2015/11/14 - 2015/11/14
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Mauricioさん
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ブラジルに来て60年と仰る日本語学校の校長先生
優しい顔をしたお婆さんから聞こえた貴重な証言
そんな事実が在ったのかと今さらながら何も知らなかった自分が恥ずかしい
ブラジルには第二次大戦敗戦直後に戦争に負けたと受け入れられない移民と
敗戦の事実を受け止めて新たに再出発すれば良いと考える移民が居りました
前者を「勝ち組」、後者を「負け組」と呼ばれていた。
この勝ち組と負け組の抗争は日本でも有名な話で
勝ち組総数は約70〜80%、負け組総数は約20〜30%
勝ち組が徹底して負け組を殺して歩いたのですね
それは1960年代半ばまで続いたそうです
勝ち組というのは、事実が受け入れられなくて妄想の世界を生きる頭の固い人
負け組は、事実を認めて再出発の最初の第一歩が踏み出せる人
この差は大きく、まるで今の日本の国内を見ているかの様な錯覚に
元々、ドウラードスには日本人移民は入植しておらず
サンパウロ州に移民して、勝ち組の無差別殺戮から逃れて来た負け組主体
負け組がスタートで、1960年代から新規移民が流れ込んだと
史実を受け入れられる頭の柔らかい人たちが開拓した街ということで
他州には見られないブラジル人との融合が凄く順調な日本人社会でした
ブラジル人側もポルトガル、イタリア、スペインなどの国籍を引き摺らない
受け入れられる人たちばかりで、日本人を敬遠する他州の風潮とは違い
「日本人も外人もみな人間で同じ」、そんな考えで居るそうです
南リオグランデ州やサンタカタリーナ州、パラナ州南部の様に
日本人移民=インディオという偏見は持っていませんでした
また、これら南部3州と国境線を接するアルゼンチンの人種差別は更に酷く
恐ろしいぐらいの露骨な差別を受けますが
首都ブエノスアイレスに行くぐらいでは決して味わうことの出来ない体験です
- 旅行の満足度
- 5.0
-
校長先生は大阪生まれ
4歳の時に空襲が激しくなって神戸に逃げるも
神戸でも激しい空襲にて、広島に逃げ
その広島で原爆に遭い、途方に暮れて逃げ場所を探し
そうこうしているうちに長崎にも原爆投下で追い詰められ
最終的に唯一残った北海道の親戚を頼りに移住した3日後に敗戦
北海道に居ても冬場の過ごし方が分からずでは迷惑を掛けるということで
どうせ死ぬなら新天地で思い切り羽ばたいてからにしようという家族と共に
敗戦後暫く経ってからドウラードスに入植し現在に至っているそうです
この街に来て60年、本当に最高の街で幸福に暮らして来れました
そう仰る校長先生
ドウラードスには日本人会に加入する日本人・日系人が200家族ほど
加入しない日系人も200家族ほど、合計1500〜2000人
たったこれだけの日本人・日系人なのに、街を挙げての日本人歓迎
今まで物凄く沢山の街を旅行して来たけど、こんな街は初めて
日本をここまで快く受け入れて、日本を中心に街が動いている
日本人に対する尊敬が半端なく、この日本祭りでも
誰がボランティアを募集した訳でも無く
ブラジル人たちが率先してボランティアに来てくれるんだそうです
日本人会のイベントは、カラオケ大会、運動会、盆踊り、ゲートボール
色んな催しが在る中で最大のが、日本祭りで町中の人が来てくれる
本当に有難いブラジル人たち
こんな素敵な街を作り上げた校長先生たち日本人移民一世の皆様に感謝
本当に心から好きになったドウラードスの街
お忙しい最中に僕なんかの為に時間を割いて頂けて嬉しかったです
新移民の自分が、後に続く方々の為に頑張ろうという気持ちが湧きました
こんな素晴らしい日本人社会を存続させたいし、他州でも出来ないか?
沢山の課題を頂いた感じがした
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