2014/11/11 - 2014/11/11
70位(同エリア236件中)
愛吉さん
シルバーカレッジOBの仲間達と中山道板橋宿を歩きました。
板橋宿は中山道69次中1番目の宿場で、日本橋から2里半、次の蕨宿迄2里10町の距離に在ります。
天保15年(1844)の記録によると、宿場の長さ2.2KM、町並みの長さ1.7KMで、家数573軒、人口は男1053人、女1395人と記されて居ます。
ちなみにこの規模は、江戸4宿中最少ですが、中山道では最大の宿場です。
当時の板橋宿は日本橋寄りから平尾宿、中宿、上宿と3っに別れ、本陣のある中宿が中心になります。
表紙の写真は、板橋宿中宿の現風景です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 徒歩
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英泉”木曽街道69次”板橋の駅。
街道を行く武士と奥方、荷物を担ぐお伴が1人、声を掛ける駕篭掻き、振向きかける奥方、間に入り断るお伴、右の方では馬子が馬の草鞋を替え、奥の茶店では送別会の最中といった宿場の出立風景。
土手に立つ石碑には、奉納六十六部共難塔と記され、平尾宿の手前(日本橋寄り)にあり現存するそうですが、今回は見て居ません。 -
朝10時に都営三田線板橋本町駅に集合します。
ここはもう板橋宿の中、現中山道と呼ばれる国道17号線から1本奥の旧中山道に向います。
途中にあるのが智清寺、室町時代初期の創建、徳川家康から寺領5石の寄進を受けた御朱印寺。
山門、本堂共最近建て直された風情です。 -
山門を入って直ぐ左に、屋根付きの囲いに入ったお地蔵さん。
智清寺地蔵と呼ばれます。
旅人が道中の安全を願って手を合わせたお地蔵さんなのでしょう。 -
並んで古い庚申塚や道祖神。
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本堂
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本堂の横手に、木下藤吉郎出世稲荷があります。
明治以降に祀られたのでしょう。 -
隣に日曜寺。
江戸中期の1710年代創建、本尊は愛染明王。
愛染にちなみ結縁寺として、5と10の日に縁日が開かれ、近隣から若い男女を集めました。これは戦前まで続いたそうです。
又染物屋の信仰も集めています。
山門の扁額日曜寺の揮毫は、松平定信が手で、戦災で全てを無くした寺に有一残る宝物だそうです。 -
旧中山道の通りに入って来ました。
通りの脇に大きな榎が聳えています、有名な縁切り榎です。
悪縁を断ち切るには、この榎の皮を煎じて飲むと効果があると言われます。 -
傍に立つ案内板を読んで見ましょう。
和宮降嫁の際には、わざわざ脇道をつくり避けて通ったとの事。余程霊験あらたかなのでしょう。
板橋区の登録文化財です。 -
脇には小さな社も出来ています。
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社の前の願掛け絵馬の奉納場所には、絵馬が溢れていました。
男女の縁、酒煙草、病気等、悪縁を断ちたい人が、いかに多いかです。 -
通りに面した小さな広場に立つ標識
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こんなものも造られて居ます。
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観光用地図も在ります。
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板橋の名前の起こり、その名も板橋に到着。
昔は太鼓橋になって居たそうです。
この橋を渡ると中宿、宿場の中心地区に成ります。 -
現在京から江戸に向って歩いています。従いこちら側が江戸側に成ります。
日本橋から2里25町33間です。 -
橋の上から石神井川。
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現在の中宿商店街。
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本陣跡、石柱だけで何もありません。
板橋本陣は、規模としては小さな方でした、これは江戸に近い為、通過する宿場で宿泊客が少なかった為といわれます。
皇女和宮は江戸入り準備に宿泊しました。 -
こちらは脇本陣跡、やはり石柱のみでした。
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街道から一歩入った処に文殊院。
入口に延命地蔵、境内に閻魔堂と子の大権現堂があります。
江戸初期に本陣飯田家の菩提寺として建立された寺です。 -
閻魔堂の閻魔様。
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子の大権現。
足腰の痛みを和らげて呉れます。 -
奥の墓地に遊女の墓が有ります。
大盛川楼の主人が、自家の墓地の一隅に建てたもので、近付いて確かめると、明治の年号が在りました。 -
400年続く湯屋、花の湯。現役で営業中です。
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宿場の外れに東光寺があります。
室町時代創建の古刹ですが、度々の火災により寺域も狭まり、観るべきものは戦国大名宇喜多秀家の墓石が有名です。
本堂の直ぐ横にあるのがその墓、宇喜多秀家公の墓です。
では何故ここに秀家の墓が有るかですが、関ヶ原に敗れた秀家は八丈島に流されそこで生涯を閉じますが、その生活を支えたのが夫人の実家、加賀前田家です。
明治に入り宇喜多家の罪が許され、子孫の東京移住が勧められますが、それを受け入れたのも加賀前田家です。
当時前田家は、板橋に22万坪の下屋敷を保有していましたが、この内2万坪を宇喜多家に与え、子孫7家を受け入れました。
その時子孫達が屋敷内に建立したのがこの墓です。
現在前田家も宇喜多家もこの地に居りません、宇喜多家は5家迄が数年を経ずして八丈島に戻りました。
墓だけがここ東光寺に移り今日を迎えております。 -
秀家公の墓の隣に、石造地蔵菩薩坐像があります。
板橋区の有形文化財です。 -
板橋駅前に到着しました。
当時ここは宿場を離れた淋しい場所で、旅人達は足早に通り過ぎる野っ原でした。
慶応4年4月25日、この場所で新撰組局長近藤勇は斬首、35歳でした。
後日その跡地に、新撰組生き残りの隊士、永倉新八が建てたのがこの墓です。
正面に近藤勇と土方歳三の名前を、右面に戦死者39人の名前、左面に病死、切腹した71人の名前が、背面に発起人永倉新八の名前が刻まれて居ます。 -
同じ区域に永倉新八の墓もあります。
永倉は、小樽で亡くなりましたが、家族が分骨してこの地に墓を造りました。
新八も仲間達と一所に過ごしたかったのでしょう。
墓の揮毫者が蜂須賀公ですが、関係はどうなのでしょう。 -
近藤勇の像
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近藤、土方、永倉の肖像画、金網で覆われています。
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板橋駅。
墓所の正面、2分の距離です。
ここから帰途に付きます。お付き合い下さり有難う御座いました。
終
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