2006/12/29 - 2007/01/01
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hidamari09さん
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旅行社から貰った旅程は:
D1 上海出発廈門高崎空港着,海上花園, 鼓浪嶼,遠眺鼓浪嶼,
日光岩(鼓浪嶼の眺めの良い所),自由散歩金帯水沙灘,廈門城市花園,白鷺洲公園,南普陀寺:神秘の旅−金廈海域近(自費)−廈門市内宿泊
D2 朝食,集美学村, 鰲園,陳嘉庚故居,帰来堂,龍船池, 黄金海岸環島路−鼓浪嶼旅館宿泊
D3 白鹿洞,虎虎渓岩、廈門高崎空港から上海へ
上海春申江旅行社の「2泊3日の廈門の旅」を見つけ,2006年の大晦日を廈門で過ごすことにしました。。
1690+4元=1694元を支払いました。
内,200元位は標準の部屋(二人)を一人で占領するための追加費用で,4元はなんの課税だったか?記憶が怪しいです。
普通,一部屋の宿泊者が少なくなれば値段が安くなると思うのですが,中共では逆に値段が上がります。
廈門という地名は知っていましたが,実際どこに位置し,どんなところか当時はまったく知りませんでした。
古くから国際的に「廈門」(アモイ)として知られていたようです。現在の「厦」は元々俗字で,1955年前の「第一次異体字整理票」で「廈」は「厦」で代用するようになったようです。
私は中共の人民ではないので,本来の漢字を使うようにします。
地理的には,福建省南部の九竜江河口付近に位置し、市内には廈門島や鼓浪嶼(コロンス島)などの島嶼部が含まれ。廈門島や大嶝島から近い金門島、小金門島などは中華民国(台湾)の実効支配下にある。
アヘン戦争では1841年(道光21年)にイギリス軍により占領され、翌年の南京条約によって外国人に対して開港、1860年代からは茶葉の積出港として海外に知られるようになった。1862年(同治元年)にイギリス租界が、1902年(光?28年)には鼓浪嶼に共同租界が設置され、外国商社の商館が進出した。その後、廈門の茶葉は日本茶・台湾茶との競争にやぶれて衰退、また台湾との貿易も日本の台湾領有によって衰退した。
1938年(民国27年)に日本海軍が占領、1940年(民国29年)の汪兆銘政権成立後は廈門特別市が成立した。1945年(民国34年)8月の日本敗戦に伴い汪兆銘政権は崩壊、中華民国の行政権が回復したが、まもなく始まった国共内戦の結果、1949年10月に共産党軍によって「占領」された。
日本とも深い関わりのある場所です。
最小旅行単位は2名と案内にはありました。
廈門の空港に降り立ち,旅行社の旗を持つガイドの女の子をさがすと,早速行きましょうと促されました。
「え!,私一人なの」
可愛い女の子のガイドを独占できて楽しいとおもいきや,英語を介さないガイドとのコミニュケーションは大変で,1日が終わるとぐったりする旅でした。
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12月30日,廈門の空港に到着しました。
第一印象は,空が青い,温かいです。
東京から沖縄に降り立った感じが近いかもしれません。 -
温かいと言葉で言ってもなかなか理解し難いと思います。
空港前のこの風景を見れば,なるほどと思っていただけるでしょう。 -
ガイドを見つけました。
同じ旅行の他の旅行者に電話を掛けています。
どうも来ないと行っているようです。
若い人たちのようで,日本人の私を嫌ったのかもしれません。 -
廈門は大陸の部分と島からなっています。空港は島部にあります。
ガイドが本日は,大陸部分を見に行きましょうといいます。
もとより,思いついた旅で事前の調査がありませんので,異論を挟む余地はなく,仰せに従います。
国道319号線廈門を渡るには,通行料金をとられます。
今回の旅行客は私一人なので,タクシーの利用です。
もちろんタクシー代,橋の通行料金は旅行社持ちです。 -
最初の観光場所は陳嘉庚故居と嘉庚公園です。
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陳 嘉庚(ちん かこう)(1874−1961)とは何者でしょうか。ウィキペディアによると。
シンガポールで活躍した福建省出身の華僑の実業家で,シンガポールでゴム園を経営して財を成しゴム王と呼ばれたそうです。
教育にも熱心で、南洋華僑中学、廈門大学など多くの学校を創設した。
日中戦争が進み国民党中国の補給路が断たれると、東南アジアの華僑は1938年10月11日、南洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)を設立して祖国救済へと乗り出し、陳嘉庚は代表に就任。国民党政府の呼びかけに答え、滇緬道路(ビルマ=雲南のルート)を使って補給物資の支援を行なった。
ということで,日本とも関係のある人物です。 -
「帰来堂」の額が掲げられています。
陳嘉庚の生前の願いごととして、子孫達がお墓参りで帰省した時に集まる場所として大きい屋敷を作ってほしいとということで,1962年に建造されたようです。
16歳でシンガポールに出稼ぎの父親に呼ばれ,故郷には76歳で帰ったそうです。
陳嘉庚は当時,中国と先進国を比較して。識字率の違い,政府が教育を重視するレベルの違い,財産観の違い,国民の社会的責任感の違い、国民の素養や精神面の違いなどに気づいた。
そこで,大金を投じて故郷に廈門大学を創設し,幼稚園,小学校,中学,女学校から,師範、水産、航海、商業、農林、国学までの専科を持つ「集美学村」を開いた。
すばらしい人物です。
陳嘉庚が廈門大学を創設してから約90年,彼の思いは実現したのでしょうか?
中共になり,日本を模範に義務教育を導入しましたが,私の見る処,佛は作ったが魂が入っていないようです。
おっと,中共は宗教を禁止しているのでした。 -
嘉庚公園の入り口に立つ門です。
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海岸沿いで風光明媚です。
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嘉庚公園の案内図です。
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行き先を,地図上に表示します。
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入り口の上に「鰲園」と書かれています。アオ園というのでしょう。「鰲」は伝説上の海の大亀のことです。
陳嘉庚さんのお墓のある場所です。 -
入口から覗ける長い廊下の両サイドに彫刻があります。
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この彫刻は,上段は箒で掃き清める人。下段はリヤカーにゴミを入れている様子です。リヤカーの側面に「衛生局」と彫られています。
今日,着ている服装は異なりますが,同じ風景を街角で見ることが出来ます。
・人は無造作に路上にゴミを投げ捨てる
・清掃員が路を掃き清める
・その後ろから人が無造作に路上にゴミを投げ捨てる
子供のころを思い出すと,日本もかって,道にゴミが少しは散らかっていたように思います。それが,いつしかゴミ箱もなくなったが,ゴミが散らかることがなくなった。
変わることの出来る社会と変われない社会があるようです。 -
お昼時に廈門島南部に来ました。
廈門大学近くのバス停です。 -
道端の靴修理店です。
かかとのゴムの張替え。ハイヒールのもげた踵の接着。
1元〜5元と低価格です。
この商売も自由に出来るわけではありません,ヤクザ(城管)に場所代を収めなければなりません。
なにせ,土地はすべて国(中共)のものだからです。
ヤクザ(城管)に逆らうと,寄ってたかって殴り殺されます。 -
南普陀寺に来ました。廈門南海岸にある五老峰という山の麓にある唐代の名刹です。観音菩薩を主として供養します。浙江省の普陀山の南にあるため、南普陀寺と称されます。厦門大学のすぐ近くです。
唐代より有り、源は宋代に遡るというが、現在のような大伽藍が建てられたのは,清の康煕年間であるとされます。
敷地は広大で,天王殿、大雄宝殿、大悲殿、蔵経閣の堂塔伽藍で構成されています。裏山には数多くの刻石があり,中でも清の僧侶が書いた高さ4メートル,幅3メートルの「仏」の題字は有名です。
大悲殿は1930年再建で、三重の屋根がそれぞれカーブを描きそり返った絢爛豪華な造りとなっている。観音菩薩を主として供養する千年古刹である。 -
天王殿です。
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この大悲殿は1930年の再建です。
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熱心に祈りを捧げる人々。
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「法堂」。
お寺を訪れて不思議に見えるのは,お寺なのに坊さんが見えないことです。 -
寺社内の岩を,観光客と比べるとその大きさが分かっていただけるでしょう。
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岩があれば文字を刻む。
記念に名前を記す。
歴史のあるルクソールの浮き彫りであろうが名前を刻む。 -
この文字は,清朝の時代に僧侶が書いたそうです。
日本人だったらどうしたでしょう。
おそらく,文字など彫らず,注連縄を回したことでしょう。 -
南普陀寺の見どころ案内図です。
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なんであったか思い出せません。
水子地蔵のような? -
山に登ると頂上から眼下にコロンス島を眺めることが出来ます。
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本日の宿泊は「嘉源酒店」です。鴻山公園の側にあります。
住所は,廈門市湖里区思明南路433号です。
二つ星か三ツ星クラスのホテルです。
ここで,旅行社のガイドとは一旦お別れになります。
旅行費用に夕食はついていますが,面倒なので断りました。 -
標準房と呼ばれる,2ベッドの部屋です。
そこそこきれいに掃除してありました。 -
本日の行動を地図に示すとこのようになります。
焦げ茶のバッテンが鴻山公園近くのホテルの場所で,下に廈門大学、南普陀寺があります。
この後,鴻山公園から中山公園までを散歩し,成功大通りと海沿いを散歩しました。 -
宿に入ったのは4時半過ぎ,まだ外は明るいのでホテルの周辺を歩いてみることにシました。
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鴻山公園に来ました。
廈門に来たら鴻山によれ,鴻山に寄ったら廈門を見ろ
と書いてあります。
海を隔てて見る廈門の眺望は一番とのこと。 -
人口の滝の右側の大きな岩に鴻山公園と彫られています。
明朝の末期,清朝の初めに鄭成功が軍隊を駐屯させた山中の砦で,嘉與寨(砦)と呼ばれたそうで,遺跡がまだ残っているそうです。
後代の人が中腹の巨石に「延平郡王国」と5文字を刻んだそうです。
生憎,見ませんでした。
ウィキペディアによると,
鄭成功(てい せいこう)は、中国明代の軍人、政治家で。もとの諱(本名)は森。字は明儼。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれる。鉄人や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
1592年 豊臣秀吉が朝鮮に出兵(文禄の役)し,朝鮮を支援する明の軍隊と戦っています。その経験から倭銃隊をtくったのでしょうか。
歴史は面白い! -
お寺の名前がわかる写真を撮影してありません。
鴻山公園には鴻山寺があるとネットに掲載されています。
おそらくこれが鴻山寺でしょう。 -
玉石で作られた仏像が鎮座しています。
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「鴻山織雨」と岩に刻まれています。
地勢が独特で,風向きが頻繁に変わるので,雨筋が縦横に織り成すの「鴻山織雨」という,珍しい景色が見られるそうです。廈門の八景色の一つのようです。
雨の時は,横殴りもありびしょ濡れになりそうです。 -
鴻山の登りは急坂です。石段を積み重ねた歩道が作られています。
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急坂の途中で振り返ると,足元に住宅が迫ります。
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木の根が大きな岩を包み込んでいます。
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嘉與寨(砦)の遺跡です。この手前に蔦に覆われた,レンガを積み上げた門があります。
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山頂にたどり着きました。海抜125m。
なるほど,ここから見下ろすコロンス島の眺めはきれいです。 -
トーチカが残っています。
土台の海側に何か刻んでありましたが,写真が撮れていませんでした。
何時の時代に作られたのか? -
山頂の海の反対側は切り立った崖になっています。
このまま突き抜けたいのですが行けそうにありません。
少し戻ったところで,体操をしている老人に尋ねると,中腹に山を巡る道があるとのことでした。そこで,やまの中腹を巡り,この当たりが反対側だろうというところで,強引に山を下りました。山肌に沿った,住宅街の壁を乗り越え住宅街に入ります。
そこは,中腹から海側で見たような住宅街で,住宅街を降りたところで振り返って見ています。
制服を着ているのは小学校の高学年でしょう。赤いハンカチーフを首に巻いています。 -
広い通りに出て北上,中山公園に辿り着いたときは日が暮れていました。
-
中山路のち巻店が賑わっています。
庶民が集まる店は,一般的に味が良く,値段も適正なところが多いといえるでしょう。
早速覗いてみました。 -
店の中で食べられるようなので,注文しました。
今晩の夕食です。
安上がりな食事です。 -
ネオンに飾られた大通りをホテルに向かいます。
-
おやおや元禄回転寿司店があります。
この写真から歩いた場所を場所を特定するためにネットで「廈門 元禄回転寿司」で検索してみます。
ヒットしません。
写真を拡大すると「全国最大寿司連鎖集団」の文字が。
これで検索すると,「禾緑回転寿司」がヒットします。
想像するに,元禄寿司の名を勝手に借用してチェーン展開したが,本家日本の元禄寿司からクレームがつき,見た目が似た名前に変えたように見えます。 -
隧道に来ました。ここは何処でしょうか?
写真を拡大して「美仁山隧道」の文字が読み取れます。 -
「美仁山隧道」で場所を検索すると。
おやおや,こんな処を歩いていたのです。
宿に向かったつもりが,反対方向にいます。
正直,私は方向音痴です。
散歩には,磁石の携帯が欠かせません。
有る時,夜散歩から家に帰るとき,後15分ほどで家に着くという夜の住宅街で道を見失い,家にたどり着けない事態になりました。しかたが無いので,見覚えのあるところまで戻り,大通りをたどりなんとか1時間後に戻ることが出来ました。
しばしば家の回りに結界を貼られてしまうのです。なんででしょう!
こうして,1日目が終わりました。 -
31日,大晦日の朝。
船に乗りコロンス島に向かいます。 -
乗船する桟橋の入り口で,怪しげな二人が笛を吹いています。
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ここはコロンス島の向かいの和平波止場です。
ガイドが切符を購入しています。
120元です。 -
エキゾチックな女の子が乗船客を出迎えてくれます。
なんとも不思議な魅力のある顔立ちです。 -
船は沖合の島の側を通過します。
三民主義(さんみんしゅぎ)とは1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論です。これは中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されています。
ということは,目の前の島は台湾領ということになります。 -
船内は観光客でぎゅうぎゅう詰めです。
-
いよいよコロンス島に上陸します。
島内は電気自動車以外は走行禁止だそうです。 -
木の枝から寄生植物が垂れ下がっています。
北国では見られない風景で,南国に来たという実感を湧かせてくれます。 -
歩いて島内を巡ります。
コロンス島は長手方向2km,横手方向1.5km程の小さな島です。
この建物は,案内表示板によると旧日本領事館,1898年建築とあります。
建物の雰囲気は西欧風です。 -
中央の丸窓の上に「天主堂」と書かれています。カトリックの教会ですか。
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道端にマリア像が。
まんとも粗雑な作りです。
カトリックは何故聖母マリアを敬うのかと説明した看板が隣に掲げられています。 -
途中,樹齢190年と表示されたガジュマルの樹があります。
1896年建造の怡園です。 -
道路の路面の舗装はレンガを並べたような石畳です。
公衆電話が洒落ています。
大陸の市街地で見る公衆電話の多くは壊されていますが,ここは使えそうです。 -
郵便ポストです。
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イギリスの租界時代に建てられたたてものでしょうか。いまだに使われています。
新聞に,イギリスの建物の寿命は100年,日本は50年,支那の建物は30年も持たないという投稿があります。
支那の建物の寿命が短いのは。ずさんな都市計画。手抜き工事。地方政府の土地ころがしですが,根本原因は,土地建物の私有が許されていないところにあると思います。庶民が買えるのは部屋の居住権だけで,土地も建物も政府のもの。愛着がないためで,建物のメンテナンスが行われていません。
築10年と聞いた建物の外観がボロボロだったのでびっくりしたことがあります。
昔の建物(民国から中共の初期)はしっかりしていた。以降,建物の質は悪くなるばかりだと嘆いていました。
ここの建物がきれいなのは,観光収入に結びつくからでしょう。
金が全ての基準の社会です。 -
南国情緒。
この椰子の実の所有権は? -
お昼時になってきました。
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海の近くに来たので,海鮮を食べることにしました。
たらいのカニを選び,料理方法を伝えます。 -
たらいの魚を選び,料理方法を伝えます。
この魚は幾らかと聞くと,XX元と言われる場合があります。この値段は一斤(500g)の値段なので,注意が必要です。
安いと勘違いして注文すると,食後伝票を見て,請求額に驚くことになります。 -
一人では食べきれないのでガイド嬢と一緒に食べました。
旅行代金には,昼食代が含まれていますが,この昼食は私が勝手に注文したので別料金です。 -
ガジュマルの根が,石の欄干をへし折っています。
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海岸に来ました。時期柄さすがに泳いでいる者はいません。
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中高生の旅行団が闊歩しています。
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建築現場です。
土台もないまま,道路の仕切りコンクリートブロックに,穴あきのレンガを積み上げています。これが柱になるのですが,中に補強の鉄筋もありません。
ちょっとした地震の揺れで,崩れ落ち背後に見えるような平地になるでしょう。
支那の小説で,3日にして一つの城郭都市を平地にしたとの記述を読んだときは,またまた支那人の誇張かと思ったものでしたが,これを見るとあながち嘘の記述とも思えなくなります。 -
若い子はおしゃれに気を使っています。
ただ,化粧はなく素顔です。 -
宿に入ったところでガイドとはお別れしています。
一休みしたところで,市内の散歩に出かけました。 -
ピーナッツスープともち米の蒸したものが今晩の夕食です。
昼食をたくさん食べているので,こんなもので十分です。 -
路地の商店は夕食の食材を買う人で溢れています。
-
今夜の宿は,また嘉源酒店です。
日本では大晦日ですが,1月から2月の春節が新年の支那では,31日の大晦日は平日のごとくです。
夜の海岸を散歩して,大晦日の夜は終わりを告げました。 -
元旦の朝。
宿は海岸沿いの道の島内側にあります。
最終日はガイドはいらないと断っています。
海岸沿いの道を渡り,坂を下って住宅地に向かいます。
住宅地の道沿いの商店街です。 -
おやおやヤギさんが3頭,電信柱に繋がれています。
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するとトラックがやって来て,荷台に積み込み始めました。
夕方までには屠殺され,食卓に載せられる運命のようです。
冷凍設備が完備していないので,行きたまま食肉は流通します。
別のところで見た風景は,道端に鴨,鶏が並べられて売られていました。客が来て,これと指定すると,いきなり鶏の首を包丁で裂き,血を抜くと脇の缶の熱湯につけ羽をむしって客に渡すのです。
新鮮といえば新鮮ですが,なんとも生々しい情景です。 -
近くに,古めかしい建物があります。手入れもされずぼろぼろです。
回りをレンガの塀で囲んであり近づくことは出来ませんでした。 -
鴻山公園に来ると,早朝の体操に励む人の姿が。
医療保険制度が無く,医療費が高いので,人々は体を鍛えることで病気の予防に励んでいます。運動が好きというよりは,必要からやむにやまれず体をきたえるということになります。 -
宿の脇の道を登ってみることにしました。
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海岸沿いで,どこも坂道です。
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坂道の突き当りは,葬儀場でした。
焼き場の入り口に,引き出し式の冷凍庫の扉が誂えてあり,焼却の順番が来るまで,そこに一時的に安置されます。 -
斎場に,本日一番の葬儀を迎える準備が整えられていました。
時間がくると,冷凍庫からここに移され,家族とお別れの後,焼却という手順になるようです。 -
建物の取り壊し後の現場です。
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使われている鉄筋はこの程度です。
レンガを崩した後,回収されています。 -
敷地内に場所が確保出来なかったのか,道路脇に水道管が設置されています。
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2007年の元旦をかくして終え,午後の便で帰路につきました。
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