2015/10/12 - 2015/10/12
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minaMicazeさん
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群馬県太田市の龍舞町の賀茂神社です。
半月ほど前に訪れた際に、上から2番目の横方向部材(「貫(ぬき)」というらしい)が柱の外側へ突き出ていない鳥居が気になったので、再度、訪ねてみました。
ネット情報によると、
この鳥居は、
上の横方向部材(二重になっている上が「笠木」、下が「島木」という)が上に反っている(「反増」)ことと、「貫」が角棒で柱との結合部に楔がないことから「中山鳥居」と呼ばれるようです。
この地名は「龍舞(りゅうまい)」ですが、駅名(東武鉄道小泉線)は「竜舞(りゅうまい)」です。辰年になると話題になり、切符が売れたりするようです。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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県道2号線、群馬県太田市龍舞町の押しボタン式信号のある交差点です。
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交差点の右を見ると、大きな鳥居があります。賀茂神社の鳥居です。
境内にある鳥居と違って、「貫」が柱の外側へ突き出ています。「笠木」「島木」の両端が沿っています。ネット情報に寄れば「明神鳥居」という鳥居のようです。 -
鳥居に掲げられている額です。賀茂神社と書かれているのだと思いますが、判読できませんでした。
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鳥居の手前、交差点の角にあった石造物です。
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上部には照明灯がついていたようです。四角い穴は、木枠の扉になっています。それ以上のことは分かりません。
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柱の部分には、正面に「龍舞青年団」、側面には「昭和五年三月五日」の文字が刻まれています。
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鳥居のある交差点から、県道沿いにほんの少し歩くと「八坂神社」と書かれた社があります。駐車場の片隅に建物だけがあります。
正面(道路側)には「八坂神社」と書かれていますが、側面(西側)には「金毘羅神社」、「秋葉神社」の額が掲げられています。 -
鳥居をくぐって、参道(?)を神社へ向かいます。
右の石柱には「郷社 賀茂神社」と書かれています。
ネット情報によれば「郷社」とは神社の「格付け」で、一般の神社の一格上だそうです。 -
石柱の裏面には「大正八年五月寄進者當諸所稲村春吉」と刻まれています。
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鳥居のすぐ北側には、歴史を感じさせる建物があります。
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その建物の隣には、クレープの店「Sucre(シュクレ)」があります。
神社の参道にクレープの店、というのが時代の変遷を感じさせられます。 -
参道を北へ進みます。
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参道を北へ進んで小さな交差点を越えると、左側に「権現様」があります。
建屋左側の「権現様由来記」によると、
治承三年(1179)に、新田氏の先祖が熊野三社権現に参詣したとき、武家の守護神として、此の地に分霊してお祀りした。併せて、萬民安楽を願った。
上野の国の鎮守である赤城大明神を合祀して、新田氏の要請により下向した十二所坊に、之を守護させた。
此の修験者が、熊野十二所坊を称した「寿朝」である。園田家文書によると、この「寿朝」が園田家の始祖である。
現在地の小字名が「権現」となっているのは、この事によると思われる。
降って明治五年(1872)に、賀茂神社が「郷社」に昇格したとき、この「権現様」は、末社二十四社の内の有力社として記録されている。
ご利益は、足の煩い(とくに脚気)に霊験があると、氏子はじめ崇敬者に評判である。
平成十二年(2000)に大改築竣工した。 -
境内の石柱には「明治三十八年四月吉日」の文字がある。
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社の正面に掲げられた額は「熊野神社」「赤城神社」と刻まれている。
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社の中には、右側に……
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左側には……
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社内正面の「権現様(?)」
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「権現様」を後にしてさらに参道を進むと「消火栓」を表す石柱がありました。
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さらに参道を進むと、次の交差点から先が少し曲がっています。
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(*)上の交差点のすぐ先の右側に広場がありその北側に賀茂神社があります。
この写真に見える鳥居が、「貫」が外に突き出ていない「中山鳥居」です。
写真は半月ほど前に撮ったものです。(以下*印の写真も同じ) -
参道の左側に「群馬県指定 重要無形民俗文化財 龍舞賀茂神社の萬燈祭(まんどうまつり)」の石柱と、説明板があります。
説明板によると、
「萬燈祭」は、龍舞賀茂神社で行われる春の大祭で、四月第二日曜日に本祭が行われます。前日の宵祭(前夜祭)とあわせて、日本の祭りの姿を今も色濃く残しており、地元の保存会によって継承されている。
宵祭りでは、龍舞の各「コウチ」が作った大小十四基の萬燈を奉納し、宮司による入魂とお払いの儀式が行われる。その後萬燈は各「コウチ」に戻る。
本祭当日は、各「コウチ」が萬燈を神社に集結して祈願祭が行われる。午後、神社を出発した萬燈は参道に配列し、夕方「振り込み(担いで振り回す)」が始まる。萬燈を振り込みながら二時間ほどかけて神社に入り、午後九時ごろの手打ち式で祭りが終わる。萬燈が神社に奉納されると、人々は萬燈に飾られた「花ヒゴ」を貰い受けて帰宅する。この「花ヒゴ」を家の入口などに刺しておくと魔除けや厄病除けになる。また、これを箸にして繭掻きをすると、繭が増収すると信じられてきた。
萬燈祭は、天保八年(1837)に始まったとされている。
天保の大飢饉の時に、京都方面からたどり着いた流浪人が、京都賀茂神社の御分霊をお祀りしていることを知って、京都で奉納されていた萬燈を、此の地でも奉納するようにすすめた、と伝えられている。 -
(*)広場から見た、賀茂神社の参道です。
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(*)参道にある鳥居は、「貫」が柱の外側に突き出ていません。
県道沿いの鳥居は突き出ていました。一つの神社に複数の形?、と思いましたが、形はあまり重要ではないのかもしれません。 -
(*)鳥居の先から見た参道です。
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参道の奥には一対の狛犬と拝殿が見えます。
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(*)右側の狛犬です。
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(*)左側の狛犬です。
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(*)参道の狛犬と水屋です。
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(*)拝殿です。
参道右側の掲げられている「賀茂神社縁起略記」によると、
この神社は、貞観三年(861)に、大納言藤原長良公が京都賀茂神社の神霊をここに勧請して一社を建立し、賀茂明神と称した、と伝えられている。祭神として別雷命(わけいかずのみこと)を祈り(祀り?)、末社二十余社を数える。
社伝および園田文書に依ると、
貞観三年(861)に武蔵羽生で賊徒が反乱を起こして東国が大いに乱れたとき、上野国司として国府に在城していた長良公に勅命が下り賊徒を誅伐した。
この時、長良公は京都の賀茂明神に戦勝を祈願してから、此の地に出陣し、利根川を前の備えとして「長蛇の陣」を敷いた。その際、四霊の神(青龍、白虎、朱雀、玄武)の神旗を龍舞の地の四方に建てて対陣した。青龍の旗が風になびいて龍形となり、雲に届くと雷電すさまじく烈しい雨となって敵陣を襲った。そして遂に賊徒を平定した。このことから、此の地に神社を創建した、と伝えられている。 -
(*)拝殿の正面です。
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(*)拝殿の軒下の左側です。
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(*)拝殿の軒下の右側です。
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(*)拝殿に掲げられた「賀茂神社」の額です。
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(*)拝殿の軒下です。
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(*)拝殿の屋根の中央部分です。
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(*)拝殿の屋根の右側です。
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(*)東南側からの、拝殿の遠景です。
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(*)拝殿の右には小さな社があります。
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(*)拝殿の東面です。
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(*)拝殿の後ろには本殿、その後ろに奥宮(?)が見えます。
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(*)本殿の東面です。
左手前には
「あぶないのでちかよらないで下さい
危険につき立寄を禁ず
子供会
神社総代 」
と書かれた札が掲げられています。 -
(*)本殿の裏の社(奥宮?)です。
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(*)奥宮(?)の正面です。
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境内をパノラマで撮ってみました。
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(*)神社の西側です。右手前が拝殿、その奥に連なるのが本殿です。
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(*)南西側から見た拝殿です。
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(*)拝殿の西側にある小さな社です。
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拝殿の南西側にある倉庫(?)です。
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倉庫(?)の南面です。
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その西側は「神社の杜」です。
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「神社の杜」の西端、道路際に丸太材が保管されています。
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丸太材は「萬燈祭」で「四神霊の旗」を建てるためのものかもしれません。
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敷地外、西側から見た「神社の杜」です。
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