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鍋掛宿<br />鍋掛宿(栃木県那須塩原市)概要: 鍋掛宿は奥州街道の宿場町として成立した町です。大田原宿側の入口部には延宝7年(1679)に建立された清川地蔵尊が安置され、現在でも子育てに御利益があるとして特に幼い子供がいる母親から信仰の対象とり毎年4月24日には集落の女性信者が集まり念仏講が行われているそうです。宿場の中央付近には八坂神社が鎮座し境内には芭蕉句碑「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす ばせを」が建立され、向かいにある正観寺にはシダレザクラの古木と古い道標を見る事が出来ます。堀越宿側の入口部には二十三夜塔や馬頭観音の石塔など建立され一種の結界のように配置されています。正保3年(1646)以後は天領として幕府が支配し往時は那珂川の川留の宿として繁栄し本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒、戸数100余戸があり、隣接する堀越宿とは余り離れておらず2宿で1つの宿として機能していました。慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には東軍方の水谷勝俊等が鍋掛宿に陣を設けたとされます。江戸時代末期には天狗党の乱の舞台の1つとなり元治元年(1864)11月に天狗党の党員達が堀越宿、鍋掛宿に着陣し、ここから西上し京都を目指しています。道路の拡幅と建物の建替えにより宿場町の雰囲気は失われつつあります。

奥州古道歩き No5.栃木県の鍋掛宿(5)

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2014/05/22 - 2014/05/22

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ムッシュ

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鍋掛宿
鍋掛宿(栃木県那須塩原市)概要: 鍋掛宿は奥州街道の宿場町として成立した町です。大田原宿側の入口部には延宝7年(1679)に建立された清川地蔵尊が安置され、現在でも子育てに御利益があるとして特に幼い子供がいる母親から信仰の対象とり毎年4月24日には集落の女性信者が集まり念仏講が行われているそうです。宿場の中央付近には八坂神社が鎮座し境内には芭蕉句碑「野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす ばせを」が建立され、向かいにある正観寺にはシダレザクラの古木と古い道標を見る事が出来ます。堀越宿側の入口部には二十三夜塔や馬頭観音の石塔など建立され一種の結界のように配置されています。正保3年(1646)以後は天領として幕府が支配し往時は那珂川の川留の宿として繁栄し本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒、戸数100余戸があり、隣接する堀越宿とは余り離れておらず2宿で1つの宿として機能していました。慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には東軍方の水谷勝俊等が鍋掛宿に陣を設けたとされます。江戸時代末期には天狗党の乱の舞台の1つとなり元治元年(1864)11月に天狗党の党員達が堀越宿、鍋掛宿に着陣し、ここから西上し京都を目指しています。道路の拡幅と建物の建替えにより宿場町の雰囲気は失われつつあります。

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  • 【樋澤神社(ひさわ)】が鎮座しています、旧八幡社です。<br />境内に八幡太郎義家愛馬蹄跡石があります、陸奥平定に向かう源義家が小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社を見つけると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、余りの勢いから岩に蹄跡(ひづめあと)が刻まれたといいます。

    【樋澤神社(ひさわ)】が鎮座しています、旧八幡社です。
    境内に八幡太郎義家愛馬蹄跡石があります、陸奥平定に向かう源義家が小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社を見つけると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、余りの勢いから岩に蹄跡(ひづめあと)が刻まれたといいます。

  • 蹄跡石の奥の巨岩は葛籠(つづら)に似ているところから義家が葛籠石と命名しました、並びには六地蔵石幢や地蔵尊、如意輪観音像等があります。<br />

    蹄跡石の奥の巨岩は葛籠(つづら)に似ているところから義家が葛籠石と命名しました、並びには六地蔵石幢や地蔵尊、如意輪観音像等があります。

  • 境内に【八幡太郎義家愛馬蹄跡石】があります。<br />陸奥平定に向かう源義家が小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社を見つけると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、余りの勢いから岩に蹄跡(ひづめあと)が刻まれたといいます。<br /><br />【葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡(伝説の地)】 管理者 樋沢葛籠会<br />  ここ葛籠石・八幡太郎愛馬蹄跡の巨石にまつわる言い伝えは、樋沢村に古くから残っている。<br />  後三年の役(1083~1087)で陸奥平定に向う八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。<br />  よく見ると、それは源氏の氏神である八幡神社であった。<br />  義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上がった。<br />あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと、刻みつけられたという。<br />  また、この時すぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(「つづらふじ」で編んだ着物を入れる箱型のかご)に似ていることから、義家が葛籠石と名付けたと伝えられている。<br />  以後、巨石信仰の場、伝説の地として今日まで大切に守られてきた樋沢村の文化財である。<br />               平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会

    境内に【八幡太郎義家愛馬蹄跡石】があります。
    陸奥平定に向かう源義家が小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社を見つけると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、余りの勢いから岩に蹄跡(ひづめあと)が刻まれたといいます。

    【葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡(伝説の地)】 管理者 樋沢葛籠会
      ここ葛籠石・八幡太郎愛馬蹄跡の巨石にまつわる言い伝えは、樋沢村に古くから残っている。
      後三年の役(1083~1087)で陸奥平定に向う八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。
      よく見ると、それは源氏の氏神である八幡神社であった。
      義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上がった。
    あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと、刻みつけられたという。
      また、この時すぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(「つづらふじ」で編んだ着物を入れる箱型のかご)に似ていることから、義家が葛籠石と名付けたと伝えられている。
      以後、巨石信仰の場、伝説の地として今日まで大切に守られてきた樋沢村の文化財である。
                   平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会

  • 【鍋掛の一里塚】はこの石垣の上にある。<br />昔の道路は、今より高い位置であったが、現在は切通しで低い位置になった。<br />鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道41番目のもので、江戸より41里(約161㎞)の距離を示す塚である。

    【鍋掛の一里塚】はこの石垣の上にある。
    昔の道路は、今より高い位置であったが、現在は切通しで低い位置になった。
    鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道41番目のもので、江戸より41里(約161㎞)の距離を示す塚である。

  • 鍋掛の一里塚の説明標識<br />江戸より41番目。<br />	<br />【鍋掛の一里塚(史跡)】 市指定文化財(昭和44年1月1日指定)<br />  江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す塚である。(鍋掛宿誌)<br /> 当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。<br />「野間の大野家文書」には、慶長九年甲辰(1604)に築かれたという記録が残っている。<br />もとは、ここより約十一メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された(平成六年三月)<br />また、かつては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。<br />                    那須塩原市教育委員会

    鍋掛の一里塚の説明標識
    江戸より41番目。

    【鍋掛の一里塚(史跡)】 市指定文化財(昭和44年1月1日指定)
      江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す塚である。(鍋掛宿誌)
     当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
    「野間の大野家文書」には、慶長九年甲辰(1604)に築かれたという記録が残っている。
    もとは、ここより約十一メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された(平成六年三月)
    また、かつては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。
                        那須塩原市教育委員会

  • ここに一里塚がある。江戸日本橋より数えて41番目、161km、慶長9年(1604年)に築かれた。

    ここに一里塚がある。江戸日本橋より数えて41番目、161km、慶長9年(1604年)に築かれた。

  • 一里塚に面して、鍋掛神社の参道。<br />案外の坂を上ると左手に標識「←鍋掛の一里塚」があります、石段を上ると右手に鍋掛の一里塚があります。<br /><br />元は愛宕峠の頂上付近にありましたが道路改修により両塚とも消滅しました、元は約11mほど東にありましたが、北塚がここに復元されました、江戸日本橋より数えて40里目です。<br /><br />ここから更に石段を上ると鍋掛神社が鎮座しています、寛文五年(1665年)以前に勧請された旧愛宕神社です、昭和三十年(1955年)温泉神社と鶏鳥神社が合祀され、鍋掛神社と改称されました。<br /><br />前身である愛宕神社の創建は不詳ですが寛文5年(1665)以前から勧請されていました。古くから火防の神として信仰され、地名にも「あたご町」が付けられるなど地域の守護神的な存在だった事が窺えます。昭和29年(1954)に社殿が再建され昭和35年(1960)に付近にあった温泉神社、鶏島神社が愛宕神社に合祀し「鍋掛神社」に社号を改めています。拝殿は入母屋、鉄板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付、本殿は一間社、神明造、鉄板葺。境内には平成6年(1994)3月に鍋掛の一里塚が移され、那須塩原市指定史跡に指定されています。社殿は奥州街道からは奥まった所に位置し、人気の無い参道が郷愁を誘います。

    一里塚に面して、鍋掛神社の参道。
    案外の坂を上ると左手に標識「←鍋掛の一里塚」があります、石段を上ると右手に鍋掛の一里塚があります。

    元は愛宕峠の頂上付近にありましたが道路改修により両塚とも消滅しました、元は約11mほど東にありましたが、北塚がここに復元されました、江戸日本橋より数えて40里目です。

    ここから更に石段を上ると鍋掛神社が鎮座しています、寛文五年(1665年)以前に勧請された旧愛宕神社です、昭和三十年(1955年)温泉神社と鶏鳥神社が合祀され、鍋掛神社と改称されました。

    前身である愛宕神社の創建は不詳ですが寛文5年(1665)以前から勧請されていました。古くから火防の神として信仰され、地名にも「あたご町」が付けられるなど地域の守護神的な存在だった事が窺えます。昭和29年(1954)に社殿が再建され昭和35年(1960)に付近にあった温泉神社、鶏島神社が愛宕神社に合祀し「鍋掛神社」に社号を改めています。拝殿は入母屋、鉄板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付、本殿は一間社、神明造、鉄板葺。境内には平成6年(1994)3月に鍋掛の一里塚が移され、那須塩原市指定史跡に指定されています。社殿は奥州街道からは奥まった所に位置し、人気の無い参道が郷愁を誘います。

  • 参道を奥まで歩き鍋掛神社にお参りします。本堂です。旅の無事を祈っております。<br />東北大震災では甚大な被害を受けた。<br /><br />	<br />【愛宕神社(鍋掛神社)】 <br />  寛文五年(1665)以前の勧請。<br />昭和三十年愛宕神社に元無格社温泉神社と鶏島神社が合祀され、鍋掛神社と改称された。<br />  宕とは、火を意味する古語からきているともいわれ、日本各地にある愛宕神社の本社は京都市左京区愛宕町にあり火伏せ(火災を防ぐ)の神がまつられている。<br />  本市の西那須野地区には「あたご町」という町名があり、その由来は、町内にある愛宕神社にあるといわれている。<br />また、塩原地区にも関谷愛宕神社がある。<br />            平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会

    参道を奥まで歩き鍋掛神社にお参りします。本堂です。旅の無事を祈っております。
    東北大震災では甚大な被害を受けた。


    【愛宕神社(鍋掛神社)】 
      寛文五年(1665)以前の勧請。
    昭和三十年愛宕神社に元無格社温泉神社と鶏島神社が合祀され、鍋掛神社と改称された。
      宕とは、火を意味する古語からきているともいわれ、日本各地にある愛宕神社の本社は京都市左京区愛宕町にあり火伏せ(火災を防ぐ)の神がまつられている。
      本市の西那須野地区には「あたご町」という町名があり、その由来は、町内にある愛宕神社にあるといわれている。
    また、塩原地区にも関谷愛宕神社がある。
                平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会

  • 鍋掛交差点になります、この辺りが鍋掛宿の江戸(南)口です、鍋掛宿に到着です!<br /><br />鍋掛宿は難所那珂川を控え、対岸の越掘(こえぼり)宿と二宿で一宿の機能を果たしました、那珂川が川留になると大いに賑わいました。<br /><br />鍋掛の地名は那珂川の川留により旅人が溢れ、住人が総出で鍋を掛け、炊き出しを行ったところに由来しています。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、鍋掛宿の宿内家数は68軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠23軒で、宿内人口は346人でした。<br />

    鍋掛交差点になります、この辺りが鍋掛宿の江戸(南)口です、鍋掛宿に到着です!

    鍋掛宿は難所那珂川を控え、対岸の越掘(こえぼり)宿と二宿で一宿の機能を果たしました、那珂川が川留になると大いに賑わいました。

    鍋掛の地名は那珂川の川留により旅人が溢れ、住人が総出で鍋を掛け、炊き出しを行ったところに由来しています。

    天保14年(1843年)の頃、鍋掛宿の宿内家数は68軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠23軒で、宿内人口は346人でした。

  • 【清川地蔵尊】<br />延宝七年1679年の建立、子育て地蔵として地元の信仰が厚かったと記されてる。<br />鍋掛交差点の手前にコンビニがあります、交差点を左に進むとJR東北本線黒磯駅に至ります、交差点を越すと左手に清川地蔵尊が安置されています。<br />  清川地蔵の建立は、延宝七年(1679)で、本市の石仏地蔵の中では古いものである。<br />  当時の宿場の生活は決して楽ではないと思われるが、人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。<br />  お地蔵様は、庶民のあらゆる願いを叶えてくれるもの、また子供の成長を見守ってくれるものとして信仰されてきた。<br />  特に、清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。<br />毎年四月二十四日の祭礼には集落の女性全員が集まり、ここ清川地蔵様だけに唱える念仏が行われている。<br />              平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会<br /><br />

    【清川地蔵尊】
    延宝七年1679年の建立、子育て地蔵として地元の信仰が厚かったと記されてる。
    鍋掛交差点の手前にコンビニがあります、交差点を左に進むとJR東北本線黒磯駅に至ります、交差点を越すと左手に清川地蔵尊が安置されています。
      清川地蔵の建立は、延宝七年(1679)で、本市の石仏地蔵の中では古いものである。
      当時の宿場の生活は決して楽ではないと思われるが、人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。
      お地蔵様は、庶民のあらゆる願いを叶えてくれるもの、また子供の成長を見守ってくれるものとして信仰されてきた。
      特に、清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。
    毎年四月二十四日の祭礼には集落の女性全員が集まり、ここ清川地蔵様だけに唱える念仏が行われている。
                  平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会

  • 地蔵尊の説明板

    地蔵尊の説明板

  • 【芭蕉句碑】<br />鍋掛駐在所を過ぎると、左手のヤマザキショップの並びに【賀茂神社】が鎮座しています、境内に文化五年(1808年)建立の芭蕉句碑。<br />「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」があります、<br />元禄二年(1689年)奥の細道紀行の際の句です。黒羽より高久に向かう道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句。<br /><br />	<br />【芭蕉の句碑】<br />  芭蕉が元禄二年(1689)三月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。<br />   「野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす」<br />  この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。<br />  句日の建立は、文化五年(1808)十月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。<br />  平成五年(1993)三月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。<br />                          黒磯市教育委員会<br /><br />

    【芭蕉句碑】
    鍋掛駐在所を過ぎると、左手のヤマザキショップの並びに【賀茂神社】が鎮座しています、境内に文化五年(1808年)建立の芭蕉句碑。
    「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」があります、
    元禄二年(1689年)奥の細道紀行の際の句です。黒羽より高久に向かう道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句。


    【芭蕉の句碑】
      芭蕉が元禄二年(1689)三月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。
       「野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす」
      この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
      句日の建立は、文化五年(1808)十月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
      平成五年(1993)三月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
                              黒磯市教育委員会

  • 賀茂神社(左端にちらっと見えている)

    賀茂神社(左端にちらっと見えている)

  • 那珂川に掛かる鉄橋。【昭明橋】<br />川を渡ると対岸は越堀宿。<br />当時も、大雨による川留の時は、鍋掛宿も旅人があふれてた。昭明橋で那珂川を渡ります(昭和16年7月竣工)。<br />舟を浮かべて橋代わりにし、通行銭を要したという。

    那珂川に掛かる鉄橋。【昭明橋】
    川を渡ると対岸は越堀宿。
    当時も、大雨による川留の時は、鍋掛宿も旅人があふれてた。昭明橋で那珂川を渡ります(昭和16年7月竣工)。
    舟を浮かべて橋代わりにし、通行銭を要したという。

  • 那珂川のたもとに残る【馬頭観音石碑】<br />那珂川渡し場口です、踏み込むと<br />安政6年(1859年)建立の馬頭観世音、文化3年(1806年)建立の十九夜念仏供養塔、文化11年(1804年)建立の二十三夜塔等があります、残念ながらこの先は通行不可です。<br />

    那珂川のたもとに残る【馬頭観音石碑】
    那珂川渡し場口です、踏み込むと
    安政6年(1859年)建立の馬頭観世音、文化3年(1806年)建立の十九夜念仏供養塔、文化11年(1804年)建立の二十三夜塔等があります、残念ながらこの先は通行不可です。

  • 同じく石仏群。二十三夜塔等が立つ。

    同じく石仏群。二十三夜塔等が立つ。

  • 鉄橋を渡る途中で橋より那珂川を望む。静かな川です。大雨で暴れます。<br /><br />那珂川は関東第3の大河で、関東随一の清流として知られている。特に鮭の遡上する河川として知られ、獲れた鮭は江戸時代には水戸藩への献上品であった<br />また、秋には鮎が遡上し、鮎の友釣りが盛んである<br /><br />那珂川の源流は那須岳で、茨城県の水戸を通り、ひたちなか市と大洗町との境で太平洋に注いでいる川である<br />

    鉄橋を渡る途中で橋より那珂川を望む。静かな川です。大雨で暴れます。

    那珂川は関東第3の大河で、関東随一の清流として知られている。特に鮭の遡上する河川として知られ、獲れた鮭は江戸時代には水戸藩への献上品であった
    また、秋には鮎が遡上し、鮎の友釣りが盛んである

    那珂川の源流は那須岳で、茨城県の水戸を通り、ひたちなか市と大洗町との境で太平洋に注いでいる川である

  • 那珂川の昭明橋を渡ると、すぐ左に曲がり、越堀(こえぼり)宿となる。江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで水が多いときだけ船渡しであった。江戸時代後期になると、舟橋や土橋も利用された。 右に曲がる道は、「関街道」と呼ばれ、蓑沢から栃木・福島県境の追分を経て「白川の関」跡に通じている。

    那珂川の昭明橋を渡ると、すぐ左に曲がり、越堀(こえぼり)宿となる。江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで水が多いときだけ船渡しであった。江戸時代後期になると、舟橋や土橋も利用された。 右に曲がる道は、「関街道」と呼ばれ、蓑沢から栃木・福島県境の追分を経て「白川の関」跡に通じている。

  • 橋を渡って、【越堀(こえぼり)宿】に入って来ました。町の中心地です。<br />寛永12年(1635年)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の伊達侯が那珂川の川留めに遭い、越堀に小屋を建てたのが宿の始まりです、その後、正保3年(1646年)正式に越掘宿が開設されました。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、越堀(こえぼり)宿の宿内家数は113軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠11軒で、宿内人口は569人でした。

    橋を渡って、【越堀(こえぼり)宿】に入って来ました。町の中心地です。
    寛永12年(1635年)参勤交代で江戸に向かう仙台藩の伊達侯が那珂川の川留めに遭い、越堀に小屋を建てたのが宿の始まりです、その後、正保3年(1646年)正式に越掘宿が開設されました。

    天保14年(1843年)の頃、越堀(こえぼり)宿の宿内家数は113軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠11軒で、宿内人口は569人でした。

  • 黒羽領境界石<br />真言宗智山派浄泉寺の境内に領界石「従此川中東黒羽領」があります、<br />黒羽藩(18,000石藩主大関氏)と天領との境界石です、越堀宿の渡し場にありましたが、大正7~8年(1918~19)頃に当寺に移されました。<br /><br />黒羽領境界石がある。表に「従是川中東黒羽領」。とあり天領の鍋掛に対し、川からこちらが黒羽藩領で有ることを示す。黒羽藩主が大坂で造らせたものでもとは川べりにあったものを移転した。ほかに明治天皇御膳水の碑や井戸も残る。<br /><br />黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為<br />文化10~11年(1813~14年)に境界石を造り、建てたものだ<br /><br />丁度、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ由<br /><br />この標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり<br />背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある<br /><br />もともとは那珂川の左岸、越堀宿の入口にあったが大正7~8年に保存の為、ここ浄泉寺の境内に移されたとのこと那須塩原市の指定文化財となっている

    黒羽領境界石
    真言宗智山派浄泉寺の境内に領界石「従此川中東黒羽領」があります、
    黒羽藩(18,000石藩主大関氏)と天領との境界石です、越堀宿の渡し場にありましたが、大正7~8年(1918~19)頃に当寺に移されました。

    黒羽領境界石がある。表に「従是川中東黒羽領」。とあり天領の鍋掛に対し、川からこちらが黒羽藩領で有ることを示す。黒羽藩主が大坂で造らせたものでもとは川べりにあったものを移転した。ほかに明治天皇御膳水の碑や井戸も残る。

    黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為
    文化10~11年(1813~14年)に境界石を造り、建てたものだ

    丁度、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ由

    この標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり
    背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある

    もともとは那珂川の左岸、越堀宿の入口にあったが大正7~8年に保存の為、ここ浄泉寺の境内に移されたとのこと那須塩原市の指定文化財となっている

  • 浄泉寺境内には更に山に向かって石段があり。<br />浄泉寺不動堂脇に加茂神社参道口があります、杉林内の急な石段を上ると【加茂神社】が鎮座しています、正徳三年(1713年)の創建です。<br /><br />境内に越堀の大杉があります、 かつてはこの辺り一帯は杉森でしたが昭和40年(1965年)に大杉二本を残して全て伐採されました、内1本は落雷により枯れてしまいました。

    浄泉寺境内には更に山に向かって石段があり。
    浄泉寺不動堂脇に加茂神社参道口があります、杉林内の急な石段を上ると【加茂神社】が鎮座しています、正徳三年(1713年)の創建です。

    境内に越堀の大杉があります、 かつてはこの辺り一帯は杉森でしたが昭和40年(1965年)に大杉二本を残して全て伐採されました、内1本は落雷により枯れてしまいました。

  • 石段を登って、上に着くと新しい社あり。ここでもお参りします。

    石段を登って、上に着くと新しい社あり。ここでもお参りします。

  • 宿出口に位置する桝形道の説明標識。<br />「此の地 奥州街道越堀宿 桝形の地」<br />浄泉寺の先に枡形の痕跡を残しています、右手に此の地奥州街道越堀宿桝形の地碑があります、この辺りが越堀宿の白河(北)口です。<br /><br />越堀宿・枡形の地の碑 越堀宿は奥州道中の他の宿と比べてかなり遅く、正保3年(1646)の開設である。寛永12年(1635)仙台の伊達公が参勤交代で江戸に向かう途中、那珂川の増水でなかなか渡れず、この越堀に小屋を設けて水が引くのを待った。後にこの小屋を中心に町が開け、宿駅としての機能を持つにいたった。この越堀宿の成立で明治維新に至るまでの奥州道中10宿(下野の白沢宿、氏家宿、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿、越堀宿、芦野宿、陸奥国の白坂宿、白河宿)が完成した。<br /><br />

    宿出口に位置する桝形道の説明標識。
    「此の地 奥州街道越堀宿 桝形の地」
    浄泉寺の先に枡形の痕跡を残しています、右手に此の地奥州街道越堀宿桝形の地碑があります、この辺りが越堀宿の白河(北)口です。

    越堀宿・枡形の地の碑 越堀宿は奥州道中の他の宿と比べてかなり遅く、正保3年(1646)の開設である。寛永12年(1635)仙台の伊達公が参勤交代で江戸に向かう途中、那珂川の増水でなかなか渡れず、この越堀に小屋を設けて水が引くのを待った。後にこの小屋を中心に町が開け、宿駅としての機能を持つにいたった。この越堀宿の成立で明治維新に至るまでの奥州道中10宿(下野の白沢宿、氏家宿、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿、越堀宿、芦野宿、陸奥国の白坂宿、白河宿)が完成した。

  • 街道の道標。江戸へ40里、白河へ7里。

    街道の道標。江戸へ40里、白河へ7里。

  • 伊勢大神宮遥拝碑。遠路伊勢まで行かずとも、こちらで拝んだのか?

    伊勢大神宮遥拝碑。遠路伊勢まで行かずとも、こちらで拝んだのか?

  • 【寺子一里塚】<br />寺子交差点手前の右手に寺子一里塚公園があります、園内に寺子の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて41里目、42番目です

    【寺子一里塚】
    寺子交差点手前の右手に寺子一里塚公園があります、園内に寺子の一里塚が復元されています、江戸日本橋より数えて41里目、42番目です

  • 富士見峠にあった【馬頭尊】。道標を兼ねる。<br />湯殿山六十六里、仙台五十里、会津二十四里、那須湯元五里、日光山十六里、江戸四十一里、水戸二十二里、八溝山五里と刻まれている。

    富士見峠にあった【馬頭尊】。道標を兼ねる。
    湯殿山六十六里、仙台五十里、会津二十四里、那須湯元五里、日光山十六里、江戸四十一里、水戸二十二里、八溝山五里と刻まれている。

  • 【会三寺(えさんじ)】<br />真言宗智山派普門院蓮乗院会三寺があります、元亀元年(1570年)の創建です。<br />はしか地蔵で有名。はしかが流行り、幼児が沢山亡くなった時、法院和尚が百十一体の地蔵を彫り菩提を弔ったという。境内にははしか地蔵堂がある。

    【会三寺(えさんじ)】
    真言宗智山派普門院蓮乗院会三寺があります、元亀元年(1570年)の創建です。
    はしか地蔵で有名。はしかが流行り、幼児が沢山亡くなった時、法院和尚が百十一体の地蔵を彫り菩提を弔ったという。境内にははしか地蔵堂がある。

  • 余笹川見晴し公園より。<br />余笹川(よささがわ)手前の右手に余笹川見晴し公園があります、園内に天皇陛下皇后陛下行幸啓記念碑があります。

    余笹川見晴し公園より。
    余笹川(よささがわ)手前の右手に余笹川見晴し公園があります、園内に天皇陛下皇后陛下行幸啓記念碑があります。

  • 余笹川。平成10年に大雨で氾濫し旧寺子橋を流失した。

    余笹川。平成10年に大雨で氾濫し旧寺子橋を流失した。

  • 川のたもとに立つ【寺子地蔵尊】<br />寺子橋手前の左が寺子旧道です、踏み込むと享保十二年(1727年)造立の寺子地蔵尊が祠内に安置されています、享保の大飢饉による子供や老人の餓死者を供養したものです。<br />いよいよ橋を渡り、芦野宿へ向かう.

    川のたもとに立つ【寺子地蔵尊】
    寺子橋手前の左が寺子旧道です、踏み込むと享保十二年(1727年)造立の寺子地蔵尊が祠内に安置されています、享保の大飢饉による子供や老人の餓死者を供養したものです。
    いよいよ橋を渡り、芦野宿へ向かう.

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