真田・東御旅行記(ブログ) 一覧に戻る
長野県東御市の海野宿には、江戸時代の旅籠造りと明治時代の蚕室造りが調和した静かな街並みが残っています。<br />その海野宿の東端に「郷社・白鳥神社」があります。<br /><br />東御市観光協会のパンフレットに依ると「日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社です。」とあり、「真田幸隆(幸村の祖父)が武田信虎に攻められたときに、白鳥明神の霊験によって戦場を脱出し、その後家を再興した。」とあります。この戦が天文十年(1541)とのことですので、海野宿が開設された寛永二年(1625)よりも遥か以前からこの神社はあったようです。海野宿の基は白鳥神社の周辺にできた集落なのかもしれません。<br /><br />境内の御神木の説明板に依ると、<br />「建久二年(1191)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の社殿を遷したと伝わります。」と書かれています。<br /><br />

北国街道・海野宿の入口にある「白鳥神社」は、真田家の守護神だった。

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2015/10/27 - 2015/10/27

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minaMicaze

minaMicazeさん

長野県東御市の海野宿には、江戸時代の旅籠造りと明治時代の蚕室造りが調和した静かな街並みが残っています。
その海野宿の東端に「郷社・白鳥神社」があります。

東御市観光協会のパンフレットに依ると「日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社です。」とあり、「真田幸隆(幸村の祖父)が武田信虎に攻められたときに、白鳥明神の霊験によって戦場を脱出し、その後家を再興した。」とあります。この戦が天文十年(1541)とのことですので、海野宿が開設された寛永二年(1625)よりも遥か以前からこの神社はあったようです。海野宿の基は白鳥神社の周辺にできた集落なのかもしれません。

境内の御神木の説明板に依ると、
「建久二年(1191)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の社殿を遷したと伝わります。」と書かれています。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車
  • 境内の説明板に依ると、<br /><br />古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから、この神社は白鳥神社と称する。<br />古代から中世に栄えた豪族・海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としている。<br /><br />白鳥神社は、中世豪族・海野氏の氏神だった。現在は、本海野区の産土神(うぶすながみ)として祀られている。

    境内の説明板に依ると、

    古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから、この神社は白鳥神社と称する。
    古代から中世に栄えた豪族・海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としている。

    白鳥神社は、中世豪族・海野氏の氏神だった。現在は、本海野区の産土神(うぶすながみ)として祀られている。

  • 「白鳥神社」の説明板には、次のように書かれています。<br /><br /> この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。<br /> また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ(長野市松代町)分祀されています。<br /> 往古より本海野に住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念を集め春と秋には海野宿の沿道に幟が立ち並び、例大祭が行われています。

    「白鳥神社」の説明板には、次のように書かれています。

     この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。
     また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ(長野市松代町)分祀されています。
     往古より本海野に住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念を集め春と秋には海野宿の沿道に幟が立ち並び、例大祭が行われています。

  • 鳥居をくぐって境内に入ると、左に社務所があります。

    鳥居をくぐって境内に入ると、左に社務所があります。

  • 右には、手洗い場があります。

    右には、手洗い場があります。

  • 正面は、白鳥神社の拝殿です。

    正面は、白鳥神社の拝殿です。

  • 拝殿の左手前に大きな樹があります。

    拝殿の左手前に大きな樹があります。

  • この大きな樹は、白鳥神社の「御神木」です。樹齢七百年以上の欅(けやき)です。<br /><br />説明板には以下のように書かれています。<br /><br /> 建久二年(1191)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の社殿を遷したと伝わります。木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の側近として鎌倉入りした海野幸氏は、のちに源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。一族の中興の祖でもあった幸氏。樹齢から推定して、その時代に植えられた古木であるのかもしれません。<br /> 海野の地の栄枯盛衰、その永き歴史を見続けてきた御神木です。

    この大きな樹は、白鳥神社の「御神木」です。樹齢七百年以上の欅(けやき)です。

    説明板には以下のように書かれています。

     建久二年(1191)海野幸氏が現在の場所に白鳥神社の社殿を遷したと伝わります。木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の側近として鎌倉入りした海野幸氏は、のちに源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。一族の中興の祖でもあった幸氏。樹齢から推定して、その時代に植えられた古木であるのかもしれません。
     海野の地の栄枯盛衰、その永き歴史を見続けてきた御神木です。

  • 御神木の横から見た拝殿です。<br />屋根のラインが直線的なのが特徴的です。

    御神木の横から見た拝殿です。
    屋根のラインが直線的なのが特徴的です。

  • 右側の狛犬(阿)です。

    右側の狛犬(阿)です。

  • 左側の狛犬(吽)です。

    左側の狛犬(吽)です。

  • 拝殿の正面です。<br /><br />大きな額には「白鳥神社 日本武尊貞光親王…… …………」と書かれています。

    拝殿の正面です。

    大きな額には「白鳥神社 日本武尊貞光親王…… …………」と書かれています。

  • 拝殿の東側から見た本堂です。

    拝殿の東側から見た本堂です。

  • 拝殿の右に小さな鳥居があって、その向こうに小さな社があります。<br /><br />左を見ると、拝殿の屋根が直線的であることが分かります。

    拝殿の右に小さな鳥居があって、その向こうに小さな社があります。

    左を見ると、拝殿の屋根が直線的であることが分かります。

  • 正面の社は、覆堂の中に小さな社を納めたものでした。

    正面の社は、覆堂の中に小さな社を納めたものでした。

  • 中の社を撮りましたが、よく分かりませんね。

    中の社を撮りましたが、よく分かりませんね。

  • 東側から見ています。

    東側から見ています。

  • 拝殿の東には、道祖神などの石碑類が並んでいます。

    拝殿の東には、道祖神などの石碑類が並んでいます。

  • 道祖神などが並んでいるところを、後側(東側)から撮りました。

    道祖神などが並んでいるところを、後側(東側)から撮りました。

  • 境内の東の隅の大きな木の下に池があります。

    境内の東の隅の大きな木の下に池があります。

  • 池の端に「鯨石の噴水」という立札がありますが、どこが噴水なのかは分かりませんでした。

    池の端に「鯨石の噴水」という立札がありますが、どこが噴水なのかは分かりませんでした。

  • 「白鳥神社の社叢」は、昭和56年指定の東御市天然記念物との説明板がありました。<br /><br />曰く、<br />海野宿の東端に位置する白鳥神社は、中世豪族・海野氏の氏神であったが、現在は本海野地区の産土神として祀られている。<br />この神社の社叢は、けやき・杉・槐などの大木によって構成されており、立派な鎮守の森となっている。<br />拝殿前のけやきの御神木は、胸高周囲約5.8m・樹高30mにもおよぶ大木である。

    「白鳥神社の社叢」は、昭和56年指定の東御市天然記念物との説明板がありました。

    曰く、
    海野宿の東端に位置する白鳥神社は、中世豪族・海野氏の氏神であったが、現在は本海野地区の産土神として祀られている。
    この神社の社叢は、けやき・杉・槐などの大木によって構成されており、立派な鎮守の森となっている。
    拝殿前のけやきの御神木は、胸高周囲約5.8m・樹高30mにもおよぶ大木である。

  • 境内には「木曽義仲挙兵の地」との説明板がありましたが、「白鳥河原の勢揃」とあるように、神社の境内ではなく東側の千曲川の河原で挙兵したそうです。<br /><br />説明に依れば、<br /> 治承五年(1181)6月、後白河法皇の第二皇子である高倉宮以仁王が平家討伐の令旨を発した。木曽次郎源義仲は、これに応じて木曽で旗揚げし、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」に挙兵した。<br /> これが、平家物語、源平盛衰記に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」である。<br /> 義仲のもとには、樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族、西上州の武士団が、馳せ参じた。その数は、二千騎とも三千騎とも云われている。<br /> 当時の海野郷は、滋野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝だった。<br /><br /> 義仲は、長野の横田河原、越中の倶利伽羅峠で平家大軍を撃破して破竹の勢いで上洛した。寿永三年(1184)1月に征夷大将軍に任じられたが、その十数日後に近江粟津で戦死した。旭将軍の挙兵は、わずか三年で幕を閉じた。<br /><br /> 義仲挙兵のときに中原兼遠から義仲を託された海野幸親を当主として、嫡男・海野幸弘は侍大将を担ったが備中水島の海戦で戦死、次男・海野通弘は義仲の祐筆で軍師としても活躍した太夫房覚明であると云われている。<br /> 幸弘の嫡男・海野幸氏は、義仲滅亡後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。

    境内には「木曽義仲挙兵の地」との説明板がありましたが、「白鳥河原の勢揃」とあるように、神社の境内ではなく東側の千曲川の河原で挙兵したそうです。

    説明に依れば、
     治承五年(1181)6月、後白河法皇の第二皇子である高倉宮以仁王が平家討伐の令旨を発した。木曽次郎源義仲は、これに応じて木曽で旗揚げし、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」に挙兵した。
     これが、平家物語、源平盛衰記に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」である。
     義仲のもとには、樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族、西上州の武士団が、馳せ参じた。その数は、二千騎とも三千騎とも云われている。
     当時の海野郷は、滋野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝だった。

     義仲は、長野の横田河原、越中の倶利伽羅峠で平家大軍を撃破して破竹の勢いで上洛した。寿永三年(1184)1月に征夷大将軍に任じられたが、その十数日後に近江粟津で戦死した。旭将軍の挙兵は、わずか三年で幕を閉じた。

     義仲挙兵のときに中原兼遠から義仲を託された海野幸親を当主として、嫡男・海野幸弘は侍大将を担ったが備中水島の海戦で戦死、次男・海野通弘は義仲の祐筆で軍師としても活躍した太夫房覚明であると云われている。
     幸弘の嫡男・海野幸氏は、義仲滅亡後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。

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