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 本年は長野市の善光寺ご本尊のご開帳で、待ち時間が設定されているほど、多くの方が参拝されているとか…。善光寺と名乗るお寺だけでも全国に100は越え、善光寺式阿弥陀三尊像を祀っているお寺の数となると、全国で400ケ寺は越えるのだそうです。数の多さは、江戸時代頃から「一生に一度は善光寺参り」「牛に引かれて善光寺参り」「遠くても一度は詣れ善光寺」などの流行ったこともありますが、大元はご本尊の阿弥陀様が流転されたことのほかなりません。飯田市生まれの日本画家「菱田春草」の生誕地を訪れ、墓前にも詣でました。そして、宿泊は南アルプスのしらびそ高原の「ハイランドしらびそ」で、高原からの南アルプス・北アルプス・中央アルプスの眺めを堪能しました。そして、天空のビューポイントから遠山郷の「日本のチロル」と異名を持つ「下栗の里」を見て、隕石クレーター、旧木澤小学校、まつり伝承館等を訪ね、最後に「元善光寺」を参拝し帰路に着きました。<br /> 写真は下栗の里。

南アルプスに手が届く?雲上の楽園?と元善光寺ご開帳/長野県・飯田市

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2015/05/29 - 2015/05/30

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ひま人

ひま人さん

 本年は長野市の善光寺ご本尊のご開帳で、待ち時間が設定されているほど、多くの方が参拝されているとか…。善光寺と名乗るお寺だけでも全国に100は越え、善光寺式阿弥陀三尊像を祀っているお寺の数となると、全国で400ケ寺は越えるのだそうです。数の多さは、江戸時代頃から「一生に一度は善光寺参り」「牛に引かれて善光寺参り」「遠くても一度は詣れ善光寺」などの流行ったこともありますが、大元はご本尊の阿弥陀様が流転されたことのほかなりません。飯田市生まれの日本画家「菱田春草」の生誕地を訪れ、墓前にも詣でました。そして、宿泊は南アルプスのしらびそ高原の「ハイランドしらびそ」で、高原からの南アルプス・北アルプス・中央アルプスの眺めを堪能しました。そして、天空のビューポイントから遠山郷の「日本のチロル」と異名を持つ「下栗の里」を見て、隕石クレーター、旧木澤小学校、まつり伝承館等を訪ね、最後に「元善光寺」を参拝し帰路に着きました。
 写真は下栗の里。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.5
グルメ
3.5
ショッピング
3.5
交通
3.5
同行者
社員・団体旅行
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
  •  柏心寺(はくしんじ)本堂。菱田春草が祀られています。

     柏心寺(はくしんじ)本堂。菱田春草が祀られています。

  •  菱田春草墓地。日本画家、本名は菱田三男治(みおじ)、明治7年(1874年)、飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれる。明治23年(1890年)東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。美校では大観、観山の1年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。天心が美校を追われ校長を辞任したが、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も行動を共にし美校を去りました。その後春草は、大観と共にインドやアメリカ、ヨーロッパを経て帰国。明治39年(1906年)日本美術院の移転と共に五浦(北茨城市)へ移り住み、大観、観山らとともに制作に励んでいたが、明治44年(1911年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患のため死去しました。

     菱田春草墓地。日本画家、本名は菱田三男治(みおじ)、明治7年(1874年)、飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれる。明治23年(1890年)東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。美校では大観、観山の1年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。天心が美校を追われ校長を辞任したが、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も行動を共にし美校を去りました。その後春草は、大観と共にインドやアメリカ、ヨーロッパを経て帰国。明治39年(1906年)日本美術院の移転と共に五浦(北茨城市)へ移り住み、大観、観山らとともに制作に励んでいたが、明治44年(1911年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患のため死去しました。

  •  柏心寺・絆やすらぎ童子。

     柏心寺・絆やすらぎ童子。

  •  柏心寺・なでなでサラナ童子。

     柏心寺・なでなでサラナ童子。

  •  飯田といえば、町のシンボルの「りんご並木」。りんごの花は、今年の暑さのせいか散った後でした。

     飯田といえば、町のシンボルの「りんご並木」。りんごの花は、今年の暑さのせいか散った後でした。

  •  菱田春草誕生地公園。横山大観揮毫の書。春草没後百年の平成23年の募金活動により、生誕140年となる平成26年に完成しました。

     菱田春草誕生地公園。横山大観揮毫の書。春草没後百年の平成23年の募金活動により、生誕140年となる平成26年に完成しました。

  •  飯田市美術博物館。飯田城二の丸跡に市政50周年を記念して建設されました。菱田春草作品の所蔵、展示を行っています。明治以降の画家で、春草の4点(「黒き猫」「落葉」「王昭君」「賢主菩薩」)が国の重要文化財の指定を受けているのは、最多です。

     飯田市美術博物館。飯田城二の丸跡に市政50周年を記念して建設されました。菱田春草作品の所蔵、展示を行っています。明治以降の画家で、春草の4点(「黒き猫」「落葉」「王昭君」「賢主菩薩」)が国の重要文化財の指定を受けているのは、最多です。

  •  菱田春草生誕地碑。

     菱田春草生誕地碑。

  •  菱田春草生誕地碑の説明碑。横山大観の書であることがわかる。

     菱田春草生誕地碑の説明碑。横山大観の書であることがわかる。

  •  大手町小学校校舎。春草が7歳から15歳まで学んだ小学校で、現在も使われています。

     大手町小学校校舎。春草が7歳から15歳まで学んだ小学校で、現在も使われています。

  •  公営宿泊所「ハイランドしらびそ」。標高1918mの高原に位置する。<br />「しらびそ」とは松科モミ属の樹木であるシラビソに由来する。

     公営宿泊所「ハイランドしらびそ」。標高1918mの高原に位置する。
    「しらびそ」とは松科モミ属の樹木であるシラビソに由来する。

  •  シラビソの樹(マツ科モミ属)。

     シラビソの樹(マツ科モミ属)。

  •  しらびそ高原からの南アルプス。

     しらびそ高原からの南アルプス。

  •  しらびそ峠。

     しらびそ峠。

  •  しらびそ峠からの南アルプス。

     しらびそ峠からの南アルプス。

  •  しらびそ高原からの北アルプス。

     しらびそ高原からの北アルプス。

  •  しらびそ高原からの北アルプス。

     しらびそ高原からの北アルプス。

  •  大地の悠久を知る「中央構造線」。尾根の反対側が日本最大の断層である中央構造線を遠山川が削って形づくった谷。

     大地の悠久を知る「中央構造線」。尾根の反対側が日本最大の断層である中央構造線を遠山川が削って形づくった谷。

  •  御池山隕石クレーター跡。流れた土砂の堆積と樹木で分かり難いが、地元研究者を中心に研究が進み、日本で初めて隕石クレーターであると確認されました。2〜3万年前に直径45mの小惑星が衝突して誕生したと推測されています。直径約900m、全体の40%が現存しています。

     御池山隕石クレーター跡。流れた土砂の堆積と樹木で分かり難いが、地元研究者を中心に研究が進み、日本で初めて隕石クレーターであると確認されました。2〜3万年前に直径45mの小惑星が衝突して誕生したと推測されています。直径約900m、全体の40%が現存しています。

  •  天空の里ビユーポイントから見た「下栗の里」。信州遠山郷、傾斜30度余の谷底に向かって標高800m〜1100mの間に高地や民家が点在する里は、古くから自然の恵みを求めて暮らしてきた場所です。「日本のチロル」と表現されるほどの絶景地です。

     天空の里ビユーポイントから見た「下栗の里」。信州遠山郷、傾斜30度余の谷底に向かって標高800m〜1100mの間に高地や民家が点在する里は、古くから自然の恵みを求めて暮らしてきた場所です。「日本のチロル」と表現されるほどの絶景地です。

  •  旧木澤小学校。昭和7年建築、平成12年廃校になった木造校舎。ぬくもりとノスタルジーがいっぱいの学びの舎。

     旧木澤小学校。昭和7年建築、平成12年廃校になった木造校舎。ぬくもりとノスタルジーがいっぱいの学びの舎。

  •  旧木澤小学校校舎。内部は山の資料館、山の図書館、林業鉄道資料を展示。祭りの資料館・木澤地区の霜月祭りを紹介。最近では企業のCMの撮影。NHKのバス旅のロケ等にも利用されています。

     旧木澤小学校校舎。内部は山の資料館、山の図書館、林業鉄道資料を展示。祭りの資料館・木澤地区の霜月祭りを紹介。最近では企業のCMの撮影。NHKのバス旅のロケ等にも利用されています。

  •  まつり伝承館「天伯」。信州遠山郷上村、重要無形民俗文化財指定「霜月祭り」を紹介、資料の展示等を行っている。

     まつり伝承館「天伯」。信州遠山郷上村、重要無形民俗文化財指定「霜月祭り」を紹介、資料の展示等を行っている。

  •  元善光寺山門。

     元善光寺山門。

  •  元善光寺本堂。「一度は詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣り」と謡われる、飯田市座光寺の元善光寺は、文字どおり「善光寺」の元とされるお寺です。本来の寺名は「座光寺」で、推古天皇10年(602年)、この村に生まれた本田(本多)善光という僧が、難波へ出向きました。そして「日本書紀」に記される「難波の堀江(現、あみだ池)で一光三尊の阿弥陀如来像(善光寺如来)を見つけ、麻績の里へ持ち帰りました。善光が、自宅の石臼の上に如来像を安置すると、臼が燦然と光り輝きだしたので、仏殿を造り座光寺としました。その後、皇極天皇元年(642年)、勅命によって如来像は芋井の里(現、長野善光寺の地)へ還され、この寺が善光の名をとって「善光寺」と称しました。それで、座光寺は以来「元善光寺」と呼ばれるようになったということです。<br /> ご本尊が長野へ遷座されたため、その代わりに勅命によって木彫りの本尊が元善光寺に残され、この時、「毎月半ば十五日間は必ず故里・麻績に帰り来て衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されました。それで、「善光寺と元善光寺の両方お詣りしなければ片詣り」といわれています。

     元善光寺本堂。「一度は詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣り」と謡われる、飯田市座光寺の元善光寺は、文字どおり「善光寺」の元とされるお寺です。本来の寺名は「座光寺」で、推古天皇10年(602年)、この村に生まれた本田(本多)善光という僧が、難波へ出向きました。そして「日本書紀」に記される「難波の堀江(現、あみだ池)で一光三尊の阿弥陀如来像(善光寺如来)を見つけ、麻績の里へ持ち帰りました。善光が、自宅の石臼の上に如来像を安置すると、臼が燦然と光り輝きだしたので、仏殿を造り座光寺としました。その後、皇極天皇元年(642年)、勅命によって如来像は芋井の里(現、長野善光寺の地)へ還され、この寺が善光の名をとって「善光寺」と称しました。それで、座光寺は以来「元善光寺」と呼ばれるようになったということです。
     ご本尊が長野へ遷座されたため、その代わりに勅命によって木彫りの本尊が元善光寺に残され、この時、「毎月半ば十五日間は必ず故里・麻績に帰り来て衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されました。それで、「善光寺と元善光寺の両方お詣りしなければ片詣り」といわれています。

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