2015/06/03 - 2015/06/03
130位(同エリア399件中)
ハナママゴンさん
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- 旅行記13冊
- クチコミ3件
- Q&A回答7件
- 47,035アクセス
- フォロワー4人
二年前にアウシュヴィッツとビルケナウを訪れた際、歩いてみたオシフィエンチムの町。でもユダヤ人センターによって運営される予定のカフェは建設中だったし、残念なことに町の広場までが再舗装工事中でした。
完成したカフェと再舗装されてきれいになった広場をこの目で確かめたくて、イギリス在住という地の利を活かし、また行ってきました。オシフィエンチムはお城あり、マーケット広場あり、由緒ある素敵な建物あり、ユダヤ人センターありで、とても魅力的。ポーランドは素人の私ですが、ポーランドの小さな町を体験するには理想的な訪問先で、素通りしてしまうのはもったいない!
オシフィエンチムが“悲惨な負の歴史を刻まれたアウシュヴィッツ”なだけではないことを、できるだけ多くの人に知ってもらえたら・・・と思います。
《旅行記内の説明文は、インターネットで得た情報と、2年前にオシフィエンチム城で買った“Oświęcim - City Monuments”という小冊子を主に参考にしています。》
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2泊したのは、アウシュヴィッツ第一収容所(アウシュヴィッツ?)のはす向かいにあるホテル・オレツキ(Hotel Olecki)。
朝食後、今日も蒸し暑くなりそうな空気の中を出発です。 -
博物館の入口がある建物は一部が修復工事中で、2年前にアウシュヴィッツ?ビルケナウからのシャトルバスが到着したゲートは、今回はこのように閉鎖されていました。
駐車場も建物に近い方は閉鎖され、遠い方の駐車場が使われていました。 -
屋根瓦を葺き替えているので写真を撮ったら、シャッターを押したとき気がついたのですが、・・・
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・・・フレンドリーな作業員さんがヘルメットを掲げた手を振ってくれていました!
もちろん私も、手を振って返しました。 -
幅広い歩道の前方に、突然出っ張っている監視塔。
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この幅じゃ、車椅子やベビーカーはムリ! 図々しい監視塔だこと。 (`O´*)
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監視塔を過ぎて振り返ったところ。歩道はまた幅広くなっていました。
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アウシュヴィッツ博物館(=元強制収容所)の外側にあるこの大きな建物は、戦前は劇場だったそうです。カルメル会は1984年にここに修道院を開設して、物議をかもしました。事の起こりはというと・・・
ポーランド人として初のローマ教皇に選出されたヨハネ・パウロ2世は、1979年にアウシュヴィッツ(おそらくビルケナウ)で約50万人の信者を前にミサを行い、エーディト・シュタインは列福されるであろうと告げました。その後一部のカトリック信者がビルケナウの、彼女がガス殺された場所の近くに十字架を立てました。すると間もなく、今度はユダヤ教/ユダヤ民族の象徴であるダビデの星が出現。宗教のシンボルの乱立が懸念されましたが、ダビデの星はその後取り下げられました。
1984年にカルメル会の修道女たちは、アウシュヴィッツ?の隣のここに修道院を開設。しかしこれはユダヤ人団体の猛烈な反発を招き、カトリック教会は1987年に、修道院の閉鎖に同意します。1988年にカルメル会は、1979年のミサに使われた高さ8mの十字架を、修道院の隣、“死のブロック”11号棟からは塀を隔ててすぐの外にあたる場所に立てました。この行為は、ふたたびユダヤ人団体を刺激。彼等は「アウシュヴィッツで殺されたのは大多数がユダヤ人なのだから、宗教を象徴するものはアウシュヴィッツの近くに置かれるべきではない」と主張しました。 -
1989年までに修道院を閉鎖するようカトリック教会に命じられていたカルメル会は、ようやく1993年になって、十字架は残して立ち退いていきました。(とはいっても、道路を隔てて反対側に引越しただけ。)ユダヤ人団体はその後も十字架の撤去を要求し続け、それに反発した地元のカトリック活動家は、1998年に約300の小さな十字架を大きな十字架の周囲に立て、ふたたび物議をかもしました。カトリック団体の主張は、「ここは人口の98%がカトリック教徒であるポーランド人の国。ナチスの犠牲者は大半がユダヤ人だったとはいえ、その責任は侵攻してきてポーランドを占領したドイツ人にある。自分の国で、自分たちのしたいことをして何が悪い?」というものです。
ポーランド政府、ポーランド・カトリック教会とユダヤ人組織はやがて合意に達し、小さな十字架は1999年に取り除かれましたが、ヨハネ・パウロ2世がミサに使った大きな十字架だけは残されました。
写真の標識ですが、グーグル翻訳によると『この建物はアウシュヴィッツ博物館の管理・監視下にある』みたいなことが書かれているようです。 -
ヨハネ・パウロ2世が1979年のミサに使った十字架です。後方の建物は“死のブロック”11号棟。
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角を曲がってアウシュヴィッツの塀沿いに歩き出すと、内側に旗棹が並んでいるのが見えます。(見づらいですね・・・ m(_ _)m)これらは、多くの囚人が銃殺された“死の壁”の後ろに立つ旗棹です。
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やがて見えてくる、アウシュヴィッツ収容所司令官ルドルフ・ヘスに与えられていた家。
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もともと住んでいた住人を追い出してヘスに与えていた家ですから、もちろん現在は、ヘスとは何の関係もない人が住んでいます。
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“元へスの家”からアウシュヴィッツを見たところ。
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ちなみに収容所敷地内から見た元ヘスの家はこんな感じです。(真中の、遠くに小さく見える建物。)
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ズームインしてみました。
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この家の人、こうして通りすがりに写真を撮られることに辟易しているだろうな・・・ と思いつつ、私も撮らせていただきました。
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博物館(アウシュヴィッツ?)と元ヘスの家が遠ざかっていきます。
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位置関係です。
1: ホテル・オレツキ(Hotel Olecki)
2: カルメル会修道院に使われた建物
3: ヨハネ・パウロ2世がミサに使った十字架
4: “死の壁”
5: 元へスの家 -
近道するため、フットパスに下りてみます。
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雑草の花粉でくしゃみが出て辛いですが。(私は花粉症もちです)
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タウン・センターに行くにはこの右手を流れるソワ川を渡らなければなりません。
・・・待てよ。もしかして、引き返して道路沿いに歩かなければ川は渡れない?! -
道路下をくぐってみたら・・・ 大丈夫、ちゃんと道路に戻るための階段がありました。ほっ。
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この階段を上って、ソワ川を西から東に渡ります。
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北にオシフィエンチム城の塔が見えます。さて、先に見えている一見橋のようなものですが。出発前グーグル・マップで見て(歩行者用の橋ならいいな)と思ったけれど、やはり橋ではなくてパイプか何かでした。
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東岸に渡ったところにまた階段があったので、川沿いの公園に下ります。
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公園内に一軒だけ、小さいお城のようなお宅がありました。カワイイ。
日差しがますます強くなってきました。今日も30℃超えになるそうです。 -
町の広場へと続く道路に出ると、間もなく右手にあるこの建物は:
1903年から1912年にかけて建設されたもので、ふたつの世界大戦の間の時期までは個人の家でした。その装飾的な造りから、“Little Castle” “Little Palace”などと呼ばれてきました。
現在この建物には戸籍登記所が入っているため、“Wedding Palace”とも呼ばれています。最上階には美しく整えられた“Wedding Room”があります。またオシフィエンチムの市議会も、数年前からここに擁されています。 -
橋を渡り公園を抜け、1がウェディング・パレスです。
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白亜の教会とその水色の塔(*^▽^*)が見えてきました。
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でもその前に。道の左手に、大小の教会ぽい建物があります。
向かって右側の大きい方は、The Church of Our Lady Help of the Poor(日本語に訳せないのでこれでご勘弁ください。ちなみに英語版ウィキでは簡単に St. Mary's Church となっています)。もともとこの辺りには、14世紀に建立されたドミニコ会の修道院・聖十字架教会などの複合施設がありました。しかし神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の修道院解散令により、18世紀後半からドミニコ会施設は荒廃していきます。崩落の危険があった教会の屋根は1845年に撤去され、廃屋となっていた施設は所有者を次々と替えながら倉庫として使われました。
19世紀末に施設を手に入れたサレジオ修道会は、修道院を撤去し、教会を建て直しました。再建途中の教会で最初の礼拝が行われたのは、1900年8月19日。教会が現在の姿に完成したのは、1984年でした。
左側の小さい建物は、ドミニコ会の施設のうち、唯一残ったもの。14世紀初めにチャプター・ハウス(修道士たちの会議場)として建立され、1594年にポーランドのドミニコ会士だった聖ヒアシンス(ポーランド語では聖ヤツェク、1185?-1257)の名を冠した礼拝堂にと改築されました。この礼拝堂もドミニコ会解散により倉庫として使われましたが、1894年に市民協議会が二人のユダヤ人商人から礼拝堂を買い取り、修復しました。 -
聖ヒアシンス礼拝堂の前に立つ銅像の人物は、サレジオ修道会の創立者ヨハネ・ボスコ(=ドン・ボスコ、1815-1888)でした。最も貧しい青少年の救済のために生涯を捧げ、“若者の父” “カトリック教育の師”と讃えられ、その聖徳により列聖された方のようです。
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「反ユダヤ主義は、神と人道に対する罪である」 とおっしゃるヨハネ・パウロ2世も健在でした。
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町の中心・マーケット広場! \(^∇^)/ ヤッター!!
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再舗装が完成し、こんなに素敵になっていました。 (感涙・・・)
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2年前の6月はこんなだったのに。
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あのときは、周囲を歩くことしかできませんでした。
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それが、こんなにきれいになって。
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第二次世界大戦勃発時は、住民の過半数がユダヤ系だったというオシフィエンチム。
戦前のユダヤ人コミュニティーを紹介するパネルが展示されていました。 -
ユダヤ系住民でオシフィエンチムのユダヤ系住民会の会長を務め、町議会のメンバーでもあったルドルフ・ハベルフェルト(1874-1921)、その妻エルナと娘のイローナ。
ハベルフェルト家は戦前まで代々蒸留酒を製造してきました。ルドルフの息子アルフォンスと妻フェリーチャは、1939年、2歳の娘をフェリーチャの母親と乳母に託して世界フェア出展のためニューヨークに赴きます。娘へのお土産をたくさん持って帰国途中、第二次世界大戦が勃発。二人が乗った船はスコットランドへと方向転換され、帰国できなくなった二人はしばらくイギリスで過ごしたあとアメリカに戻りました。5年後、二人は幼い娘とフェリーチャの母親がたどった運命を知ります。二人はクラクフのゲットーの地下室に隠れていたところを見つかり、ベウジェツ強制収容所に送られ、そこで殺害されました。親類の多くも同様の運命をたどりました。2010年にロサンゼルスで亡くなったフェリーチャさんは、娘へのお土産だった娘の瞳と同じ色の青いワンピースを、生涯手放すことはなかったそうです。
20世紀初頭のオシフィエンチム城のあたりの写真には、道路をはさんでお城の反対側にあったハベルフェルト・ハウス(40室ある大邸宅)と蒸留酒工場が写っています。工場は共産主義時代は蒸留酒製造に使われたこともあったようですが、その後打ち棄てられ、老朽化が激しすぎたのか、2003年に撤去されました。 -
これは“ユダヤ人通り”と呼ばれた通りで、町で最大だったグレート・シナゴーグもここに写っているそうです。(私にはどれだかわかりませんが。)
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左の大きな建物がグレート・シナゴーグだそうです。グレート・シナゴーグは1939年11月29日に、侵攻してきたドイツ軍によって破壊されました。ドイツ軍は、町に20余りあったシナゴーグのうちひとつを除いてすべてを破壊しました。
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広場の東南の隅に近いところには、手回し車つきの面白い井戸もできていました。
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小広場はマーケット広場の東南隅から南下してすぐの左手なので、行ってみます。
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小広場です。現在は広場というより、手前にスペースがたっぷりあるY字路という気も。
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こんな風に、削り取られたような角にバルコニーがついている建物って、イギリスでは見かけないので新鮮です。(フランスとかにもありそう。フランス行ったことないけど。)
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マーケット広場に戻ってきました。ずんぐりした花の塔。鮮やかな色の花って、暑さによく合う気がします。
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四角いガラスケースの中をのぞいてみたら、地下は空洞で、コンクリートの袋や木切れみたいなのが床に置かれていました。まだ何か作業中らしいです。
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噴水までできていました。
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広場の北東にあるアーケードつきの建物は、19世紀に建てられたかつてのヘルツ・ホテル(Herz Hotel)。1915年2月7日に、当時准将だったのちの“現代ポーランドの父”ユゼフ・ピウスツキ(1867-1935)が他の将校たちとともに投宿したことで有名です。
第二次大戦中にドイツ軍によって一部を改築されたこの建物は、近年はずっと薬局として使われているそうです。 -
もとヘルツ・ホテルの壁に掲げられた大きなポスター。 なるほど、あの手回し車つき井戸は、かつてあった井戸を再現したものだったんですね。
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ちなみにヘルツ・ホテルは第二次大戦前まではこんな感じでした。ポーランドを占領下においたドイツ軍が窓を“ハイマート・スタイル”に変え、1階部分をアーケードに改築したそうです。
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これはさらに古い画像っぽいですね。矢印の建物が、当時のヘルツ・ホテルです。
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ひとまず広場を後にして、カフェを見に行くことに。
あ、右手のアーケードは元ヘルツ・ホテルではありません。この写真では元ホテルは左側にあります。 -
私が呼ぶところの白亜の教会、Church of the Assumption of the Holy Virgin Mary(聖母マリア被昇天教会?)です。相変わらず美しい。(近くで見るとけっこう汚れていたりしますが。 ^_^;)
もともとこの教会が立つ場所には、オシフィエンチム城周辺に住む村民のため、12世紀には木造の教会があったと信じられています。しかしその木造教会は、1241年のタタール人の攻撃により焼失。13世紀後半にはレンガ製の教会が再建されたと記録に残っていますが、それも1503年に、城や町の大部分とともに火事で破壊されました。1527年から1529年の間にまたも再建されましたが、スウェーデンの軍隊によって1656年に教会は町もろとも焼き払われました。教会の再築には25年近くかかりました。
19世紀に、オシフィエンチムは二度の大火に見舞われました。1863年8月に町の2/3が被害を受け、教会の尖塔も焼け落ち、教会と町の再建には14年かかりました。1881年6月、またしても火事が起きて教会と牧師館が焼失し、またも再建されました。
18世紀の終わりまで、教会は塀をめぐらせた墓地に囲まれていました。その後墓地は解体され、墓と墓石の一部は町の郊外にできた新しい墓地に移されました。1941年にドイツ軍が墓地を囲んでいた塀を破壊し、道路を今日あるように、教会の壁際まで広げました。 -
白亜の教会から1分の距離にある、ユダヤ人センター(右側の白い建物)と修復されたシナゴーグ(Chevra Lomdei Mishnayot Synagogue)です。町に20余りあったシナゴーグはこれを除いてすべてドイツ軍に破壊されました。
でも今はここは素通りして、お目当てのカフェ・オシュピッツィンへと急ぎます。 -
シナゴーグの裏手に・・・ できてたー!
“オシフィエンチム最後のユダヤ人”シモン・クルーゲルが住んでいた家を補強し改装して作られたベジタリアン・カフェです。 -
二年前はこんな感じでした。
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かなり老朽化していた家だったので、かなりの補強工事が必要だったのでは。
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さっそくお邪魔し・・・ あれっ、カフェの名前、“オシュピッツィン”じゃなかったの?!
(“Oshpitzin”は“guests”を意味し、ユダヤ人はオシフィエンチムを昔からそう呼んできたそうです。“Cafe Oshpitzin 建設”を目的に掲げてオンライン募金もしていたのに!?) -
カフェは、アンリ・ベルクソンというフランスの哲学者にちなんで名づけられたようです。パリでポーランド系ユダヤ人の父親とイギリス人の母親との間に生まれ、ノーベル文学賞を受賞したフランスの哲学者ですか、なるほど。
なぜカフェの名が変更されたのか定かではありませんが、こちらの方が適切と判断されたのでしょうね。 -
オシフィエンチム最後のユダヤ人、シモン・クルーゲルが住んでいた家に造られたカフェです。
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クルーゲル・ハウスのパーツが保存され壁に展示されていたので嬉しくなりました。
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暑さで顔が火照っていたので、涼しい店内に生き返りました。アイスコーヒーとチーズケーキを注文。
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裏口はユダヤ人センターと共有する裏庭へと通じています。
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裏口のガラスの扉から、裏庭とユダヤ人センター(博物館+教育センター)の裏手が見えました。
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裏口に面して立つと右手に下りの階段があり、地下室は展示ギャラリーになっていました。下りてみたら、『アウシュヴィッツの陰での生活』として、写真が展示されていました。
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ナチスの司令部があった建物を背景に、釣りを楽しむ父子。(兄弟かも。)
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ビルケナウの木造バラックを横目に、ローラースケートする少女。
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プロジェクターもあって、便利そうです。
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カフェの2階は、両側が吹き抜けというユニークな造りでした。
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私が座っていたテーブルが下に見えます。
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子供用のテーブルも。かわいい。
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2階からカフェの入口を見下ろしたところ。
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採光がよく明るい店内。シンプルなデザイン。とても良くできていると思いました。
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店内から見た入口。
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カフェの若い女性に教えられ、クルーガー・ハウスの玄関扉だったという扉を見にいきました。この扉、実用はされませんがカフェの側壁(ユダヤ人センター側)に取り付けられています。
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20世紀初め頃に建てられたと思われるクルーガー・ハウス。シモン・クルーガー(1925-2000)は、9人兄弟の第2子としてこの家で成長しました。ナチスの迫害を生き延びたのは、家族の中ではシモンと兄のモヘと妹のブロニアの3人だけでした。モヘとブロニアはやがてアメリカに渡りました。
戦後しばらくスウェーデンで暮らしたシモンは、1961年頃オシフィエンチムの、戦前家族と住んでいたこの家に戻り、化学工場で働くなどして生計を立てました。健康上の理由から仕事を辞めたあとは、兄弟からの援助と近所の住民の世話を受けて暮らし、2000年5月26日に死没。町のユダヤ人墓地に埋葬されました。
クルーガー・ハウスは2002年に、モヘとブロニアによってユダヤ人センターに寄贈されました。 -
シモンさんが何度も開閉したであろう玄関扉。
第二次大戦前はオシフィエンチムの住人の過半数がユダヤ人だったそうですが、その多くがナチスによって殺害され、生き残ったユダヤ人も戦後他国へと移住していきました。“最後のユダヤ人”だったシモンさんの死により、オシフィエンチムのユダヤ人の歴史にひとつの区切りができたことになります。 -
外のテラス席も居心地よさそうです。完成したカフェを見られて大満足。
二年前に行きましたが、ユダヤ人センターにもまた行ってみることにします。 -
ユダヤ人センター内にあった説明文です。
“1989年にポーランドは、全体主義国家から民主主義国家へと大きく転換した。それにより、共産主義時代には歪められ抑圧されていたユダヤ人の歴史を含む過去のポーランドの文化の多様性への関心が、ふたたび呼び起こされた。オシフィエンチムでも、ポーランド-イスラエル友好連盟の先導でユダヤ民の歴史を保存する努力が始まった。
ユダヤ民の歴史保存は、1995年のアウシュヴィッツ・ユダヤ人センター財団の創設により大きく前進した。オシフィエンチムに唯一残っていたシナゴーグは、共産主義の崩壊後、近くの町ヴェルスコ=ビャワのユダヤ人コミュニティーに返還されたが、ヴェルスコ=ビャワのコミュニティーはそれを、ユダヤ人センター財団に寄贈。シナゴーグの隣の家を買い取った財団は、そこに博物館兼教育センターを設立することにより、オシフィエンチムのユダヤ系住民の記憶を伝えつつ、偏見と差別の危険性を教える場を得た。” -
センター内部は、内装や展示の仕方が二年前とは少し変わっていました。
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展示があっさりしてしまったような。
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でももしかしたら、まだ新しい博物館だから、展示スタイルを未だに模索中なのかもしれません。
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ルドルフ・ハベルフェルトの名が入った看板。
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ハベルフェルト蒸留酒のボトル。
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社名が入った週めくりカレンダー。
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その他いろいろ。
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こうしてハベルフェルト蒸留酒関連の品々を見ると、ハベルフェルト蒸留酒工場が実在していたことを実感します。
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修復されたシナゴーグ内部。現在はオシフィエンチムにはユダヤ人はいませんが、シナゴーグは外国から訪れるユダヤ人の祈りの場として定期的に使われるそうです。
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博物館の展示画像。“ドイツ軍の侵攻に備え、対戦車壕を掘るオシフィエンチムの住民たち、1939年7月・8月”
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カトリック信者もユダヤ教信者も、一緒に汗を流したそうです。
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この人たちのその後の運命が、苛酷なものでなかったよう祈らざるを得ません。
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“ゲットーへの移住のためシナゴーグ前の広場に集められるユダヤ人たち、1941年”
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“家財道具を積んで移住の準備をするユダヤ系住民、1941年3月・4月”
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“他の町のゲットーに移住させられるユダヤ系住民”
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“破壊された建物の片付けをさせられるアウシュヴィッツの囚人たち”
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“広場に面した家を撤去させられる囚人たち、1940年頃”
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“オシフィエンチムのユダヤ系住民たち、アナベルク(Annaberg)強制労働キャンプにて、1941年”
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“ドイツ軍による占領が始まった頃のマーケット広場”
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似たような角度からの写真を撮ったので、載せておきます。
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“ドイツ軍による占領が始まった頃の小広場”
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マーケット広場から目と鼻の先にある、現在の小広場です。これも偶然、似たような角度からの写真を撮っていました。
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“マーケット広場の井戸で順番を待つ、ダビデの星の腕章をつけた男性、1940年”
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誰も腕章などつけなくていい、今日の平和のありがたさをしみじみと感じます。
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2004年、グレート・シナゴーグがあった場所の発掘調査中に発見された、ドイツ名の通りの標識。
“侵攻してきたナチスは、ポーランドの地名はおろか広場や通りの名までもドイツ名へと変えました。ナチスがポーランドの歴史や住民のアイデンティティーを消し去ることにいかに積極的だったかを物語る行為です。” -
ユダヤ人センターの裏口は、カフェ・ベルクソンと共有する裏庭に通じています。奥の小さな丘の上に立つのは、オシフィエンチム城とその塔。
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ぐっちゃぐちゃのこれは、二年前の裏口からの眺めです。
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こんなだったのが、・・・
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・・・こうなっていました。来てよかった。
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カフェ・ベルクソンの裏口。
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裏庭から見た、ユダヤ人センターの裏口。
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満足してセンターを出ます。センターが面する広場は以前は“病院広場”などと呼ばれていましたが、1992年に、戦前のオシフィエンチムにおけるキリスト教信者とユダヤ教信者の共存のシンボルだった神父を記念して、“ヤン・スカルベック広場”と改名されました。
1926年にオシフィエンチムに配属されたヤン・スカルべック神父(1885-1951)は、ユダヤ人コミュニティーにも友好的に接し、二度の大戦の間、町のユダヤ系住民と非ユダヤ系住民の平和的共存に大きく貢献しました。彼の発案で、住民たちはユダヤ系/非ユダヤ系に関係なく、協力して奉仕・教育・愛国活動に精を出しました。彼は1934年に、町議会の満場一致で町の名誉町民に選ばれました。
第二次大戦中、神父は同僚の神父たちとともに、アウシュヴィッツの囚人を助けました。その結果彼等は1942年末にゲシュタポに捕えられ、投獄されました。1945年にオシフィエンチムに戻ったスカルベック神父は、解放された元収容者たちの世話をしました。その後も彼は、オシフィエンチムを離れ外国に移住したユダヤ系の元住人たちと連絡を取り続けたそうです。 -
広場を出て(さて次は何をしよう、見逃したものはないかな?)とカフェでもらった地図を眺めていたら、「どこに行きたいの?」と自転車で通りかかったおじいさんが英語で声をかけてくれました。
若い人はともかく、高齢者で英語ができる人は珍しい(私の勝手な印象ですが)ので新鮮な驚きでした。でも私、オシフィエンチムは二度目だし、ずいぶん下調べもしてあるし、別に困っていないんだけど・・・と返答に詰まっていたら、「英語はわかる?」と(笑)。
ご好意を無駄にしたくないのでマーケット広場への道を訊き、写真を撮らせていただきました。終始笑顔のおじいさん、「えぇ〜、ワシの写真なんて撮っても仕方ないじゃろう〜?」みたいなこと言いつつ、笑顔で写真に収まってくれました。
こういう明るくて親切な老人に、私もなりたい。 いや、なろう! -
喉が渇いたので、広場に戻ることに。まずこの先右手にあるスーパー・テスコ(イギリスでは最大手のスーパー・チェーン)で、飲物とティッシュー10個入りパックを買いました。飲物は今夜ホテルで飲む用、ティッシューは花粉症によるくしゃみ・鼻水用です。
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それにしても、かわいい広場。クラクフの優美な大広場も素敵ですが、小さな町のかわいらしい広場もまた素朴で居心地がいいのです。
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舗装工事前までは、高い木が広場を囲んでいたようです。新しく植えられた木がそれなりの高さに育つまで、何年かかるかな?
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広場の西側にある、二年前にランチに入ったカフェ・ビストロ(“Café-Bistro Kołaczek”)です。今回はとにかく暑く、お腹はあまり空いていなかったので、カフェの涼しい屋内でアイスクリームをいただくことに。
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日差しがきついので、屋内に入るとほっとします。たぶん外気温は30℃あると思います。
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広場の南西の隅近くにある、旗が立ったあの建物。あれは1872年から1875年の間に建てられた旧市庁舎です。ナチスが侵攻してきた1939年まで市庁舎として使われていました。
最初の市庁舎は広場の真中に位置する木造の建物で、16世紀の半ばから存在していました。しかしその建物は、1863年の火事で焼失。9年後にレンガ造りの新たな市庁舎を建てる決定が下されました。
第二次大戦後は市当局はオシフィエンチム城に移動し、1987年からは新たに建設された市庁舎に入りました。今日この旧市庁舎は、Friends of Oswiecim のオフィスになっています。 -
1876年に取り付けられた時計は、2001年に新しい時計と交換されました。1993年から旧市庁舎の塔の上にはオシフィエンチム市の紋章の旗が翻り、毎日正午にはアレクサンドル・オルウォフスキ(Aleksander Orłowski, 1777-1832)が作曲したオシフィエンチム市を讃える短いポロネーズが流れます。
今調べてみたら、宿屋の息子に生まれたアレクサンドル・オルウォフスキは幼くして天才の資質(音楽ではなく美術の)を現し、クラクフのチャルトリスキ美術館を創設したイザベラ・チャルトリスカが彼のパトロンになったそうです。後年ロシア帝国に移ったオルウォフスキは、石版印刷の先駆者として名を残しました。 -
ユダヤ人博物館で見た、1945年頃のマーケット広場の画像。旧市庁舎が写っています。向かって右隣の建物は、その後建て直されたようですね。
左端に写っている広場内の建物は、ドイツ軍が造った防空壕だそうです。 -
広場の北側にある赤い屋根の大きな建物は、シュレバルスキ(? Ślebarski)屋敷。19世紀初めに、当時被昇天教会区の長だったミハウ・シュレバルスキによって建てられました。第二次大戦中、この家を占拠したドイツ軍は、屋根に小塔を立て、内部を改造しました。戦後は共産党のオフィスとして使われ、現在は地方裁判所が入っています。
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ふたたび、広場の南東の隅。井戸ができて一番喜んでいるのはハトかも!?
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ネットで見つけたこの画像。背後の建物に“Gasthaus”とあるしドイツ兵らしき人たちも写っているので、これは第二次大戦中に撮られたものと思います。
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同じ場所の現在。
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これは・・・ 絵葉書? 1930年代・・・ それとも1940年代頃でしょうか?
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ほぼ同じ場所の、現在。同じ場所の昔と今を見比べるのって、とても興味深いです。
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名残り惜しいですが、タクシー乗り場に向かいます。
お化粧直しをして新しくなった建物と、お化粧直しはまだの建物の状態が対照的です。 -
この公園を抜けるとタクシーが客待ちしていることは、ランチに入ったカフェ・ビストロで二年前に教えていただきました。
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白亜の教会よ、さようなら。
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“軍事的美徳”(多分)と刻まれたモニュメントの隅に腰掛けて涼んでいたのは、タクシーの運転手さんでした。ここからタクシーで、アウシュヴィッツ?ビルケナウに向かいました。
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アウシュヴィッツ?からマーケット広場まで、距離にして2kmほどかと思います。
1: Wedding Palace
2: The Church of Our Lady Help of the Poor と聖ヒアシンス礼拝堂
3: マーケット広場
4: 小広場
5: ユダヤ人センターとカフェ・ベルクソン
6: タクシー乗り場
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