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11月6日、午後1時半過ぎに自宅より約5キロ離れた三芳町上富付近のいも街道に行った。 その序に付近にある「旧島田家」を訪問した。<br /><br /><br /><br />〇旧島田家住宅・・・説明文による<br /><br />三富地区に残された最古の民家で、開拓の成功を今に伝えてくれる。【三芳町指定有形文化財】<br />この民家は寺子屋としても使用された建物の移築である。表道(六間道)を南に1km程下った下組に、島田伴完(ばんかん・伴左衛門)が寺子屋を天保元年(1830)に開設している。明治期の近代小学校が始まるまで、近郷40ヶ村から延べ300人ほどの師弟を集め、多くの門人を世に送り出した人物である。この寺子屋は「読み・書き」だけでなく「質素倹約」を初めとした教訓や村の共同生活の絆という重要な役割を果たしたことを後世に伝えるため、建物が保存されたものである。<br /><br /><br />*写真は旧島田家住宅

旧島田家住宅を訪問する

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2016/11/06 - 2016/11/06

14491位(同エリア18936件中)

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tsuneta

tsunetaさん

11月6日、午後1時半過ぎに自宅より約5キロ離れた三芳町上富付近のいも街道に行った。 その序に付近にある「旧島田家」を訪問した。



〇旧島田家住宅・・・説明文による

三富地区に残された最古の民家で、開拓の成功を今に伝えてくれる。【三芳町指定有形文化財】
この民家は寺子屋としても使用された建物の移築である。表道(六間道)を南に1km程下った下組に、島田伴完(ばんかん・伴左衛門)が寺子屋を天保元年(1830)に開設している。明治期の近代小学校が始まるまで、近郷40ヶ村から延べ300人ほどの師弟を集め、多くの門人を世に送り出した人物である。この寺子屋は「読み・書き」だけでなく「質素倹約」を初めとした教訓や村の共同生活の絆という重要な役割を果たしたことを後世に伝えるため、建物が保存されたものである。


*写真は旧島田家住宅

旅行の満足度
4.5
  • 旧島田家住宅の全貌

    旧島田家住宅の全貌

  • 三富開拓地割遺跡の碑<br /><br />開拓300年記念の碑である。

    三富開拓地割遺跡の碑

    開拓300年記念の碑である。

  • 「富」の由来の説明

    「富」の由来の説明

  • 旧島田家住宅の室内・・説明文による <br /><br /><br />間取りは広い板敷きの座敷・出居がある喰違型四間取という古い間取り様式である。天井は竹の簀の子天井で、屋根裏と一体となり、暖気・煙は茅葺屋根を養生することになる。この地域は養蚕はしていないので屋根の形は入母屋造りではないが、煙出しもない。ちょっと変わった発見は囲炉裏の切り方である。座敷にコの字型に切り込ませて、土間と座敷の二つの囲炉裏を兼用した形にしている。水が豊富であれば当然縁側に簀の子床の行水場が設えられるところだろうが、もちろん湯殿はない。 建築年代は文化・文政期(1804-29)といわれている。

    旧島田家住宅の室内・・説明文による


    間取りは広い板敷きの座敷・出居がある喰違型四間取という古い間取り様式である。天井は竹の簀の子天井で、屋根裏と一体となり、暖気・煙は茅葺屋根を養生することになる。この地域は養蚕はしていないので屋根の形は入母屋造りではないが、煙出しもない。ちょっと変わった発見は囲炉裏の切り方である。座敷にコの字型に切り込ませて、土間と座敷の二つの囲炉裏を兼用した形にしている。水が豊富であれば当然縁側に簀の子床の行水場が設えられるところだろうが、もちろん湯殿はない。 建築年代は文化・文政期(1804-29)といわれている。

  • 三芳町指定文化財 「旧島田家住宅」の説明

    三芳町指定文化財 「旧島田家住宅」の説明

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 旧島田家住宅の室内

    旧島田家住宅の室内

  • 外壁の風景

    外壁の風景

  • 縁側の風景

    縁側の風景

  • 三富新田と水

    三富新田と水

  • 六間道に面した共同井戸 背後の茅葺屋根は旧島田家住宅・・説明文による<br /><br />この一帯は水の乏しい地域である。玉川上水から引き込まれた野火止用水には遠く、一番近い柳瀬川でも南方4キロはある。そして井戸を掘れば70尺(21m)~90尺(27m)という深い水位なので大変水に恵まれないところなのである。<br /><br /> 川越藩は開拓農民に資金を与えて掘らせたが思ったようには水は出ず、水の湧く井戸は上富村に4ヵ所、中富村に4ヵ所、下富村に3ヵ所、合計11ヵ所の井戸しかなかったそうである。それも日照りが続くと井戸も枯れ、遠くまで水を汲みに行かなければならなかった。<br /> こうしたことから風呂を使うことは簡単なことでなく、柔らかい茅などで体を拭き取っていた。「カヤ湯」とう言葉が伝えられているほどである。<br /> 

    六間道に面した共同井戸 背後の茅葺屋根は旧島田家住宅・・説明文による

    この一帯は水の乏しい地域である。玉川上水から引き込まれた野火止用水には遠く、一番近い柳瀬川でも南方4キロはある。そして井戸を掘れば70尺(21m)~90尺(27m)という深い水位なので大変水に恵まれないところなのである。

     川越藩は開拓農民に資金を与えて掘らせたが思ったようには水は出ず、水の湧く井戸は上富村に4ヵ所、中富村に4ヵ所、下富村に3ヵ所、合計11ヵ所の井戸しかなかったそうである。それも日照りが続くと井戸も枯れ、遠くまで水を汲みに行かなければならなかった。
     こうしたことから風呂を使うことは簡単なことでなく、柔らかい茅などで体を拭き取っていた。「カヤ湯」とう言葉が伝えられているほどである。
     

  • 大石灯篭<br /><br />大石燈籠は、天保4年(1833)に農作物の神である大山石尊大権現(大山阿夫利神社)を祀るため建立されたもので、当時、集められた税の余り分が建立の費用に充てられ、引俣町(現志木市引又)の石屋・籐兵衛によって作られたものである

    大石灯篭

    大石燈籠は、天保4年(1833)に農作物の神である大山石尊大権現(大山阿夫利神社)を祀るため建立されたもので、当時、集められた税の余り分が建立の費用に充てられ、引俣町(現志木市引又)の石屋・籐兵衛によって作られたものである

  • 大石灯篭

    大石灯篭

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