2016/02/21 - 2016/02/21
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しんちゃんさん
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演歌「お吉物語」を一度は聞いた事があると思います。
聞いた事が無い方は下記「お吉物語」を聞きながら閲覧をお願いします。
「https://www.youtube.com/watch?v=YOkZluJQMK4」
歌は石川さゆりさんです。
時代に翻弄されたひとりの可愛そうな女性の物語りです。
お吉記念館の説明からです。【お吉について 唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。
新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。】
写真はお吉、本名「斎藤きち」19歳の時とされる写真をカラー化したもの…
『…写真は何者かが作り上げた“ねつ造”品であると考えざるを得ない。…』
という記事があり本物か偽者か信じるのは貴方自身です!
- 旅行の満足度
- 5.0
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下田市内の国道136号、東伊豆道路わきの宝福寺。
駐車場_無料!お吉祭り 祭り・イベント
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説明版からです。【永禄二年(1559)権大僧都了善開基
嘉永七年(安政元年-1854)三月に締結された日米和規条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。
ペリーとの間に結ばれた和規条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。・・・ -
・・・文久三年(1863)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調練が行われた。なお、墓地には『下田年中行事』八七巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。
また、安政の東海地震(1854)後の津浪は本堂の床上まで達した。下田市】
写真の木像は
【龍馬木像「風の夢」 ★場所:宝福寺境内
この木像は、伊豆龍馬会の要請に応え、河津町にある、ログハウスの
建築などを手がけ、静岡県内で唯一「森の名手・名人」に指定された
天城カントリー工房の土屋宗一郎社長が制作し、寄贈された木像です】ホームページからの一部コピーです。 -
八幡山_宝福寺、本堂
流石(さすが)伊豆半島南端、お寺には杉・桧が定番ですが
ヤシの木、ソテツ類の南国情緒が一杯! -
本堂
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扁額
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入館料を払う前に“唐人お吉記念館”受付の“お嬢さん”に聞きました。
「館内の写真を撮って良いですか?
「大丈夫です」
「やった!」 -
【この写真は、安政6年、お吉19歳の時のもの。19歳といえば、ハリスと別れ、ハリスの名詞を懐に秘して、孤独の中で、もの思うお吉の心が偲ばれる。
当時、横浜で下岡蓮杖により写真を学んだ水野半兵衛が所持していたもので、本人のご好意によって当山お吉記念館に御寄付頂いたものです。】
唐人お吉記念館の説明です。
『19歳のお吉写真の謎を解く』に詳しい記事があります。
「http://www.okichi.com/report001.html」
本物か偽者か信じるのは貴方自身です! -
芸能人では、たくさんの方々が“お吉”を演じました。
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お吉人形
【第十代 御所人形師 伊藤久重 作。
昭和三十七年、二条城で開催された明治天皇五十年祭記念
「幕末維新にみる開国文化展」にて幕末の偉人の一人として
製作された。
人形の顔は、美人画の巨匠・前田青邨・伊藤深水・鏑木清方の
3人がモンタージュを作り、顔を製作。
髪の毛はお吉を敬い、京都祇園の芸姑たちが地毛を提供、使用。】
唐人お吉記念館の説明です。 -
お吉人形説明版
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当時の銭湯を描いた絵がありました。
“混浴”です! -
展示物
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展示物
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展示物
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年表
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年表
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お吉が身を投げた稲生沢川“門栗ヶ淵”写真、昭和5年ごろ。
その後“お吉ヶ淵”と言われている。 -
展示物の前の“木”に注目!
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説明版
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お吉の生まれた町の紹介
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お吉の着用した着物
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お吉がお店を開いた「安直楼」約2年で廃業!
近くまで行ったが見学しなかった。皆様はここから歩いても10分掛かりませんので、是非見学してください。「静岡県下田市三丁目5−21」 -
下田民謡「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が 軽くなる」と書かれ、お吉の一生を描いた15枚の一部。
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水谷八重子女史
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水谷八重子女史墓参説明版
【・・・唐人お吉の姿でお吉の墓に女史がお墓参りに来ました…】 -
説明は下記
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上記コップの説明
【三夜でお吉に腫物があると言うことで、ハリスより奉行を通して自宅療養を申しつけられてしまいました。よってお吉がハリスの元に通ったのはこの三夜だけだったのです。物語で演じられているような献身的看病や異人との恋愛感情などは、資料には全く存在していません。】と言う記事もあります。…「真実のお吉」説明文より「http://www3.tokai.or.jp/amagi/smd-okiti.htm」 -
休憩施設
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「文久三年(1863年)一月十五日、山内容堂は宝福寺に滞在。
当寺を訪れた勝海舟の請を容れ、坂本龍馬の脱藩を免罪。
宝福寺は龍馬の維新回天の飛翔の原点となった。
謁見の間は当時のまま残されている。」
坂本竜馬の展示コーナー -
坂本竜馬の展示コーナー
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展示物
説明版の写しです。
【鯨海酔候(げいかいすいこう)の白扇(はくせん)山内容堂(やまうちちょうどう)が坂本竜馬(さかもとりょうま)をゆるした証(あかし)しとして勝海舟(かつかいしゅう)にわたした。】 -
いよいよ、館内を出て、西側にお吉のお墓があります。
まずは、説明を聞いて下さい。
「https://www.youtube.com/watch?v=hHGF4gzp824」 -
“小さいお墓”・・・昭和5年までの古い「お吉のお墓」
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新しい「お吉のお墓」
古いお墓横の説明版の写しです。
【おきちの墓の由来
ペリーが日米修交条約を神奈川(横須賀)で締結後、ハリスが通商条約締結のため浦賀に来たが、幕府はこれをこばみ、下田へ上陸させ、玉泉寺を改修させ領事館とした。通訳ヒュースケンはお福を侍妾とするため姉芸者であったおきちをハリスの侍妾とするよう奉行に働きかけ、ここにおきちはハリスの侍妾としてと同時に米側の真意を知る手段として奉仕、日本側が有利になるよう努力。そのため、恋人植松にも裏切られ、ラシャメン(洋妾)として町の指揮を受けた。これは人種的偏見ばかりではなく、支度金25両、年俸120両をおきちが受けたことに対する嫉妬と、外人との間に私生児をうむことを恐れ外人に近づかせないために自然に当時の町の親たちがとったおきちへの制裁と考えられる。・・・ -
新しい「お吉のお墓」
・・・明治二十四年三月二十七日、世をはかなみ、豪雨の夜下田川の上流に投身、さわると指が腐るとて、どこでもひきとりを拒んだので、宝福寺住職竹岡大乗師は快くこれを受け、如来の胸にいだかれたきょうだいとこ、人夫
二名を雇い、これをもとの墓に葬った。・・・ -
新しい「お吉のお墓」
その後大谷竹治郎、市川松蔦、梅村容子、水谷ハ重子そのほか当山の住職、総代、世話人の手により、おきち自身の墓が作られ、土葬さていた遺骨は昭和5年11月、ここに新しく改葬された。観音像は当檀家の彫刻家大村正夫氏の寄贈になるものである。尚おきち記念館は直接の関係者による共同出品によるものである。宝福寺住職 釈大雲 竹岡範男】 -
カメに座ると長生きする・・・じっくり腰掛けてきた!
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外の休憩施設とトイレ
最後にハリスがさせ領事館とした玉泉寺にハリス記念館があります。今回訪問はしていませんがホームページにお吉についての記事があり一部コピーして載せていただき、中立の立場を取りたいと思います。
【「お吉物語」その虚構と真実
初代アメリカ総領事館には、
お吉やお福を含め5人の女性が召使女として勤めました。
なかでも「お吉」は安政4年5月22日17才でハリスの召使として出仕しました。
しかし、「お吉」の玉泉寺通いはあまり長いものではなく、同年8月に解雇手当が支給された受取書が残されています。実質、3日で解雇されているのです。
「物語」ではお吉の生涯はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、貧困のなか身を持ち崩し、50才でその生涯を閉じたストーリーとなっている。
確かにこの「物語」は良く出来ていて、結末が哀れであり、涙をさそうものであるが、この「物語」のややこしいところは、フィクションと史実が混在している点であろう。
物語では「お吉」を追い詰めていったのは、当時の下田の町人達であり、良くこの物語を考えれば「いじめ」のはなしであって、下田市民としては恥ずかしい話である。
このことを現在、誰一人として疑問に思う人達がいないことの方がむしろ悲しい現実である。・・・】
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