2015/01/07 - 2015/01/07
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ペコちゃんさん
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毎年、新春恒例の七福神巡り・・・今年は品川~大森までを歩く『東海七福神巡り』。
品川から13名の仲間と元気よくスタートしましたが、大森までは結構な距離でした。
おまけに、遅い昼食の後、立ち寄った『浜離宮恩賜庭園』の散策まで含めて、約2万歩のウォーキング・・・でも、これで今年一年も元気で過ごせる気持ちになりました。
「東海道」は徳川家康によって整備された五街道の一つで、日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る街道です。
その途中に設けられた宿駅は53箇所で、いわゆる『東海道五十三次』・・・起点の日本橋から品川宿まで二里、次の川崎宿まで二里半と続いていきます。
旧東海道は、北品川~鈴ヶ森まで約3.6kmが南北に貫くように走っており、道幅は江戸時代のまま残されています。
平成24年に景観整備事業が終わり、北品川商店街は電線が地中化され、道路も新たに舗装された美しい街並になりました。
この道を歩くと、江戸時代の品川宿の賑わいや人々の暮らしぶりが偲ばれます。
写真は、品川神社にある「東海七福神めぐり発祥の碑」。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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10時半過ぎに品川駅について、北品川まで歩きます。
ところで、品川駅があるのは港区ということを、ご存知ですか?
品川駅の開業は明治5年。そして、品川駅のある場所は明治2~4年まで「品川県」でした。
ところが廃藩置県により、品川県はたった2年で消滅したため、開業の時は港区になっていました。
従って、品川駅の南にあるのに北品川・・・因みに、目黒駅は品川区。 -
第一京浜から左に入り、旧東海道を進みます。
京浜急行は赤い電車と思っていたら、こんな電車も。 -
七福神巡りの前に、品川浦の船溜まりに行ってみました。
かつて品川浦は豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でもありました。
当時の面影が船溜まりとして残り、手前に屋形船や釣り船、その奥には近代的なビル群が立ち並びます。 -
屋形船や釣船の間を水鳥が泳ぎ回る光景は、都会では、もはや得難いもの・・・残してほしい風景です。
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東京湾に面した品川区では、平成24年に23区で初めて津波・高潮対策の一環として、海抜標示板を設置しました。
海側や河川沿い等の海抜4m未満の地域を中心に、区内約500カ所に標示板を設置しています。 -
品川宿は、東海道五十三次の一番目の宿場。
他の宿場と同じく、色町としても賑わい、遊廓は昭和33年の売春防止法施行まで続きました。 -
海側の街から京急の線路を渡り、第一京浜を歩いて行くと、品川女子学院の校舎があります。
玄関横の壁には、与謝野晶子が昭和10年に作詞した校歌がありました。
♪ 薔薇の花は香る まして此處に学べる少女 清く明るき徳と知識の 花つねに香る 我等品川高女生 ♪ -
いよいよ、東海七福神巡りのスタートです。
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一番目は、大黒天を祀っている『品川神社』。
神社に続く石段の左側には大黒様の石像があります。 -
龍が巻き付いた珍しい鳥居。(向かって左が昇龍、右が降龍)
拝殿に行くためには、なだらかな女坂も右側にありますが、まだまだ皆さん元気なので、53段の階段(男坂)を上ります。 -
階段の途中に分かれ道があり、そこを登ると富士塚があります。
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登る途中には何合目と書いてあり、富士塚はミニチュア版の富士山。
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富士塚は、富士信仰によって江戸時代(1780年以降)に作られた富士山を模した人工の山で、都内だけで80か所もあるようです。
本物の富士山を登ったのと、同じご利益が得られるそうですよ。
品川神社の富士塚は品川富士(江戸七富士の一つ)と呼ばれ、都内で最大・・・高さ15m、所要時間は2分・・・頂上からは京急の電車が見えます。 -
富士塚を下りた所にある浅間神社。
その脇には ” ぶじかえる ” ・・・「富士」と「カエル」をかけたダジャレです。
ひと笑いして、ご利益を高めましょう。 -
広い境内には、江戸火消しの伝統と文化の伝承を伝える、江戸火消しの記念碑や・・・
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東海七福神めぐり発祥の碑や・・・
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昭和51年建立の包丁塚があります。
包丁塚は全国各地にありますが、品川宿も料理屋が多く、沢山の包丁が使われており、品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念して、調理に使われた包丁を納め、食材を慰霊するために包丁塚を建立しました。
包丁塚の文字は、当時の三木総理が書いたものだそうです。 -
神楽殿。
品川には南北の天王さまがあり、北品川にある品川神社を「北の天王さん」、南品川にある荏原神社を「南の天王さん」と呼んでいます。
6月には南北の天王さま合同の例大祭「品川天王祭」が行われ、江戸囃子源流の太々神楽(だいだいかぐら)が披露されます。 -
品川神社は、1187年に源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎神社から天比理乃咩起命(あめのひりのめのみこと)を勧請して祀ったのが始まりと言われています。
社殿の老朽化が進み、昭和39年に現在の社殿が再建されました。 -
大黒天は大黒様として親しまれており、米俵に乗って福袋と打出の小槌を持った豊穣・財産の神様です・・・しっかりお詣りをして、何とか金運に恵まれますように・・・
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先ずは、品川神社のお詣りが出来ました。
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第一京浜を渡って、二番目の養願寺に向かいます。
この北馬場参道通りは、景観整備事業で2012年春に綺麗に生まれ変わりました・・・別名、サクセス通り。 -
布袋尊の『養願寺』・・・新馬場駅から徒歩2分ほどの場所にある天台宗の寺院です。
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養願寺は正安元年(1299)に創建され、什慶が寛文年中(1661~1672)に中興開山したといいます。
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お婆ちゃんも車いすで参拝。
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三番目は、寿老人の『一心寺』・・・真言宗智山派の寺院で、商店街(旧東海道)に面して可愛らしい山門があります。
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一心寺は、安政2年(1854)に当時の大老・井伊直弼により開山され、町民代表等によって建立されたと伝えられています。
その後、火災により焼失しましたが、明治8年の再興時に、京都の宮大工によって京都本願寺と同じ材料で建立されました。
一心寺の境内は広くないので、山門を入るとすぐに本堂が建っています。 -
堂内には、本尊不動明王、札所本尊の聖観世音菩薩像、東海七福神の寿老人などが安置されています。
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路地を覗くと、昭和の時代が感じられます。
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旧東海道を南に歩いて行くと、目黒川に架かる品川橋があります。
北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられた品川橋は、最初は木の橋でしたが、その後、石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。 -
品川橋の手前を右に曲がると、四番目の恵比寿様の『荏原神社』。
江戸の昔、品川宿は大変な賑わいで、今でも神社仏閣が多く、当時の面影が偲ばれます。 -
参道の入り口で、左手に釣り竿を右手に鯛を持った笑顔の恵比寿像が迎えてくれます。
恵比寿さまは、もともとは大漁の神様であり、それが商売繁盛などにもご利益があるとされてきました。 -
荏原神社は、和銅2年(709年)奈良の丹生川上神社より高龍神(龍神)を勧請して以降、品川の龍神さまとして、源氏・徳川など多くの武家の信仰を受けました。
現在の社殿は、弘化元年(1844年)のもの。 -
神殿の扁額は、明治時代に総理大臣を務めた三条実美(1837~1891)の筆によるものです。
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本殿屋根から見おろす左右1対の龍神様。
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迫力があります。
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鳳凰の彫刻も素晴らしい。
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荏原神社から目黒川にかかる鎮守橋を渡って進みます。
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あおよこ(青物横丁)まで来ました。
「青物横丁」の名前は、江戸時代に農民がこの地に青物(野菜や山菜)を持ち寄って市場を開いたことに由来します。 -
五番目は、毘沙門天の『品川寺(ほんせんじ)』・・・入口には、地蔵菩薩が鎮座しています。
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1708年に寄進されたこの像は、座高が2.75mもあり、見た瞬間は大仏かと思いました。
江戸時代、東海道など六街道の入り口には、道行く人々の無事を守り、江戸の疫病を払い、世の中を浄土にするために、六地蔵尊が建立されました。
品川寺の地蔵菩薩は、江戸六地蔵・第一番です。 -
地蔵尊の脇を擦り抜けて奥に進むと、山門があります。
品川寺は大同年間(806~810)に創建され、弘法大師が開山した、品川で最も古い真言宗のお寺です。 -
江戸城を構築した太田道灌によって、1457年に伽藍が建立されましたが、およそ百年の後、武田信玄が北条を攻略した際、伽藍は焼き払われてしまったそうです。
その後、寛文元年(1652)に、四代将軍・家綱から四千八百坪の寺領を賜って大伽藍を建立し、大名の祈願所として隆盛を極めました。
明治維新以降、一時荒廃したものの、大正・昭和には諸堂、山門等の建立が続き復興がなされました。
毎月18日には、縁日も開かれています。 -
本堂には、江戸時代に作られた毘沙門天像が祀られています。
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四代将軍・家綱が寄進した大梵鐘は、1657年に鋳造されたもので、周囲に六観音(聖・千手・十一面・准胝・如意輪・馬頭)が彫られています。
この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示された後、スイス・ジュネーブの美術館に所蔵されていることが分かり、昭和5年に品川寺に返還されました。
平成3年には品川寺がジュネーブに新しい梵鐘を贈り、これを機に品川区とジュネーブ市は友好都市となっています。 -
境内にある樹齢600年の大銀杏の幹周りは5.35m、高さは25mもあります。
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大銀杏の根元にある、2基の庚申供養塔・・・1基は1680年に造られた2mの自然石、もう1基は1795年の造立で高さは76cm・・・ともに三猿が刻まれています。
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十三重塔のそばにある、寿老人の石像。
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品川寺から六番目の天祖諏訪神社までは、約20分の長丁場。
少し歩くと、「竜馬がゆく」の道路標識が・・・ -
青物横丁駅の次は鮫洲駅。
商店街の旗は、 ” サメズのジンベイくん ” 。
鎌倉時代、品川沖で大鮫が死んで浮いているのを漁夫が見つけ、この鮫の腹を割いてみると、聖観音の木像が出現したそうで、この聖観音が鮫洲観音と呼ばれたことから、地名になったと言われています。 -
立会川に入ると、商店街の旗は ” りょうくん ” に変わりました。
りょうくんは、龍馬に憧れすぎて自分のことを龍馬だと思いこんでいる男の子だそうです。 -
立会川駅近くの北浜川児童遊園に、坂本龍馬像が建っています。
嘉永6年のペリー艦隊来航の際に、若き日の坂本龍馬が浜川砲台の警護に当たっていた関係で、高知・桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が平成22年に建立されました。 -
六番目は、福禄寿の『天祖諏訪神社』。
境内に入ると厳島神社があり、池には綺麗な錦鯉が泳いでいます。 -
昭和40年に天祖神社を改築する際に、立会川を挟んで並んで鎮座していた天祖神社(南浜川鎮守)と諏訪神社(北浜川鎮守)が合祀して出来た神社です。
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天祖神社は建久年間(1190~1199)以前の創建で、諏訪神社は寛永8年(1631年)以前と言われています。
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福禄寿は、幸福(子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(健康を伴う長寿)の三徳を兼ね備えた神様です。
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8月上旬の例大祭で担がれる神輿。
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旧東海道と第一京浜が合流する所に、鈴ヶ森刑場跡があります。
1651年に開設され、1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年間に、10万人から20万人もの罪人が処刑されたそうです。 -
慶安4年(1651年)に、幕府転覆を図って由井正雪が企てた「慶安の変」・・・最初の処刑者は、首謀者の一人・丸橋忠弥と言われています。
その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白子屋お熊などが、ここで処刑されました。 -
鈴ヶ森刑場の向かいには「しながわ水族館」があります。
1991年に開館した水族館は、泳ぐ魚を見上げることができる「トンネル水槽」やイルカショー・アシカショー等のほか、約200匹以上のクラゲを展示する「クラゲゾーン」も人気があります。 -
大森駅が近づくと、平和島競艇場が見えました。
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最後は、弁財天の『磐井神社』・・・敏達天皇(在位572~585)の代に創建と伝えられ、昭和20年に戦火にあい、29年に再建されました。
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明治14年に作られた炎尾型狛犬・・・阿吽両方とも三頭の子犬を連れているのが珍しい。
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「磐井」の由来は、社殿の地下に大きな岩磐があり、その岩磐の間から水が湧き出ている事に由来します。
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旧東海道(第一京浜)の傍に「磐井の井」があります。
東海道を行く旅人の喉を潤した井で、昔は境内にありましたが、国道拡張で境内が削られ歩道に面しています。
この水は、万病に効く薬水とされ、心正しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となると云われています。 -
13時18分に大森海岸駅に到着。
品川から2時間半かけて1万2千歩、よく歩きました。 -
品川まで戻り、品川プリンスホテルの「ななかまど」でバイキングのランチ。
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今年一年の健康を祈念して、ビールを飲みながら歓談。
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午前中は曇でしたが、午後からは晴れてきました。
帰宅するのにはまだ早いので、浜松町から浜離宮に向かいます。
途中の「中の御門」から入園。 -
『浜離宮恩賜庭園』は東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ回遊式の庭園・・・四季折々の花や紅葉が美しい庭園です。
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ここからの景色が素晴らしい!
浜離宮は1654年に甲府藩主・徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて建てた屋敷が始まりです。
綱重の子である徳川家宣が六代将軍になると、将軍家の別邸になりました。 -
清澄庭園や旧安田庭園なども昔は潮入の池でしたが、今も海水が出入りしているのは、ここだけです。
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歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行われ、11代将軍・家斉の時に、ほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
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明治に入ると宮内省の管轄となり、その後、関東大震災や空襲によって、大手門、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年に東京都に下賜され、翌21年に都立庭園として開園。
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海水なので、池にはボラやセイゴ・ハゼ・ウナギなどの魚がいます。
潮入の池に架かる「お伝い橋」は、小の字島と中島を結ぶ総檜作りの橋で、118mもあります・・・平成24年に改修されました。
橋の向こうは、昭和58年に復元された「中島の御茶屋」 。 -
潮入(しおいり)の池と二つの鴨場(かもば)をもつ江戸時代の代表的な大名庭園には、今もカモがノンビリと・・・
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庭園の周りは高層ビルに取り囲まれ、東京タワーも見えます。
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「海手お伝い橋」。
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「樋の口山」の周りには沢山の松があり、中には面白い形をした松もあります。
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「横堀水門」は、海水の出入りを調整するために造られた水門・・・東京湾の潮の干満を利用して池の水位を上下させ、庭の趣に変化を持たせるように作られた「潮入の池」にはなくてはならないものでした。
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「将軍お上がり場」は、将軍が船で浜御殿に来た際に上陸する場所です。
その上の丘のようになっている「新樋の口山」からは、レインボーブリッジや・・・ -
勝鬨橋や月島の高層ビルなどが見える、絶景のビュースポット!
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園内には水上バス発着場もあり、浅草や両国、お台場海浜公園などを結ぶ隅田川ラインが運行されています。
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「旧稲生(いなぶ)神社」・・・創建時期は明らかではありませんが、前身となる社殿が明治27年に地震で倒壊したため、翌年、再建。
建物の老朽化が進んだため、平成17年から1年10ヶ月かけて解体・復元されました。 -
「三百年の松」・・・東京都内最大の黒松で、見事な枝ぶりです。
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六代将軍・家宣が庭園を大改修したとき、その偉業を讃えて植えられた松・・・太い枝が低く張り出し、堂々たる姿を誇っています。
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国内初の迎賓館である延遼館は、明治2年に建てられた木造平屋で、海外からの多くの賓客をもてなす際に使われましたが、明治22年に老朽化によって解体されました。
舛添都知事は、2020年の東京五輪に合わせて、浜離宮庭園内に迎賓館を復元することを決定。 -
「大手門」・・・浜離宮は江戸城の出城だという説もあり、城郭の造りが取り入れられていて、大手門は城門の造りです。
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浜離宮のすぐ隣は、汐留の高層ビル街。
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浜離宮の入り口に架かる橋・・・年末に行った皇居の二重橋を思い出します。
今日は、結局、2万歩も歩きましが、仲間との七福神めぐりや都内散策で、楽しく過ごせた新春の一日でした。
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