2014/08/28 - 2014/08/28
25位(同エリア250件中)
asaさん
吉備には自転車道というのがあってだな
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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-
-備中国(びっちゅう)-
現在の岡山県西部あたりを言い、その国府は総社市にあった。
岡山県全体では、東部を備前国、北部の津山市あたりを美作国(みまさか)、そして備中国で三分する。
備後国(びんご)は広島県東部になる。 -
古く備前、備中、備後は吉備国(きびのくに)と呼ばれており、律令体制に入ってからこの国を三分割し、岡山県西部あたりは吉備道中国(きびのくにのなかつくに)と呼ばれ、そのまま備中国となった。
ゆえにここら辺りを旅行ガイド本では
「吉備路」
と総じて紹介するのである。 -
備中井原市に用があった私は、その帰路、岡山方面に向かっていた。
夏の日も長いとはいえ、もう日は落ちかけている。
国道486号線を井原→矢掛と東に向かっていると、総社を越えたあたりから・・・
吉備路における一点透視図法によって、五重塔に目が行ってしまう。
そう
備中国分寺
である。 -
ここ吉備路は自転車道といって自転車専用の道路が整備されており、ゆっくりサイクリストには堪らない場所なのだ。
付近に数多あるこれまた整備された観光用駐車場に車を止め、いそいそと積んである自転車をおろす。
日がまだあるうちに。 -
実際走ってみると
高低差は全くなく快適そのもの。
車の往来もないし、徒歩の人も少ない。
景色が開けていて乗っていて気分がいいのだ。
また走行の目安となる国分寺五重塔がどこからでも見ることができ、道に迷うこともない。
時間の関係で国分寺エリアしか回れなかったが、もっと足を延ばして付近の古墳群なども見たかった。
うらやましいとは思いますが
自転車がない人でも大丈夫です。
近くにレンタサイクルあります。 -
国分寺といえば
聖武天皇が国家鎮護のため全国に国分寺・国分尼寺を建てさせたことで知られています。
しかしその出来事は741年のこと。
まさか当時の建築物が残ってるとか?・・・ -
さすがにそれはないようだ。
備中の国分寺は戦国時代に清水宗治(しみずむねはる)という武将が再建したようだ。しかしすぐに衰退し、江戸中期に建て直され現在に至る。
とはいえ江戸中期であっても十分古い。戦火にも合わず残っていたのはこの田園風景の賜物だろうか。 -
(私は見ていなかったが)NHK大河軍師官兵衛にも登場した(はずの)武将清水宗治。
注:後で調べましたが宇梶剛士さんが演じてらっしゃったそうです。
見ていなくてもそれくらいは察することはできる。
備中高松城の悲劇を知っていれば黒田官兵衛孝高のドラマには清水宗治は欠かせない。 -
実はこの自転車道の近くに
備中高松城跡がある。
今や何の建物も遺跡も残っておらず、ただその場所だけが彼の物語と語り継がれるのみである。
-備中高松城主清水宗治-
彼は中国の雄、毛利氏に属していた。
1582年の山陽道における勢力図では、毛利氏の前線は備中高松城であった。
そこへ東から織田家中では最も有能であろう羽柴藤吉郎秀吉が主君信長の命令により毛利討伐に専念していた。世にいう秀吉の中国征伐である。
その軍師が黒田孝高であった。
羽柴軍団は姫路城を出て西進するも、備中高松城で頑強な抵抗に遭う。
高松城兵5000程度に対して、3万人の兵士で城を囲むが宗治の用兵で撃退されてしまう。
その後膠着状態に陥り、おそらく全国レベルで見て、当時の反織田抵抗の中で第一位を誇るほどの大苦戦を強いられることになる。
しかし籠城名手の城主清水宗治であっても、城を守ることはできるが羽柴軍団を押し返す戦力はない。
だが籠城の基本方針は長期戦にある。清水宗治は毛利本隊の援軍を待つ戦法を取ることにした。 -
対する織田軍の司令官は城攻め上手の羽柴秀吉。
もちろんあの手この手で切り崩し作戦をいろいろ模索するが、忠義に厚い清水宗治は、降伏すれば備中国を与えるという誘惑や陽動にも動じず、飽くまで徹底抗戦の構えを見せる。
主君信長からは1日も早く落城させよという恐怖の厳命を受けている。
またぐずぐずしているうちに毛利本隊の吉川元春(きっかわもとはる。毛利元就の次男。当主輝元の叔父)と小早川隆景(こばやかわたかかげ。毛利元就の三男。当主輝元の叔父。のちの豊臣政権五大老)が到着してしまう。
そうなればもはや高松城は落とせない。
焦る秀吉に軍師官兵衛は提案する。
高松城が平地の城とはいえ難攻不落なのは湿地が多いからです。これを利用して水攻めを行いましょう。ちょうど時期は梅雨であるし、城を水で囲めば毛利本隊も入城できますまい、と。
それを即時採用した秀吉は付近の農民たちを雇い一気呵成に堤防を作り、梅雨の雨も相まって、備中高松城を水で孤立させてしまう。 -
ようやく毛利本隊が到着するも、秀吉が作った巨大水溜りの前に為すすべがなかった。
また、先だって秀吉は、備中高松城落としに時間がかかると見るや、安土にいる信長に援軍を要請している。信長は、丹波平定を終えて手が空いた明智十兵衛光秀に、秀吉の援軍に行くように命じている。
さらにその後、水で囲んだ高松城の落城が近いとみるや、信長本人自らの出陣も要請した。最後の仕上げとして主君に花を持たせるのが目的であろうと言われている。
その一連の援軍情報を知った毛利家首脳は頭を悩ませる。
秀吉だけでも手を焼いているのに、織田家中戦上手で有名な明智光秀と、第六天魔王織田信長が止めを刺しにやってくる。
もはや勝ち目無しとみた毛利家首脳は宗治に書状を出す。
一つ:救援は不可能である
二つ:織田家に降伏しなさい
三つ:織田家と和睦するために備中・美作などの国を織田に差し出す
と。
これを見た宗治は、これを跳ねつける。
降伏は名折れである。だが、我についてきた高松城兵と毛利家が救われるのならばこの命は安いものである。
清水宗治は切腹と引き換えに織田と和睦するように毛利家首脳と秀吉に書状を送る。
これを見た吉川元春・小早川隆景は
領土を渡すのはやむを得ないが宗治の自刃は認めないと、宗治を救うことを第一に考えた。どうしたものかと思案しているうちに秀吉から矢の催促が来る。 -
秀吉の脅迫まがいの催促についに清水宗治は意を決する。
我が命を救おうとしてくれた毛利氏のために、領土よりも我を重んじてくれた主家のために腹を切ることを。
だが、ここにきて秀吉が矢のような催促をしたのはなぜなのか。秀吉も宗治に対しては敵ながら見事と一種の敬意を見せていたはずであるが・・・ -
-主君織田信長、1582年6月2日、本能寺にて討死-
援軍の準備を終えた明智光秀は、同じく備中に向かおうと京都に入っていた信長を京都本能寺にて討ち取ってしまう。
世にいう本能寺の変である。
明智にしてみれば信長の次の敵は羽柴秀吉となる。
毛利に釘付けになっている間に京都で地盤を固めてしまわなくてはいけない。
その足止めに毛利には頑張ってもらわなければいけないとの思いで、ただちに密書を備中高松城西岸にいる毛利首脳に送る。
6月3日夜半
密書を携えた明智家使者が、暗がりで道を間違え羽柴軍に紛れ込んでしまう。
その密書を見た秀吉と官兵衛は驚愕する。
もはや毛利と長期戦をいたしている時ではない。
一刻も早く謀反者明智光秀を討ち、織田継承者は自分であることを示さなければじり貧になる。
しかし今はこれを悟られてはいけない。信長が死んで勢いづいた毛利を背に担いで京都に戻ることは自殺行為である。
これをひた隠しに和睦を速やかに済ませ、急いで戻ろう。
これが秀吉の催促の理由であった。 -
京都での異変を知らない宗治は、この秀吉の催促に応じる。
孤島となった備中高松城。
小舟で漕ぎいだす清水宗治。
死を前にひとさし舞ったのち、
武士の情けを受け入れた感謝を東に、
今までの恩義と今生の別れを西に。
名誉とともに腹を切り、
その名を高松の苔に残した。
その忠義に皆涙し、
敵将羽柴秀吉急ぎ京に戻りたいと思ったが、
名将清水宗治のその最期この目で見届けたく、
敬意と共に陣を動かず。 -
あと一日あれば。あと一日。
信長横死の密書は毛利に届き、先日の茶番に激怒した吉川元春は、撤退し始めた羽柴軍を追撃すべきであると主張するも、和睦の約束は守るべきであると小早川隆景に諌められる。
この間に秀吉は普通の行軍ではありえないほどのスピードで京都に取って返している。世にいう中国大返しである。
日本歴史上、水攻めに成功しているのは羽柴秀吉だけである。(トリビア風)
天の時、地勢、人使いの天地人揃って為し得るのである。 -
三大稲荷である最上(さいじょう)稲荷から備中高松城方面を望む。
奇しくも秀吉の中国攻めで焼失したのであるが、現在はこんなに立派です。
初詣だって岡山県第1位の人混みなのだ。 -
清(きよ)水に
育つ高松
見上げれば
亡き人思い
胸つぶれる春
asa
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