2013/12/13 - 2013/12/14
71位(同エリア253件中)
ペコちゃんさん
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昭和46年に結婚して43年が過ぎ、夫は12月で70歳・・・即ち「古稀」・・・唐代の詩人・杜甫(712~770年)は「曲江」の詩の中で『人生七十古来稀 (人生七十、古来稀なり)』と詠っています。
テニスやトレッキングなど、元気印の夫には、長寿の祝いはまだピンときませんが、人生の一つの節目なので、温泉と海と富士山が楽しめる西伊豆旅行に出かけました。
天気に恵まれ、富士山も良く見えましたが、冬の西伊豆は、とにかく風が強い!!・・・海には白波が立ち、遊覧船も欠航・・・しかし、その分、夕陽は格別の輝きでした。
伊豆というと、どうしてもアクセスの良い東伊豆になりがちですが、今回は、中伊豆・修善寺 ⇒ 西伊豆・堂ヶ島(泊) ⇒ 沼津 というコースです。
美味しい料理と、源泉かけ流しの温泉に浸って、良い記念旅行になりました。
写真は、大瀬崎と白波の駿河湾と富士山です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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家を9時前に出発し、圏央道・入間ICから高速に乗り、中央高速の談合坂SAで休憩。
売店では、北海道フェアを開催中。 -
最初に、中伊豆の「韮山反射炉」に行ってみました。
これまで、車で通った時に何回か見かけたことがありましたが、一度行ってみようと思っていた場所です。 -
反射炉とは、銑鉄を溶かして優良な鉄を生産するための炉で、南北それぞれ2炉、合計4つの炉がL字型に配置されています。
炉体は伊豆石積み、煙突はレンガ積みで高さ約16m、鉄枠は補強用に後から付け加えられました。 -
反射炉は、17~18世紀にヨーロッパで発達した技術です。
日本では江戸時代末期に、列強諸国に対抗するため、軍事力の強化が課題となっていました。
1853年のペリー来航を機に、伊豆国・佐賀藩・薩摩藩・水戸藩・鳥取藩・萩藩などで、主に大砲を鋳造するための反射炉が作られました。
実際に稼働した反射炉が残っているのは、世界でもここだけです。 -
反射炉は、鉄の溶解温度(1700度)を得るために、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射させ、銑鉄を溶解する構造となっています。
炎と熱を反射する仕組みから、反射炉という名称が付けられました。 -
左が石炭などの燃料を入れる「焚口」で、右が銑鉄を入れる「鋳口」。
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韮山反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、1857年にようやく完成し、1864年に使用が中止されるまでに、数多くの西洋式大砲が鋳造されました。
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溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工され、ここで作った大砲は品川台場に28門配備されたそうです。
展示されている大砲は、復元されたものです。 -
韮山反射炉PRキャラクターの「てつざえもん」・・・平成25年9月17日に政府は、平成25年度の世界遺産国内推薦資産に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を決定しました。
九州・山口には、100年以上現役で使われている大きなクレーンや、軍艦のように見える島など、面白い機械・工場やそれらがあった跡が沢山あり、日本の工業が進化してきた様子が分かります。
韮山反射炉を含む「九州・山口の近代化産業遺産群」は、平成27年の世界遺産登録を目指しています。 -
ここの駐車場にある「蔵屋鳴沢みやげ館」の2階特別展示場で、11月20日から「つるし雛展」が開催されていました。
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つるし雛とは、江戸時代後期から伝わる伊豆稲取地方の風習で、長女の初節句に無病息災・良縁を祈願して、雛壇の両脇に細工を吊すものです。
昔は、庶民の雛壇代りでもありました。 -
桃(長寿)、猿っ子(魔除け)、三角(薬袋香袋)を基本として、50種の細工があります。
これらを、5列の赤糸に各11個の細工をつるし、計55個にそろえ、これを対にして110の細工がつるされたものが基本型です。 -
ここには、地元の主婦グループ「和布遊半(わふゆうはん)」の皆さんの作品が展示されています。
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展示数は750本を超え、伊豆で最大だとか・・・
色鮮やかなつるし雛は、驚くほどきちんと出来ていて、見ごたえ十分! -
鎧や兜などの五月人形に合わせた、つるし飾り。
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お土産用も売っています。
見ごたえタップリの、つるし雛展でした。
何年か前に友達と、稲取につるし雛を見に行ったことがありますが、ここは一か所で沢山のつるし雛が見られて良かったです。 -
韮山から修善寺に向かいました。
修善寺は友達と来たことがありますが、夫はゴルフで何回か来ても観光はしたことがないなので立ち寄りました。 -
最初に訪れたのは「修禅寺」・・・地名の「善」とお寺の「禅」は、漢字が違います。
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山門は修理中でした。
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曹洞宗寺院の修禅寺は修善寺温泉街の中心にあり、修善寺の地名の元になりました。
現在の本堂は、明治16年に再建したものです。 -
807年に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗でしたが、13世紀に臨済宗に改宗し、1409年に伽藍が全焼した後、曹洞宗の寺院として再興されました。
鎌倉時代初期には、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後、この地で殺害されます。 -
境内にある手水舎は、桂谷霊泉「大師の湯」・・・温泉で、飲むことも出来ます。
先ずは、温かいお湯で、清めましょう。 -
境内にある「だるま石」・・・江戸時代後期に奉納された物だそうです。
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修禅寺本殿脇の羅漢像。
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修禅寺に隣接した「日枝神社」・・・入り口の鳥居をくぐると、槙・欅・杉の見事な老大樹が一本ずつ並び、参道を覆っています。
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ケヤキの巨木の根元には「信功院跡」の案内板と石の庚申塔がひっそりと・・・源範頼の悲劇の跡が偲ばれます。
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日枝神社の創建は、807年に修禅寺を開いた弘法大師・空海が、修禅寺の北東に当る現在地に、鬼門鎮守の為、勧請したのが始まりと伝えられています。
当初は山王社と称し、修禅寺の鎮守社として神仏習合していましたが、明治の神仏分離令により神社として独立し、社号を日枝神社に改称しました。 -
境内の左側にはスギの巨木が数本あり、その中に同じ根元から2本、寄り添って立っている樹齢800年の「子宝の杉」があります。
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子宝の杉の間は通る事が出来、子宝・夫婦円満のご利益が有るとか・・・
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境内の右側には、県の天然記念物に指定されている「イチイカシ」の巨木が・・・根周りは5.5m、高さは25mもあります。
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日枝神社を出て、桂川にかかる渡月橋を渡ると・・・
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「筥湯(はこゆ)」があります。
かつて、河原沿いに7つの外湯がありましたが、昭和20年代には『独鈷(とっこ)の湯』だけとなったため、再び外湯めぐりを楽しんで貰うため、2000年にオープンしました。
「筥」とは、竹で編んだ米を盛る丸い篭のこと。 -
内湯のみの小さな温泉ですが、檜造りの湯舟には掛け流しの湯が溢れ、風情ある温泉情緒を味わえます。(350円)
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筥湯に併設された、高さ12mの仰空楼(ぎょうくうろう)・・・修善寺を愛した文豪・夏目漱石の漢詩にちなんでつけた名前です。(入場:無料)
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階段を上り、高さ12mの望楼に行くと・・・
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修善寺の街並みや・・・
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先ほどの修禅寺も、良く見えます。
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なまこ壁は、西伊豆の松崎が有名ですが、ここにもありました。
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「指月殿」は、北条政子が第二代将軍・源頼家の菩提所として建立した、伊豆最古の木造建築。(指月とは経典を意味する)
源頼家は源頼朝の嫡男で母は北条政子・・・1199年に、頼朝の急死により家督を相続しましたが、母方の北条氏を中心とした有力御家人は十三人の合議制をしき、頼家の独断を抑制します。
1203年に政子の命で将軍職を剥奪され、修善寺へ幽閉されたことにより、代わって弟の実朝が第三代将軍となります。
1204年、頼家は修善寺で北条時政により、入浴中に暗殺されました。(享年23歳) -
堂内には釈迦如来坐像と仁王像が安置されています。
本尊の釈迦如来坐像は、右手に蓮の花を持った禅宗式という珍しい形をしており、杉を中心にした寄木造りで、高さは203cmもあります。 -
阿吽二体の仁王像は、本尊よりさらに古く、藤原時代の作と言われています。
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頼家供養碑。
岡本綺堂が修善寺を訪れて、オペラや歌舞伎で有名な『修禅寺物語』を書きましたが、ここに来て頼家の悲話を聞くと、改めて修禅寺物語に触れてみたいと思いました。 -
「十三士の墓」・・・源頼家の家臣十三人が、頼家が殺された6日後に再起を期して謀叛を企てたものの、挙兵前に発見されて殺され、その家臣の霊が祀られています。
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指月殿の裏山・鹿山にある「岩谷観音とおしゃぶり婆さん」。
子宝子育ての神様として祀られている「おしゃぶり婆さん」の語源は、赤子が口にするオシャブリで、母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています。 -
更に鹿山を登ると、獅子にまたがった「源義経像」があります。
源義経は、源頼朝の異母弟で、修善寺に墓がある源範頼とともに源平合戦で活躍しましたが、平家を滅ぼした後、頼朝と不仲となり、1189年に奥州の衣川館で最期を遂げました。
その一方で、モンゴルに渡ってチンギスハンとなったという伝説もあるため、この像は 「 チンギスハン像 」 とも呼ばれています。
大正末期、芸術を愛した菊屋旅館の依頼で、修善寺温泉へ滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られたそうです。 -
鹿山を下りて「竹林の小径」へ・・・ここは、ミシュランガイドで2ツ星を獲得した、日本美あふれる竹林です。
約30mほど続く竹林を眺めながら、美しく整えられた石畳を歩きます。
すぐ脇には桂川も流れており、渓流の音と一緒に散策する事ができます。 -
緑の濃さに、思わず深呼吸したくなるような空気に包まれ、すっと伸びた竹が凛として、とても美しい散歩道・・・竹林の中央には大きな竹製の円形ベンチがあり、ここに座ると風を感じます。
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この小径沿いには、イロハカエデを中心に、60本ほどのモミジが植えられています。
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竹林の小路を出ると、美しい朱色の「楓橋」があります。
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桂川にかかる楓橋。
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特に紅葉シーズンの景色は素晴らしく、思わず写真を撮りたくなります。
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これは「桂橋」・・・美しい朱色の桂橋と紅葉のコラボは、見事としか言いようがありません。
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竹林の小径から約3分で「河原湯」へ・・・桂川の河原に平成22年に完成した足湯です。
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「独鈷(とっこ)の湯」は伊豆最古・修善寺温泉発祥の湯で、桂川の川中にあります。
2002年10月の台風による豪雨で崩壊し、2004年10月の台風22号でも再び流失しました。
その後、豪雨でも水害が発生しない様に河川整備が行われ、19m下流へ移設して、土台の岩や大きな石を組んで浴槽をかさ上げし、2009年に復活しました。
台湾からの観光客も、足湯を楽しんでいます。 -
807年に空海(弘法大師)が修善寺を訪れた時、桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕くと、霊泉が噴出・・・温泉は疾病に効くことを大師が説き、これにより父子は病を完治させることができた、という伝承が残っています。
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独鈷の湯から少し離れた所に「独鈷の湯公園」があります。
これは、金銅製の独鈷杵(とっこしゅ)という仏具。 -
公園には、修善寺に温泉をもたらした弘法大師幼少の像があり、自分が治癒したい部分と同じ部分にお湯をかけると、早く良くなると信じられています。
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公園には寒桜が咲いていました。
修善寺の観光を楽しんだ後は、西伊豆に向かいます。 -
船原峠をドライブして、40分ほどで土肥に着きました。
この温泉噴塔の両側には「黄金の湯」の足湯があります。 -
土肥は観光地としての整備が進んでおり、浜辺の松原公園には世界一の花時計があります。
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平成3年に完成し、長針:12.5m、短針:8.8m、秒針:10.8m、直径が31mの世界一の花時計で、ギネスに登録されています。
8時から19時までの定時にはチャイムメロデイが流れ、夜間はライトアップされます。 -
花時計の外周は、裸足で歩く天然石の健康歩道(足裏マッサージ)になっています。
一昨年、お友達とここに来た時は一周出来たのに、今回はどうしても痛くて歩けません。
人によっては、全然痛くない人もいるようですが・・・どこか悪い所でもあるのかな(?) -
17年前に台湾に行った時、公園にこの歩道があり、どうするのか分からなかったのですが、地元のお爺さんが身振り手振りで教えてくれたので、靴を脱いで歩くと、 ” 痛~! ” ・・・お爺さんは私を見て大笑いしていました。
今では、この歩道はよく見かけますが、あの頃は珍しいものでした。 -
松原大橋の袂には、駿河湾に向かって帽子に羽織の 「 若山牧水 」 の像があります。
牧水は沼津に住居を構え、ここ土肥に100回も宿泊し、多くの詩歌を詠んでいます。
『花のころに 来馴れてよしと おもへりし 土肥に来てみつ その梅の実を』 -
土肥の穏やかな海辺・・・この土肥には数回来ていますが、本当に良い所です。
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夕方になったので、今回の旅行の楽しみの一つ、西伊豆の夕陽を求めて「恋人岬」に急ぎます。
富士見遊歩道を下り、約700mの所に位置する恋人岬は、有名なグアムの恋人岬と姉妹提携を結んでいます。 -
恋人岬の先端の少し手前に「金の鐘」と「メガネ記念碑」があります。
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1989年に伊豆とグアムの恋人岬が提携を結んだ際、グアムから贈られてきたこの「金の鐘」を鳴らすと愛が叶う、または幸せになれると言われています。
この時、伊豆からはグアムに「銀の鐘」を贈りました。
金の鐘も銀の鐘も、どちらにも恋の話があり、グアムは悲恋に終わりますが、土肥の二人はハッピーエンドです。 -
この展望台からは、富士山がよく見えます。
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恋人岬の先端にある「ラブコールベル(愛の鐘)」・・・このラブコールベルを三回鳴らすと、恋が実ると言われています。
1回目に自分の身を清め、2回目は相手の心を呼び、3回目で二人は永遠の愛を誓います。 -
二人が見つめ合う姿を形にした恋人像「アモーレ」・・・夕陽と富士山で、よりロマンチック!
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しかし、駐車場からここに辿り着くのは、結構大変・・・坂道あり階段ありで、人生と同じく厳しかった!
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恋人岬から見た、駿河湾の見事な夕陽。
日没までにまだ時間があるので、次の場所に車を走らせます。 -
宇久須キャンプ場で水平線に沈む夕日を見ました。
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写真では、その美しさが伝わらないのが残念ですが、本当に見事な夕陽です。
何人かの人々がカメラを持って待機していました・・・皆さん、良い写真撮れましたか? -
今日の宿泊は「堂ヶ島温泉ホテル」です。
このホテルの自慢は、源泉の湯だけを100%使った掛流しの温泉。 -
そして、広々としたロビーからは、目の前に三四郎島が・・・
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部屋からも三四郎島が目の前に・・・素晴らしい眺めです。
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バルコニーから見た三四郎島・・・
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海を見ていると、心が癒されます。
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早速「渚の露天風呂」に行きました。
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これが露天風呂から見た、三四郎島の感動的な夕景・・・夫は、この景色が見たくて、このホテルを予約しました。
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夕食は、本館6階の「フルマーレ」で。
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食べきれないくらいの海の幸が並んでします。
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70年間、ご苦労様でした。
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お楽しみの活きアワビと金目鯛の煮付・・・伊豆の定番はこれです。
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2日目の朝。
外に出てみると、ホテルの全体がよく分かります。 -
三四郎島は、手前から伝兵衛島・中ノ島・沖ノ瀬島・高島の4島ですが、見る角度によって、島が三つにも四つにも見えることから、この名前が付いたそうです。
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海に浮かぶ島は、干潮時になると陸地から島へ30mの砂州が出来、一番手前の伝兵衛島まで歩いて渡ることが出来ます。(トンボロ現象)
昨日の干潮は夜9時過ぎで、暗闇の海岸に行って潮が引いた「海の道」を見ましたが、写真はチョット無理でした。 -
朝食前に露天風呂へ・・・夜も風情がありましたが、朝の眺めも素晴らしい!
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折角の温泉なので、海を臨む1階の「オーロラの湯」にも入りました。
御影石で造られた大浴場に入る朝の光が、何とも言えない雰囲気を創り出しています。
「渚の露天風呂」と同じ「化粧の湯」と呼ばれる源泉かけ流しのなめらかな湯が、溢れんばかり・・・湯上がりには、肌が驚くほどツルツルになり、入浴後の化粧水が必要ないと感じるほど潤いを保つことから 「 化粧の湯 」 と呼ばれています。
サウナ・水風呂・寝湯もあり、体全体を癒してくれます。 -
アジの開きが美味しかった朝食。
今日も風が強く「洞窟めぐり遊覧船」は欠航なので、朝食後は堂ヶ島から西伊豆を北上して走り、沼津から帰ることにしました。
遊覧船にまだ乗ったことがない夫に、天窓洞を見せてあげたかったのですが・・・5月に行ったカプリ島の「青の洞窟」は運よく見ることが出来ましたが、今回は本当に残念でした。 -
最初に、黄金崎に行ってみました。
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昨日は寄りませんでしたが、ここも夕景の美しさで知られる景勝地です。
安山岩が風化し、黄褐色に変質したプロピライトが夕陽を浴びると、黄金色に輝くことから黄金崎の名が付きました。
黄金崎の岸壁の地層は海底火山の噴出物らしく、それが温泉水や地熱の作用によって崖の成分が変質・変色したものだと言われます。 -
黄金崎には高い波が打ち寄せ、海は強風のために荒れています。
観光客の人達も、あまりの風の強さに、駐車場の車から降りて来ません。
私達は、風や雪は、なぜか平気。 -
階段を登って「富士見の丘」に行ってみました。
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名前の通り、富士山がよく見えます。
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階段を下りて、コレクション・ガーデンに行くと・・・
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ツワブキの鮮やかな黄色が、全体を覆っています。
これだけのツワブキを見たのは初めてです。
裏庭や日陰にひっそりと咲いているイメージの花でしたが、太陽の下でも素敵な花でした。 -
海を見た後は、近くにある「黄金崎クリスタルパーク」に寄ってみました。
西伊豆町・宇久須は、ガラスの原料「珪石」の産地として、数十年にわたり日本のガラス文化を支えています。 -
柱に取り付けられたステンドグラスの可愛いライトを見ながら、ガラスミュージアムに入ります。
ガラスミュージアムは、世界一流の現代ガラス作品を収集・展示する、現代ガラス専門の美術館。 -
入口に池田満寿夫作の「アポロンの水瓶」が置いてあります。
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素晴らしいガラスの芸術品が展示されています。
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フランスのガラス工芸家、ルネ・ラリック(1860~1945)の作品もありました。
箱根のラリック美術館も素敵ですが、ここにもたくさんの作品があります。 -
ミュージアム内には、いろんな万華鏡を集めたコーナーもあります。
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万華鏡は、1816年にイギリス人が発明しました。
日本では更紗目鏡という名で呼ばれ、1819年には既に流行していたそうです。 -
大きな万華鏡を覗くと、こんな写真も撮れます。
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富士山の展望が素晴らしい「富士見台」・・・土肥の手前にあります。
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ここは、富士山が最も優美に見える場所のひとつと言われています。
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土肥を少し行くと「旅人岬」があります。
旅人岬は、1998年に直木賞作家の笹倉明氏によって命名された絶景スポット。
手を繋いだ両親の間に幼い子供が立っている、この「家族」像は、恋人岬の像と同じく、熱海で育った重岡建治の作。 -
展望台のどこかに『ハート』が隠れている、とのことなので探してみると・・・展望台の敷石に、ひとつだけハートが隠れていました。
見つけた人には「幸せが訪れる」そうですが・・・ -
これは、展望台完成を記念して設置された小説「旅人岬」の記念碑。
笹倉明は静岡新聞に「人びとの岬」を連載し、岬の命名後、小説のタイトルも「恋人岬」に改題しました。
土肥の旅館の娘の愛の葛藤を描いた長編小説ですが、石碑には旅人岬から見る夕陽の美しさを表現した小説の一節が刻まれています。
『・・・赤みと大きさを増して輪郭をくっきりとさせた夕陽が向こう岸から長い朱の帯をのばし、湾の波間を真っぷたつに割り裂いた。これまでの夕陽は幾度も見てきたけど、いまほど美しいと感じたことはない。・・・』 -
旅人岬から戸田に行く途中、富士山の絶景ポイントがありました。
観光用の駐車場はありませんでしたが、空き地に車を止めて、パチリ。 -
周りには、水仙やアロエの花などが咲いていました・・・やっぱり、伊豆は暖かいのですね。
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戸田漁港で、写真タイム。
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海は、澄み切っています。
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「出会い岬」は、戸田から井田方面に向かう県道17号沿いにある展望地。
左手に戸田港と御浜岬、正面に駿河湾、右手に富士山と、大自然が織り成す絶景が楽しめるビュースポットで、丸い輪から富士山を縁取るように眺められる、個性的なモニュメントが目印です。 -
丸い輪から望む富士山の絶景。
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左側には鏡のような戸田港。
出会い岬は夕陽も素晴らしいようです。 -
「煌めき(きらめき)の丘」・・・戸田と大瀬崎の間にある展望台。
太陽の位置によって、海面がきらきらときらめいて見えるので、この名がつけられました。 -
正面に富士山を望み、紺碧の駿河湾を挟んで井田地区を一望できます。
畑には『井田』の文字が・・・1~2月は、菜の花が咲き揃います。 -
丘の上から見た「明神池」・・・周囲約650mの明神池は海のすぐそばですが、真水(淡水)の沸くこの池には草魚やウナギ、タニシなどが生息し、春~夏には、いろんな花も楽しめます。
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道路沿いに、何と200円のミカンが・・・買って食べましたが、甘い!
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久し振りの「大瀬崎」に行きました。
海水浴シーズンには見かけないダイバーが、冬には大勢来ていて、ビックリ! -
ここは、南西に張り出した岬が自然の堤防となり、湾内や外海・先端などのポイントで潜れ、初心者から上級者まで楽しめます。
駿河湾に面しているので、生物の種類が豊富で、フィッシュウォッチングや写真などが楽しめる、日本を代表するダイビングスポットです。 -
サンタの格好をして潜る女の子もいます。
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ノンビリと釣りをする人もいます。
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海岸を歩いて行くと、昭和7年に国の天然記念物に指定された「ビャクシン(柏槇)」樹林が群生しています。
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大瀬崎のビャクシンは、現在130本ほどあります。
生け垣などに使われるカイヅカイブキと同じ仲間ですが、幹回りが1mを超える巨木や、樹齢が千年以上の老樹も多くあります。 -
大瀬崎は、駿河湾に突き出た長さ800mほどの岬。
海岸通りにどっしりと構えるのは、大瀬神社の鳥居。 -
大瀬神社は、正式には引手力命(ひきてちからのみこと)神社。
神社に向かう石段の下には、天狗の下駄が奉納されています。
履こうと思ったのですが、重い鉄製で、ビクともしない! -
「大瀬神社」の創建時期は不明ですが、一説には684年に発生した大地震に伴って、海底が突然隆起して「琵琶島」と呼ばれる島が出現したため、ここに引手力命(海の守護神)を祀ったのが最初、とも言われています。
琵琶島は、やがて砂洲の形成により、陸に繋がり大瀬崎となりました。
大瀬神社は、古くから駿河湾漁民の信仰の象徴として崇敬を集めると共に、海上安全を願う漁師が赤い褌(写真右側の赤い布々)を奉納する風習があります。 -
火災で焼失した社殿は昭和14年に再建されましたが、当時は大瀬崎に至る国道がなかったため、船で部材を運ぶなど、苦労があったそうです。
社殿の彫り物は造りが細かく、実に見事・・・戦前は腕の立つ職人がまだ沢山いたのでしょう。
伊豆の天狗信仰が色濃く残る大瀬神社なので、社殿の彫り物にも天狗が多く登場しています。 -
絵馬もカラス天狗。
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伊豆七不思議の一つ、大瀬崎の「神池」に行きました。
ここは大瀬神社の境内地で、ビャクシンの樹林に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が20mほど、標高も1mほどしかありません。(写真はWikipediaより) -
海が荒れた日には海水が吹き込むにもかかわらず淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数生息しています。
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駿河湾を挟んで北に50km離れた富士山から伏流水が湧き出ている、などの説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われており、なぜ淡水池であるかは分っていません。
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餌をあげると、この通り・・・大きな緋鯉もいます。
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半島の先端には、昭和32年に建てられた、高さ13mの「伊豆大瀬埼灯台」があり、富士山も・・・絵になる風景です。
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大瀬崎から県道17号線に戻った所にある「西浦江梨」も富士山のビュースポット。
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天狗の鼻のように突き出た長さ800mほどの半島・大瀬崎と、富士山の眺めが素晴らしい!
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先ほどの大瀬神社も、良く見えます。
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伊豆の西海岸では数少ない白い砂のビーチ「らららサンビーチ」(沼津市西浦)で、また富士の写真を撮り・・・
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海岸に面した「メゾン・ド・メール貝殻亭」で、遅目の昼食です。
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ムツの煮付定食(1350円)と上刺身定食(1750円)で、大満足のランチでした。
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店内には、巨大な魚拓が何枚も飾られていました。
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タツノオトシゴやミノカサゴをデザインしたステンドグラスも素敵!
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最後の観光は「沼津御用邸記念公園」です。
沼津御用邸は明治26年に、大正天皇(当時は皇太子)の静養のために造営されました。
このあたり一帯は温暖な気候に加え、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから、大山巌など明治政府の高官が別荘を建てていました。
また、明治22年に東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったことも理由の一つにあげられます。 -
明治33年までに増築を重ね、本邸全体の建物面積は、約5千平方mにもなりましたが、昭和20年7月の沼津大空襲で焼失し、東・西両附属邸を残すのみとなりました。
西附属邸は「沼津御用邸記念公園」のメインとなる施設で、入館して内部も自由に見学することが出来ます。
これは、西附属邸・正門前にある、樹齢400年の「根上がり黒松」。 -
西附属邸は、明治38年に明治天皇のお孫さん(昭和天皇など)の御用邸として造られました。
本邸が焼失した後は、この西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和天皇をはじめ、多くの皇族方に利用されてきました。 -
昭和44年に沼津御用邸は廃止され、沼津市に無償貸与・・・45年に「沼津御用邸記念公園」として開園しました。
平成6年には、現天皇も行幸しています。
これは、西附属邸正門。 -
玄関・御車寄。
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大正3年、昭和天皇が学習院初等科時代に乗られた自転車(複製)。
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「御食堂」・・・皇族が食事をした部屋。
椅子は食堂用の皮張り・紋章入りで、前脚だけに陶製のキャスターが付いています。 -
「謁見所」・・・天皇陛下が滞在中、来客に面会するときに用いた部屋。
床の間側に置かれた玉座用の肘掛け椅子(右側)には、梨地漆に御紋章の蒔絵が描かれ、来客用の小椅子(左側)には、黒漆に金の高蒔絵があります。 -
「御座所」・・・居間として用いられていた部屋です。
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電灯の傘にも、当時の生活様式が偲ばれます。
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「御玉突所」・・・ビリヤードは明治時代、上流階級の社交的レジャーとして人気があり、当時の政府高官や実業家などの邸宅には玉突所を設けた例が多く見られます。
玉突台は古い形の四つ球台で、キューもクラシックタイプのものです。 -
夕暮れが迫る談合坂SAで、最後の休憩。
富士と夕陽と金目鯛、それに温泉やつるし雛などなど、記念に残る2日間でした。
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