1995/10/14 - 1995/10/20
59位(同エリア346件中)
がおちんさん
トラックをチャーターして、チベットの聖地・カイラス山(カンリンポチェ)を目指します。
ラサの旅行社でツアーを組み、パーミットの問題や車両の問題、金銭的な問題などを全て解決し、8名で意気揚々と出発しました。
ところが、初日から「ガイドはとんでもない曲者」と発覚して私達の怒りが爆発。ラツェでは公安にも捕まり、働かないガイドは皆からしばかれるハメに。
問題はそれだけで収まらず、今度は荒野の分岐点にて、ガイドが本当は道を知らないのに知ってると嘘をついていたことが発覚。怒り狂った運転手から引きずりおろされ、ボコボコに。本当に殺すんじゃないかという勢いだったので、皆であわてて止める始末。
何日もトラックの荷台に乗って私達は体がボコボコになり、嘘つきガイドは皆からどつかれてボコボコになりました。
果たしてカイラスには無事にたどり着けるのか?
※写真はカムパ・ラ(峠)で一休みの図
-
2週間滞在したラサ。
青い空と、美しいポタラ宮と、祈る者の絶えないジョカンが印象的だった。 -
何度もポタラ宮や寺に行って歩き回ったので、高度順化もバッチリ。
カイラスへ行く準備も整った。
ランクルだと高額になるので、トラックをチャーターすることにした。 -
旅のルート図(カイラスまで)
ラサからギャンツェ、シガツェと寺を見学し、一路カイラスへ。その後チョモランマのベースキャンプを経由し、ネパール国境のダムまで行く。15日間の予定で計画を立てたが、念のために3日増やして18日間の旅程とした。
道中は色々とトラブルがあり、結果的にギリギリの日程で旅を終えた。 -
1995年10月14日。
今日はカイラス出発の日。
朝方、トラックの荷台に物資を積み込む。
10名分の食料や燃料、日常品など、けっこう大量。 -
カイラスに向かう8名(後方左から2番目は見送りの人)。
ラサのヤクホテルで同行者を募り、K君、O君、Z君、Aさん、Sさん、Yさんが参加。
これにガイドと運転手を入れて、10名の旅となった。 -
このガイドというのがとんでもない食わせ物で、実はガイドなど一度もしたこともないシロートだった。初めは偉そうな態度をとっていたが、皆からボコボコにされてお荷物状態と化し、最後はネパール国境の街ダムでタシさんから置き去りにされることになる。
一方、トラックの運転手タシさんは、チョモランマ登山隊を運んだこともあるベテランドライバーで、今回も旅の危機を何度も救ってくれた人。初めは旅行会社から「ガイドの言う事をきくように」との命を受けて低姿勢だったが、嘘つきガイドの低脳ぶりにキレて主導権を握る。ジャン・マリア・ヴォロンテ似のイイ男。(今回、写真を見直したら、晩年のフレディ・マーキュリーにも似てるな) -
我々、日本旅行団(団長がおちん)は、タシさんの運転する東方型トラックの荷台に乗って西へ向かった。
乗り心地が悪くて寒いけど、眺めは最高だー。 -
カムパ・ラ(峠)に着いた。
ちょっと休憩。 -
風が強くて寒い。
カムパ・ラの標高は4750mあるそうだ。 -
後ろに見えるのはヤムドク湖。
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やがて道はヤムドク湖畔を走る。
湖に下りてみた。 -
ギャンツェに向かう道。
チベットでは所々、荒野になって道筋が途切れたり、峠の険しい崖を越えたりする。全てはドライバーの勘にたよるのみ。
タシさんの運転は安全かつ慎重で、私達も安心して荷台に乗っていられた。
信頼できる人だ。 -
「あっ氷河だ、ちょっと停めて」と車を下りる。
その大きさに「すげー」と感動。 -
カロー・ラ(峠)から見る、ノジン・カンツァン(7191m)の氷河。
このときは情報が無かったので、そういう名称も、この峠の標高が5045m(5560説もあり)あるということも知らなかった。 -
チベット第3の街、ギャンツェに到着。
まるで中世に来たかのような眺め。 -
街角から見たギャンツェ・ゾン(城砦)
これぞチベットの街といった佇まいを目に焼き付けておく。
※ちなみに、現在ここにはアホみたいな記念碑が建っていて、景観が著しく損なわれてしまったそうです。 -
パンコル・チューデ(白居寺)へ。
ここの寺や仏塔、壁画は文革時の破壊を免れたという。
犬が門番をしていた。 -
寺のお坊さんは、私たちが日本人と知ると笑顔になり、「写真を撮りなさい」と言ってくれた。
きっと、この素晴しい壁画を守るために、その存在を世界に広めたいと願ったのだろう。文革で脳の腐っちゃった奴らに壊されなかったのは幸いである。
中共も、政治的に使えたり、金になりそうな物に関しては紅衛兵に手を出させなかったそうだ。ダライ側の拠点となったゲルク派のガンデン寺を壊滅的にさせておきながら、ポタラ宮などは解放軍に守らせたという。(今やチベットの高いパーミット代や寺院などの入場料で中国は大儲けしている) -
パンコル・チョルテンを右繞するチベット人。
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足が悪いのに、必死にマニ車を回していたお婆さん。
その姿に胸を打たれた。 -
ギャンツェを後にし、シガツェへ向かう。
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夕方、シガツェに到着。ここで事件発生。
宿に荷物を置いて、タシルンポ寺に行く予定だったが、ガイドから「今日は休みで入れない」と伝えられた。残念だが仕方がない。
K君とO君の2人は「せっかく来たので外側だけでも見てきます」と寺に向かった。1時間後、2人は帰ってくるなり「開いていました」と言った。閉館時間が迫っていたので、皆を呼びに帰る時間も無かったそうだ。「自分たちだけ観れてすいません」と2人は気まずそう。
※写真はシガツェのテンジンホテル -
当然、皆の不満はガイドに向けられた。文句を言おうと思ったが、ガイドがいない。
すると、「さっき宿の女性とイチャイチャしてたのを見ました」とYさん。トイレに2人で入ったまま、何やらしているらしい。なんて野郎だ。
夜、ガイドに「私たちは二度とここに来れないかもしれない。お前のせいで皆が貴重な機会を失ったんだぞ」と苦情を言った。
要するに、ガイドの仕事は真面目に働いても働かなくても給料は一緒なので、怠け者ほど行き先を省略したり、旅程を短くしようとするのである。チベットではよくあることらしい。
こちらは入念に計画を立て、旅行会社に書面で旅程を提出したのに、こんなアホなガイドでは先が思いやられる。 -
1995年10月15日
今日もシガツェに滞在するが、日曜日なのでタシルンポ寺は閉館。
それぞれ、街を観たり、買い物をしたり、休息したりして過ごす。 -
1995年10月16日
ラツェに向かって出発。
荒涼とした大地を走る。 -
ロバ車でテクテク行く、チベット人。
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なんと、ラツェで公安に捕まる。
外国人がトラックで先へ行くのは怪しからんとの事。要するに「通せんぼ」されたのだ。
「さ、お前の出番だ」とガイドを向かわせたものの、全く役に立たず、反対に全員のパスポートを取り上げられる始末。
仕方なく、ラツェの旅社に泊まるはめになった。
※写真はラツェ警察の中庭にて、気落ちする(フリの)私たち。 -
1995年10月17日
「このままでは先へ行けない」とへらへらガイド。てめー、何言ってんだよと、皆の怒りが爆発し、ラツェのストリートでガイドをどつく。一番華奢な体つきのA嬢までがローキックをかましていた。しかもガイドは偽名を使っていて、身分証を見ると本名は平多であることが発覚。以降、皆からはピン太と呼ばれる。
結局、午後にランクルをチャーターして“ラツェを離れる”ことになった。たった10km走っただけで400元の出費! ここの公安はあの手この手で外国人ツーリストに難癖をつけ、かなり儲けているようだ。
ヤルツァンポ川を渡り、再び東方トラックに乗り込んだ。 -
何はともあれ、これで旅が続けられる。
タシさんの運転する東方号は、西へと走った。
道というよりも、ほとんど荒野。 -
夜、サンサン(桑桑)に到着。
子供達が可愛い。
ラツェで足止めされた分、明日は早く出発することにした。 -
1995年10月18日
朝、6時ちょうどにサンサンを出発。 -
トイレ休憩中。
ちょー寒いー。 -
トラックの荷台で埃まみれになって眠るメンバー。
毎日、14〜15時間も悪路に揺られていた。
今思うと、若さゆえに出来たハードな旅だったなー。 -
20時ごろ、パルヤンに到着。
旅社の入り口にヤクの頭が飾ってあった。
今日はタシさんが頑張ってくれたので、すごい距離を走った。
地図を見てビックリする。 -
1995年10月19日
パルヤンを9時に出発する。
さすがに昨日の疲れが残っているが、今日はもっと過酷な道程となる。
タシさんはパルヤンまでは来たことがあるが、ここから先は道を知らないのでガイドに案内してもらうと言った。 -
氷が張った川。
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荒野の道は途切れ途切れで、もちろん標識などない。轍が並走する場所もあり、どっちが正しい道か分かりにくい。
ある分岐点で事件は発生した。
不意に運転席から怒鳴り声が聞こえ、車が停まった。タシさんはガイドのピン太を車から引きずり下ろすと、猛烈に殴り始めた。
あまりにも本気だったので、皆で慌てて止めた。 -
タシさんによるとピン太は、「実はカイラスへ行ったこともなく、道も知らないと白状した。ずーっと嘘をついていたのだ」という。
「トラックには必要な分しかガソリンを積んでおらず、途中で気軽に燃料補給ができるわけではない。道に迷っていたらラサまで帰れなくなるかもしれないんだ。皆にも嘘をついて、同じチベット人として許せない」とタシさんは激高した。
以後、ピン太は荷台に乗せられ、私たちが順番に助手席に座った。 -
昼、ラーメンを炊いて食べる。
灯油コンロが気化せず、なかなか温まらなかったが、タシさんが凍結用ガソリンバーナーを使って沸かしてくれた。
タシさんは頼りになる存在として、すっかり皆のヒーローに。 -
荒野で車を停め、腹ごしらえをする一行。
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中国の地図は当てにならない。道は書いてあっても、本当は何も無いところを走ったり、記載されている集落が無かったりするのだ。
こんな所をガイドも無く、初めて走るのだから大変だ。タシさんは時おり念仏を唱えながら運転していた。
夜、野ジカの群れが走るのに遭遇、その美しい姿に見とれた。
この日も夜遅くまで走り続け、23時40分にホルチュという集落に着いた。
タシさん、お疲れ様でした。 -
1995年10月20日
ホルチュの子供たち。
こんな辺境の地でも、人々は元気に暮らしている。 -
馬の世話をする少年。
ネパール側に見える雪山が美しい。 -
ナムナニ峰が見える。
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朝、ホルチュを出発し、マノサロワール湖へ向かう。
途中でキャンプをしていた巡礼者たちに出会った。 -
巡礼者と情報交換をするタシさん。
彼らはカイラス山の巡礼から戻ってきた人達だという。
でも方言が強くて、あまり意味が通じなかったそうだ。 -
タシデレ〜。
ナイス笑顔! -
マノサロワールまで来た。
湿地のため、車を下りて湖畔まで歩く。 -
お経を彫った石と、ヤクの角があった。
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聖なる湖へ。
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マノサロワール湖に到着。
風が強く、波が立っていた。 -
聖なる水を一口飲んでみる。
冷たくて無味無臭。 -
振りかえると、雪をかぶった山が見えた。
あれ、カイラス山じゃないか?
きっとそうだ。 -
そばまで近づくと、カイラス南面の卍が見えた。
ようやくカンリンポチェの姿を拝めて、みんな嬉しそう。
色々あったけど、なんとか来れてよかったー。 -
午後、タルチェンに到着。
明日から巡礼に出発する。
アジア旅行記1995〜1997(その7)に続く
http://4travel.jp/travelogue/10872686
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この旅行記へのコメント (4)
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- おぎゃんさん 2014/04/14 13:44:37
- 待ってました、西への旅。
- がおちんさん、こんにちは。
待ちに待った90年代のカイラスへの旅行記!
私もこの時代ならまだ体力もあったので「無理してでも」カイラス巡礼に行きたかったです。
仕事辞めておけば…(後悔しきり)。
今や獅泉河へもラサから民間機が飛ぶ時代なので(チベット航空というのがあるそうです…)、こんな道中の巡礼者や遊牧の人々に出会いながら旅する機会も消えつつあるんでしょうね。
しかし、偽(?)ガイドはいただけません。
命を預けたドライバーさんが良い方で幸いです。
ではでは。
おぎゃん
- がおちんさん からの返信 2014/04/14 20:10:38
- RE: 待ってました、西への旅。
- おぎゃんさん、こんにちは。
この頃のカイラスは遠かったですね。たしかに仕事を辞めなければ行けない場所でした。時代は変わり、今はラサからアリまで1時間半で飛べるんですね。驚きました。
でも、おぎゃんさんのおっしゃるように、旅は道中の過程があるからこそ楽しいし、深く心に刻み込まれるのだと思います。近頃は何でも便利になって手軽に旅ができるようになった反面、感動も薄れていく気がしますね。それって歳なのかな?
偽ガイドは最悪でしたが、ドライバーが良い人で本当に良かったです。当時はバスやトラックが崖から落ちているのをよく見かけました。96年には私たちと同じようにトラックで旅していた西洋人がシガツェ付近で事故に遭って腕を切断し、同行者がRH−型の血液を求めてシガツェの宿にいる旅行者に声をかけて回っていたと、その場に居合わせた人から聞かされました。また、98年にはカイラスに向かった日本人3名が行方不明になったそうです。雲南でも行方不明になったバックパッカーが多かったですが、たぶん移動中に崖から落ちた可能性が高い。そう考えると、私たちはたまたま運が良かっただけなんだと思います。
実際、私達もカイラスから戻る時には病人が出てシリアスな目に遭いました。おぎゃんさんも、入院して10キロも体重が減った後にチベットへ行くなんて、下手したら命に関わりますよね? でも、そんな無茶が出来た時代&世代だったのかもしれませんね。
がおちん
- おぎゃんさん からの返信 2014/04/14 21:14:35
- RE: RE: 待ってました、西への旅。
- がおちんさん、こんばんわ。
昔の記憶をひも解いてみると、当初の計画ではラサからニャラムー経由でネパールへ陸路向かうという当時のスタンダードなルートを辿る予定でした。
1988年の8月、青海湖からの帰りに病院へ直行した同じころ、ネパールでかなり大きな地震があったそうです。これでネパールとの国境が一時閉鎖になっていたとのこと。
この地震も西寧にいる頃は知るよしもなく、ラサまで入ってからニャラムーから引き返してきたツーリストからの情報で初めて知ったという始末。
大雨が続いてが悪路の中の事故やがけ崩れも多発して転落するバスやトラックを見たとの話を次から次へ聞き、病み上がりの私を抱えた友人は会う人ごとに
「飛行機で成都へ出た方がいい」
と説得されたそうです。
友人に聞くとやはり1人では不安だったラサ行き、病み上がりでも2人の方が心強かったと聞かされ、彼女に連れていってもらえたことに今でも感謝することしきりです。
おぎゃん
- がおちんさん からの返信 2014/04/14 21:52:59
- RE: RE: RE: 待ってました、西への旅。
- おぎゃんさん
それこそ、アナログ時代ならではのリアルな旅ですね。きっと友人の方も現地で色々なナマの情報を耳にして不安になったことでしょう。それにしても、病み上がりのおぎゃんさんを抱えてラサに行った友人もすごい人ですね。まあ、そういう人達じゃないと当時の中国は無理でしたね。交通は不便で混んでるし、服務員は不親切だし、どこもうす汚いし、今でいうニーハオトイレに驚いていたら旅なんかできなかったですもんね。
おぎゃんさんは具合が悪くて辛かったでしょうけど、心に残る良い旅をされましたね。
がおちん
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