丸亀・宇多津・多度津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
四国本土最北端は「讃岐百景」であり、昔は「讃岐五景」にも数えられた景勝地、高松市庵治町の竹居観音崎(岬)。ここには四国八十八ヶ所第85番八栗寺奥の院・万龍山竹居観音寺がある。<br /><br />本堂には大日大聖不動明王や高祖・弘法大師を始め、各種仏像が安置されているが、寺の歴史は、その先の海に突き出した岩盤の岩窟から始まった。ここに天正16年(1588)、生駒親正が高松城築城の際、鬼門守護として馬頭観音を祭ったことに始まる。<br /><br />更に松平頼重時代、勢至菩薩、十一面観音も合祀したが、その後、関連住職の夢枕に馬頭観音が立ち、自らは京の寺から盗賊に盗まれ、この地に到った時、盗賊に腹痛を起こさせ、海に投げ捨てられた旨、語った。<br /><br />観音崎を後にすると、宇多津町に移動し、役場の駐車場に駐車、歴史的町並みが残る古街(こまち=現代の通称)を巡った。まずは役場南方の「倉の館・三角邸」。これは肥料商・堺氏が昭和初期に建築した純和風家屋の北西隅に連なる三角形の塔屋の別棟洋館。窓がステンドグラスになっており、「大正ロマン」を感じさせる。<br />内部見学が無料だったか有料だったかは忘れた。<br /><br />その後、道を南東に進んでいき、金井精米所や美容室・ひまわりのある四差路隅の「きられ地蔵」に参った。<br />300年ほど前の戦国末期、ある孝行娘が父親の病気平癒をこの地蔵に願掛けしていた。そんなある日、娘が田尾坂に差し掛かった時、辻斬りに斬られてしまう。しかし斬った刀は折れ、辻斬りは吹き飛ばされてしまった。娘は無傷だったが、後に願掛けをしていた地蔵の左肩から脇腹にかけて刀疵が付いていたという。<br /><br />きられ地蔵からは南西に折れ、その道の突き当たりにある青松山観音院(せいしょうざんかんおんいん)・円通寺と、そのやや北東にある寳塔山(ぜんとうざん)多聞寺に参った。<br /><br />円通寺は延宝3年(1675)、青の山東麓の観音山から現在地である守護・細川頼之居城跡へ移転・再興した。山門は藩政時代中期のもの。本堂横には南北朝時代の細川家の供養塔である五輪塔、オオスギゴケの築山に石を配した枯山水の「弥勒の庭」、かつて日本一と言われた、頼之手植えの黒松跡等見所は多い。<br /><br />多聞寺は大同4年(809)、藤原鎌足の末子・義実の孫、末包和直が創建。南北朝時代には頼之が居館として使用していた。<br />境内には頼之手植えの槇柏(ミヤマビャクシン)が残っている。樹高18m、幹周4.6mの大木。<br /><br />多聞寺からはそのまま道を北西に進み、「ドラッグストア大松」のある十字路を左折、東西に走るメインロードに出ても左折し、浄泉寺の閻魔堂(十王堂)に寄った。ここには天保12年(1841)に完成した色彩が鮮やかな「四国一の閻魔大王像」が安置されている。<br /><br />その南西には四国霊場第78番札所・仏光山広徳院郷照寺があるが、時間は17時を回っており、納経所その他に寺関係者や参拝客の姿はなかった。それでも地下堂である万体観音洞は開いており、仄かな照明も点っていた。ここには信仰者によって3万体もの黄金に輝く観音像が奉納されており、圧倒される。<br /><br />寺は神亀2年(725)、行基によって仏光山道場寺として開基され、弘仁6年(815)、弘法大師が訪れた折、伽藍を改築して寺号を郷照寺と改称した。頼之も本尊に帰依し、心経一千巻の読誦を誓願。以降、地元民によって一日も欠かさず心経が読誦されているという。<br />境内には池泉回遊式庭園の他、八十八ヶ所中、唯一、瀬戸大橋を眺望できる展望所がある。<br /><br />この日最後は、浄泉寺前のメインロードの西の突き当たりにある宇夫階(うぶしな)神社に参拝した。大己貴命(大国主命)を祭神とするこの神社の創始は詳らかではないが、大同2年(808)、この地に遷座されている。<br /><br />この地が選ばれたのは先史の巨石祭祀遺跡、磐境と御膳岩があったからだろう。前者は高さ5.5m、幅4m、推定重量300トンもの巨石。地質的に見ると、この巨石は他所から運搬されてきたのだという。一回り小さな御膳岩は、神饌を供える神事に於ける遺跡。<br />本殿は昭和28年の式年遷宮時に造営された、伊勢神宮外宮第一別宮多賀宮御正殿を移築したもの。<br /><br />この日の宿は坂出市のビジネスホテル三中井に取った。駐車料金無料で一泊二食五千円台だったと思う。<br />翌日は降雨だったため、宇多津町の新町橋西袂にある西光寺のみ訪れた。寺は浄土宗開祖・法然上人が讃岐に流罪になった折、草庵を結んだことに始まる。<br /><br />この寺の特徴は塀の狭間(銃眼)群。本願寺派の寺は天正4年、本願寺顕如が織田信長と戦った際、各種物資を送っている。そのため、寺では織田派軍勢の襲撃に備え、外堀や狭間を設けた。<br /><br />探訪日、寺では全国四ヶ所にしか現存していない御座船の船屋形茶室を公開していた。これは藩政時代後期に建造された多度津藩御座船・日吉丸に着装されていた藩主用屋形を明治4年、寺が購入し、茶室として改造したもの。総二階建てで全長6.3m、幅1.8m。一階は畳敷きの茶室で、柱には朱漆が塗られる等豪華。

四国最北端岩窟仏と300トンの磐境巨石と四国唯一の御座船屋形

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2011/05/21 - 2011/05/22

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マローズ

マローズさん

四国本土最北端は「讃岐百景」であり、昔は「讃岐五景」にも数えられた景勝地、高松市庵治町の竹居観音崎(岬)。ここには四国八十八ヶ所第85番八栗寺奥の院・万龍山竹居観音寺がある。

本堂には大日大聖不動明王や高祖・弘法大師を始め、各種仏像が安置されているが、寺の歴史は、その先の海に突き出した岩盤の岩窟から始まった。ここに天正16年(1588)、生駒親正が高松城築城の際、鬼門守護として馬頭観音を祭ったことに始まる。

更に松平頼重時代、勢至菩薩、十一面観音も合祀したが、その後、関連住職の夢枕に馬頭観音が立ち、自らは京の寺から盗賊に盗まれ、この地に到った時、盗賊に腹痛を起こさせ、海に投げ捨てられた旨、語った。

観音崎を後にすると、宇多津町に移動し、役場の駐車場に駐車、歴史的町並みが残る古街(こまち=現代の通称)を巡った。まずは役場南方の「倉の館・三角邸」。これは肥料商・堺氏が昭和初期に建築した純和風家屋の北西隅に連なる三角形の塔屋の別棟洋館。窓がステンドグラスになっており、「大正ロマン」を感じさせる。
内部見学が無料だったか有料だったかは忘れた。

その後、道を南東に進んでいき、金井精米所や美容室・ひまわりのある四差路隅の「きられ地蔵」に参った。
300年ほど前の戦国末期、ある孝行娘が父親の病気平癒をこの地蔵に願掛けしていた。そんなある日、娘が田尾坂に差し掛かった時、辻斬りに斬られてしまう。しかし斬った刀は折れ、辻斬りは吹き飛ばされてしまった。娘は無傷だったが、後に願掛けをしていた地蔵の左肩から脇腹にかけて刀疵が付いていたという。

きられ地蔵からは南西に折れ、その道の突き当たりにある青松山観音院(せいしょうざんかんおんいん)・円通寺と、そのやや北東にある寳塔山(ぜんとうざん)多聞寺に参った。

円通寺は延宝3年(1675)、青の山東麓の観音山から現在地である守護・細川頼之居城跡へ移転・再興した。山門は藩政時代中期のもの。本堂横には南北朝時代の細川家の供養塔である五輪塔、オオスギゴケの築山に石を配した枯山水の「弥勒の庭」、かつて日本一と言われた、頼之手植えの黒松跡等見所は多い。

多聞寺は大同4年(809)、藤原鎌足の末子・義実の孫、末包和直が創建。南北朝時代には頼之が居館として使用していた。
境内には頼之手植えの槇柏(ミヤマビャクシン)が残っている。樹高18m、幹周4.6mの大木。

多聞寺からはそのまま道を北西に進み、「ドラッグストア大松」のある十字路を左折、東西に走るメインロードに出ても左折し、浄泉寺の閻魔堂(十王堂)に寄った。ここには天保12年(1841)に完成した色彩が鮮やかな「四国一の閻魔大王像」が安置されている。

その南西には四国霊場第78番札所・仏光山広徳院郷照寺があるが、時間は17時を回っており、納経所その他に寺関係者や参拝客の姿はなかった。それでも地下堂である万体観音洞は開いており、仄かな照明も点っていた。ここには信仰者によって3万体もの黄金に輝く観音像が奉納されており、圧倒される。

寺は神亀2年(725)、行基によって仏光山道場寺として開基され、弘仁6年(815)、弘法大師が訪れた折、伽藍を改築して寺号を郷照寺と改称した。頼之も本尊に帰依し、心経一千巻の読誦を誓願。以降、地元民によって一日も欠かさず心経が読誦されているという。
境内には池泉回遊式庭園の他、八十八ヶ所中、唯一、瀬戸大橋を眺望できる展望所がある。

この日最後は、浄泉寺前のメインロードの西の突き当たりにある宇夫階(うぶしな)神社に参拝した。大己貴命(大国主命)を祭神とするこの神社の創始は詳らかではないが、大同2年(808)、この地に遷座されている。

この地が選ばれたのは先史の巨石祭祀遺跡、磐境と御膳岩があったからだろう。前者は高さ5.5m、幅4m、推定重量300トンもの巨石。地質的に見ると、この巨石は他所から運搬されてきたのだという。一回り小さな御膳岩は、神饌を供える神事に於ける遺跡。
本殿は昭和28年の式年遷宮時に造営された、伊勢神宮外宮第一別宮多賀宮御正殿を移築したもの。

この日の宿は坂出市のビジネスホテル三中井に取った。駐車料金無料で一泊二食五千円台だったと思う。
翌日は降雨だったため、宇多津町の新町橋西袂にある西光寺のみ訪れた。寺は浄土宗開祖・法然上人が讃岐に流罪になった折、草庵を結んだことに始まる。

この寺の特徴は塀の狭間(銃眼)群。本願寺派の寺は天正4年、本願寺顕如が織田信長と戦った際、各種物資を送っている。そのため、寺では織田派軍勢の襲撃に備え、外堀や狭間を設けた。

探訪日、寺では全国四ヶ所にしか現存していない御座船の船屋形茶室を公開していた。これは藩政時代後期に建造された多度津藩御座船・日吉丸に着装されていた藩主用屋形を明治4年、寺が購入し、茶室として改造したもの。総二階建てで全長6.3m、幅1.8m。一階は畳敷きの茶室で、柱には朱漆が塗られる等豪華。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.5
交通手段
自家用車

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