2011/08/24 - 2011/08/26
723位(同エリア1683件中)
kenichi291さん
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- 旅行記105冊
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2011年8月24〜26日、子規の足跡を訪ねて四国愛媛松山に。
俳句王国松山に行って来ました。市内の名所旧跡、路面電車の車内など何処にも俳句ポストが用意されていました。道後には松山市立子規記念博物館があり、正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとに松山や文学について親しみ、理解をふかめてもらうために開設された博物館だそうで、観光客のビジターセンターとして親しまれているそうです。松山市駅近くには、子規堂があり、子規旧宅の間取りを模して建てられたもので、木造平屋建、室内には子規の遺墨や遺品が多く展示されています。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の舞台でもあり話題となっていました。写真は冒頭で毎回登場する秋山兄弟と正岡子規の立っている場所。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- JALグループ 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- ジャルパック
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8月24日、JALで松山空港に。宿泊予定の国際松山ホテルに荷物を預けてお城に。リフトで長者ヶ平へ。俳句王国松山にやって来ました。松山城入口の俳句ポストの立派な案内板。本場は違います。市内の名所旧跡、路面電車の車内など何処にも俳句ポストが用意されていました。
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お城の俳句ポストは句碑も兼ねる豪華版。
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松山城 「大天守、三の門南櫓、二の門南櫓、一の門南櫓、乾櫓、野原櫓、仕切門、三の門、二の門、一の門、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、仕切門内塀、三の門東塀、筋鉄門東塀、二の門東塀、一の門東塀、紫竹門東塀、紫竹門西塀。以上21ヶ所が重要文化財」
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最奥に大天守。
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石垣を右に曲がると、最奥に大天守が見える。
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戸無門 (重要文化財)。
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筒井門。
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隠門(重要文化財)。
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太鼓櫓。
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井戸。
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「大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。また、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されています。大天守、小天守、隅櫓を廊下で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式城郭といわれています。大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです」松山城HPの説明文より
大天守と小天守。 -
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紫竹門。
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紫竹門から見る小天守。
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狭間。
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狭間。
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紫竹門 (重要文化財)「本壇に接して紫竹門および続塀があります。乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀・西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の搦手(裏)を防衛する重要な構えです。」松山城HPの説明文より。
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乾門東続櫓。
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乾門。
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乾櫓。
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野原櫓(重要文化財)「日本で唯一現存する望楼型二重櫓 野原櫓は乾櫓とともに本丸西北を防備するとともに、その東にあった小筒櫓(跡)と本丸の北側を防衛する重要な櫓であり、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型といわれています。野原櫓(騎馬櫓)は、1階の天井の梁(はり)を通じて2階を支える構造となっています。これは「現存12天守」の犬山城と同じ初期の望楼型(ぼうろうがた)と言われる建築手法です。黒船来航の翌年に再建された松山城の天守は、層塔型(そうとうがた)といわれる天守台(柱を受ける土台)の精度が要求される建築技術となっており、城郭の作事(建築)の技法が進化していく過程を本物で見ることができるのも松山城の魅力です」松山城HPの説明文より。
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南隅櫓・十間廊下・北隅櫓 「左から北隅櫓・十間廊下・南隅櫓 玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか申酉小天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する通路でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。」松山城HPの説明文より。
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南隅櫓・十間廊下・北隅櫓 「左から北隅櫓・十間廊下・南隅櫓 玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか申酉小天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する通路でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。」松山城HPの説明文より
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NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」、冒頭で毎回登場する秋山兄弟と正岡子規の立っている場所がここ。
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左が小天守、右が一の門南櫓。左手の漆喰の塀は紫竹門右手外面板張りの内側。
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大天守。
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大天守。
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葵の紋が瓦に。
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一ノ門 (重要文化財)。
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狭間。
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狭間。
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筋鉄門と筋鉄門東塀。
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筋鉄門東塀。
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筋鉄門。
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十間廊下 左が南隅櫓、右が北隅櫓。
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仕切門内塀(重要文化財)大天守から臨む。
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歴代藩主の着用した鎧。
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葵紋付鬼瓦。
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懸魚(げぎょ)唐破風下の飾り。
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小天守からの眺め。
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小天守から大天守を臨む。
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大天守からの眺め。
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瀬戸内の海が見える。
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瀬戸内の海が見える。
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瀬戸内の海が見える。
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仕切門(重要文化財)。
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天神櫓 「卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ具足櫓でありましたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称です。全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓となっています。」松山城HPの説明文より。
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昼時になりました。ロープウェイ街の「草々」に入りランチを頂く。松山で今トレンディーなお店らしい。若者が引っ切り無しに入って来る。東京なら普通に見られる地元食材のお店。
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昼食後、道後温泉に市電で向かう。坊ちゃん列車。
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道後温泉駅。
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からくり時計。
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マドンナバス。
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道後放生園(足湯)。
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温泉街アーケード。
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椿の湯。
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道後温泉本館 (重要文化財) 「道後温泉のシンボル、道後温泉本館は、明治27年に建築された三層楼のどっしりしたもので、近代的なホテルや商店街の中にあってひときわ風格ある姿を誇っています。浴場は二種類あり、1階の大浴場を神の湯、小さい方を霊の湯といい、浴槽は花崗岩でできています。泉質は、アルカリ性単純泉で、日本人の肌に合うなめらかなお湯。湯治や美容に、多くの人々から親しまれ、明治以来の伝統として暖かい落ち着いた感じを保持しています。 この道後温泉のいいところは、道後に泊まらなくても外湯を楽しめること。もちろん道後の主な旅館やホテルには引湯をしていますが、手ぬぐい片手にわざわざここまで来る人も少なくありません。ここには毎朝一番風呂に入ろうと、時を告げる太鼓の音を待ち構えている「朝湯会」のお年寄りや市民たちがいますが、長い間道後のお湯で肌を磨いてきたせいか、つやつやと顔色もよく元気そうです。こうした地元の人の伊予なまりを聞きながらのんびりお湯に浸るのも、また旅情が感じられていいものです。 2階には、霊の湯のほかに、神の湯を利用する人のための広間(脱衣場)があります。湯玉印のゆかたを貸してくれ、湯上がりには、炭火で沸かしたお茶が、天目茶碗に入れられて出てきます。 また、「又新殿」をはじめ、夏目漱石ゆかりの「坊っちゃんの間」、俳人・河東碧梧桐の書軸などをおさめた「展示資料室」があり、観光客の人気を集めています。」 道後温泉旅館協同組合HP説明文より
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坊っちゃんの間 「夏目漱石が、松山中学の英語教師としてこの地をふんだのは、明治28年4月。そのころの道後温泉は、木の香も新しい建物であったことから、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙で書き送っています。 漱石は、病気静養のため帰省していた子規と50日余り同居生活し、子規や虚子としばしば道後に出かけています。道すがら交わした文学論や、神仙体の俳句は、一介の英語教師から文豪・夏目漱石へとなる発端になりますが、この「坊っちゃんの間」は漱石の娘婿松岡譲氏の命名で、漱石をしのんで作られたものです」道後温泉旅館協同組合HP説明文より
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又新殿 (ゆうしんでん) 又新殿の門。内部は見学出来ますが、撮影禁止。「明治32年に建てられた皇室専用の湯殿で、昭和天皇は昭和25年に来浴されています。手前から、玄関の間、御次の間、玉座の間となっており、その隣に警護の人が控える武者隠しの間があります。建築様式は桃山時代風の優雅なもので、畳は備後表の高麗縁、欄間にはしめどり、いかるがの透彫り、天井は高麗張りの桐の3枚重ね、ふすまは金箔に極彩色の枝菊が描かれている豪華絢爛なもの。そして建具類は、全て極上の漆が用いられた輪島塗りで、建築以来一分の狂いも生じない建てつけとなっています。また、浴槽は、御影石の中でも最上のものとされている香川県の庵治石を用い、正面の湯釜に大国主命、少彦名命の両神像を刻んだ宝珠があります。」道後温泉旅館協同組合HP説明文より。
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皇室専用の湯殿入口門。
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屋根の上には白鷺。
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玉の石霊験新たかな石だそうです。
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子規記念博物館 「松山市立子規記念博物館は、正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとに松山や文学について親しみ、理解をふかめていただくために開設された文学系の博物館です。市民の知的レクリエーションや学校の課外学習の場、研究者の研究機関、観光客のビジターセンターとして親しまれています。」子規記念博物館HPより。
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愚陀仏庵(復元)。
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8月25日、JR松山駅で予讃線に乗り内子に出かける。特急なら25分の所を各駅停車で一時間のローカル列車の旅にして見ました。単線なので殆んどの駅で待ち合わせ。撮り鉄が各駅でホームに降りて撮影しています。お遍路さんも乗車しています。のどかな列車風景。
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内子の駅前でレンタサイクルを借りる。初めての電動アシスト自転車にして見る。数日前のBSで見た魚屋さんで郷土料理の丸寿司を購入。
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丸寿司はえぼ鯛でおからの炊いたのを挟んだ寿司。
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高昌寺
「室町時代に創建された高昌寺は、本堂を中心に禅堂・開山堂などが回廊で結ばれており、静かで凛(りん)とした雰囲気がただよっています。本山永平寺の配置を模して七堂加羅(しちどうがらん)が整っていることから「伊予のミニ永平寺」とも呼ばれています。」内子町観光協会HPより。
佛殿と大雄殿「享保2年(1717年),14世鉄琴林髄和尚の時、建立されたが、火災のため焼失。文化5年(1808年),23世興獄凡隆和尚によって再建されたものである。ご本尊である聖観世音菩薩尊像を安置している。大雄殿とは仏殿の意であり、この扁額は、大洲藩2代藩主加藤泰興公が揮毫し、再建した高昌寺に奉納したものである。」高昌寺HPより。 -
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山門 「文化四年(1808年)の火災で難を免れたこの山門は、旧五城村中土地区の持宝院に建立されていたものと言われる。第16世真猊香達和尚(1745〜1752年)の代に現在地に移築されたと伝えられている。本門には釈尊が安置されており、均衡のとれた美しい形と重量感のあるこの山門は、近郷には珍しい建築物である。山門は三門ともいわれ、東西南の三面に門を設け、これを総称したのが山門である。空・無相・無願を解脱して寺内に入るものとされていた。」高昌寺HPより。
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中雀門 「名ある武家屋敷の門を移築したものとも伝えられる。清楚な構成の中に落ち着きと気品が漂い、天井には6枚の絵が組み込まれている。山門と佛殿の中間に位置し、庫裡と僧堂を結ぶ廊下の中央に設けられる門と言われている。」高昌寺HPより。
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鐘楼 「この梵鐘は、40世高嶋玄岫和尚の昭和33年、檀信徒の浄財により高岡市鋳物氏、老子次右衛門氏鋳造によって完成奉納されたものである。銘曰、「其音無窮、撞撞無礙、驚覚迷夢、聞聞自在、入大円通」。大鐘をつる建物なので、鐘撞堂又は釣鐘堂とも呼ぶ。種々の法会の合間に使う小鐘に対し、大鐘は晩鐘,斉鐘,昏鐘に撞き、一定の時間を一山大衆のみならず、広く一般に時間を知らせるために用いられたようである。」高昌寺HPより。
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涅槃像 「当山18世慈舟台漸和尚によって創始された「ねはんまつり」は、200年の歴史をもつ当地方の春まつりです。お釈迦様のみ教に対して、感謝と報恩の気持ちで参拝出来るようにと平成10年11月1日に石造涅槃仏としては、日本で最大の長さ10m、重さ200トンの石仏が安置されました。覆殿の中で安らかなお顔でやすまれておられます。3月15日のねはん祭は勿論、いつでもお釈迦様にご参拝ください。」高昌寺HPより。
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高昌寺境内から内子の町並みを臨む。丸寿司をおやつに。瀬戸内料理らしい超甘。
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八日市護国地区町並み保存会の地域。
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ローリエと赤唐辛子を縄で編んである。
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このお宅は新築のようでしたが、保存区域なので規制があり、建物もレトロ。
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木蝋資料館・上芳我家 「豪商・本芳我家の分家の屋敷で、重厚な漆喰の壁と名家らしい風格が漂う建物です。平成20年9月1日〜平成23年9月末日(予定)修理工事のため一部公開のみとなります。公開は、当時の木蝋生産を紹介した展示棟です。平成23年11月に全面公開予定です。」内子町観光協会HPより。蝋長者の屋敷が何軒も軒を連ねる。
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蝋花つくり、蝋晒し、出蝋。
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蝋蒸し、蝋搾り。
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木蝋資料館の近くの「どぶろく工房 ちょびっと」でどぶろくを購入。四合瓶3本も買ったので荷物が重い。
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大村家・修復中「江戸時代末期の寛政年間(1789〜1801)に建てられた民家です。大村家は商家で、雑貨商と農業、染物、生糸製造、切手等販売と生業を変え、堅実な暮らしを守ってきました」内子町観光協会HPより。
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町家資料館 「江戸時代の町家の特徴である、蔀戸(しみど)や大戸(おおど)等を全面的に開放できる造りの建物です。寛政5(1793)年に建築された家を復元修理し、当時の町家の構造や暮らしぶりを知ることができます。土間には、生活用具や農工具も展示しています。」内子町観光協会HPより。
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酢卵を造っている森文醸造さんの味噌工場。酢卵はここしか売っていないと聞いたので買ったら、松山の大街道商店街でも売っていました。どぶろくプラスで重い。
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蕎麦と摘み草料理の店下芳我邸 「築140年という時の重みを感じさせながら、ほかにはない魅力を引き出すために、黒く光る大黒柱や床材など、原形を活かした再生にこだわりました。調度品や照明、器のひとつひとつも選び抜き、当時を彷彿とさせる演出に。料理はもちろん、歴史や情緒も堪能できる空間へと再生しました。1階には土間をそのまま利用した「土の間」、小上がりの「武の間」、「雅の間」、「和の間」を設け、それぞれの趣の中でごゆっくりと、おくつろぎいただけます。2階の「芳我の間」、「大黒の間」は、ギャラリーとして、折々に催し物を開催しています。」お店のHPより。
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二階は部屋の両側に床の間のある珍しい造り。
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商いと暮らし博物館「江戸時代後期から明治時代の商家をそのまま利用し、大正10年(1921)頃の商家(薬屋)の商いと暮らしを人形と当時の道具類を使って再現しています。併せて、旧内子町の歴史や民俗、郷土の生んだ人物について、模型などを用いて紹介しています。」内子町観光協会HPより。
一階店舗。 -
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台所道具置き場。
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五右衛門風呂。
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居間。
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寝室。
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箪笥類。
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二階。
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中二階の調剤室。
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第二収蔵庫。
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第一収蔵庫。
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内子座。
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「木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場。農閑期には歌舞伎、人形芝居、落語、映画等の出し物が内子座を彩り、人々の心の糧として大切にされました。大正5年(1916)大正天皇即位を祝い、創建。木造2階建て瓦葺き入母屋造り。映画館等の変遷後、老朽化のために取り壊されるところ、町民の熱意で復原されました。昭和60年10月、劇場として再出発。現在では年間70,000余人が見学し、16,000余人が劇場を活用。約650人で劇場は一杯となります。」内子町観光協会HPより
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大向 観客席の2階正面にある低料金の客席。常連や劇通が多いので、「大向をうならせる」というと、芝居が上手なことにもなった。
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大向から舞台と一階客席を見る。
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回り舞台。
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奈落 「舞台や花道の床下の総称。昔は人力で回り舞台を動かす仕掛けがあった。」「仏教における地獄。また地獄に落ちること。梵語の naraka(ナラカ)を日本で音写したもの 。 上記が転じて、日本の劇場における舞台の下や歌舞伎の花道の床下の空間の通称。廻り舞台や迫り出しの装置があるほか、通路にもなっている。名称の由来は、深く暗い所にあるからというのが一般的。また一説に、華やかな舞台の裏には常に嫉妬があり、それが怨念となった魔物が薄暗い舞台下に潜んでおり、時折これが悪さをするから舞台事故が起こるとかつては信じられていたことによるものとも 。」ウィキペディアより。
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すっぽん 「歌舞伎などの劇場にある花道上に、舞台下の奈落から、役者が登場してくるためにある舞台装置のことである。小型の迫(せり)といえる。歌舞伎における演出では、普通の人間役は使用しないと決めてあり、ここから出てくるのは、幽霊や化身(狐が化けた人間など)である。」
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大森和蝋燭屋 12時から13時まで昼休みで、閉まっていたお店を再訪。
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仏壇に上げるお灯明用に和蝋燭を購入。
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文化交流ヴィラ高橋邸 「遠来の人と時を談じ、文化を語った高橋吉衡翁の生家であり、日本の麦酒業界の繁栄に貢献し、戦後の経済復興に通産大臣として大きな業績を残した高橋龍太郎翁を育てた屋敷。文化交流ヴィラとして再生したこの屋敷は、2人の精神を引き継ぎ、遠来の客を迎えるゲストハウス、宿泊施設として、あるいは研修会や小会議、お茶、お華などの文化活動施設として活用されています。また、邸内では喫茶も楽しめ、ゆっくりとおくつろぎいただけます。」
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大日本ビール(サッポロ・アサヒの前身)の社長だそうです。
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離れ家があり一日一組だけの宿泊施設として使われているのだそうです。
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内子児童館。
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内子駅 特急宇和海。
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JR松山駅。
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夕食は松山屈指の繁華街大街道アーケードの創業百年を超える老舗「出雲屋」さんで頂く。刺し盛一人前1300円でもこの盛り付け。板前さんの遊び心が嬉しい。混んで来ると相席になる昔ながらの居酒屋さん。仲間だけで楽しみたい若者には敬遠されるかも。
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26日、朝日に映える松山城。かつてのNHK俳句王国のタイトル部の画像に似てます。
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朝一で秋山兄弟生誕の地まで散歩。お兄さんの秋山陸軍大将の銅像。ドラマでは阿部寛が演じてました。
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弟さんの秋山海軍中将の銅像。ドラマでは「モックン」が演じてました。
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朝食後市電で松山市駅に向かう。
子規堂 「正岡子規(1867〜1902)は、慶応3(1867)年9月、温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)で生まれたが、まもなく湊町4丁目に転居、17歳で上京するまでここに住んだ。大正15(1926)年この旧宅の用材をつかい、柳原極堂の記憶に基づいて、子規の旧居を模して、正宗寺の本堂の傍らに建てられたのが最初の子規堂である。その後、昭和8(1933)年に寺の火災で類焼し、再興されたが、同20(1945)年松山大空襲によって再び寺とともに焼失した。現在の建物は、旧宅の間取りを模して建てられたもので、総建築面積151?の木造平屋建、室内には子規の遺墨や遺品が多く展示されている。埋髪塔は、明治37(1904)年子規の3周忌に正宗寺の住職仏海によりたてられ、拝石に彫られた子規像と文字は、下村為山の筆になるものである。」松山市HPより。 -
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居間。
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子規の勉強部屋。
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漱石の原稿。
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子規筆、菓物帳、草花帳。
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再び松山市駅から坊っちゃん列車に乗って道後温泉に。
「坊っちゃん列車(ぼっちゃんれっしゃ)とは、非電化・軽便鉄道時代の伊予鉄道に在籍した蒸気機関車 (SL) および、そのSLが牽引していた列車のこと。夏目漱石の小説『坊つちやん』の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山の中学校に赴任する主人公の坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになった。2001年より、伊予鉄道により松山市内の軌道で復元運行(ただし動力はディーゼル機関)されており、以後はこちらの方を指すことが一般的である。」ウィキペディアより。 -
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坊っちゃん列車、道後温泉駅での転回。駅でのショウタイム。
① 乗客降車後車輌切り離し。 -
① 乗客降車後車輌切り離し。汽車と客車、連結部。
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② 回転
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② 回転
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③ 汽車の移動
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④ 客車の移動
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⑤ 連結
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⑥ 留置 前で」記念撮影も出来るようにプレートが設置されています。時間が来ると駅ホームに移動して松山市駅に出発します。
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石手寺 四国八十八箇所霊場の第五十一番札所で二王門が国宝の由緒あるお寺。乍ら、国宝二王門に看板を立て掛けお土産を売っているし、重文の鐘楼にも看板が付いている。貴重な建造物に大丈夫だろうか?
「石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市石手にある真言宗豊山派の寺院。熊野山(くまのさん)、虚空蔵院(こくうぞういん)と号す。本
尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第五十一番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。道後温泉の温泉街から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星
に選定された。」ウィキペディアより。 -
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山頭火の句碑。
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二王門(国宝)「石手寺は真言宗豊山派の古刹で、四国八十八か所51番札所である。寺伝によれば聖武天皇の神亀5(728)年に勅宣によって大領・越智玉澄が伽藍を創建したという。この二王門は、『伊予古蹟志』に、河野通継が文保2(1318)年に建立したとの記事が見られる。三間一戸楼門、屋根は入母屋造、二軒(ふたのき)、本瓦葺で、二階の床は張らない。建築様式は和様で、円柱上の三手先の腰組で回縁を支え、中備(なかぞなえ)として正・背面には蟇股(かえるまた)を、側面には間斗束(けんとづか)を置く。軒も同様に三手先で受けられるが、この中備はすべて間斗束となる。軒の反りや張りをはじめ、建物全体の均整はよく、全国の楼門の中でも屈指の優れた作品と評価され、なかんずくその蟇股は、鎌倉期の特徴を備えた傑作との名声を博している。門の左右室には、運慶一門の作と伝えられる金剛力士の逞しい立像が安置される。」松山市HPより。
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本堂( 重要文化財 )「本瓦葦き、正面側面とも五間、単層入母屋造りの仏堂。鎌倉末期。」「この本堂は、国宝の二王門とほぼ同じ時期の建築とされているが、嘉永6(1853)年の同寺を描いた古絵図には阿弥陀堂の呼び名が書き入れられ、現在の阿弥陀堂を本堂としている。建物は、桁行(正面)5間、梁間5間、一重、入母屋造、二軒(ふたのき)、本瓦葺である。その様式は和様で、円柱の上に一手先の組物を置き、中備(なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)を置く。正面5間の総て、両妻面の表側2間と奥側1間、それに背面中央1間は両開きの板唐戸を吊り込み、四周に幅3尺5寸の切目縁(きりめえん)をめぐらせる。内部は外陣(げじん)・内陣に分けられ、内陣の正面に須弥壇(しゅみだん)が置かれる。たびたび修理が行われているが、各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴をよく残している。 銘札1枚、棟札3枚が併せて指定されている。」松山市HPより。
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三重塔 (重要文化財) 「この建物は、石手寺の国宝・二王門をくぐった右手にそびえる三間三重の塔で、高さは24.1m。各重とも円柱上に和様三手先の組物を置き、軒は各層とも二軒(ふたのき)、平行繁垂木(しげだるき)。中備(なかぞなえ)にはそれぞれ間斗束(けんとづか)を備えるが、初重のみは斗があって束(つか)を欠く。初重には切目縁(きりめえん)を、二・三重には縁・組高欄をめぐらせる。棟から中天に伸びて九輪・水煙を支える心柱は、降って三・二重の中心を貫通し、初重の四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。心柱が心礎石に達しないこの構造は平安時代末期に始まり、鎌倉時代の塔に多く用いられた手法である。 初重内部の四天柱の奥側柱間には来迎壁(らいごうへき)が設けられ、壁の前面に須弥壇(しゅみだん)を置いて釈迦三尊の像を祀る。外壁内側には真言宗八祖の、来迎壁には曼荼羅(まんだら)の図絵があり、四天柱・格天井(ごうてんじょう)にもそれぞれ彩色が施されているが、褪色が見られる。全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色を伝える建物である。」松山市HPより。
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鐘楼(重要文化財) 「この鐘楼は、三重塔の南側に位置する。元弘3(1333)年の再建と伝えられる。桁行3間、梁間2間、屋根は入母屋造、二軒(ふたのき)、桧皮葺(ひわだぶき)、袴腰(はかまごし)式の鐘楼である。様式は和様で、袴腰上では三手先の斗きょうで回縁・組高欄を支え、上層屋根も同じく三手先の斗きょうで軒を受ける。これら組物は共に繊細華麗な造りが目を引く。楼上には、建長3(1251)年在銘の銅鐘(重要文化財)が吊られる。 建物の容姿は清楚でよく安定し、傑出した出来栄えの鐘楼との評価を得ている。」松山市HPより
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大師堂 「弘法大師像が安置されている。かつては壁に正岡子規、夏目漱石ら多くの文化人の落書きが記されており、「落書堂」とも呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされている。」松山市HPより。
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訶梨帝母天堂 (重要文化財) 「三重塔の奥の一隅に位置するこの小社は、鎌倉時代後期、河野一族が勧請した十六王子社の遺構とも考えられる。一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなづくり)、桧皮葺。 組物や妻飾の懸魚(げぎょ)に優れた技法を見せ、特に正面の水引貫上の蟇股(かえるまた)は、国宝・二王門と手法を同じくし、これと同時期の創建とする根拠となっている。訶梨帝母天は別名鬼子母神ともいい、この社前には、今も中世の修法の名残が受け継がれて、安産を祈願する人々が丸い小石を供えるなどの信仰が寄せられている。 寺院の中にありながら、県下最古の神社建築の遺構として貴重な建物である。」松山市HPより。
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石手寺護摩堂( 重要文化財 ) 1棟、附 棟札 2枚
「三重塔の東に位置する堂宇であるが、創建の時期を明確にする史料を欠く。桁行・梁間とも3間の建物で、一重、屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、銅板葺(元は桧皮葺)。様式は和様で、面取り方柱の上に舟肘木を置くだけの簡素な造りであるが、柱ごとに一本の垂木を用いる大疎垂木(おおまばらだるき)(間配(まくばり)垂木ともいう)の手法が見られる。内部の床は総て拭板(ぬぐいいた)張りで、護摩木を投じて修法する火炉は見られず、奥に来迎(らいごう)柱・来迎壁を設けて須弥壇を置くが、転用材を用いるなど仮設的である。これは藩政時代に大師堂と呼ばれていたこととも符節する。全体の容姿及び構造・表現の技法からして、室町時代前期の建築と推定されている。」松山市HPより。 -
一切経堂。
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七転八起再生石。
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マントラ洞窟入口。
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パゴダ。
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宝物館 受付のおばさんが「入館料は自分で賽銭箱のようなものに入れて勝手にご見学下さい」といった調子。重要美術品を展示してあるにしてはいい加減。展示の仕方も雑。弘法大師のご真筆の書の横に、子規の書が掛けてあったり良く解らん。
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木造菩薩面24面(愛媛県指定有形文化財(彫刻)) 「この面は、石手寺に伝承される行道面(ぎょうどうめん)である。行道面とは、僧が法会(ほうえ)、儀式の際、列をつくって内陣や堂内を賛偈(さんげ)を唱えながら練り歩くときに用いる仮面である。伎楽面に次いで古く、舞楽面や能面への過渡的な存在である。音楽、舞踊に関係がないため表情に乏しいのが特徴である。石手寺の行道面は、古例の整った大振りのもので、中には慶派仏師によって作られたとみられる面の一部含まれており、古いものの数例は鎌倉時代末期にまでさかのぼるものがある。」松山市HPより。
お寺のホームページでは国指定重要文化財のように記載してあるが、県のホームページでは県指定重要文化財となっていました。二王門も、県のホームページ、お寺のホームページ共に国宝となっていますが、二王門前の立札は国指定重要文化財となっています。?気なお寺ですね。 -
木造菩薩面24面と木造天人面2面はどれがどれやらさっぱり解らない。
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木造天人面 2面 (愛媛県指定有形文化財(彫刻))「石手寺に伝わる行道面(ぎょうどうめん)は20面あまりあるが、そのうち2面が童子風の天人面である。面裏に鎌倉時代末期の弘安2(1279)年の年紀とともに「天童」と銘記している。天童は、供養会や来迎会などの法会で聖衆が練り歩く際に、幡(ばん)や傘蓋をもってそれぞれ先導したり、従ったりする童子と考えられる。 天童面は髪を左右に振り分け、角髪(みずら)を結う点に特色があるが、この面の場合、さらに頭頂に角状の飾りをつけている。 この天人面は、2面1組で使用されたと考えられるが、それぞれ表情や顔色を微妙に変えていて興味深い。」松山市HPより。
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木造獅子頭 2面 (愛媛県指定有形文化財(彫刻) 「この2頭の獅子頭は、平型、大振りで迫力があり、古い様式を残しているといわれる。 頭の高さは30〜32cm、前後が47〜48cm、張りが41〜45cm、松材を用いている。 獅子は昔から悪魔を払うものとして庶民の生活の中に生きてきた。石手寺では、鎌倉時代から「練り供養」が行われ始めたといわれ、この獅子頭は、天人面を含む行道面(ぎょうどうめん)とともに、この法会に使用されていたと考えられる。鎌倉時代末期の作である。」松山市HPより。
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伝弘法大師御真筆。
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伝雪舟作。
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伝雪舟作。
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大街道の萬翠荘を訪ねる。
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愚陀佛庵 写真中央の緑の無い部分が土砂崩れの跡。2010年7月12日の記録的な豪雨で、松山城の城山において大規模土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」が全壊し、修復工事中。「萬翠荘の裏手にある愚陀佛庵は、夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任した際、下宿していた上野家の離れを当時の雰囲気そのままに復元したものです。 正岡子規が療養のために居候し、1階に正岡子規、2階に夏目漱石が住み、52日間共に過ごし、俳句づくりに没頭しました。小説「坊ちゃん」はここで過ごした松山での教師体験を元に生まれました。 この「愚陀佛庵」という名前は夏目漱石の自分の俳号「愚陀佛」から名付けたという説と、正岡子規が「愚陀佛がいる庵」と呼称しているところから、正岡子規が名付けたという説があります。この愚陀佛庵において、毎週1回定例の「愚陀佛庵句会・松風会」を開催しているほか、全国の俳句結社の皆様にも句会開催を案内したところ、多数の結社から句会開催の申込みを受けております。 当時子規たちが開催していたであろう句会の雰囲気を想像しながらの句会は好評を得ています。」愚陀佛庵HPより。
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萬翠荘 「萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。 萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、昭和60年(1985年)に愛媛県指定有形文化財となっています。建築その物も美術品ですが現在は、絵画、掛け軸、伝統芸術品、各種イベント、個展を随時行っています。 同敷地内には愚陀佛庵があり句会が行われております」萬翠荘HPより。受付の女性がずっと電話中。待っているとおもむろに札を立てると「展示替作業中に付無料」の文字が。先に出しておいて欲しいな。普通は休館だと思いますが、呑気です愛媛人。
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一階のステンドグラス。
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二階のステンドグラス。
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二階への吹抜け階段のステンドグラス。階段下から見る。
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階段上から見る。
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空模様が怪しくなって来たので早めに空港に向かいます。空港の天気は晴。待合室のテレビは東京のゲリラ豪雨の模様を伝えています。
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出発を見合わせて機は空港で待機。何とか一時間弱の遅れで飛び立ちました。雲の上に出ると積乱雲の峰が連なります。積乱雲を迂回するように上昇を続け羽田に。まさに「坂の上の雲」となりました。
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