2017/09/04 - 2017/09/09
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Pontakaiさん
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旅行期間:2017年9月4~9日
往復使用航空会社:海南航空 往路HU7928便、復路HU7927便
実質の訪問期間:9月5日~8日。 滞在ホテル:隴海(ロンハイ)ホテル5泊
訪問地:旧張学良公館、楊虎城止園別墅、(高桂滋公館)、西京招待所、(楊虎城指揮本部)、華清池内五間庁、兵諫亭、蒋介石隠れ穴、革命公園-楊虎城像-、楊虎城陵、?廟橋学生デモ説得所 ( )内は行ってみたが存在を確かめられなかった処および中に入れなかった所
あとは西安市内をぶらぶら歩き(移動時には主に地下鉄、公共バスを利用)
費用:航空券 税込み27,649円
ホテル代5泊1,040元(約17,500円)
市内移動地下鉄、バス代 区間料金制 計100元くらい(約1700円分)
空港⇔市内 バス代 50元
華清池入場券 150元 など
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- 海南航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2回目の訪問となる西安の旅。前回準備不足のため見逃していた現代史の一大転換点となった「西安事変」の諸舞台を訪れることを主目的にしてみました。
ということでちょっとフォーカスの偏った旅行記です。道中や街歩きの中で見たことについては別の旅行記にしてUPしたいと思います。
さて、9月4日は夜到着でしたので、ホテルでは寝るだけ、外出しませんでした。お天気はあいにく4,5日と終日雨でした。
9月5日はまず建国路69号にある「西安事変記念館」を訪れてみました。滞在ホテルから歩いて15分くらいのところにありました。 -
入口では、パスポートを提示するよう求められました。提示すると無料の入場券が配られます。
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記念館(紀念館)のプレートです。
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敷地内には建国路から見て左側に歴史的な経緯を説明する長屋建物そして中庭の庭園を挟んで右側に事変発生前後に関係者たちが起居した建物が3棟、即ち東A,中B,西C棟があります。
左の写真は「西安事変」の歴史的な経緯をパネルや展示物で解説してある棟の一番最初の壁画です。
左側が楊虎城、右側が張学良です。 -
西安事変の背景となった事変は918事変、いわゆる満州事変です。張学良の出身地東北地区で日本軍の陰謀によって惹き起こされた柳条湖の鉄道爆破事件を引き金とした日本の大陸進出状況からの説明が始まります。
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918事変(満州事変)に関わる国際調査団の動きなどが示されています。
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中国共産党は徹底して抗日戦争に向かいます。
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国民党蒋介石の部下であった張学良は日本の侵略行動に抵抗を試みたく思いますが、蒋介石からの不抵抗を指示され日本の東北部への侵攻に自軍を動かせませんでした。
他方、蒋介石には中国共産党せん滅を命じられ、剿匪司令官に任じられますが、対共産党との内戦では自分の2部隊を逆に敗北させられます。 -
東北軍司令官張学良は蒋介石のまず共産党をせん滅してから抗日に向かえばよいという方針(安内攘外)に疑問を持ちます。
また西北軍司令官楊虎城も同様に考えています。
写真左が楊虎城、右が張学良です。 -
歴史的な経緯の説明パネルや写真の展示と同時に二人の使用した軍服やメガネなどが展示されています。写真は楊虎城の眼鏡です。
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西北部では抗日の機運がどんどん盛り上がって行きます。
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1936年4月9日国民党対共産党の内戦の停止を図る会談をするために張学良は共産党本部のある延安へと向かいました。
共産党側は周恩来が出迎えます。ふたりはその昔顔を合わせたことがあったのです。
左の絵はその時の様子を絵にしたものです。
会談では連蒋抗日を主張する張学良、反蒋抗日を主張する共産党(周恩来)が周恩来の柔軟な対応で逼蒋抗日策を採ることにしました。つまり、蒋介石を敵に回すのではなく、説得して迫る方針で抗日に向かうという大方針の決定です。この時から張学良は蒋介石の説得に腐心することになります。 -
蒋介石を「安内攘外」(=まず共産党をせん滅して国内を安定させてから外敵日本への抵抗運動をする)から彼の部下である張学良の主張する「攘外安内」(=まず抗日それから国内の安定を諮る)へと説得することがなんどか試みられますが、蒋介石は頑として張学良らの提言を受け付けません。
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対共産党せん滅作戦がうまく行かないことに業を煮やした蒋介石が西安に様子を伺いに1936年12月4日にやってきます。
その間にも抗日運動の声はどんどん高まって行きます。 -
12月6日から12日の蒋介石監禁「事変」当日の様子は古い写真パネルで日付順に並んで展示されています。
12月7日は蒋介石の宿泊地である西安郊外にある華清池へ張学良が出向いて来て内戦停止と抗日の必要性を訴えます。しかし、蒋介石は説得を全く受け入れません。 -
12月9日には前年の北京での抗日デモからの1周年を記念した学生による抗日デモが西安でも繰り広げられました。
この時、過激な行動に走りがちな学生たちに対して張学良は自ら自制を求めた演説をします。学生たちは説得に応じ、流血の混乱は避けられました。 -
灞橋にある張学良が学生デモ隊に自制を呼びかけた記念碑です。市の中心部、鐘楼からは公共バス203路終点駅下車で行けます。碑はバス停からいったん約100mくらい戻る形で公園の入り口に立っています。
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学生たちの説得に出向いたときに張学良が乗った装甲車です。これは驪山中腹の兵諫亭への途中に展示されています。
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写真は監禁説得実行日前日の11日の華清池五間庁などの写真です。その建物の5つの部屋に蒋介石や護衛兵たちは泊まり込んでいました。
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現在の華清宮内五間庁のほぼ全体像です。
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蒋介石の使用した風呂部屋です。
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中はというと立派な石のお風呂です。楊貴妃の風呂の形のようです。
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会議室として使用された部屋
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蒋介石の執務室
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蒋介石の寝室、12日早朝急襲された時、この窓から裏庭へ出て塀を越えて脱出しました。
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張学良側の12日早朝6時頃急襲した時の銃撃戦の跡。ガラスが割れたままになって保存されています。こうした残滓は何か所かにあります。
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同じく弾丸の痕
この急襲劇により蒋介石の護衛兵たちは射殺されています。またこの時楊虎城率いる軍は国民党要人たちの滞在先である市中心街にある「西京招待所」(Guest House)を襲撃し、監禁行動をとっています。
この時の護衛兵たちも射殺されています。敵味方は問わずとして任務に忠実な立派な殉職者たちです。彼らの死後は果たしてどう処遇されたのか? -
この華清池五間庁には「西安事変」の概説パネルがあります。「記念館」の写真よりもはっきりしているものもあったので現在と比較してみます。
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蒋介石らが早朝6時に急襲された時に彼は部屋の裏窓から抜け出て塀を乗り越えてその場から着のみ着のまま、素足のまま脱出したということです。その当時の写真です。塀の高さは3mくらいあります。
蒋介石は50歳を超えていましたが、この塀をよじ登って逃げたのですからさすがに軍人として鍛えられていた体力の持ち主であったと言えます。塀の向こうへ飛び降りた時腰を打ったようですが、更に驪山中腹まで逃げて行きます。 -
現在こんな風になっています。建物も塀も再建築されているようです。
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当時の驪山への道です。現在とは違いほとんど禿山状態です。
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現在の驪山は全山緑濃く鬱蒼とした木々に覆われています。山の斜度もかなり急峻です。
左の写真は「西安事変」推移を壁画状にして表しています。山の中腹のこのあたりまで登るにも相当体力がないと無理です。蒋介石は真冬のこの時道なき道を素足で逃げた訳です。 -
この壁画は50mくらいの長さで事変の推移を辿る形で彫られています。写真は張学良、楊虎城両雄です。現在の中国における彼らへの評価である「千古功臣」、「民族英雄」の語が彫られています。
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「記念館」内のパネルです。当時の驪山(上段右)や蒋介石が隠れていた岩穴(上段左)、後に建てられた兵諫亭(下段最左)が写っています。
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兵諫亭(兵を使って実力行使により諫める形で説得したことを記念した建物)
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現在の兵諫亭です。建物はリニューアルされたり、名称も何度か変更されていますが今は「兵諫亭」で落ち着いています。
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蒋介石が隠れていたという岩穴です。ただ、本当にここに隠れていて発見されたのかと言うとちょっと疑問です。
それに今は鎖が付けられていますが、鎖もなく果たして登れるのか? -
鎖を伝って身を潜めていたという地点まで登ってみました。結構大きな岩で足掛かりもない状態で鎖なしで果たして登れたのか?事実ここに身を潜めていたとしたら蒋介石は相当の体力の持ち主です。
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こうして蒋介石は拉致・監禁されましたが、張学良は絶対に蒋介石を殺してはいけないと部下には厳命していたので、蒋介石は西安市内に身の安全を確保されて連行され戻りました。
その時の写真です。これは華清池に貼ってあったパネルです。 -
このジープは張学良軍が五間庁を急襲するとき門を突破するのにつかわれ、また監禁された蒋介石を西安に送る時に護衛用に使用されたものだそうです。
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蒋介石を監禁状態にしている間に張学良と楊虎城は全土に向けて八項目要求を主張した電文を全土に発信しました。
その主な内容は各党各派の参加による救国体制を敷くこと、内戦の停止、政治犯の釈放などを骨子とした8項目です。
こうした要求に中国政財界の人々および共産党幹部が集まり平和的に事の解決を図るように努めることになります。
この事後を巡る収拾策は現代史の一大ドラマであり、そこに関係した人々の人間力をさまざまに見ることが出来ます。
三人の主役のほかに周恩来、孔祥熙、宋美齢、宋子文それにオーストラリア人ドナルドなどがその主な人々です。 -
監禁「事変」後の事後対策を協議するために集まった人々の写真です。
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事後に平和的な解決に大きな役割を果たした周恩来の写真です。こうして蒋介石の率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党との合作が成立して行きます。
中国は一つに結束して抗日戦へと向かいます。 -
西京招待所で拘束された国民党側の要人たちも解放された時の写真です。
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中国全土が一致団結して抗日運動に向かうパネルです。
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記念館敷地内にあるA棟(東館)です。この建物には張学良の生涯を辿れるように展示がされています。
特に「事変」後の張学良の様子が分かるように展示されています。中国本土での評価は「千古の功臣」「救国の英雄」とされています。 -
東北軍閥の長、張作霖の息子として誕生したこと、家族構成、幼少少年青年期の姿などが写真パネルで展示されています。
パネルではさらに軍人生活や東北地区の建設時期、西安事変の兵諫などを歴史順に展示しています。 -
西安事変は法律的には部下の張学良が上司である蒋介石を脅迫したということで、軍法会議では36年12月末10年の懲役刑が科せられました。
しかし、1937年1月の特赦により無罪となりました。 -
彼はその後は蒋介石の特務機関員に24時間監視される生活を50年以上に亘って送るよう余儀なくされます。
左の写真は大陸各地を転々と移動させられた軟禁場所の変遷図です。最後の軟禁の地は台湾の台北でした。 -
ただ厳重監視下にあると言っても生活は結構自由でテニスをしたり、許可制であっても知人の訪問や外出も自由だったようです。
張学良の世間への影響力の非常に強いことを恐れた蒋介石の採った軟禁生活は蒋介石が死ぬまで続くことになります。 -
敷地中央に位置するB棟には「事変」前後に諸処の打ち合わせや業務を執行した部屋や起居した部屋などがありました。
そこには張学良や楊虎城の執務室や寝室のほかに共産党を代表して事後協議に参加した周恩来の滞在した部屋などもありました。
左の写真は会議室 -
張学良執務室内の執務机と蓄音機、書籍棚、など
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張学良の寝室
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中国的趣向の濃い壺など
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楊虎城についての経歴のパネルが続く
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楊虎城の帽子や書簡など こうした展示物が続く
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「事変」の際に楊虎城の西北軍が司令部として使用した新城大楼(現在、陝西省人民政府があるが、この建物はない)の写真パネルです。
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現在の陝西省人民政府の一部外観 (新城大楼のあった場所までは入れなかった)
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「事変」後、楊虎城は西北軍の司令官を辞職し家族と一緒にヨーロッパ外遊旅行に出かけます。
真ん中の写真はその時の私服姿の楊虎城と夫人、息子です。 -
しかし、祖国での抗日戦線の状況が一層厳しくなっていることに楊虎城は胸を痛め、急遽ヨーロッパ旅行から帰国しましたが、帰国直後に蒋介石の特務機関によって逮捕監禁されることになります。
そして張学良と同様中国各地に監禁され各地を転々と移動させられます。そして日本の敗北後の国民党VS共産党内戦下、蒋介石が台湾に逃れる直前に彼の特務機関員の手で夫人、子供ともども重慶で惨殺されました。
「事変」の際に張学良と違って蒋介石に対してより厳しい処分を主張したこと、長男の楊拯民が共産党に所属したことが理由のようです。
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張学良公館敷地「紀念館」内の楊孤城の執務及び応接室
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楊虎城の寝室
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張学良公館と並んで「事変」後の蒋介石が拘置された新城大楼から移送され、起居地となった高桂滋公館を探してみましたが、その場所は特定できませんでした。
古い白壁の向こうに再建工事中の建物がありましたが、所在地からするとそこがかつての高桂滋公館であったのではと思います。が、確定はできません。写真では大変趣のある造りの建物(もともとは私邸)だったようです。
高桂滋公館では蒋介石が妻の宋美齢と再会したり、共産党代表の一人周恩来と事後の対処策を会談したりした場所として非常に重要なことが論じられ決められた場所です。 -
「西安事変記念館」の次に向かったのは西五路通り沿いにある革命公園にある楊虎城将軍像です。
この公園は、「事変」敢行直後、張学良が西北各界救国連合会主催の10万人デモ隊に向かって「事変」の意味を演説した場所でもあります。 -
次に向かったのは、楊虎城止園別墅と称されている楊虎城の住居だった場所です。
場所は城内蓮湖区青年路117号となっています。蓮湖路の裏側の道沿いにあります。
現在道路工事が行われており、入口はちょっと分かりにくいのですが迷うことはありません。 -
楊虎城建物全景 門壁の奥に建物がある
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建物正面です。
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執務兼応接室
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庭園がなかなか立派
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さらに楊虎城将軍陵(お墓)へ行ってみました。地下鉄2号線南下、弟曲南駅から15分くらい歩きます。
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既述の通り楊虎城はヨーロッパからの帰国後蒋介石の特務機関により逮捕され監禁されます。その挙句家族ともども惨殺という悲劇となりました。
この陵園には夫婦子供の3人の墓地が陵の形であります。一番大きな陵が楊虎城のもの。 -
夫人と子供の陵
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街の中心街解放路にある西京招待所も「事変」にとっては重要な場所です。ここには蒋介石が共産党せん滅戦が想うように進まないことに苛立ち西安へ乗り込んできたときに一緒に来た国民党の要人たちが滞在したそして拘束された場所です。
現在でもつかわれている建物です。
というように今回の西安旅行はほとんど「西安事変」にちなむ場所を巡ることに費やしてみました。
重要な会談の行われた高桂滋邸が見られなかったことと人民政府敷地内にあるとされる楊虎城司令部のあった新城大楼を当時の姿のまま直接見ることが出来なかったのは残念でした。歴史的な建物は修復や維持で経済的な負担が大きいものですが、歴史の重要な舞台としてはそのままの姿で残っていて欲しいなという思いがあります。
以上長々と西安市内の「西安事変」の舞台にフォーカスを絞った旅行記を記してみました。
張学良の生誕地や育った東北地区、あるいは軟禁生活を余儀なくされた移動先の各地などへと眼を広げれば中国本土、台湾、ハワイとまだまだ見るべきところは広がりそうです。果たしてどれくらい行けるかな?
ちょっと偏ったところにフォーカスを当てたレポートにここまでお付き合いくださりありがとうございました。
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