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東海道53次、京都までのウォーキングは、スタートはお江戸日本橋から。ゴールは京都三条大橋へ。いつゴールするか分かりませんが、まづは、日本橋より品川宿まで歩きます。<br />品川宿迄2里(7.9Km)、京都・三条大橋へ125里33町(494.5Km)<br /><br />この間の歴史的遺物を中心に遺跡を観て行きたい。<br />表紙は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五十三次 日本橋 広重画】01<br />日本橋:朝の景<br />北の方から上ってくる大名行列、あわてて横切る商人、旅人。<br />朝日の当たる日本橋。鋏箱と毛槍を先頭に西に向かう。朝の早い魚屋を描き、大名行列に出くわし道を開ける。日本橋は慶長8年、徳川家康が町割りをやった際に橋を架けた。其の橋を日本橋という。<br />

東海道53次、No1,日本橋から品川宿(1)へ

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2016/01/21 - 2016/01/21

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ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次、京都までのウォーキングは、スタートはお江戸日本橋から。ゴールは京都三条大橋へ。いつゴールするか分かりませんが、まづは、日本橋より品川宿まで歩きます。
品川宿迄2里(7.9Km)、京都・三条大橋へ125里33町(494.5Km)

この間の歴史的遺物を中心に遺跡を観て行きたい。
表紙は、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【東海道五十三次 日本橋 広重画】01
日本橋:朝の景
北の方から上ってくる大名行列、あわてて横切る商人、旅人。
朝日の当たる日本橋。鋏箱と毛槍を先頭に西に向かう。朝の早い魚屋を描き、大名行列に出くわし道を開ける。日本橋は慶長8年、徳川家康が町割りをやった際に橋を架けた。其の橋を日本橋という。

旅行の満足度
4.5
観光
4.0
  • 【日本橋】 国指定重要文化財 (高札場跡に立つ説明板)<br /> 日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。<br />  幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。<br />  現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。<br />  平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。<br />                     平成十二年三月 中央区教育委員会

    【日本橋】 国指定重要文化財 (高札場跡に立つ説明板)
     日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。
      幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
      現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
      平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。
                         平成十二年三月 中央区教育委員会

  • 昭和47年に佐藤栄作(元)首相の揮毫による【日本橋の道路元標】、いざ京都に向かって出発進行<br />日本橋の中央に埋め込まれている。日本のすべての道路(五街道)の基点になっている。<br />日本橋の畔にある「元標の広場」には<br />京都 503km、甲府131km、下関1076km、鹿児島1469km、新潟344km、水戸118km、仙台350km、青森736km、札幌1156kmと記されている<br /><br />京都までは503km、先は遠い今日は旧東海道を徒歩で、京に向かう記念すべき第一歩。<br />

    昭和47年に佐藤栄作(元)首相の揮毫による【日本橋の道路元標】、いざ京都に向かって出発進行
    日本橋の中央に埋め込まれている。日本のすべての道路(五街道)の基点になっている。
    日本橋の畔にある「元標の広場」には
    京都 503km、甲府131km、下関1076km、鹿児島1469km、新潟344km、水戸118km、仙台350km、青森736km、札幌1156kmと記されている

    京都までは503km、先は遠い今日は旧東海道を徒歩で、京に向かう記念すべき第一歩。

  • 旧日本橋の柱。この界隈は運河だったそうな。<br />【日本橋】 国指定重要文化財 (下記高札場跡に立つ説明板)<br /> 日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。<br />  幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。<br /><br /> 現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。<br /><br /> 平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。          平成十二年三月 中央区教育委員会<br /><br />【日本橋由来記】 (左の写真の高札を模した建造物に嵌め込まれている説明文)<br /> 日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府諸大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンテ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス奮記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雑閙沸クカ如ク橋上貴賎ノ来往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ白帆近ク碧波ト映帯ス眞ニ上圖ノ如シ<br /> 明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ<br />     昭和十一年四月 日本橋區

    旧日本橋の柱。この界隈は運河だったそうな。
    【日本橋】 国指定重要文化財 (下記高札場跡に立つ説明板)
     日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。
      幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。

     現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

     平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。          平成十二年三月 中央区教育委員会

    【日本橋由来記】 (左の写真の高札を模した建造物に嵌め込まれている説明文)
     日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府諸大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンテ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス奮記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雑閙沸クカ如ク橋上貴賎ノ来往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ白帆近ク碧波ト映帯ス眞ニ上圖ノ如シ
     明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
         昭和十一年四月 日本橋區

  • 日本橋の近くは、出発して直ぐの「西川ふとん」のビルとCOREDOと言う大きなビルの間を入って行くと夏目漱石の小説、【こころ】の舞台でもあります。

    日本橋の近くは、出発して直ぐの「西川ふとん」のビルとCOREDOと言う大きなビルの間を入って行くと夏目漱石の小説、【こころ】の舞台でもあります。

  • また、日本橋のこの一帯は、海、運河に近く、塩分が濃く飲み水に不自由していたので、当時白木屋さんが井戸を掘って、人々が利用していた。<br />正徳元年(1711)、白木屋二代目の当主の大村彦太郎は、私財を投じて井戸掘りに着手。翌年、一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられている。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く『白木名水』と呼ばれた。

    また、日本橋のこの一帯は、海、運河に近く、塩分が濃く飲み水に不自由していたので、当時白木屋さんが井戸を掘って、人々が利用していた。
    正徳元年(1711)、白木屋二代目の当主の大村彦太郎は、私財を投じて井戸掘りに着手。翌年、一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられている。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く『白木名水』と呼ばれた。

  • 日本橋の図

    日本橋の図

  • 【日本橋魚河岸跡】の地碑がある。<br />  日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町、小田原町、安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。<br /> 中でも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。<br /> 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。<br /> この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。<br /> 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。<br />                     平成十九年三月 中央区教育委員会

    【日本橋魚河岸跡】の地碑がある。
      日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町、小田原町、安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
     中でも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
     江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
     この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
     現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
                         平成十九年三月 中央区教育委員会

  • 高島屋デパート。中々重厚な感じです。

    高島屋デパート。中々重厚な感じです。

  • 【昔の京橋の「親柱」】が保存されているのを見ることができる。 <br />小さいのは明治8年建造で、照明設備のある大きいのが大正11年製(次のフォト)。<br />京橋は、日本橋と同時代の慶長年間に架橋された。江戸中期には、ここの擬宝珠(ぎぼし)に縄を結んで願うと咳どめにきくといわれた。<br /><br />京橋川は外濠から北紺屋町(八重洲2丁目)TP南紺屋町(銀座1丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓(もみじ)川、桜川(八丁堀)、三十三間掘堀と合流した。(延長0.6km) 江戸時代には比丘尼(びくに)橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。(慶長年間に外濠とともに開削された水路とされる)比丘尼橋と中之橋の間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋の間左岸には大根河岸、京橋と白魚橋の左岸は竹河岸、右岸には白魚河岸があった。昭和38年~40年に埋められた。(中央区)<br /><br />京橋は古来より其の名著なる創架乃年ハ慶長年間なるしの如し明暦以降屢々架換へたれ天正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造り架換へられた当時の擬宝珠欄干の親柱ふして橋名の書ハ明治代詩人佐々木支陰乃揮毫と係るものなり<br />                            昭和十三年五月

    【昔の京橋の「親柱」】が保存されているのを見ることができる。 
    小さいのは明治8年建造で、照明設備のある大きいのが大正11年製(次のフォト)。
    京橋は、日本橋と同時代の慶長年間に架橋された。江戸中期には、ここの擬宝珠(ぎぼし)に縄を結んで願うと咳どめにきくといわれた。

    京橋川は外濠から北紺屋町(八重洲2丁目)TP南紺屋町(銀座1丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓(もみじ)川、桜川(八丁堀)、三十三間掘堀と合流した。(延長0.6km) 江戸時代には比丘尼(びくに)橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。(慶長年間に外濠とともに開削された水路とされる)比丘尼橋と中之橋の間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋の間左岸には大根河岸、京橋と白魚橋の左岸は竹河岸、右岸には白魚河岸があった。昭和38年~40年に埋められた。(中央区)

    京橋は古来より其の名著なる創架乃年ハ慶長年間なるしの如し明暦以降屢々架換へたれ天正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造り架換へられた当時の擬宝珠欄干の親柱ふして橋名の書ハ明治代詩人佐々木支陰乃揮毫と係るものなり
                                昭和十三年五月

  • 【京橋の親柱】<br />日本橋と同時期に架けられた京橋。昭和34年(1959)に埋め立てられ3本の親柱が残された。うち2本が明治8年に造られた擬宝珠の柱【上のフォト】で、もう1本は大正11年に造られ街灯付き。<br /><br />【煉瓦銀座の碑】 <br /> 明治五年(1872)二月二十六日 銀座は全焼し 延焼築地方面に及び 焼失戸數四千戸と称せらる<br />  東京府知事 由利公正は罹災せる銀座全域の不燃性建築を企劃建作し 政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す<br />煉瓦通りと通称せられ 銀座通り商店街形成の濫觴となりたり<br />                   昭和三十一年四月二日<br /><br />【煉瓦とガス燈】<br /> 明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。<br /> 床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

    【京橋の親柱】
    日本橋と同時期に架けられた京橋。昭和34年(1959)に埋め立てられ3本の親柱が残された。うち2本が明治8年に造られた擬宝珠の柱【上のフォト】で、もう1本は大正11年に造られ街灯付き。

    【煉瓦銀座の碑】 
     明治五年(1872)二月二十六日 銀座は全焼し 延焼築地方面に及び 焼失戸數四千戸と称せらる
      東京府知事 由利公正は罹災せる銀座全域の不燃性建築を企劃建作し 政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
    煉瓦通りと通称せられ 銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
                       昭和三十一年四月二日

    【煉瓦とガス燈】
     明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。
     床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

  • 【京橋大根河原青物市場蹟】<br /><br /> 遠く寛文の初め江戸数寄屋橋辺に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の廛はゆききの人或いは附近の人人に之を鬻ぐ数年ならずして廛の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火災に羅りしにより東海道の要路にあった且つ衰運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移転す偶この市場への大根の入荷殊更多しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸市場と称うるに至るかくて二百余年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀売と称する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を数うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しここに始めて大市場としての規模完成す大正十二年九月大震災の厄難に遇いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸売市場法実施の一環として東京市中央卸売市場の開設さるに際し国家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて・・の地を去り築地木場に入り問屋は一体となりて會社を起し仲買は旧態のまま開業すその後第二次世界大戦のため幾多の変革ありしも戦後再び旧状に復し業況益好調を極む斯る折抦・京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成會を組織しして之が実現に努め暫くその工を竣えたり依てここにその由来を記し開設以来二百八十余年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす<br />     昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書

    【京橋大根河原青物市場蹟】

     遠く寛文の初め江戸数寄屋橋辺に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の廛はゆききの人或いは附近の人人に之を鬻ぐ数年ならずして廛の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火災に羅りしにより東海道の要路にあった且つ衰運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移転す偶この市場への大根の入荷殊更多しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸市場と称うるに至るかくて二百余年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀売と称する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を数うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しここに始めて大市場としての規模完成す大正十二年九月大震災の厄難に遇いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸売市場法実施の一環として東京市中央卸売市場の開設さるに際し国家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて・・の地を去り築地木場に入り問屋は一体となりて會社を起し仲買は旧態のまま開業すその後第二次世界大戦のため幾多の変革ありしも戦後再び旧状に復し業況益好調を極む斯る折抦・京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成會を組織しして之が実現に努め暫くその工を竣えたり依てここにその由来を記し開設以来二百八十余年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
         昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書

  • 【江戸歌舞伎発祥之地】<br /> 寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ 江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す<br /><br />     昭和三十二年七月建立 江戸歌舞伎田史保存會

    【江戸歌舞伎発祥之地】
     寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ 江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す

         昭和三十二年七月建立 江戸歌舞伎田史保存會

  • 【銀座発祥の地碑】元銀座役所跡地。<br />銀座2丁目にある銀座発祥の地記念碑。慶長17年(1612年)、ここに「銀貨鋳造役所銀座」が設置された。<br />銀座の名前は明治になってから正式に使われたもので、江戸時代は新両替町で、通称が銀座町であった。<br /><br /> 慶長十七年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称しも通称銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる<br />                 昭和三十年四月一日建之 銀座通連合会<br /><br />【江戸歌舞伎発祥の記念碑】がある。<br />寛永元年(1624)「中村勘三郎」率いる猿若座が初めて芝居興行をおこなったのがこの場所だった。<br />寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ 江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す<br /><br />     昭和三十二年七月建立 江戸歌舞伎田史保存會

    【銀座発祥の地碑】元銀座役所跡地。
    銀座2丁目にある銀座発祥の地記念碑。慶長17年(1612年)、ここに「銀貨鋳造役所銀座」が設置された。
    銀座の名前は明治になってから正式に使われたもので、江戸時代は新両替町で、通称が銀座町であった。

     慶長十七年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称しも通称銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる
                     昭和三十年四月一日建之 銀座通連合会

    【江戸歌舞伎発祥の記念碑】がある。
    寛永元年(1624)「中村勘三郎」率いる猿若座が初めて芝居興行をおこなったのがこの場所だった。
    寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ 江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す

         昭和三十二年七月建立 江戸歌舞伎田史保存會

  • 銀座四丁目、服部時計店<br />銀座4丁目交差点が昔の銀座の終点で、この先は尾張町」と呼ばれ老舗が軒を並べていた所

    銀座四丁目、服部時計店
    銀座4丁目交差点が昔の銀座の終点で、この先は尾張町」と呼ばれ老舗が軒を並べていた所

  • 銀座の一番南の端の銀座8丁目を過ぎると、西條八十(さいじょうやそ)と中山晋平の「銀座の柳の碑」を見ることができる。<br /><br />西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」歌碑。<br />「♪♪  植えてうれしい  銀座の柳  江戸の名残りの  うすみどり<br /> 吹けよ春風  紅傘日傘  今日もくるくる  人通り  ♪♪」<br /><br />明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立したと。

    銀座の一番南の端の銀座8丁目を過ぎると、西條八十(さいじょうやそ)と中山晋平の「銀座の柳の碑」を見ることができる。

    西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」歌碑。
    「♪♪ 植えてうれしい  銀座の柳  江戸の名残りの  うすみどり
    吹けよ春風  紅傘日傘  今日もくるくる  人通り ♪♪」

    明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立したと。

  • 新橋 芝口御門碑<br />写真の芝口御門入り口の汐留川に架かる橋が「新橋」そして現在の銀座中央通り

    新橋 芝口御門碑
    写真の芝口御門入り口の汐留川に架かる橋が「新橋」そして現在の銀座中央通り

  • 新橋 芝口御門<br />芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず

    新橋 芝口御門
    芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず

  • 銀座のやなぎ(上のフォトに歌詞、メロディー)

    銀座のやなぎ(上のフォトに歌詞、メロディー)

  • 銀座の柳

    銀座の柳

  • 東新橋1丁目交差点角にある<br />【「日比谷神社】<br />豊受大神(稲荷神)・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀る。旧称 日比谷稲荷明神。

    東新橋1丁目交差点角にある
    【「日比谷神社】
    豊受大神(稲荷神)・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀る。旧称 日比谷稲荷明神。

  • 【芝大神宮】<br />*寛弘2年(1005年)創建された由緒ある神社で、鎌倉時代から「頼朝」や多くの武将に崇敬されて、江戸時代には家康より15石の社領を賜った。また、文化2年(1805年)に町火消し「め組」と相撲の力士たちの乱闘事件が起きたことでも有名。●狛犬はその「め組」が奉納したもの。<br />*芝大神宮は、江戸時代は芝神明と呼ばれ、境内では芝居小屋や見世物小屋が常設されていた。<br />歌舞伎の「神明恵和合取組」は、この境内での「め組」火消しと相撲取りの喧嘩を扱ったもの。  <br />*徳川家康が、江戸へ入府したときや、関ヶ原出陣の時に参拝したとされる。<br />*芝大神宮<br />もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。(Wikipedia)

    【芝大神宮】
    *寛弘2年(1005年)創建された由緒ある神社で、鎌倉時代から「頼朝」や多くの武将に崇敬されて、江戸時代には家康より15石の社領を賜った。また、文化2年(1805年)に町火消し「め組」と相撲の力士たちの乱闘事件が起きたことでも有名。●狛犬はその「め組」が奉納したもの。
    *芝大神宮は、江戸時代は芝神明と呼ばれ、境内では芝居小屋や見世物小屋が常設されていた。
    歌舞伎の「神明恵和合取組」は、この境内での「め組」火消しと相撲取りの喧嘩を扱ったもの。  
    *徳川家康が、江戸へ入府したときや、関ヶ原出陣の時に参拝したとされる。
    *芝大神宮
    もともとは、単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。(Wikipedia)

  • 【芝大神宮】のめ組の狛犬

    【芝大神宮】のめ組の狛犬

  • 増上寺への参道に立つ三門

    増上寺への参道に立つ三門

  • 【増上寺の山門(三解脱門)】<br />大きいです。<br />増上寺が開かれたのは、明徳4年(1393年)、浄土宗第8祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれた。浄土宗の東国の要として発展して行く。家康が徳川家の菩提寺として選び、上野寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍が葬られている<br />●三解脱門は慶長16年(1611)の建立で重要文化財。将軍家菩提寺の格式を伝えている。<br />*《三解脱門》(さんげだつもん、重要文化財)<br />戦災をまぬがれた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。

    【増上寺の山門(三解脱門)】
    大きいです。
    増上寺が開かれたのは、明徳4年(1393年)、浄土宗第8祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれた。浄土宗の東国の要として発展して行く。家康が徳川家の菩提寺として選び、上野寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍が葬られている
    ●三解脱門は慶長16年(1611)の建立で重要文化財。将軍家菩提寺の格式を伝えている。
    *《三解脱門》(さんげだつもん、重要文化財)
    戦災をまぬがれた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。

  • 「三門」 。<br />三つの煩【貪、むさぼり 瞋、いかり 痴、おろか】を解脱する門。<br />禅宗様式の和洋折衷の美しさを持ち、慶長16年(1611)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立された。都下最大の木造建築物で、組み物は唐様を中心として、勾欄などに和様、天竺様が加味され、桃山時代の雄大な気宇を伝えている。増上寺は浄土宗の大本山で、江戸時代は徳川家の菩提寺となったために幕府の庇護を受け、寺運は隆盛を極めた。おしくも、空襲により多くの文化財を失い、三解脱門、黒門、経蔵以外は焼失。<br />高さ21m、間口19.5m、奥行き9m東日本最大の門。

    「三門」 。
    三つの煩【貪、むさぼり 瞋、いかり 痴、おろか】を解脱する門。
    禅宗様式の和洋折衷の美しさを持ち、慶長16年(1611)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立された。都下最大の木造建築物で、組み物は唐様を中心として、勾欄などに和様、天竺様が加味され、桃山時代の雄大な気宇を伝えている。増上寺は浄土宗の大本山で、江戸時代は徳川家の菩提寺となったために幕府の庇護を受け、寺運は隆盛を極めた。おしくも、空襲により多くの文化財を失い、三解脱門、黒門、経蔵以外は焼失。
    高さ21m、間口19.5m、奥行き9m東日本最大の門。

  • 増上寺三門

    増上寺三門

  • 増上寺の本堂。「増上寺」は、上野寛永寺と同じで徳川家の菩提寺だが、「浄土宗」である。<br />後方に東京タワー<br />明徳4年(1393)の開山。徳川家康が深く帰依したことをきっかけに、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の菩堤寺として、また、筆頭学問所として揺るぎない地位を保ってきた、浄土宗の大本山。<br /> 明治新政府誕生まで、常時3,000名の僧侶が修学する大寺院であった。<br />徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離などの影響により規模は大幅に縮小したが、芝公園は寺の境内に入っていた位の広さを持っていた。

    増上寺の本堂。「増上寺」は、上野寛永寺と同じで徳川家の菩提寺だが、「浄土宗」である。
    後方に東京タワー
    明徳4年(1393)の開山。徳川家康が深く帰依したことをきっかけに、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の菩堤寺として、また、筆頭学問所として揺るぎない地位を保ってきた、浄土宗の大本山。
    明治新政府誕生まで、常時3,000名の僧侶が修学する大寺院であった。
    徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離などの影響により規模は大幅に縮小したが、芝公園は寺の境内に入っていた位の広さを持っていた。

  • 増上寺本堂。1622年建立の仏教寺院。<br />「大殿」。<br />間口約48m、奥行き45m、高さ焼約23m 。首都圏では最大級の御堂。<br />三門をくぐり、目の前に立つ大殿は壮大そのもの。石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。<br />増上寺は度重なる火事に見舞われ、第二次世界大戦でも伽藍、御霊屋のほとんどを消失。現在の大殿は1974年に再建されたもの。

    増上寺本堂。1622年建立の仏教寺院。
    「大殿」。
    間口約48m、奥行き45m、高さ焼約23m 。首都圏では最大級の御堂。
    三門をくぐり、目の前に立つ大殿は壮大そのもの。石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。
    増上寺は度重なる火事に見舞われ、第二次世界大戦でも伽藍、御霊屋のほとんどを消失。現在の大殿は1974年に再建されたもの。

  • バックに東京タワー

    バックに東京タワー

  • 「旧方丈門(黒門)」。<br />一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門。<br />もと増上寺方丈の表門であったが、昭和55年(1980)、善導大師1300年遠忌を期に、表側の飛檐垂木〈ひえんだるき〉の大部分と、東側の破風板〈はふいた〉、瓦の一部を補修し、三解脱門南隣りの現位置に移築。<br />全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれている。

    「旧方丈門(黒門)」。
    一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門。
    もと増上寺方丈の表門であったが、昭和55年(1980)、善導大師1300年遠忌を期に、表側の飛檐垂木〈ひえんだるき〉の大部分と、東側の破風板〈はふいた〉、瓦の一部を補修し、三解脱門南隣りの現位置に移築。
    全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれている。

  • 芝公園<br /><br />*日比谷通が右手から合流して来る左手の「三菱自動車」のビル脇に●西郷隆盛と勝海舟の会見碑がある。慶応4年(1863)隆盛と勝はこのあたりにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行った。(次のフォト)

    芝公園

    *日比谷通が右手から合流して来る左手の「三菱自動車」のビル脇に●西郷隆盛と勝海舟の会見碑がある。慶応4年(1863)隆盛と勝はこのあたりにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行った。(次のフォト)

  • 【田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】<br />敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸 100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。<br /><br /> この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などを、ここで陸揚げした。<br />現在は、鉄道も敷かれ、埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線。<br /><br />【田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】<br />  この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸 100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。<br />  この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などを、ここで陸揚げされ ました。<br />  現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線で す。<br />また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。<br /><br />

    【田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】
    敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸 100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。

     この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などを、ここで陸揚げした。
    現在は、鉄道も敷かれ、埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線。

    【田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】
      この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸 100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
      この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などを、ここで陸揚げされ ました。
      現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線で す。
    また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

  • 【江戸 高輪大木戸跡】<br /><br />【高輪】 (港区町名由来)<br />  この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。<br />  この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡があります。

    【江戸 高輪大木戸跡】

    【高輪】 (港区町名由来)
      この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。
      この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡があります。

  • 【江戸 高輪大木戸跡】<br />【高輪大木戸跡】 史跡(昭和3年2月7日指定)<br />  高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)などの諸説がある。<br />  江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。<br />  天保二年(1831)には、札の辻から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外と共に江戸の六大高札場の一つであった。<br /> 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく月見の名所でもあった。<br /> 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は海岸側に幅5.4m、長さ7.3m高さ3.6mの石垣のみが残されている。<br />  四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。 震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。<br />                平成五年三月三十一日建設 東京都教育委員会

    【江戸 高輪大木戸跡】
    【高輪大木戸跡】 史跡(昭和3年2月7日指定)
      高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)などの諸説がある。
      江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
      天保二年(1831)には、札の辻から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外と共に江戸の六大高札場の一つであった。
     京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
     江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は海岸側に幅5.4m、長さ7.3m高さ3.6mの石垣のみが残されている。
      四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。 震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
                    平成五年三月三十一日建設 東京都教育委員会

  •  東禅寺の山門前に「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡と刻まれた石碑と説明板が立っている。<br />【東禅寺】 国指定史跡(平成22年2月22日指定)<br />  東禅寺は、幕末の安政六年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。<br /> 幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事) ラザフォード・オールコックが着任すると東禅寺はその宿所として提供され、 慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。<br />  現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。<br /> 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。 <br />                  平成二十四年三月 東京都教育委員会<br /><br />【東禅寺】<br />東禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、慶長15(1610)年僧嶺南が赤坂に建立したのが始まりです。<br />寛永13(1636)年高輪に移されました。<br />東禅寺は最初のイギリス公使館跡であったことでも知られ、安政5(1858)年7月、日英通商条約が締結され、翌安政6(1859)年6月6日イギリスの初代公使オールコックが駐在しました。<br />しかし、文久元(1861)年5月、攘夷派の水戸浪士ら14人に襲われ、イギリス人2人が怪我をする第一次東禅寺事件が起きました。翌文久2(1862)年にも、外国人護衛の松本藩士・伊藤軍兵衛による襲撃事件(第二次東禅寺事件)が起きました。<br />境内は見学できますが、建物内の一般公開はしていないようです。<br />建物の柱などには、事件の時の刀疵などが残っているそうです。

     東禅寺の山門前に「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡と刻まれた石碑と説明板が立っている。
    【東禅寺】 国指定史跡(平成22年2月22日指定)
      東禅寺は、幕末の安政六年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。
     幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事) ラザフォード・オールコックが着任すると東禅寺はその宿所として提供され、 慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
      現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
     幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。 
                      平成二十四年三月 東京都教育委員会

    【東禅寺】
    東禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、慶長15(1610)年僧嶺南が赤坂に建立したのが始まりです。
    寛永13(1636)年高輪に移されました。
    東禅寺は最初のイギリス公使館跡であったことでも知られ、安政5(1858)年7月、日英通商条約が締結され、翌安政6(1859)年6月6日イギリスの初代公使オールコックが駐在しました。
    しかし、文久元(1861)年5月、攘夷派の水戸浪士ら14人に襲われ、イギリス人2人が怪我をする第一次東禅寺事件が起きました。翌文久2(1862)年にも、外国人護衛の松本藩士・伊藤軍兵衛による襲撃事件(第二次東禅寺事件)が起きました。
    境内は見学できますが、建物内の一般公開はしていないようです。
    建物の柱などには、事件の時の刀疵などが残っているそうです。

  • 【旧台徳院霊廟惣門】<br />台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築。<br />芝増上寺に造営された。勅額門、丁子門、御成門の3棟は1960年に埼玉県所沢市上山口のユネスコ村(現在は不動寺)に移築され、惣門のみが芝公園に残っている。

    【旧台徳院霊廟惣門】
    台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築。
    芝増上寺に造営された。勅額門、丁子門、御成門の3棟は1960年に埼玉県所沢市上山口のユネスコ村(現在は不動寺)に移築され、惣門のみが芝公園に残っている。

  • 【旧台徳院霊廟惣門(きゅうだいとくいんれいびょうそうもん)】<br />江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営された。<br />壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群。<br />霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失。<br />秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。

    【旧台徳院霊廟惣門(きゅうだいとくいんれいびょうそうもん)】
    江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営された。
    壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群。
    霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失。
    秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。

  • 東照宮山門<br />

    東照宮山門

  • 【東照宮本殿】<br />祭り神は、徳川家康。<br />日光東照宮、久能山東照宮、上の東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。<br />これで、四大の東照宮を四ケ所お参り完了です。<br /><br />【《芝東照宮》(しばとうしょうぐう)】<br />東京都港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。<br />芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。本殿は大正4年(1915年)旧国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。(Wikipedia)

    【東照宮本殿】
    祭り神は、徳川家康。
    日光東照宮、久能山東照宮、上の東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
    これで、四大の東照宮を四ケ所お参り完了です。

    【《芝東照宮》(しばとうしょうぐう)】
    東京都港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。
    芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。本殿は大正4年(1915年)旧国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。(Wikipedia)

  • 【本殿 】<br />祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、<br />上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。

    【本殿 】
    祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、
    上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。

  • 【泉岳寺】<br />この辺り、日本橋の南の出入り口だった。<br />忠臣蔵で有名。47士の墓があります。播州赤穂の城主浅野家の菩提寺。<br />浅野家代々の墓とあだ討ちを果たした大石以下46人の墓がある。<br />ゆかりの者に報告させるため、門前で加盟者のうちただ一人の足軽 寺坂吉右衛門を逃がし、泉岳寺に着いたのは46人。<br />主君の墓へ詣でた後、寺僧たちから粥や酒の接待を受けた。討ち入りに先立ち、元禄 15年(1702)1月14日に自害した萱野三平の供養塔といわれているものと、慶應4年(1868)建てられた寺坂吉右衛門の供養塔がある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われる。コレある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われ、ある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われる。コレある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われ、田村家から泉岳寺に移植されたもの。瑶池梅は義士の墓守りをした妙梅尼が瑶泉院(浅野長矩公夫人)から頂いた鉢植の梅を地におろしたもの。<br /><br /><br />「山門」。<br />この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。<br />二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれていると。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書。

    【泉岳寺】
    この辺り、日本橋の南の出入り口だった。
    忠臣蔵で有名。47士の墓があります。播州赤穂の城主浅野家の菩提寺。
    浅野家代々の墓とあだ討ちを果たした大石以下46人の墓がある。
    ゆかりの者に報告させるため、門前で加盟者のうちただ一人の足軽 寺坂吉右衛門を逃がし、泉岳寺に着いたのは46人。
    主君の墓へ詣でた後、寺僧たちから粥や酒の接待を受けた。討ち入りに先立ち、元禄 15年(1702)1月14日に自害した萱野三平の供養塔といわれているものと、慶應4年(1868)建てられた寺坂吉右衛門の供養塔がある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われる。コレある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われ、ある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われる。コレある。泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税(ちから)の梅」「血染め(ちぞめ)の梅」「瑶池梅(ようちばい)」などと名づけられたウメが、義士の忠誠を伝えている。主税の梅は元禄16年(1703)2月4日に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅である。血染めの梅は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われ、田村家から泉岳寺に移植されたもの。瑶池梅は義士の墓守りをした妙梅尼が瑶泉院(浅野長矩公夫人)から頂いた鉢植の梅を地におろしたもの。


    「山門」。
    この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。
    二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれていると。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書。

  • 忠臣蔵の大石内蔵助の立像。山門をくぐると、「大石内蔵助」の銅像がある。 なんだか、商人の大だんなのような感じである。吉良上野介側を欺くために、武士らしい生活を排し、このようなイメージとなったのであろうか。

    忠臣蔵の大石内蔵助の立像。山門をくぐると、「大石内蔵助」の銅像がある。 なんだか、商人の大だんなのような感じである。吉良上野介側を欺くために、武士らしい生活を排し、このようなイメージとなったのであろうか。

  • 吉良上野介の首を洗った井戸<br />【首洗井戸】<br />義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。(泉岳寺HP)

    吉良上野介の首を洗った井戸
    【首洗井戸】
    義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。(泉岳寺HP)

  • 義士達の墓。線香の煙の絶えることのない、47士の墓標である。<br />奥の屋根付き祠に入ってるのは、大石内蔵助の墓石。<br /><br />泉岳寺自体は七堂伽藍を完備した、叢林として名を馳せており、浅野家との関係は寛永の大火によって焼失してから。高輪再建移転した際に浅野など五大名が尽力したためにできたという。

    義士達の墓。線香の煙の絶えることのない、47士の墓標である。
    奥の屋根付き祠に入ってるのは、大石内蔵助の墓石。

    泉岳寺自体は七堂伽藍を完備した、叢林として名を馳せており、浅野家との関係は寛永の大火によって焼失してから。高輪再建移転した際に浅野など五大名が尽力したためにできたという。

  • 大石内蔵助の墓

    大石内蔵助の墓

  • 泉岳寺の本堂。

    泉岳寺の本堂。

  • 泉岳寺を離れると、品川駅を抜けて、八つ山橋より鉄道≪跨線橋)を越えて宿場町に入る。

    泉岳寺を離れると、品川駅を抜けて、八つ山橋より鉄道≪跨線橋)を越えて宿場町に入る。

  • 八山橋でメイン国道から離れ、京品急行の踏切を渡ると品川宿へ繋がる旧東海道です。<br /><br />【旧東海道と品川宿】 <br /> 江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場が始めて設置されたのは慶長6年(1601)のことです。全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものでした。すでに戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設定しました。のちに北品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、享保7年(1722)には歩行新宿の成立をみるにいたり、この三宿を品川宿といいました。日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったといいます。

    八山橋でメイン国道から離れ、京品急行の踏切を渡ると品川宿へ繋がる旧東海道です。

    【旧東海道と品川宿】 
     江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場が始めて設置されたのは慶長6年(1601)のことです。全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものでした。すでに戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設定しました。のちに北品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、享保7年(1722)には歩行新宿の成立をみるにいたり、この三宿を品川宿といいました。日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったといいます。

  • 「問答河岸跡碑」です。<br />三代将軍家光が東海寺の沢庵和尚に<br />「海近くして東海寺(遠海)とはこれいかに」 <br />沢庵和尚すかさず<br />「大軍を率いていても将軍(小軍)と言うが如し」と返した。<br /><br /><br />【問答河岸由来記】<br /> 寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連つて輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う 厚遇思う可し <br /> 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る<br />  将軍乗船に臨んで禅師に参聞して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変し河海遠し 然れ共市人傅えて問答河岸と称す<br />  一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永亡芳を傅えんとす 亦可しからすや<br />     昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書

    「問答河岸跡碑」です。
    三代将軍家光が東海寺の沢庵和尚に
    「海近くして東海寺(遠海)とはこれいかに」 
    沢庵和尚すかさず
    「大軍を率いていても将軍(小軍)と言うが如し」と返した。


    【問答河岸由来記】
     寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連つて輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き 政治を問う 厚遇思う可し 
     将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る
      将軍乗船に臨んで禅師に参聞して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変し河海遠し 然れ共市人傅えて問答河岸と称す
      一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永亡芳を傅えんとす 亦可しからすや
         昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書

  • 聖蹟公園は「品川本陣」が有った場所です。<br />この本陣跡が聖跡公園として残されているだけでも救いである。<br />品川宿は江戸四宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)の一つで、東海道53次の第1番目の宿駅(初宿)として発達した。本陣は品川3宿(新、北、南)の中央である北品川にあり、参勤交代の諸大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として利用されていた。<br />明治元年、明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことを記念して聖跡公園と命名された。<br />*参覲交代で江戸へ入る大名は品川宿で身支度を整えて江戸屋敷に入り、江戸到着を伝えた。<br />*品川宿は、2.4km、約1600戸。<br /><br />江戸時代は、大名が宿泊する本陣が置かれた。明治天皇が休憩した行在所としても使われたことから「聖蹟」の名が残る。品川宿の本陣は、はじめ南北の品川に一軒づつあった「

    聖蹟公園は「品川本陣」が有った場所です。
    この本陣跡が聖跡公園として残されているだけでも救いである。
    品川宿は江戸四宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)の一つで、東海道53次の第1番目の宿駅(初宿)として発達した。本陣は品川3宿(新、北、南)の中央である北品川にあり、参勤交代の諸大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として利用されていた。
    明治元年、明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことを記念して聖跡公園と命名された。
    *参覲交代で江戸へ入る大名は品川宿で身支度を整えて江戸屋敷に入り、江戸到着を伝えた。
    *品川宿は、2.4km、約1600戸。

    江戸時代は、大名が宿泊する本陣が置かれた。明治天皇が休憩した行在所としても使われたことから「聖蹟」の名が残る。品川宿の本陣は、はじめ南北の品川に一軒づつあった「

  • 『東海道品川宿本陣跡』<br />「品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。<br />明治5年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。」品川区教育委員会

    『東海道品川宿本陣跡』
    「品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。
    明治5年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。」品川区教育委員会

  • 先の品海公園に「日本橋より二里」と記された標柱が立つ。ここに一里塚があったかは不明。<br />東海道の品川宿である。品川宿は、日本橋を出発して第一番目の宿場で、江戸の玄関口であったかつては、北の吉原と並んで宿場女郎でも有名な宿場であった<br />

    先の品海公園に「日本橋より二里」と記された標柱が立つ。ここに一里塚があったかは不明。
    東海道の品川宿である。品川宿は、日本橋を出発して第一番目の宿場で、江戸の玄関口であったかつては、北の吉原と並んで宿場女郎でも有名な宿場であった

  • 荏原神社<br />荏原神社は、品川宿の龍神さまとして、源氏、上杉、徳川等多くの武家の信仰を受けていた<br /><br />南品川宿の鎮守。猟師町の人達が海中に神輿を繰り出す勇壮な「かっぱ祭り」は有名。また、東海七福神の恵比寿に指定されている。<br />【東海七福神】<br />大黒天:品川神社、 布袋:養願寺、 寿老人:一心寺、 恵比須:荏原神社、 毘沙門天:品川寺、 福禄寿:天祖諏訪神社、 弁財天:磐井神社

    荏原神社
    荏原神社は、品川宿の龍神さまとして、源氏、上杉、徳川等多くの武家の信仰を受けていた

    南品川宿の鎮守。猟師町の人達が海中に神輿を繰り出す勇壮な「かっぱ祭り」は有名。また、東海七福神の恵比寿に指定されている。
    【東海七福神】
    大黒天:品川神社、 布袋:養願寺、 寿老人:一心寺、 恵比須:荏原神社、 毘沙門天:品川寺、 福禄寿:天祖諏訪神社、 弁財天:磐井神社

  • 荏原神社境内<br />荏原神社は709年創建と伝えられている。現在の建物は1844年に再建されたもの。

    荏原神社境内
    荏原神社は709年創建と伝えられている。現在の建物は1844年に再建されたもの。

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