1995/09/30 - 1995/10/13
71位(同エリア340件中)
がおちんさん
苦難の末にたどりついた〈神の地〉ラサ。
主を失ったポタラ宮は、祈る者達と青い空に囲まれて鎮座していました。
東チベットの旅で疲労した体を休め、そしてこれからカイラスを目指すべく活力を養うため、ラサに2週間滞在しました。
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1995年10月1日〜13日
ラサ到着の2日目。
昨夜はホリデイ・イン(当時ラサではUSドル払いの最高級ホテル)に泊まり、2週間ぶりに風呂に入って心も体もリフレッシュ。
今日からバルコル近くのヤクホテルに移動し、のんびり休養しつつ、カイラスへ向かう手段を考えることにした。
毎朝、ヨーグルト売りの「ショーセイショッ」という声で目覚める。
※写真はジョカンから蔵医院方面を望む -
バルコル(八角街)を右繞する、巡礼の人たち。
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旧市街では漢族の姿をあまり見かけない。
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バルコルで五体投地をしていた巡礼者。
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お香が焚かれるトゥルナン寺(ジョカン・大招寺)
7世紀にチベットを平定したソンツェン・ガンポ王の菩提供養と顕彰のため、ティツゥン妃(ネパールの王女)と文成公主(唐の大宗の王女)が協力して建てたと伝えられている。 -
正門前にて五体投地をするチベットの人々。
この正門は1980年までは閉じられており、一般の庶民は参拝できなかったそうである。翌1981年になって正午まで門が開けられ、一般の人も自由に入れるようになったという。 -
一心に祈る姿に感動する。
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犬も五体投地?
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参拝者の絶えない、トゥルナン寺。
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ナムチュワンデンのシンボルと、バター灯明。
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バター灯明が揺れる。
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ジョカン大聖堂の正門前に座し、念仏を唱える人。
1959年までは、新年の1月4日から3週間にわたって大祈願会がおこなわれ、セラ寺、デプン寺、ガンデン寺の僧侶をはじめ、2万人以上の僧が集まったという。 -
トゥルナン寺の屋上にある、法輪と臥鹿のシンボル。
思えば、1982年に出版された『チベットの都』(金子英一著)を読み、高校生だった私はジョカンやポタラ宮を訪れてみたくなった。その後、マークアイシャムの『チベット』というレーザーディスクを観て、いよいよチベットに魅かれた。
ところが1988年のラサ暴動以後、外国人が自由に旅行できなくなっていた。私が初めてチベットに向かった1991年には成都からの団体ツアー(高額!)しか許されていなかったが、「ラサまで行ってしまえば自由に動ける」という話がバックパッカーの間で交わされており、陸路からの入境を試みるも失敗。失意の中、ツアー参加者から「空が青かった」と聞かされたのが耳から離れず、ラサへの憧れは増すばかりだった。
今回、4年越しに夢が叶い、青い空やトゥルナン寺をこの眼で見ることができて幸せだ。 -
ポタラ宮の前で。
10月でも昼のラサは日光が強く、ビーチサンダルでも余裕だった。 -
誰だ、神聖なポタラ宮の前にミグのポンコツを置いた奴は?
私は(色々な意味で)中国が好きだけど、こういう無粋でえげつない振る舞いを見る度に悲しくなる。
まあ、パンクした戦闘機とチョビヒゲシセンジンはお似合いさ。 -
ポタラ宮の眺めがいいポイントを歩いて探す。
チャクポリの丘からが一番良かった。
ここにはかつてチベット医学校が建っていたそうな。 -
15元払ってポタラ宮へ登る。
ところが、屋上の「金頂」に行くには別料金10元がかかる。
なんだ、日光の眠り猫と同じ手法かよ。 -
とはいえ、ポタラ宮からはラサ市街地の眺めがバツグン。
後方にはジョカンで焚いてるお香の煙も見える。 -
地元民でにぎわう光明食堂。
停電のために昼から薄暗いが、雰囲気はいい。店内の隅でお香(というか枝そのもの)を焚いており、いつも煙たかった。
ここのミルクティーはちょっと乳臭いのが特徴。ヤカンをもった姉さんにお代わりをついでもらい、客はいつまでも談話を楽しんでいる。
ここで漢族は一度も見かけなかった。 -
光明食堂の名物、トゥクパ。
硬くて粉感のある麺がそそり立ち、桂花ラーメンに勝る存在感を持つ。 -
ラサでは食事に困らない。
一番のお気に入りは、開店まもないスノーランド・レストラン(雪域餐廳)で、ここのケーキやチキンシズラーは美味しくて、毎日のように通った。
その他、ラサ滞在中はバナクショーレストラン、団結飯店、山東餃子、光明食堂などが巡回コースとなった。
左上:モモ、右上:コロッケとなすのフリッター、右下:ヨーグルト、左下:ステーキ -
当時、地元で流行っている音楽テープを買うのが楽しみのひとつで、ラサでも何本か購入した。
自宅録りと思われる弾き語りバラードから、メジャー系のチベット歌手まで、色々と楽しめた。 -
チベット文化圏で入手した歌手のテープ。
左:吉香。四川省カンゼ州炉霍県出身。透き通る高音が魅力の女性歌手で、山歌仙女と呼ばれる。歌の内容は民歌中心で、2度来日しているそうだ。
中央:宗庸卓瑪。雲南省徳欽から歩いて4〜5日の羊拉郷という僻村の出身。1985年の第一回全国民族歌手コンクールで「金鳳奨」を受賞し、中国のトップ歌手になる。「共産党来了苦変甜」、「毛主席永遠和我們在一起」などプロパガンダ臭がするのは、かの才旦卓瑪とかぶる。全人代にも3回連続で出席したとか。
右:達珍。チベット人の心をつかんで離さない女性歌手。いわゆるチベットの高音歌手にしては声が甘く、キンキンしていない。1991年、92年の春晩(紅白歌合戦みたいなもの)にも出演したが、彼女のアルバム『高原春之歌』のA面6曲目、「昨天的太陽」という歌がダライラマのことを懐かしんだとされ問題となった。彼女の先生は毒を飲んで自殺し、達珍はアメリカに亡命。現在はコネチカット州に住んでいるそうだ。
当然、達珍のアルバムは発禁となったが、私はカイラスに行くときに世話になった運転手からオリジナル版をゆずってもらった。
その中に、『夜霧よ今夜も有難う』と『長崎は今日も雨だった』をパクって一つにした曲があるのだが、たまたまネットで見つけたので紹介します。笑えるけど、彼女の声は素敵です。
达珍的歌曲
http://www.tudou.com/programs/view/N9swjWZOjUM/ -
ラサではトゥルナン寺やポタラ宮のほか、デプン寺やセラ寺、ノルブリンカ(夏の離宮)などを訪れる。
寺三昧の毎日。 -
1995年10月8日
今日は午後から、ヤクホテルに泊まっている旅行者の人達と河原でバーベキューをする。
夕暮れになると、あまりにも月がきれいで見とれてしまう。
帰りがけ道路に戻る際、「入っちゃいかん」とチベタンのおじさんから激しく叱られたが、素直に謝ったら許してくれた。 -
1995年10月9日
今日は活仏カルマパ17世のいるツルプ寺に行く。
ラサから70kmの距離にある。
バスの中では、チベタンおばさんが巨大マニ車をぐるんぐるん回していた。 -
途中でバスが停止。
故障ではなく、聖なる水が出ているとのこと。
私達もお清めしていく。 -
荒涼とした山の谷間にツルプ寺はあった。
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おおーっ、バスを下りると、おびただしい数の犬が。
殺生を好まない、チベットならではの光景だ。
どの犬もおとなしく思慮深い顔をしている。
こいつら前世では人間だったのかな、それとも来世は人間になるために頑張っているんだろうか? -
カルマパ17世に謁見する。
謁見室に入った途端、隣のチベタンが五体投地を始めた。
わずか10歳の活仏は、私が差し出したカダにフッと息をかけると、「親を大切にしなさい」と言われた。
5年後、彼はインドに亡命した。 -
ツルプ寺の前を流れる渓谷で見かけた、ヤクのキャラバン。
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ラサ滞在中、カイラスに行く手段を考えながら旅行社を回った。
東チベットと違って合法的に行くことができるが、バスなどの公共交通は無い。かといってヒッチハイクはもう懲り懲りなので、ランクルをチャーターするつもりでいた。ところが燃料を積むために2台体制で行かねばならず、法外な金額になってしまう。
一軒だけ、「大型トラックを用意してもいい」という旅行社があった。運転手のほか、パーミットを取るためにガイドも雇わなくてはならなかったが、料金はランクルの半額以下になったうえ、荷台のスペースが大きく余った。
そこで、ヤクホテルにてカイラス(及びチョモランマ経由でネパールへ)への同行者を募ったところ、6名の日本人が集まり、私達を含めて8名で出発することになった。 -
1995年10月13日
数日かけて食料や水、燃料や寝具、防寒具などを仕入れ、パーミットも受け取って準備万端。
カイラスへ出発する前夜、スノーランド・レストラン(雪域餐廳)で壮行会を行なった。
女性オーナーのニマさん(ネパール出身)とも記念撮影。店のウェイトレスが冷蔵庫にケーキを並べる際、誤ってひっくり返してしまい、それを見たニマさんが「ニャンスタ、ニャンスタ!」とあきれて言ったので、私達からはニャンスタ・ママと呼ばれていた。
いよいよ明日は出発だ。
アジア旅行記1995〜1997(その6)に続く
http://4travel.jp/travelogue/10872681
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この旅行記へのコメント (2)
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- おぎゃんさん 2014/04/07 13:19:04
- ラサ暴動の合間
- がおちんさん
こんにちは。
ココロ揺れる景色ばかりで、懐かしささえ感じます。まだ移住の漢族も人民解放軍もバルコルで見かけることもほとんどない頃ですね。
私めは登山部の友人、ゴルムドで知り合った人たちとカイラスレストラン(だったかな)に溜っておりました。
今にしてみると訪れた1988年夏は中央政府の締め付けが始まった頃でしたけど、毎年カイラスに馬で巡礼する日本人女性がいたり、チョモランマベースキャンプへもヒッチハイクが可能だったりと、体力・時間さえあればそれなりにゆるやかな旅が出来たころでした。
(それでも秋に入って一瞬ラサからの脱出が難しくなる事態もあったそうですが)
体力がある間にカムルートもトライしたかったものです。
ではでは。
おぎゃん
- がおちんさん からの返信 2014/04/08 21:09:29
- RE: カムルート
- おぎゃんさん
こんにちは。
カムルートの旅は過酷でしたが、これまでの旅で最も印象に残るものとなっています。美しい風景だけではなく、道中で出会ったチベット人の篤い信仰心に心を動かされたからだと思います。ヒッチハイクがきつかったと言ったって、カム地方から五体投地でラサを目指している人を思えばリムジンに乗って移動しているようなものでした。
しかし、私たちが2週間かかった道のり(雲南からですが)も、川蔵鉄道が完成したら成都−ラサが8時間だそうです。きっとその頃のラサは、麗江や西双版納のように遊園地化され、宗教を理解できない人々のために観光ショーが毎日行なわれていることでしょう。
過ぎ去った時間は二度と戻らない。自分の旅行記を振り返っても時代の変化に驚くほどです。
がおちん
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