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浜松を過ぎれば、浜名湖の南側沿いに舞坂宿、新居宿へと向かう。<br /><br />【舞阪宿】<br />「今切の渡し」を控え賑わった宿である。宿並みは東の見付石垣から西の船着場までで、本陣、脇本陣、問屋場等は西町にあった。宿内は浜からの空っ風が強く、火難除である秋葉山の常夜灯が三基もある。<br /><br />【新居宿】<br />新居宿は、東海道舞坂宿と白須賀宿の間に設置された宿場町で、江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町である。浜名湖西岸の今切口に面した海抜約3-5m程の低地に立地し、新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面してる。現在の静岡県湖西市新居町新居である。<br />平安から中世までは、浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。(抜粋webより)

東海道53次、No21 浜松宿(29)から舞坂宿(30)、浜名湖を抜けて新居宿(31)へ

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2017/09/21 - 2017/09/21

513位(同エリア708件中)

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ムッシュ

ムッシュさん

浜松を過ぎれば、浜名湖の南側沿いに舞坂宿、新居宿へと向かう。

【舞阪宿】
「今切の渡し」を控え賑わった宿である。宿並みは東の見付石垣から西の船着場までで、本陣、脇本陣、問屋場等は西町にあった。宿内は浜からの空っ風が強く、火難除である秋葉山の常夜灯が三基もある。

【新居宿】
新居宿は、東海道舞坂宿と白須賀宿の間に設置された宿場町で、江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町である。浜名湖西岸の今切口に面した海抜約3-5m程の低地に立地し、新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面していた。新居宿の北から東は浜名湖に、南は遠州灘(太平洋)に面してる。現在の静岡県湖西市新居町新居である。
平安から中世までは、浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転した。江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていた。(抜粋webより)

旅行の満足度
5.0

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  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 見附宿:天竜川図 広重】<br />手前は小天竜川、遠くは大天竜川。左遠方は高瀬舟、25名位乗れて、急流を渡れた。<br />天竜川を抜けて浜松へ。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五十三次 見附宿:天竜川図 広重】
    手前は小天竜川、遠くは大天竜川。左遠方は高瀬舟、25名位乗れて、急流を渡れた。
    天竜川を抜けて浜松へ。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 浜松宿:冬枯の図 広重】<br />並木の右側遠方に浜松城、浜松の名前の由来になる松林、一本杉で暖を取る駕籠かきたち。<br />実際は、本陣を6軒も有する大きな宿場町でした。浜松を抜ければ、舞阪です。<br /><br />左手奥は三方ヶ原の古戦場。<br />右手奥に浜松城が見える。この絵には城に窓があるが、窓がない版もあるとのこと。木の下で焚き火にあたっている駕篭かき人足と思われる人が冬なのに裸同然の格好をしている。このあたりは無霜地帯といい、冬でも暖かい地方なのでなれている地元の人には寒くないのかもしれない。<br /> 右手真ん中の松林に立て札が立っているが、「颯々松(ざざんざのまつ)」と書かれているのだろう。<br /> 室町時代の将軍足利義教が「浜松の音はざざんざ」と言った事からこの名がついたと云われている。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五十三次 浜松宿:冬枯の図 広重】
    並木の右側遠方に浜松城、浜松の名前の由来になる松林、一本杉で暖を取る駕籠かきたち。
    実際は、本陣を6軒も有する大きな宿場町でした。浜松を抜ければ、舞阪です。

    左手奥は三方ヶ原の古戦場。
    右手奥に浜松城が見える。この絵には城に窓があるが、窓がない版もあるとのこと。木の下で焚き火にあたっている駕篭かき人足と思われる人が冬なのに裸同然の格好をしている。このあたりは無霜地帯といい、冬でも暖かい地方なのでなれている地元の人には寒くないのかもしれない。
     右手真ん中の松林に立て札が立っているが、「颯々松(ざざんざのまつ)」と書かれているのだろう。
     室町時代の将軍足利義教が「浜松の音はざざんざ」と言った事からこの名がついたと云われている。

  • 高札場跡碑

    高札場跡碑

  • 【稲荷神社】<br />*舞阪、坪井町に入って右手。ここの鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816年)11月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。<br />*1440年、伏見稲荷より歓請せしもの。拝殿は1588年の再建。

    【稲荷神社】
    *舞阪、坪井町に入って右手。ここの鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816年)11月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。
    *1440年、伏見稲荷より歓請せしもの。拝殿は1588年の再建。

  • 舞坂宿:東海道松並木<br />長池に入ると松並木が続く。

    舞坂宿:東海道松並木
    長池に入ると松並木が続く。

  • 舞阪の340本、700m続く松並木。お見事!<br />正徳二年(1712)には1420本の松が植えられていた。

    舞阪の340本、700m続く松並木。お見事!
    正徳二年(1712)には1420本の松が植えられていた。

  • 各宿場を表す碑、松並木公園に設置されている。これは大磯宿<br />東海道五拾三次の宿場レリーフと十二支の石造が並ぶ。

    各宿場を表す碑、松並木公園に設置されている。これは大磯宿
    東海道五拾三次の宿場レリーフと十二支の石造が並ぶ。

  • こちらは小田原宿。

    こちらは小田原宿。

  • 【舞阪 今切真景】<br />舞阪宿は江戸日本橋から67里(264.9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は舞阪で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖はかつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞阪は交通の要地となった。(碑文)

    【舞阪 今切真景】
    舞阪宿は江戸日本橋から67里(264.9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は舞阪で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖はかつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞阪は交通の要地となった。(碑文)

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五十三次 舞阪宿:今切真景、広重作】<br />右端遠方に見えるは神々しい真っ白な富士山。左の杭は遠州灘からの防波杭の役割、そして船は浜名湖を渡る。<br /><br />浜名湖を遠淡海(とおつおうみ)といった。明応七年八月二十四日(1498)の大地震で海岸の一部がきれ、海とつながってしまった。この切口を「今切口」と呼ぶ。現在の浜名大橋のところ。<br /><br />かつては舞坂から新居まで砂洲が続いていて湖と海の間を歩いて行けたが、明応7年(1948)の大地震や高潮等で砂洲が決壊して浜名湖と遠州灘がつながり、江戸時代には渡船に頼ることとなった。砂洲が切れた部分を今切(いまぎれ)と云った。<br /><br />『東海道五十三次之内 舞阪』。<br />舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。<br />今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五十三次 舞阪宿:今切真景、広重作】
    右端遠方に見えるは神々しい真っ白な富士山。左の杭は遠州灘からの防波杭の役割、そして船は浜名湖を渡る。

    浜名湖を遠淡海(とおつおうみ)といった。明応七年八月二十四日(1498)の大地震で海岸の一部がきれ、海とつながってしまった。この切口を「今切口」と呼ぶ。現在の浜名大橋のところ。

    かつては舞坂から新居まで砂洲が続いていて湖と海の間を歩いて行けたが、明応7年(1948)の大地震や高潮等で砂洲が決壊して浜名湖と遠州灘がつながり、江戸時代には渡船に頼ることとなった。砂洲が切れた部分を今切(いまぎれ)と云った。

    『東海道五十三次之内 舞阪』。
    舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。
    今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。

  • 「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。<br />浜名湖は、遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の<br />地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」

    「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。
    浜名湖は、遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の
    地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」

  • 【舞坂宿石碑】<br />舞阪宿<br />舞阪は江戸から数えて30番目の宿。東海道の陸路は一度ここで切れて、新居宿まで海上1里半を船で渡ることになる。浜名湖は明応7年(1498年)の大地震、その後の洪水などで、浜名湖と遠州灘が繋がってしまい(今切という)。以後旅人はすべて舞坂から船でここを渡った。舞阪宿は小規模なものだったが、浜名湖今切の東側に位置していたため、交通政策上は重要視された宿場。<br />本陣 2 脇本陣 1 旅籠 28

    【舞坂宿石碑】
    舞阪宿
    舞阪は江戸から数えて30番目の宿。東海道の陸路は一度ここで切れて、新居宿まで海上1里半を船で渡ることになる。浜名湖は明応7年(1498年)の大地震、その後の洪水などで、浜名湖と遠州灘が繋がってしまい(今切という)。以後旅人はすべて舞坂から船でここを渡った。舞阪宿は小規模なものだったが、浜名湖今切の東側に位置していたため、交通政策上は重要視された宿場。
    本陣 2 脇本陣 1 旅籠 28

  • 【浪小僧】<br />松並木が終わった所の休憩所に「浪小僧像」がある。 遠州七不思議の一つ「浪小僧伝説」に登場する小僧で、海が荒れるときや、風が強くなる時は海の中から太鼓を叩いて知らせてくれるのだとか。<br /><br />【浪小僧】<br />むかし、遠州灘の浜では地引網漁が行われていました。 魚がとれない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より )

    【浪小僧】
    松並木が終わった所の休憩所に「浪小僧像」がある。 遠州七不思議の一つ「浪小僧伝説」に登場する小僧で、海が荒れるときや、風が強くなる時は海の中から太鼓を叩いて知らせてくれるのだとか。

    【浪小僧】
    むかし、遠州灘の浜では地引網漁が行われていました。 魚がとれない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より )

  • 【浪小僧】<br />むかし、遠州灘の浜では地引網漁が行われていました。 魚がとれない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より )

    【浪小僧】
    むかし、遠州灘の浜では地引網漁が行われていました。 魚がとれない日が続いたある日真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より )

  • 通りすぎた立派な松並木を、今一度振り返り見返りしています。<br />『東海道松並木』<br />「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を<br />植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。<br />現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。」

    通りすぎた立派な松並木を、今一度振り返り見返りしています。
    『東海道松並木』
    「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を
    植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。
    現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。」

  • 【見付石垣:舞阪宿東口】<br /> 宿の東外れに位置している。宿の見張り台で大名行列が通る際には六尺棒を持った番人が立ち人馬の通行を見張った場所。この石垣は江戸時代中頃に作られたもので、ここから先が舞坂の宿。

    【見付石垣:舞阪宿東口】
     宿の東外れに位置している。宿の見張り台で大名行列が通る際には六尺棒を持った番人が立ち人馬の通行を見張った場所。この石垣は江戸時代中頃に作られたもので、ここから先が舞坂の宿。

  • 舞阪宿東見付けの石垣<br />【史跡・見付石垣】<br />この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などにはここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに治安の維持にあたった所である。(舞阪町教育委員会 )<br />

    舞阪宿東見付けの石垣
    【史跡・見付石垣】
    この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などにはここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに治安の維持にあたった所である。(舞阪町教育委員会 )

  • この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。<br /><br /> 石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張り所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。<br />                     舞阪町教育委員会

    この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。

     石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張り所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。
                         舞阪町教育委員会

  • 【西町秋葉常夜灯】<br />江戸時代の舞坂宿はたびたび火災に見舞われたため、火防せ信仰の秋葉常夜灯を設置したのだとか。宿内の常夜灯はこの新町の他に、中町、西町にも。<br /><br />秋葉常夜灯の奥に「一里塚跡碑」(左)がある。江戸から68番目となる「舞坂一里塚」があった場所で、道路を挟んで反対側には東海道舞阪宿一里塚と刻まれた石碑も。<br /><br />【西町常夜灯】<br />舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことが分かる。舞坂宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山・秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。(浜松市教育委員会)<br />

    【西町秋葉常夜灯】
    江戸時代の舞坂宿はたびたび火災に見舞われたため、火防せ信仰の秋葉常夜灯を設置したのだとか。宿内の常夜灯はこの新町の他に、中町、西町にも。

    秋葉常夜灯の奥に「一里塚跡碑」(左)がある。江戸から68番目となる「舞坂一里塚」があった場所で、道路を挟んで反対側には東海道舞阪宿一里塚と刻まれた石碑も。

    【西町常夜灯】
    舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことが分かる。舞坂宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山・秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。(浜松市教育委員会)

  • 【舞阪一里塚跡地】<br />手前に秋葉常夜灯と奥に江戸日本橋より67里の●舞阪一里塚跡碑がある。<br />常夜灯の正面には秋葉大権現、西面に津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮が彫られている。江戸時代、舞阪宿はよく火災に見舞われ、特に1809(文化6)年には宿の大半を焼く大火で、復興に難儀をしている。それで人々の火防の願いをこめて建立された<br /><br />【新町常夜灯】<br />「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。<br />常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。」

    【舞阪一里塚跡地】
    手前に秋葉常夜灯と奥に江戸日本橋より67里の●舞阪一里塚跡碑がある。
    常夜灯の正面には秋葉大権現、西面に津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮が彫られている。江戸時代、舞阪宿はよく火災に見舞われ、特に1809(文化6)年には宿の大半を焼く大火で、復興に難儀をしている。それで人々の火防の願いをこめて建立された

    【新町常夜灯】
    「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
    常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。」

  • 【舞阪一里塚跡】<br />江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植っていたと解釈してよいだろう。なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。(舞阪町教育委員会)

    【舞阪一里塚跡】
    江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植っていたと解釈してよいだろう。なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。(舞阪町教育委員会)

  • 【舞坂宿の脇本陣「茗荷屋」】<br />「脇本陣茗荷屋」堀江精兵衛跡。、この建物は天保9年(1838)に建設されたものを修復・復元したもの。 見学させてもらえるので、ぜひ見ておきたい。<br /> 「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていた。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。明治時代は町役場に使われたりしたこともある。現在無料公開されている。<br /><br />脇本陣(茗荷屋)<br />舞坂宿は慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から30番目の宿駅で、 弘化2年(1845)の資料では人口1204四人・戸数265戸でした。また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。脇本陣は大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で普段は一般の旅籠屋として使われました。建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保9年戌5月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また旧上段の間の床の間落掛材に「天保9年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1838)の建築であることが判明しました。(舞阪町教育委員会)<br /><br />入口の見事な檜皮葺の唐破風。

    【舞坂宿の脇本陣「茗荷屋」】
    「脇本陣茗荷屋」堀江精兵衛跡。、この建物は天保9年(1838)に建設されたものを修復・復元したもの。 見学させてもらえるので、ぜひ見ておきたい。
    「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていた。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。明治時代は町役場に使われたりしたこともある。現在無料公開されている。

    脇本陣(茗荷屋)
    舞坂宿は慶長6年(1601)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から30番目の宿駅で、 弘化2年(1845)の資料では人口1204四人・戸数265戸でした。また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。脇本陣は大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で普段は一般の旅籠屋として使われました。建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保9年戌5月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また旧上段の間の床の間落掛材に「天保9年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1838)の建築であることが判明しました。(舞阪町教育委員会)

    入口の見事な檜皮葺の唐破風。

  • 舞子宿の脇本陣<br />【東海道舞阪宿脇本陣】<br /> 舞坂宿は、慶長六年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化二年(1845)の資料では人口1204人、戸数265戸でした。<br />  また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。<br />  脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できないと時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。<br /> 建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現講で間口五間・奥行十五間ありました。<br />  現在書院棟が一棟残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。<br />  平成七年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。<br />                      平成九年 舞阪町教育委員会

    舞子宿の脇本陣
    【東海道舞阪宿脇本陣】
     舞坂宿は、慶長六年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化二年(1845)の資料では人口1204人、戸数265戸でした。
      また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
      脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できないと時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
     建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現講で間口五間・奥行十五間ありました。
      現在書院棟が一棟残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
      平成七年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。
                          平成九年 舞阪町教育委員会

  • 西町常夜灯<br />「 舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月 吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜 灯は文化十年に建立されたことがわかる。<br />舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 」

    西町常夜灯
    「 舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月 吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜 灯は文化十年に建立されたことがわかる。
    舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 」

  • 浜名湖で、本雁木(がんげ)と呼ばれた船着場跡がある。<br />舞阪には南、本、北の3ヶ所の雁木が有ったが、その内、復元されたのが「北雁木」。 「北」は大名用で、「本」は武家用、荷物と庶民は南雁木だった。荷物と一緒。<br />【雁木】<br />渡船場を雁木と言った。身分に応じて、北、本、南とあった。<br />【史跡 北雁木】<br />ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物を積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。(浜松市教育委員会 )<br /><br />道路を渡った左側にあった<br />『舞阪宿の渡船場、本雁木跡(ほんがんげあと)』。<br />「江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。」<br />

    浜名湖で、本雁木(がんげ)と呼ばれた船着場跡がある。
    舞阪には南、本、北の3ヶ所の雁木が有ったが、その内、復元されたのが「北雁木」。 「北」は大名用で、「本」は武家用、荷物と庶民は南雁木だった。荷物と一緒。
    【雁木】
    渡船場を雁木と言った。身分に応じて、北、本、南とあった。
    【史跡 北雁木】
    ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物を積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。(浜松市教育委員会 )

    道路を渡った左側にあった
    『舞阪宿の渡船場、本雁木跡(ほんがんげあと)』。
    「江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。」

  • 『史跡 北雁木(きたがんげ)』の先は石畳の坂になっており浜名湖の湖面に通じていた。かつての石垣・石畳の一部も残っており、往時を偲ぶことができたのであった。

    『史跡 北雁木(きたがんげ)』の先は石畳の坂になっており浜名湖の湖面に通じていた。かつての石垣・石畳の一部も残っており、往時を偲ぶことができたのであった。

  • 浜名湖の雁木

    浜名湖の雁木

  • 浜名湖切り口に構築された浜名大橋。この橋の南側は太平洋の海です。

    浜名湖切り口に構築された浜名大橋。この橋の南側は太平洋の海です。

  • 『弁天島と天女』。<br />「昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう)「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。<br />それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。<br />御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されています。」

    『弁天島と天女』。
    「昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう)「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。
    それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。
    御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されています。」

  • ランチを食したウナギ料理店”いりき”さん。<br />当日は貸切状態で、ゆったり美味しくたべました。さすが浜松のうなぎ。大将は、入院上がりの体調ながら、頑張ってお店を開けて下さいました。

    ランチを食したウナギ料理店”いりき”さん。
    当日は貸切状態で、ゆったり美味しくたべました。さすが浜松のうなぎ。大将は、入院上がりの体調ながら、頑張ってお店を開けて下さいました。

  • 浜名湖につながる浜名川には多数の舟堪り

    浜名湖につながる浜名川には多数の舟堪り

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五拾三次之内 【荒井】 渡舟ノ図 広重画】<br />現在の新居町です。浜名湖は海路舟で渡っていた。<br />浜名湖の北側陸路を、姫街道。新居町の関所や舟を避けたい女性が多く利用。<br />琵琶湖を近淡水(ちかつおうみ、近江)と云うのに対して、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ、遠江)と云いました。<br /><br />左側が遠州灘、正面が「荒井関」である。<br /> 2艘共大名の一行で、笹りんどうの紋が付いている船には大名が、手前の船には伴の者が乗っており、かなりくつろいでいる。<br /><br />広重は舞坂宿から新居宿への今切の渡しの舟と右手上方に新居関所を描いています。<br />舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には<br />箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。<br />ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。<br /><br />地名は遠州灘からの波浪が荒いことに由来し、荒江、荒井、荒堰とも書かれた。<br />新居宿は新居関所、今切渡船場、今切湊を控えた特異な宿場として発展したが、度々地震や津波の被害を受けて移転を繰り返し、現在地に落ち着いたのは宝永5年(1708年)のことでした。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、新居宿の宿内家数は797軒、うち本陣3、旅籠26軒で、宿内人口は3,474人でした。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五拾三次之内 【荒井】 渡舟ノ図 広重画】
    現在の新居町です。浜名湖は海路舟で渡っていた。
    浜名湖の北側陸路を、姫街道。新居町の関所や舟を避けたい女性が多く利用。
    琵琶湖を近淡水(ちかつおうみ、近江)と云うのに対して、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ、遠江)と云いました。

    左側が遠州灘、正面が「荒井関」である。
     2艘共大名の一行で、笹りんどうの紋が付いている船には大名が、手前の船には伴の者が乗っており、かなりくつろいでいる。

    広重は舞坂宿から新居宿への今切の渡しの舟と右手上方に新居関所を描いています。
    舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には
    箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。
    ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。

    地名は遠州灘からの波浪が荒いことに由来し、荒江、荒井、荒堰とも書かれた。
    新居宿は新居関所、今切渡船場、今切湊を控えた特異な宿場として発展したが、度々地震や津波の被害を受けて移転を繰り返し、現在地に落ち着いたのは宝永5年(1708年)のことでした。

    天保14年(1843年)の頃、新居宿の宿内家数は797軒、うち本陣3、旅籠26軒で、宿内人口は3,474人でした。

  • 新居の関所全景。フォトはここのパンフレットを利用。<br />手前が舟着場。陸に上がると、関所役人の前、お白須です。<br />浜名川を浜名橋で渡った先の右手に新居関所跡があります、安政2年(1855年)築の面番所が現存しています。<br />渡船場は関所の柵内にあり、入鉄砲に出女を厳しくとりしまった。

    新居の関所全景。フォトはここのパンフレットを利用。
    手前が舟着場。陸に上がると、関所役人の前、お白須です。
    浜名川を浜名橋で渡った先の右手に新居関所跡があります、安政2年(1855年)築の面番所が現存しています。
    渡船場は関所の柵内にあり、入鉄砲に出女を厳しくとりしまった。

  • 新居関所(国特別史跡)=面番所の上番所(二十畳)。<br />日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されている。<br /><br />【関所役人】<br />  新居関所創設(1600)より元禄十五年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務に当たっていましたが、元禄十五年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。<br />  吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計四十人前後が交代制で任務にあたっていました。<br />  旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした。<br /><br />『関所面番所(おもてばんしょ)』。<br />「この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、<br />面番所といいます。嘉永7年(1854)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855)に建て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間、奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)、中の部屋を上番所(二十畳)、左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。明治2年の関所廃止令後、明治6年から大正5年まで小学校として、その後、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用されました。<br />全国で唯一現存する関所建物として昭和30年に国の特別史跡に指定されました。」

    新居関所(国特別史跡)=面番所の上番所(二十畳)。
    日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されている。

    【関所役人】
      新居関所創設(1600)より元禄十五年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務に当たっていましたが、元禄十五年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。
      吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計四十人前後が交代制で任務にあたっていました。
      旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした。

    『関所面番所(おもてばんしょ)』。
    「この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、
    面番所といいます。嘉永7年(1854)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855)に建て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間、奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)、中の部屋を上番所(二十畳)、左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。明治2年の関所廃止令後、明治6年から大正5年まで小学校として、その後、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用されました。
    全国で唯一現存する関所建物として昭和30年に国の特別史跡に指定されました。」

  • 新居関所(国特別史跡)

    新居関所(国特別史跡)

  • 【新居関所(国特別史跡)】<br />新居関所は江戸時代には今切関所といわれ、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖の今切口に近い位置にありましたが、元禄12年(1699)・宝永4年(1707)と度重なる災害により、わずか7年の間に2度移転を繰り返しました。関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞阪を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。関所は慶長5年から江戸幕府が管理していましたが、元禄15年(1702)以降は三河国吉田藩に移管されました。明治2年(1869)正月の行政官布告で全国の関所は廃止されることになりました。約270年間江戸の防衛を目的とした関所はその役割を終え、以後小学校や役場として使われました。現存している関所建物は安政2年(1855)から5年にかけて建て替えられたものです。昭和30年(1955)国の特別史跡に指定され、同46年に解体修理を行い今では全国で唯一現存する関所建物として大切に保存し、公開されています。(パンフ)

    【新居関所(国特別史跡)】
    新居関所は江戸時代には今切関所といわれ、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖の今切口に近い位置にありましたが、元禄12年(1699)・宝永4年(1707)と度重なる災害により、わずか7年の間に2度移転を繰り返しました。関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞阪を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。関所は慶長5年から江戸幕府が管理していましたが、元禄15年(1702)以降は三河国吉田藩に移管されました。明治2年(1869)正月の行政官布告で全国の関所は廃止されることになりました。約270年間江戸の防衛を目的とした関所はその役割を終え、以後小学校や役場として使われました。現存している関所建物は安政2年(1855)から5年にかけて建て替えられたものです。昭和30年(1955)国の特別史跡に指定され、同46年に解体修理を行い今では全国で唯一現存する関所建物として大切に保存し、公開されています。(パンフ)

  • 【新居関所(国特別史跡)】<br />江戸幕府は、江戸を守るため全国に53ケ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」について厳しく取り締まった。特に新居関所は100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれた。<br />現在の関所は嘉永7年(1854年)の地震・津波で倒壊したため、安政2年(1855)に建てられたもの。明治以降学校、役場として使われ、日本で唯一現存する関所。<br /><br />【関所面番所】<br />  この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永七年(1854)の地震により倒壊したため、翌安政二年(1855)に立て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間・奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)・中の部屋を上番所(二十畳)・左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。<br /> 明治二年の関所廃止令後、明治六年から大正五年まで小学校として、その後、昭和二十六年まで新居町役場庁舎として使用されました。<br /> 全国で唯一現存する関所建物として昭和三十年に国の特別史跡に指定された。

    【新居関所(国特別史跡)】
    江戸幕府は、江戸を守るため全国に53ケ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」について厳しく取り締まった。特に新居関所は100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれた。
    現在の関所は嘉永7年(1854年)の地震・津波で倒壊したため、安政2年(1855)に建てられたもの。明治以降学校、役場として使われ、日本で唯一現存する関所。

    【関所面番所】
      この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永七年(1854)の地震により倒壊したため、翌安政二年(1855)に立て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間・奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)・中の部屋を上番所(二十畳)・左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。
     明治二年の関所廃止令後、明治六年から大正五年まで小学校として、その後、昭和二十六年まで新居町役場庁舎として使用されました。
     全国で唯一現存する関所建物として昭和三十年に国の特別史跡に指定された。

  • 「新居の関所」<br />次の観光掲示板フォトと同じ

    「新居の関所」
    次の観光掲示板フォトと同じ

  • 京側からの新居関所(国特別史跡)入口門<br />この御門(ごもん)は、平成27年に復元されました。<br />黒い冠木門脇に太祇の句碑「木戸閉まる 音や荒井の 夕千鳥」がある。

    京側からの新居関所(国特別史跡)入口門
    この御門(ごもん)は、平成27年に復元されました。
    黒い冠木門脇に太祇の句碑「木戸閉まる 音や荒井の 夕千鳥」がある。

  • 新居関所前に立つ高札場

    新居関所前に立つ高札場

  • 【旅籠紀伊国屋資料館】  紀州藩の御用宿<br />新居宿では最大規模を誇った老舗旅館。紀州藩の御用宿であり、浪花講など各種の講の定宿であった。旅館廃業後は紀伊国屋資料館として保存、公開されている<br /><br />旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。昭和二十四年まで旅館業を営んでいたという。 関所と共に資料館として公開されている<br /><br />【新居宿旅籠紀伊国屋資料館】<br /> 新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。<br /> 旅籠屋として創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。<br /> その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。<br /> 紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道400年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。(後略)<br />                            新居町教育委員会<br /><br />江戸時代、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁から紀州屋と名乗った。<br />宿内最大の旅籠屋の一つで、平成13年に再生整備を行い旅籠資料館として開館した。

    【旅籠紀伊国屋資料館】  紀州藩の御用宿
    新居宿では最大規模を誇った老舗旅館。紀州藩の御用宿であり、浪花講など各種の講の定宿であった。旅館廃業後は紀伊国屋資料館として保存、公開されている

    旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。昭和二十四年まで旅館業を営んでいたという。 関所と共に資料館として公開されている

    【新居宿旅籠紀伊国屋資料館】
     新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。
     旅籠屋として創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。
     その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。
     紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道400年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。(後略)
                                新居町教育委員会

    江戸時代、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁から紀州屋と名乗った。
    宿内最大の旅籠屋の一つで、平成13年に再生整備を行い旅籠資料館として開館した。

  • 新居の一里塚跡<br />日本橋より69番目。

    新居の一里塚跡
    日本橋より69番目。

  • 江戸より259km、京都より225km。

    江戸より259km、京都より225km。

  • 【小松楼】<br /> 大正から昭和20年代後半まで芸者置屋と小料理屋を兼ねた『小松楼(こまつろう)』が当時の面影を残す。多い時で60人~80人の芸者がいた。<br />2階は座敷となっており、独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を持つ

    【小松楼】
    大正から昭和20年代後半まで芸者置屋と小料理屋を兼ねた『小松楼(こまつろう)』が当時の面影を残す。多い時で60人~80人の芸者がいた。
    2階は座敷となっており、独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を持つ

  • 【新居宿本陣跡碑】<br />宿並は泉町交差点のT字路に突き当たります、ここを左折します<br />新居宿には、疋田弥五助本陣跡(加賀・対馬藩定宿)、飯田武兵衛本陣跡、疋田八郎兵衛本陣跡(193坪、庄屋・年寄役を勤めた)と3軒の本陣があり。現在、武兵衛本陣のみ残る。<br />*飯田本陣は天保年間の記録によると建坪1196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。 明治元年(1858)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌2年の再幸、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治18年(1885)奥山方広寺に移築された。(湖西市教育委員会)

    【新居宿本陣跡碑】
    宿並は泉町交差点のT字路に突き当たります、ここを左折します
    新居宿には、疋田弥五助本陣跡(加賀・対馬藩定宿)、飯田武兵衛本陣跡、疋田八郎兵衛本陣跡(193坪、庄屋・年寄役を勤めた)と3軒の本陣があり。現在、武兵衛本陣のみ残る。
    *飯田本陣は天保年間の記録によると建坪1196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。 明治元年(1858)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌2年の再幸、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治18年(1885)奥山方広寺に移築された。(湖西市教育委員会)

  • 新居宿本陣跡碑<br />『疋田八郎兵衛本陣跡』<br />「新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。」

    新居宿本陣跡碑
    『疋田八郎兵衛本陣跡』
    「新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。」

  • 【疋田八郎兵衛本陣跡】<br />飯田本陣の南隣りにあった。建坪百九十三坪で、八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。庄屋、年寄役なども務めた。現在も子孫が居住しているようだ。右手に疋田弥五助本陣跡もあるが医院になっている。

    【疋田八郎兵衛本陣跡】
    飯田本陣の南隣りにあった。建坪百九十三坪で、八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。庄屋、年寄役なども務めた。現在も子孫が居住しているようだ。右手に疋田弥五助本陣跡もあるが医院になっている。

  • 【池田神社】<br />*天正十二年(1584)小牧長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まり。<br />*家康の家臣永井直勝は天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで池田恒興を討取り、ここに首塚を築きました、享保20年(1735年)池田神社となりました。<br /><br /><br />長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まりとか。

    【池田神社】
    *天正十二年(1584)小牧長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まり。
    *家康の家臣永井直勝は天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで池田恒興を討取り、ここに首塚を築きました、享保20年(1735年)池田神社となりました。


    長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まりとか。

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