2015/11/16 - 2015/11/16
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ka-keikoさん
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前日の萩から津和野へ移動し その後 香川へ戻った。
16日の走行距離は 585Km.
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
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旧掘氏庭園(国の名勝に指定されている)
笹ヶ谷銅山を300年も経営していた堀氏の旧宅で、客殿(楽山壮)がある北側敷地と和楽園のある南側敷地に分かれる。 -
堀家主屋。
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堀家主屋内部
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堀家主屋内部
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堀家主屋内部
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客殿(楽山壮)庭園
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楽山壮庭園。
客殿は木造瓦葺二階建てで、明治30年(1897)に上棟、同33年に竣工したと伝えられる。
庭園を支える石垣は裏山に分布する輝緑石といわれるもので、大変優れた技術で構成されている。
庭園は背面の岩山を背景とし、その一部を削って滝や平場をつくり園路でつながっている。滝の水源は、この裏山にある廃鉱となった旧「山ノ内」鉱山の坑道から引き込まれ、一年を通じて豊かな水が保たれる---パンフレットより。 -
楽山壮庭園。
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楽山壮2階。
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楽山壮2階
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楽山壮2階より庭を見て
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楽山壮2階より 向かい側にある和楽園を見て。
六角堂も見える。 -
和楽園より主屋をみて
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主屋と楽山壮を見て
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和楽園---和楽園は大正4年の作庭
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和楽園
自然の岩盤を利用して滝石組が組まれ、その間を園路が巡っている。
六角堂と呼ばれる東屋が建っている。 -
和楽園
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和楽園より楽山壮を見て
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掘庭園の横を歩いて
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西周旧宅
ここは西周が4歳から25歳まで(1853〜1833)まで過ごした屋敷。
西家は医師として代々津和野藩に仕えていた。
主屋は1853年4月の大火による焼失後の再建。
学校で習う「化学」のことを、明治のはじめまで舎蜜(セイミ)と言っていた---オランダ語の発音に漢字をあてはめたもの。
これを「化学」という日本語にしたのが 西周(にしあまね)。
「哲学」や「心理学」なども西周の訳語。 -
森鷗外旧宅
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森鷗外旧宅
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津和野町城跡観光リフトで上にあがった。
紅葉が綺麗だったのでパチリ。
リフトから5分で津和野城跡出丸、更に10分で本丸 -
津和野城跡
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津和野城跡
津和野城は標高367mの城山に築かれた山城。 -
津和野城跡本丸より 青野山と町を見て。
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津和野城跡本丸より 青野山と町を見て。
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津和野城跡---正面は青野山
標高367mの山頂にたっていた津和野城の築城は 弘安5年(1282)石見の国に入った吉見頼行公によるものと伝えられている。
その後慶長6年(1601)坂崎出羽守が入城、全域にわたって石垣で強化し、
出丸を増築し、更に坂崎氏断絶のあとは 亀井氏代々の居城として継がれた。 -
津和野城跡の石垣
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津和野城跡の石垣付近の紅葉
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太鼓谷稲荷神社
城山の中腹にある神社で京都伏見の稲荷を勧請したもの。 -
太鼓谷稲荷神社
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乙女峠のマリア聖堂への道
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マリア聖堂
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乙女峠 マリア聖堂
明治の始めに弾圧を受けたキリシタン殉教者を追悼するために建立された---お堂は廃寺光琳寺の跡にたっている。
ここに 改宗をせまられた浦上のキリシタン信徒が捕らわれ多くの人が殉教した。 -
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マリア様の出現を賜った三沢牢の安太郎
およそ3400人の長崎浦上の信徒たちが 見知らぬに土地に流罪の刑を受けた。
津和野藩にも預けられ 改心を迫られたが 改心しなかったので拷問を受けた。
その中で安太郎という若者は明治2年(1869)1月10日、裸のまま雪の中の三尺牢に入れられた。
心配した信者3人が訪問した時 「毎夜九ツ時(12時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様の御影に見えるようなご婦人が頭の上に顕れてくださいます」と言ったとの事。
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