2015/10/27 - 2015/10/27
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minaMicazeさん
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来年(2016年)の大河ドラマの主人公が真田幸村とのことなので、ゆかりの地域である東信濃方面を訪れました。
道の駅・雷電クルミの里へ寄ってから、北国街道の宿場町である「海野(うんの)宿」へ行きました。ここが思いの外、見応えのある街並みだったため上田城まで行くには時間が足らず、地元のお風呂・みまきの湯に入って帰路に着きました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車
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まずは地元の物産に触れるべく、道の駅に寄りました。
「雷電クルミの里」の名前は、江戸時代の名力士「雷電為右衛門」の生誕地であること(道の駅の近くに生家がある)、全国一のクルミの産地であること、に依ります。
ここは平成15年8月に道の駅として登録されました。
写真の図の、緑色の部分は東御市が主体となる地域振興施設であり、水色の部分は長野県が主体で整備したものです。 -
この道の駅は「浅間サンライン」と呼ばれる県道79号沿いにあります。
写真は、道の駅の駐車場内から、出入り口を見ています。
出入り口の傍に立っている木のタワーは、道の駅の看板です。 -
右の方を見ると、駐車場の樹木は色づき始めています。
奥に見える山は浅間山です。 -
道の駅の南側は、高速道路(上信越道)です。
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地元農産物直売所の入口です。
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力士・雷電の絵が描かれた日除け暖簾です。
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駐車場の端には雷電の像、直売所の軒下には雷電の立て看板(実物大:身長197cm)があります。
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売店の棚には、雷電と名付けられた日本酒が数種類あります。
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左側の壁際には、真田関連グッズがあります。
「祝、NHK大河ドラマ決定」と書かれた、手書きのPOPが、控えめで好感。 -
開館から12年で400万人だそうです。一ケ月平均にすると28,000人くらいです。
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雷電とクルミが、この道の駅の名前の元です。
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一口にクルミと言っても、こんなに種類があるんです。
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海野宿のポスターも掲げられています。
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道の駅の「郷土食コーナー」で昼食です。
食べるものを決めたら、右奥に見える自販機で食券を買います。 -
「秋満定食」という名の定食、720円です。
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「くるみおはぎ・2個セット」は、280円です。
おはぎに、砂糖を混ぜた(?)くるみがまぶしてあります。
付け合せの漬物は、野沢菜です。 -
「くるみたれ手打ちそば」は、880円です。
手前の中央にあるのが「くるみペースト」です。 -
道の駅を後にして、浅間サンラインから国道18号へ入り、西へ進むと「海野宿入口」という交差点があります。
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「海野宿入口」交差点を南へ曲がると、すぐに陸橋でしなの鉄道を越えます。
陸橋を下りきると、右側(西側)に、市営駐車場(無料)の出入口があります。 -
駐車場の入り口付近から奥(北)方向を見ています。
右の、一段高くなっているところが道路で、奥が陸橋です。 -
道路の向こう側(東側)は、千曲川です。
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駐車場から海野宿へ行く途中に海野宿案内板があります。
その案内板や東御市観光協会のパンフレットに依れば、
海野宿は、昭和61年に「日本の道百選」に選ばれ、昭和62年4月には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
海野宿は、寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されたと伝えられています。
北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ街道で、佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代、江戸から善光寺への参詣などに使われました。
はじめは(東隣の)田中宿の「あいの宿」として問屋だけが置かれていましたが、寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大きな被害を受けたため、本陣が海野宿へ移されました。
街道のほぼ中央に用水が流れ、宿場の東西には枡形が置かれています。
宿場時代の建物の多くは旅籠屋造りで、出梁造りや海野格子(二階の出格子)が今もよく残されています。
江戸末期、明治以降は養蚕業、蚕種業で栄え、その富により堅牢な蚕室造りの建物が造られました。 -
案内板には、屋敷割図 が描かれています。
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案内板の南側に、海野宿があります。
海野宿入口の右側、写真の右に見える大きな樹は、真田家の守護神といわれる白鳥神社です。 -
海野宿に入ってすぐ右側には、旧消防庫(右)と半鐘、その隣に関家(左)があります。
以下、建物等の説明は、東御市観光協会のパンフレットに依ります。 -
関家の隣(西側)は「旧地蔵寺跡」で、門はありますが、その後ろは空き地になっています。
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空き地の奥の建物は「海野宿ふれあいセンター」です。
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左に半分だけ見えている山門の奥に見える小さな社は「媒(なかだち)地蔵尊」です。
加賀の国のお殿様が参勤交代の道中にお参りしたところ、なかなか良縁に恵まれなかったお姫様が結婚できた、という逸話が残っていて「縁結び地蔵」と呼ばれているそうです。 -
説明板に依ると、媒地蔵の由来は、
海野氏の家臣・赤石藤治友信が媒地蔵菩薩を小庵に安置したことに始まる。創建年不詳。
天文年間に衰退し、寛永二年に中興開山して地蔵寺と称した。元禄四年にこの地に移転再建された。
昭和26年に焼失、間もなく廃寺となった。
其の後、この文化財を惜しむ声があり、残っていた山門、常夜燈の脇に新たに建立された。
説明板の日付が、平成七年六月四日となっているので、これが新たに建立された日付なのかもしれません。 -
説明板の「残っていた常夜燈」が、これかもしれません。
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広場の西隣は「上州屋」の看板が出ています。
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道には水路があって、水路沿いには樹木があります。
こちらは南側の街なみ、
左に一部見えているのが「ひらのや(平川家)」、
その右が「やまとや(宮坂家)」です。 -
左手前は「あらものや(所家)」、その向こう側は「かぎや(宮下家)」です。
右手前は「石和」です。 -
右に一部見えているのは「石和」、
その左側は「あらものや(所家)」、表札には「荒所」と書いてあります。
その向こう側、卯建(うだつ)の壁が見えている建物は「海野宿資料館」です。 -
「海野宿資料館」です。
白い張り紙は、媒地蔵尊の縁日(11月3日)の案内です。
2階の格子は長短2種類の縦部材で組まれており、これを「海野格子」というようです。さらに、2階の格子が張り出しており、これを「出梁(だしばり)造り」といい、江戸時代に作られたものがそのまま残っているのだそうです。
なお、1階の格子戸は明治以降に作られたものが大半だそうです。 -
「海野宿歴史民俗資料館」の看板です。入館料は200円。
これに依ると、この建物は寛政年間(1790年頃)に建てられた旅籠屋です。
明治時代に入って宿場の機能が失われるとともに、旅籠屋造りを残して養蚕に利用された。 -
資料館の隣は「ふくじまや(矢島家)」です。
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「ふくじまや」の隣は「だいちゅう(佐藤家)」です。表札には「大中」とあります。
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左が「だいちゅう」、中央が「ふくじまや」、右が「資料館」です。
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左側は手前から「だいちゅう」、「ふくじまや」、「資料館」……、です。
右側に屋根が見えているのは「たまや(宮坂家)」です。 -
「だいちゅう」の西隣りは「もとのや(所家)」です。
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右に半分くらい見えている「もとのや」の隣は、「やまとや(宮坂家)」です。
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南側の街なみ、西から東方向を見ています。
格子のある建物は「こまつや(小林家)」です。 -
「こまつや」の西隣りの「ふじや(小林家)」の表札です。
左の表札には「蚕種製造業 昇國館 富士屋」と書かれています。 -
「やまとや(宮坂家)」です。
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「やまとや」の西隣りは「ふじや(小林家)」です。
この2階の格子も「海野格子」で「出梁造り」なので、江戸時代のものだと思います。 -
「ふじや」の2階の格子を東側から、
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そして、西側から、
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右に一部だけ見えるのが「ふじや」、その左が「ふくじまや(矢島家)」、その左も「ふくじまや」と続いています。
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中央は、西側の「ふくじまや」です。
だいぶ荒れているので、使われていないのかもしれません。 -
東側の「ふくじまや(矢島家)」を西側から見ています。
2階の格子が「海野格子」のようなので、江戸時代のものだと思います。 -
右に少しだけ見える白壁は「ともえや(寺西家)」、その左、中央は「おおしまや(矢島家)」です。
屋敷割図に依ると、ここが(東側の)「脇本陣跡」です。 -
「脇本陣跡」の前の用水傍に「北国街道(現在市道田中西海野線)」と、「重要伝統的建造物群保存地区」の標柱があります。
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本陣跡「おのや(小野家)」です。
右に少しだけ見える白壁の家は「たちばなや(花岡家)」、その右に2階の屋根が見える建物が脇本陣跡「おおしまや」です。 -
「本陣跡」を示す石碑と、
左にあるけど黒くてよく見えないのが「進善学校及び風声学校跡」の石柱です。 -
本陣跡「おのや」の西隣りの「おおしまや(矢島家)」(ここも本陣跡)の前にあった石臼のような石造物。
「馬の塩舐め石 伝馬に与えた塩を盛った石」だそうです。 -
右に壁だけ見えているのが、本陣跡「おおしまや」、中央奥の建物は「しまや(矢島家)」で、ここまでが本陣跡です。
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2軒つながったような大きな建物は「おのや(小野家)」です。(西の)脇本陣跡です。
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2軒つながったような大きな建物は「おのや(小野家)」です。(西の)脇本陣跡です。
その向こうの白壁三角屋根は「まるや(関家)」です。 -
「おのや」の西半分です。
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「おのや」の西側の「まるや(関家)」と、その左側は「あぶらや(所家)」です。
「まるや」の表札には「丸屋 平右衛門」と書かれています。 -
「あぶらや」(左)と、「おのや」(右)の間の路地には「御蔵小路」という名前がついています。
両側に白壁板塀が続いています。
路地入口のマンホールの蓋の絵柄は海野宿です。 -
御蔵小路を北へ入り、少し歩くと踏切があります。海野宿の北側には、海野宿に沿って、しなの鉄道が走っています。
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石塀は「よしのや(滝沢家)」、その向こうの大きな建物は「うんのわ」です。
「うんのわ」とは、古民家を改装して、敷地内に、喫茶、レストラン、宿泊施設等を設置してあり、敷地内は見学自由です。
その向こうの大きな屋根は「おのや(小野家)」です。 -
大きな屋根の「おのや」とその向こう側はおおぎや(茂木家)」です。
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「おおぎや」の西隣の「橋本家」です。
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南側の街なみです。上の「おのや」の相向かいの「つたや(橋本家)」です。
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さらに西へ歩くと、小さな水路に架かる小さな橋のたもとに「海野氏菩提寺 興善寺 是より北へ一粁→」の石碑があります。
石碑の左に見える建物は「かのうや(関口家)」です。
この先には歴史的な建物はあまりなさそうなので、ここで引き返します。 -
石碑の後ろ側から、南側の街なみを見ています。この建物は「よしのや(滝沢家)」です。
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右手前の白壁の建物は「まるや(関家)」、その向こうは「しまや(矢島家)」です。
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「しまや」の前に置かれていた花です。
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南側の街なみの「たけのや(中山家)」、その向こうの白壁の建物は「おのや(小野家)」です。
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南側の街なみです。中央は「かめや(上原家)」、その向こうは「いずみや(武井家)」です。
右端に紫色の暖簾の一部が見えているのが「玩具展示館」です。 -
南側の街なみです。
蔵のような作りの建物は「だいまるや(丸山家)」、その向こうは「おのや(小野家)」です。 -
「おのや」の2階の格子も「海野格子」ですね。
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「おのや」の東端の「卯建」と、その向こうは「ふくじまや(矢島家)」です。
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北側の街なみ、左から「ふくじまや」「ふくじまや」「ふじや」……です。
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南側の街なみ「ふくじまや」の1階の格子です。
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南側の「ふくじまや」の東隣「ふくじまや(矢島家)」の出入り口です。
表札には「矢島家の別邸」というように書かれていました。 -
北側の街なみです。左から「もとのや」「だいちゅう」「ふくじまや」です。
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北側の街なみです。中央が「ふくじまや」、その向こうが「海野宿資料館」です。
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「資料館」の相向かい、南側の「かぎや(宮下家)」です。
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k田川の街なみ、「海野宿資料館」です。
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南側の街なみ、「あらものや(所家)」の前に、「貞明皇后 養蚕視察記念碑」がありました。
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南側の街なみ、右も左も「やまとや(宮坂家)」です。
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北側の街なみ、「じょうしゅうや(藤田家)」、右の赤い屋根は「小林家」です。その右奥がふれあいセンターです。
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北側の街なみの東端付近です。
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東端の水路の傍にも「貞明皇后 養蚕御視察記念碑」があります。
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海野宿を出て、駐車場へ向かいます。
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道の左側の、写真中央付近が駐車場です。
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遅くなってしまったので、上田城へは行かず、道の駅「みまき」へ寄ってみました。ここは、敷地内に、在宅支援センター、老人ホーム、温泉アクティブセンター(温水プールでの健康施設)などがあり、道の駅としての施設はほんの一部です。
ここに併設されている温泉施設「御牧乃(みまきの)湯」に入ってきました。500円でした。 -
「御牧乃湯」の駐車場から見た浅間山です。
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駐車場の樹は、一部色づき始めていました。
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落葉樹の下は一面の落ち葉です。
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駐車場の中のこちらの樹も色づき始めていました。
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こちらは、帰りに寄った横川SA上り線の一角にあった庭園(横川苑)の入口です。
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門から中を覘くと、散策路が続いていました。
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横川SAの建屋の中にはこんなものがありました。
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