2016/04/12 - 2016/04/12
10位(同エリア125件中)
MechaGodzillaⅢ&703さん
- MechaGodzillaⅢ&703さんTOP
- 旅行記1805冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,869,272アクセス
- フォロワー327人
■江戸時代から明治時代の景観を醸しだしている古き良き町並み「可部夢街道」
安佐北区可部は、太田川の舟運と出雲・石見を結ぶ街道の要衝として栄えてきた町です。今も歴史の面影が残る旧街道や、街道沿いに立ち並ぶ古い商家や民家がしっとりとしたたたずまいを見せています。
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
可部は広島城下より太田川を約15km北東へさか上った位置にあります。広島城下と山陰地方を結ぶ石見浜田往還と雲石往還が可部町北の下町屋村で交わり、可部街道となって城下に至る交通の要衝でした。
町の成立は戦国時代の領国経済の発展に伴い、物資流通の要衝となったことによると考えられています。
江戸時代は広島藩領で蔵入地でした。雲石往還に沿って南北に延びる町並は、享保年間(1716〜1736)のころ南北7町50間、小路八筋、家数197軒でした。
郡中国郡志によれば、文政初年(1818)には本町通筋に五町(渡り町・寺町・中ノ町・胡町・上ノ町)、九小路があり、東西50間、南北8町16間、家数243軒・人数932人でした。
江戸時代の可部町は一大物資の集散地でした。広島城下からの蔵物の輸送中継や山間部や山陰地方 の鉄・鋼あるいは瀬戸内・上方地方の塩・干鰯・塩鰯・肥料など特産物の輸送中継など、遠隔地間の流通機能を有し、大商人の南原屋をはじめ多くの商家が栄えました。
二日・七日の六斎市では莚(むしろ)・煙草・布・油蝋・山繭油をはじめ周辺農村からの産物が売買され、太田川の川船によって瀬戸内から塩や海産物が取引されました。
当地の産業に鋳物工業があります。鋳物生産は江戸初期にはじまったと思われています。「郡中国郡志」によれば、文政初年(1818)には鋳物師が三人いて、鍋・釜・農具などを製造していました。
この可部で風呂釜が作られはじめたのは、明治20年頃のことで、大正時代に入り、各家庭で風呂場を作るようになって、爆発的に販売が延びました。
今、古い町並は旧雲石街道(※出雲石見街道)沿いに「折目」と呼ばれる枡型辺りを中心に南と北側に展開しています。この「折目」も防衛上の観点から遠目遮断のために設けられたものだと思われます。
造り酒屋や醤油醸造所の商家の建物が連なり、江戸から明治時代の景観を醸しだしています。
でもこの道は近くを走る国道の横道として利用されているようで、ひっきりなしに車が通り抜けていきます。
この町並みを歩くと造り酒屋さんが多いのに驚きます。町並みの基準として、江戸時代から明治にかけて繁栄していた造り酒屋さんが今何軒残っているかが重要です。
その意味ではこの町は、江戸時代から繁栄していて、今にその繁栄が続いていると言えるでしょう。通りの建屋は切り妻造り平入りが多く、中2階建ての虫籠窓を備えた家屋が古い町並を構成しています。
※出雲石見街道
広島城下を基点とする出雲石見街道(通称:雲石路)は、出雲大社への参詣道であり、やがて松江城下に繋がる道と、石見大森銀山への運搬路として、やがて浜田城下を結ぶ道とが重なり、可部宿まで通っていました。
可部宿北からは出雲街道は上根峠を、石見街道は可部峠を越える難所の連続する街道で、平坦地では幅員が7尺(2m余)で西国街道の脇往還でした。
萩城下へ転封された毛利家は、元就公の墓参に利用し吉田郡山へ向かう「吉田往還」でもありました。
※郡中国郡志とは
文政八年(一八二五)広島藩によって『芸藩通志』が編纂された。その過程ではまず各村から提出される「郡村誌指出帳」を作成した。これを郡単位にまとめたものが『郡中国郡志』である。
【 手記 】
アップ時期が3か月以上ずれてたいへん遅くなっております。
久しぶりに懐かしき可部夢街道を走ってきました。懐かしい・・・と言うのも、今からちょうど20年前のことですが、2年間ほど可部の町(勤務地)でお世話になっていたことがあるのです。
この日は近くで所用があって、ちょうど20年という区切りでもありちょっと懐かしかったので、用事ついでに足を延ばしてきた次第です。
なお、町並み風景写真は、フロントガラス越しに車を運転しながら撮っていますので画像が荒く見にくいものが多くなっています。いつものことですが^^;
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
PR
-
■江戸から明治時代の景観を醸しだしている古き良き町並み「可部夢街道」
自宅にて・・・ここ最近、庭のツバキがいつもきれいな花をつけてくれています。ついカメラを出して撮ってしまいます。
ピンクのツバキ( Pink Camellia )花言葉は「控えめな美」「控えめな愛」です。 -
▽自宅にて/広島県広島市
鉢植えのチューリップが咲きました。癒されます。アップ時期が3か月以上ずれてたいへん遅くなっております。
チューリップそのものの花言葉は「思いやり・博愛」、赤いチューリップは「愛の告白」です。 -
▽芸備線ガード/広島県広島市安佐北区深川
…と言うことで(どう言うこと?)、軽のホンダディーバくんに乗って久しぶりに懐かしき可部夢街道を走ってきました。
懐かしい・・・と言うのも、今からちょうど20年前のことですが、2年間ほど可部の町(勤務地)でお世話になっていたことがあるのです。
-
▽芸備線沿い旧道/広島県広島市安佐北区深川
この日は近くで所用があって、ちょうど20年という区切りでもありちょっと懐かしかったので、用事ついでに足を延ばしてきた次第です。
-
▽芸備線沿い旧道/広島県広島市安佐北区深川
時間の無駄は敵!またまた突然の行動をしてしまいましたー。 -
▽芸備線沿い旧道/広島県広島市安佐北区深川
西法寺 運転しながら撮り〜 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
安佐北区可部は、太田川の舟運と出雲・石見を結ぶ街道の要衝として栄えてきた町です。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
今も歴史の面影が残る旧街道や、街道沿いに立ち並ぶ古い商家や民家がしっとりとしたたたずまいを見せています。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
なお、町並み風景写真は、フロントガラス越しに車を運転しながら撮っていますので画像が荒く見にくいものが多くなっています。いつものことですが^^; -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
可部は広島城下より太田川を約15km北東へさか上った位置にあります。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
防衛上作られた折目 クランク -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
広島城下と山陰地方を結ぶ石見浜田往還と雲石往還が可部町北の下町屋村で交わり、可部街道となって城下に至る交通の要衝でした。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
町の成立は戦国時代の領国経済の発展に伴い、物資流通の要衝となったことによると考えられています。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
江戸時代は広島藩領で蔵入地でした。雲石往還に沿って南北に延びる町並は、享保年間(1716〜1736)のころ南北7町50間、小路八筋、家数197軒でした。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
幟の文字が逆だったので写真を左右反転して載せています^^; -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
郡中国郡志によれば、文政初年(1818)には本町通筋に五町(渡り町・寺町・中ノ町・胡町・上ノ町)、九小路があり、東西50間、南北8町16間、家数243軒・人数932人でした。江戸時代の可部町は一大物資の集散地でした。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
※郡中国郡志・・・文政八年(一八二五)広島藩によって『芸藩通志』が編纂された。その過程ではまず各村から提出される「郡村誌指出帳」を作成した。これを郡単位にまとめたものが『郡中国郡志』である。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
広島城下からの蔵物の輸送中継や山間部や山陰地方 の鉄・鋼あるいは瀬戸内・上方地方の塩・干鰯・塩鰯・肥料など特産物の輸送中継など、遠隔地間の流通機能を有し、大商人の南原屋をはじめ多くの商家が栄えました。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
二日・七日の六斎市では莚(むしろ)・煙草・布・油蝋・山繭油をはじめ周辺農村からの産物が売買され、太田川の川船によって瀬戸内から塩や海産物が取引されました。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
当地の産業に鋳物工業があります。鋳物生産は江戸初期にはじまったと思われています。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
「郡中国郡志」によれば、文政初年(1818)には鋳物師が三人いて、鍋・釜・農具などを製造していました。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
この可部で風呂釜が作られはじめたのは、明治20年頃のことで、大正時代に入り、各家庭で風呂場を作るようになって、爆発的に販売が延びました。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
※出雲石見街道・・・広島城下を基点とする出雲石見街道(通称:雲石路)は、出雲大社への参詣道であり、やがて松江城下に繋がる道と、石見大森銀山への運搬路として、やがて浜田城下を結ぶ道とが重なり、可部宿まで通っていました。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
可部宿北からは出雲街道は上根峠を、石見街道は可部峠を越える難所の連続する街道で、平坦地では幅員が7尺(2m余)で西国街道の脇往還でした。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
萩城下へ転封された毛利家は、元就公の墓参に利用し吉田郡山へ向かう「吉田往還」でもありました。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
造り酒屋や醤油醸造所の商家の建物が連なり、江戸から明治時代の景観を醸しだしています。でもこの道は近くを走る国道の横道として利用されているようで、ひっきりなしに車が通り抜けていきます。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
この町並みを歩くと造り酒屋さんが多いのに驚きます。町並みの基準として、江戸時代から明治にかけて繁栄していた造り酒屋さんが今何軒残っているかが重要です。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
その意味ではこの町は、江戸時代から繁栄していて、今にその繁栄が続いていると言えるでしょう。
-
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
通りの建屋は切り妻造り平入りが多く、中2階建ての虫籠窓を備えた家屋が古い町並を構成しています。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
今、古い町並は旧雲石街道(※出雲石見街道)沿いに「折目」と呼ばれる枡型辺りを中心に南と北側に展開しています。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
この「折目」も防衛上の観点から遠目遮断のために設けられたものだと思われます。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
折目 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
なつかしいですのお〜 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
街道付近には40件程度の古民家が残っており、そのうち、19件程度が空き家で置いてある状況だそうです。 -
▽古き良き町並み「可部夢街道」/広島県広島市安佐北区可部
以前は栄えた通り沿いも、交通の流れが変わったこともあり、徐々にお店も減り、現在のようになったそうです。この先で国道54号線に合流します。 -
▽帰路途中/広島県広島市安佐北区白木町
町並みばかりではなんですので^^春の景色がありそうなところを探しながら走って帰りました。 -
▽帰路途中/広島県広島市安佐北区白木町
こっち向いてくれた (=^・ω・^=) なかなか春らしい景色と出会わない。 -
▽帰路途中/広島県広島市安佐北区白木町
タンポポ 花言葉は「真心の愛」 -
▽帰路途中/広島県東広島市志和町
菜の花 花言葉は「小さな幸せ」「元気いっぱい」などです。 -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
芝桜で彩られた農道。のどかな景色です。花言葉は「忍耐」「華やかな姿」などです。 -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
レンゲソウ 花言葉は「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」「心がやわらぐ」などです。 -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
スイセン 花言葉は(黄)「私のもとへ帰って」「愛に応えて」などです。
-
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
スミレ 花言葉は「小さな愛」「小さなしあわせ」などです。 -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
廃屋です。 -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
近寄ってみました。無残〜 (´д ` ;) -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
スイセン -
▽帰路途中の景色/広島県東広島市志和町
西蓮寺傍の茅葺家屋
以上で「古き良き町並み可部夢街道編」を終了します。 リフレッシュ完了〜!
THE END. それでは、また〜。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
MechaGodzillaⅢ&703さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
47