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五箇山にて、祖父を思う。彼も一度は訪ねたに違いないと・・・。<br />父祖の地八講田からやや離れてだが、富山県南砺市にある五箇山は、1183年倶利伽羅の戦いで敗れた平氏の人たちが落ち延びたところと伝えられている。<br />ならば私の先祖の戦の相手なので、なんとなく親しみを感じる。<br /><br />1890年(明治23年)〜1900年(明治33年)ごろのこと<br /><br />祖父茂三郎の生まれたころ、世界は新しい波に揺れていた。<br />1851年には、隣国清で太平天国の乱が発生<br />ロンドンで世界初の万国博覧会が開幕。<br />フランスでは、ナポレオン三世のクーデター発生。<br /><br />誕生の年1953年日本には、ペリー提督らの黒船が、浦賀へ来航して、極東の国日本は、太平の夢から醒めつつあった。<br /><br />祖父茂三郎が誕生したとき片瀬家は、1183年倶利伽羅の源平合戦以来富山県小矢部市八講田に住み着いて以来、すでに700年近く経っていた。<br />代がわりの平均を25年とすれば、27代目くらいになる。<br /><br />先祖代々は、農林業を経営する傍ら、加賀藩の下にあって、租税徴収、賦役の監督、村のいざこざの調整など、村を仕切っていた。<br />彼が生まれたころは明治維新後の改革もかなり進んできており、かつての藩の仕事は村役場などの機関に属することとなり、かなり立場も変わっていたことだろう。<br /><br />そうした中で彼の夢は進歩的で、明治維新の改革に前向きに参画し、田舎といえども、自分の村が日本改革の先頭を切ることだった。<br /><br />数学が好きで、その腕は、金沢にまで知られる存在だったという。<br />彼の使ったクロガキ製の算木は、戦争のどさくさで行方不明だが、子供のころ私も手に取ってみたことがある。<br />算木が触れ合う時に発する、チカチカという澄んだ音が、素晴らしく、今も耳に残っている。<br /><br />国鉄の北陸本線建設に際しては、自分で測量し地図を描き、金沢・富山間のベストルートを鉄道省に提出した。<br />この案は採用されなかったが、現在北陸自動車道が通っているルートと同様のようだ。<br /><br />また八講田から金沢に向け、短絡道路を自らの手で設計・建設し、県に寄贈した。<br />この道は県道214号線として今も使用されており、村の人たちが感謝の気持ちを残そうと道の入口に立てた「奮起開道の碑」が、今に引き継がれている。<br />建立以来100年近いが、いつ通っても清掃が行き届いている。<br /><br />男気が強く、酒を愛して、村人の信頼を集める存在だったと伝えられている。<br />新道が開通した直後49歳で急死、死因は不明だが、心臓発作か癌ではなかったろうか。<br />跡取りだった父茂久は、腕白盛りの9歳。<br /><br />しかし人生半ばでの不慮の死は、新道建設のため多くの借財を残した結果、片瀬家は資産を失い、破綻する。<br />父茂久は義務教育を終えるとすぐ、京都の呉服問屋に丁稚奉公。<br />その母つねは、小矢部市下中の実家に戻り、八講田の家は閉ざされる。<br /><br />私が生まれるほぼ30年前のことである。<br /><br />五箇山は八講田に比べ、倶利伽羅からの距離はかなり遠く、山も深い。<br />ここにやってきた人は敗者であり、身を隠そうとしたのだろう。<br /><br />2014.12.08片瀬貴文記<br /><br /><br />

祖父茂三郎(1853-1902)は明治改革の先頭を走る−村の入口に立つ「奮起開道」碑

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2014/11/01 - 2014/11/02

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ソフィ

ソフィさん

五箇山にて、祖父を思う。彼も一度は訪ねたに違いないと・・・。
父祖の地八講田からやや離れてだが、富山県南砺市にある五箇山は、1183年倶利伽羅の戦いで敗れた平氏の人たちが落ち延びたところと伝えられている。
ならば私の先祖の戦の相手なので、なんとなく親しみを感じる。

1890年(明治23年)〜1900年(明治33年)ごろのこと

祖父茂三郎の生まれたころ、世界は新しい波に揺れていた。
1851年には、隣国清で太平天国の乱が発生
ロンドンで世界初の万国博覧会が開幕。
フランスでは、ナポレオン三世のクーデター発生。

誕生の年1953年日本には、ペリー提督らの黒船が、浦賀へ来航して、極東の国日本は、太平の夢から醒めつつあった。

祖父茂三郎が誕生したとき片瀬家は、1183年倶利伽羅の源平合戦以来富山県小矢部市八講田に住み着いて以来、すでに700年近く経っていた。
代がわりの平均を25年とすれば、27代目くらいになる。

先祖代々は、農林業を経営する傍ら、加賀藩の下にあって、租税徴収、賦役の監督、村のいざこざの調整など、村を仕切っていた。
彼が生まれたころは明治維新後の改革もかなり進んできており、かつての藩の仕事は村役場などの機関に属することとなり、かなり立場も変わっていたことだろう。

そうした中で彼の夢は進歩的で、明治維新の改革に前向きに参画し、田舎といえども、自分の村が日本改革の先頭を切ることだった。

数学が好きで、その腕は、金沢にまで知られる存在だったという。
彼の使ったクロガキ製の算木は、戦争のどさくさで行方不明だが、子供のころ私も手に取ってみたことがある。
算木が触れ合う時に発する、チカチカという澄んだ音が、素晴らしく、今も耳に残っている。

国鉄の北陸本線建設に際しては、自分で測量し地図を描き、金沢・富山間のベストルートを鉄道省に提出した。
この案は採用されなかったが、現在北陸自動車道が通っているルートと同様のようだ。

また八講田から金沢に向け、短絡道路を自らの手で設計・建設し、県に寄贈した。
この道は県道214号線として今も使用されており、村の人たちが感謝の気持ちを残そうと道の入口に立てた「奮起開道の碑」が、今に引き継がれている。
建立以来100年近いが、いつ通っても清掃が行き届いている。

男気が強く、酒を愛して、村人の信頼を集める存在だったと伝えられている。
新道が開通した直後49歳で急死、死因は不明だが、心臓発作か癌ではなかったろうか。
跡取りだった父茂久は、腕白盛りの9歳。

しかし人生半ばでの不慮の死は、新道建設のため多くの借財を残した結果、片瀬家は資産を失い、破綻する。
父茂久は義務教育を終えるとすぐ、京都の呉服問屋に丁稚奉公。
その母つねは、小矢部市下中の実家に戻り、八講田の家は閉ざされる。

私が生まれるほぼ30年前のことである。

五箇山は八講田に比べ、倶利伽羅からの距離はかなり遠く、山も深い。
ここにやってきた人は敗者であり、身を隠そうとしたのだろう。

2014.12.08片瀬貴文記


同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
  • 故郷の山々<br />五箇山の入口風景

    故郷の山々
    五箇山の入口風景

  • 故郷の山々<br />

    故郷の山々

  • 五箇山の家

    五箇山の家

  • 五箇山風景

    五箇山風景

  • 五箇山の野草

    五箇山の野草

  • 珍しい庭先風景

    珍しい庭先風景

  • 五箇山赤かぶ

    五箇山赤かぶ

  • 五箇山の<br />ホンヌキ井戸

    五箇山の
    ホンヌキ井戸

  • 五箇山の軒先に実る赤い実

    五箇山の軒先に実る赤い実

  • 民家の軒先の飾り

    民家の軒先の飾り

  • 秋深し

    秋深し

  • 深山の静けさ

    イチオシ

    深山の静けさ

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