードは旧市街の中央をほぼ貫いていた。 -
33)
それから バスに乗るため ユダヤ人地区を糞門に向かっていたら、坂の塀の上から
ユダヤ人家族がホームパーティーをしているのが見えたので 写す。随分豊かで楽しそう。 -
34)
糞門近くで ガイドさんが写真撮影ポイントの高台に案内してくれる。
朝 立ち寄った 「嘆きの壁」の辺りが一望できる。
地下を含めて 2000年以上の歴史に触れ、ぼんやりと思ったことは 島国の私には理解出来ないことが多すぎる。それでも 世界は狭くなり これから 多くの異なる背景を持つ人達と接していかなければならない。一望しながら しんどいなぁと思った。 -
35)
それから バスで「鶏鳴教会」に行く。
直ぐ着いて バスを降りたら 先程の岩のドームが間近に見えた。 -
36)
写真はペテロの三度の否認の舞台となった 「鶏鳴教会」の玄関うえ。 -
37)
イエスが捉えられ 吊り下げられたとか言われる 地下牢が教会の階下に続く。
多くの信者が列をなして待ち グループで厳粛に祈りを捧げている。
(上階の窓からミサを写す。)
順番が来て 私達も 地下牢に降り、ガイドさんの指導の下 旧約聖書「詩編」暗やみの一節を聞いた。良い経験だった。 -
38)
教会の周辺には 2000年前の石の階段、洞穴の住居跡が残っていた。
多分 当時こんな所に 人々は暮らし 住んでいたのだろうと想像できた。 -
39)
それから 新市街に戻り 夕食のレストランへ行く。「 Blue Hall Music」(トリップアドバイザーでエルサレムの一番の評判の店)
私達の最後の晩餐で 旅行社も華やいだ雰囲気を醸し出してくれていた。添乗員さんの目も お疲れで充血していたが ホッとされた感じもあった。
万歩計を見れば約2万歩 本日歩き 私はほぼ限界。 -
40)
ホテルに帰れば 狭い庭で結婚式が挙行されていた。
式が終わり 煙草を吸いに庭に降りたら まだ式の参加者が数人残っていて 三人の若い男性が 戯れの感じで 床体操を繰り広げていた。ひどく幼なそうな彼等だが 躍動的なエネルギーを感じた。これも イスラエルの記憶。 -
(7)2月27日(火)
①
今朝も雨が少し降ったみたい。路面が濡れていた。モーニングコールが6時頃鳴り、8時前にホテルをバスで出発。
7時頃 ホテルの会議室に人が居るので ガラス越しに覗いたら ユダヤ教の集まりのよう。学生のゼミのように真剣だった。 -
②
エルサレムは朝の通勤ラッシュ帯らしかったが それ程混んでいなくて バスは順調に流れる。
さよなら エルサレムと思って 窓の外を眺めていたら 角から厳めしい大型の警察車両が現れて ギョッとする。この街はどこかで 緊張が溶けていない。
海という巨大な外壁で守られ、水は豊かで、冬寒いけれど 待てば間違いなく春が来て、自然に働きかけて 恵みの恩恵を戴く。そういう環境で育まれてきた我々日本人は 緊張の連続に弱い。必要も無い。(今までは。) -
③
ユダヤの民は この中東の地で 他民族と争奪し、追われ、自らのアイデンティティを更に純化し、文化(科学)を高め、富を蓄積し、るつぼの中東の地に戻って来ている。どうも「やすらぎ」とは無縁のようだ。「やすらぎ」は努力して獲得していくものと捉えているようだ。「善人往生をとぐ、いわんや悪人をや。」とか言ったら まったく 信じてもらえないだろうと思った。
チェックポイント近くに また 無機質な隔離壁と監視塔が見え、見慣れてきたとはいえ 私にはどこかでストレスにはなる。 -
④
快適な 高速道路を走りヨルダンとの国境に近づく。
先日 見たのと同じような「ベトウィン族」の集落も見掛ける。見かけは徹底的に貧しそう。でもこの貧しさを 耐えて 同化せずに継続していく文化も凄いなぁとも思う。これも模倣民族の日本人には出来ないこと。
(古くは 中国、朝鮮の文化を取り入れ、近くは西洋文明を取り入れ、追いつき追い越せのスローガンが普通の日本人) -
⑤
国境近くのエリコの辺りに戻ってくる。道端では羊の群れを追う人を見掛ける。
ここから先は 国境地帯で念のため 写真を撮るのは止める。
イスラエルのガイドさんとは出国のチェックポイントで別れる。日本人らしい真面目さで 多くのことを説明して頂けた。ありがとう。
出国はスムーズ。(イスラエルの出国税55$。結構高い。) -
⑥
ヨルダン側の迎えのバスに乗り 2日前に通ったのと同じヨルダン側のチェックポイントを通り、再入国。ヨルダンの道路に出れば 何か田舎の雰囲気。
ガイドさんも同じ ムハマドさん。
安心して 後は無事に成田に帰るまでの気分。 -
⑦
ヨルダン側に入り 風景はイスラエルとほぼ同じ。少し土地が痩せているかぐらい。
ガイドさんの説明によれば ヨルダンでは石油は採れないそうだ。ちょっと日本に帰り調べたら 20世紀になって国家として独立。国民の半分は中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスチナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫だそうだ。(ウィキペディア) -
⑧
バスは首都アンマンに差し掛かり、ビル群は増えてくる。 -
⑨
アンマンの都心部のレストランでランチを戴く。
レストランの人は親切。何となく ホッとする。
たまたまだが日本人と気質がある面で似ている?
悪い言い方をすると「適当」。
隣国の隣人は 「優秀」な民族や、「偉大」な民族や、「スーパーパワーを有する」民族より 「適当」な民族のほうが 安心する。日本もそうなるべきかと 思った。
時間的余裕を持って 空港にバスで向かう。 -
⑩
アンマンの空港手続きも問題無く通過。
空港内で時間があったので プライオリティパスのラウンジを利用。
食べるものは 果物類しか無かったけれど 美味しく戴いた。
写真は広いラウンジの4階から 3階の免税店売り場を写す。 -
⑫
搭乗口前で 今回の旅は コンパクトだが色々と見れたな と満足して 旅行社のいつものアンケートに記入して 添乗員さんに渡す。
時間になり、定刻17:10 0904便ドバイ行きに搭乗。
帰りも 日本人観光ツアー客が結構多かった。 -
⑬
0904便は定刻22:00にドバイに到着。
ドバイ空港で 関西空港に帰るツアーメンバーや添乗員さんと挨拶して 別れる。
成田行きのメンバーとモノレールで空港内を移動して 0318便成田行きの 搭乗口A23に行く。
出発が2:55と時間があったので プライオリティパスのラウンジを探そうと思ったが 搭乗口近くに長椅子があったので それにひっくり返り目を閉じて横たわる。
写真はその長椅子の辺り。 -
⑭
0318便のシートは三人席の真ん中の席で ちょっと窮屈かなと思ったが 横は日本人男性客で安心して座れ それなりに おしゃべりも楽しく出来た。映画も見て、少し眠れた。
アナウンスで目覚めて モニターを見れば 上海上空に近づいている。
今回の旅で 年齢的に(70歳) ツアーの皆さんに付いていくのが そろそろ限界に来たな と思い知った。 もう ツアー参加は打ち止めにしようかなと 漠然と考えていた。 -
⑮
朝食が出され 美味しく戴いた。そして 食後 隣の方がトイレに立ち、続いて私、最後に窓側の方が 席を立った。窓側の方が帰ってくるのを待つため 私は隣の方と通路で談笑していた。その時 突然背中を壁に押しつけられて 私は咄嗟に「DON'T TOUCH」と叫んだ。私を押しのけ 通り過ぎる老人を見て 東洋人だと分かった。その老人は振り返り「通路に立つな。」と日本語で何か言われた。日本人の老人だった。腹は立ったが それは(将来の)私の姿でもあった。普通のツアーは手軽だけれど 老人には 無理もあり ストレスもある。短気にもなる。大きなトラブルの前に やめようと決心した。それが 今回の旅のありきたりの一つの結論。
無事に着陸し 成田は少し暖かくなっていた。
(長々と老人の話を読んで下さって 有り難うございます。)
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