2013/05/19 - 2013/05/19
144位(同エリア343件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
19カ所目は武蔵国(東京都)の小野神社を訪ねました。
【小野神社(おのじんじゃ)】
[御祭神]
天ノ下春命(あめのしたばるのみこと)
瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
[鎮座地]東京都多摩市一ノ宮
[創建]安寧天皇18年
【追記】
「諸国一之宮“公共交通”巡礼記[武蔵国]小野神社」を全面改稿し、ブログ「RAMBLE JAPAN」にて「一巡せしもの〜武蔵國一之宮[小野神社]」のタイトルで連載しております。
ブログ「RAMBLE JAPAN」
http://ramblejapan.blog.jp/
http://ramblejapan.seesaa.net/
(上記のURLの内容は、どちらも同じです)
ご訪問、お待ちしております!
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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-
京王線聖蹟桜ヶ丘駅に到着したのは午後4時過ぎ。
半年前なら既に日も暮れていたのだろうけど。
夏至も近い昨今、すっかり日も長くなり大助かり。
だが、喜んでばかりもいられない。
雲行きが怪しくなり、雨がハラハラと降り出してきた。
朝方は天気が良かったので、生憎と傘を持って来なかったのだ。
長距離を歩く分は苦にならないのだが、雨だけは勘弁して欲しい。
御朱印帳や頂戴した資料が水に濡れて台無しになってしまう恐れがあるからだ。
いくら防水性を高めても、水は如何なる場所からでも進入してくる。
100%大丈夫なんて保証は、どこにもない。
目の前まで来たものの、一時は参拝を諦めかけた。 -
ところが捨てる神あれば拾う神あり。
駅前のショッピングモールに100円ショップがあり、幸いなことに折りたたみ傘が何と105円(税込)で売っていた!
廉価の割にはキチンと作られており、急場凌ぎには十分過ぎる。
ようやく聖蹟桜ヶ丘の駅から小野神社へ向けて初めの一歩を踏み出せた。 -
ショッピングモールの間を通る道を西に進むと、X字型に交差した十字路に出た。
その一角に記念碑が立っている。
石柱には「一ノ宮渡し」の文字。
モニュメントの解説文には、こうある。
一ノ宮の神楽は、近世後期以降、大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情により取りやめになる昭和三十四年まで続いていました。 -
大國魂神社は府中市にある東京都下最大の神社。
ここは武蔵国の一之宮から六之宮までが祀られた総社である。
「くらやみ祭り」は府中に武蔵国府が存在した太古の昔から、今なお続く都下最大の祭礼。
小野神社から「くらやみ祭り」に渡御参加する神輿が、ここから多摩川を渡ったのだろう。
ちなみに「くらやみ祭り」には新撰組の近藤勇や土方歳三も若かりし頃に参加したという記録が残っているそうだ。 -
記念碑の横には連理の御神木。
ごく普通の街角にニョキッと生えた、ありふれた街路樹のようにも見える。
だが、木々の間に渡された注連縄が、ここが御神域だったことを示している。 -
「神南せせらぎ通り」という石標の先に、キチンと整備された道が続く。
小野神社への参道に違いない。 -
「神南せせらぎ通り」は石畳が敷き詰められた小奇麗な道。
傍らにはせせらぎ…というか側溝が流れ、道との間には石灯籠が設えてある。
日が落ちて周囲が闇に包まれれば、石灯籠の仄かな灯りが独特の雰囲気を醸し出すことだろう。
幸か不幸かまだ陽のある内だったので、そうしたファンタジックな光景はお目にかかれなかったが。 -
聖蹟桜ヶ丘駅から歩くこと約20分。
多摩市立一ノ宮児童館と小野神社公園と刻まれた銘板を発見。
いよいよ小野神社の御神域に入ったようだ。 -
小野神社公園に入って見ると…なんとそこは本殿の直真裏!
小野神社よ、フレンドリー過ぎるぞ! -
まさか泥棒のように裏口から参拝するわけにもいかないので、一旦公園を出る。
境内に沿った外周道を歩くうち、鳥居と随神門が現れた。
こちらは正門ではなく、南門である由。
グーグルマップで見ると鳥居は木製で朱色だが、訪れた折には石造りの白い鳥居になっていた。
東日本大震災で損壊したため建て直されたのだろうか? -
南門に立つ社号標。
側面に寄付者の名前が刻まれている。
南多摩郡図師町に豆州君澤郡三島町とあるから、江戸時代に造られたものか。 -
さらに先へ進むと、今度は一回り大きな鳥居と随神門、社号標が登場。
こちらが正門なのは見るからに明らか。
なぜなら南門には狛犬が鎮座していない。 -
正門に立つ大鳥居。
なお、鳥居はここと先程の南門にしかなく、境内の外には一基も存在しない。
参道も先ほど通ってきた神南せせらぎ通りぐらいなもの。
しかし、この大きくて真新しく立派な大鳥居を見れば、氏子から寄せられる信仰の篤さが分かるというものだ。 -
正門の社号標。
こちらは真新しく、ごく最近建立されたものだ。
小野神社の創建は安寧天皇18年というから、西暦に直せば紀元前531年、皇紀だと130年。
いずれにせよムチャクチャ昔からある古社であることは間違いない。
主祭神の天ノ下春命は天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を警護した三十二神の一神。
武蔵秩父国造(ちちぶのくにのみやつこ)らの祖神で、開拓にご利益があるという。
もう一柱の瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神で、祀られている神社は日本中に存在する。
往古の時代は暴れ川だった多摩川を鎮めるため、追って小野神社に祀られるようになったのか?
それとも初めに川ありきで瀬織津姫命が先に祀られていたところへ、後から天ノ下春命がやって来たのか?
それは分からない。 -
狛犬と随神門。
門内に鎮座している木像の随身倚像は都の有形文化財に指定されている。
小野神社は鎌倉時代末から戦国時代にかけて度重なる戦乱や多摩川の氾濫に見舞われ、古来からの諸資料が散逸したため現在では殆ど残されていないという。
そんな中で昭和49(1974)年、この随身倚像に墨書銘があることが発見された。
それによると、二体あるうち古い方は元応元(1319)年に因幡法橋応円や権律師丞源らにより奉納されたもの。
その後、寛永五(1628)年に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって補修された際、新しい法の像が新調されたのだそうだ。
現在の随身門は昭和39(1964)年に創建されたもの。
同49(1974)年には随身倚像を同門内に安置し、現在に至るという。
それまでは南門の随身門内にあったのだろうか? -
随神門をくぐって境内に入る。
境内は清廉に掃き清められ、一之宮としての風格を感じさせる。
参道を直進すると、突き当りに拝殿が鎮座する。
戦乱や氾濫で荒れ果てた小野神社を造営再興したのは、徳川二代将軍秀忠だった。
その記録が棟札に残されている。
一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四(1609)年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公 -
それから遥かに時代が下った大正15(1926)年3月30日。
近隣の失火による貰い火事により、御神体と一部の神宝、鳥居を除く神殿などを悉く焼失する。
しかし翌年には早くも本殿と拝殿が再建されている。
戦後の昭和39(1964)年、今より随身門寄りにあった本殿と拝殿を後方に遷座。
境内を拡大して現在の姿に至るという。 -
拝殿から裏手に回り本殿へ。
すぐ脇を通れば先ほど見た小野神社公園へと抜けられる。
武蔵國には現在もうひとつ氷川神社という一之宮が存在するが、元々こちらは三之宮だった。
小野神社は現在の府中市にあった武蔵国府に近く、国司が参詣し易いことから一之宮になったものと思われる。
その後、武蔵国内の六社をまとめて祭祀し易いよう合祀した、武蔵総社の六所宮が国府内に建立された。
今の大国魂神社である。
これで国司はわざわざ多摩川を渡って小野神社まで参詣しに行く必要がなくなったため大助かり。
一方、国司の参詣が途絶えた小野神社は名ばかりの“一之宮”となり、次第に衰微していったものと思われる。
式内小社の小野神社に対し、もともと格上の式内大社だった氷川神社は武蔵国一帯に勢力を拡大し、次々と分社が建立された。
そして室町時代から戦国時代にかけて、氷川神社が名実ともに武蔵國の一之宮として見做されるようになった…らしい。 -
参拝を終えて社務所の前を通りかかると、室内に明かりが灯っている。
小野神社は宮司さん不駐在だと聞いていたので、半信半疑のまま訪ねてみた。
扉を開けて中に声をかけるが誰も出てこない。
というか人のいる気配がない。
5〜6分ほど社務所の玄関近辺をウロウロしていたら、遠くから呼ばわる声が聞こえてきた。
どこからだろう? と周囲を見渡すと、本殿の方角から宮司さんの姿が。
日の入りも近く、社殿の戸締りに回っていたらしい。
本日は何か祭事があったらしく、日曜日に訪れたのが幸いした格好。
これ幸いとばかりに御朱印を賜った。
もし雨を前にして参詣を諦めていたら、宮司さんに会えることもなかった。
これもまた、天ノ下春命の思し召しなのだろうか?
いや、単なる私の牽強付会だろう。 -
正門から境内を出、駅の方角へは戻らず、さらに外周道を先に進んでみる。
境内と域外を分ける玉垣が延々と続き、神域の広さを伺わせる。
明治10年代に描かれた古図を見ると玉垣はなく、域外との境は曖昧な様子。
というか周囲には田畑しかなく、無理に境内と分ける必要もなかったのだろう。 -
本殿の後ろ側へ。
ここまで住宅地が迫っている。
昭和39年に風致林を整備して社殿を移し、境内を広げたと先ほど書いた。
この時もし境内を広げていなければ、風致林は宅地として開発され、小野神社の境内は猫の額ほどのままだった可能性もある。
境内と域外を玉垣で厳然と仕切らなければならなかったのは、この“宅地開発”という名の恐ろしき怪物から身を護るためだったようにも思えてくる。 -
そして再び、小野神社公園から境内を見渡す。
来る時に降っていた雨はすっかり上がり、西の空に夕焼けが広がっていた。 -
帰路は再び神南せせらぎ通りを歩く。
“せせらぎ”とは名ばかりで単なる側溝だと思っていたのだが、幼い姉弟が中に入って小魚を追いかけている姿を見かけた。
想像以上に綺麗な“せせらぎ”のようだ。 -
途中、スナックを見かけた。
その名を「古里」と云う。
店前では狸がお出迎え。
だとしたら「ふるさと」ではなく「こり」と読むのだろうか?
中に入れば狐や狸に化かされて…。
でも、楽しかったらそれも良しか。 -
フィルムを逆再生したかのように、往路を辿って聖蹟桜ヶ丘駅へ戻ってきた。
武蔵國一之宮として由緒正しき歴史を誇りながらも、時代の趨勢に翻弄され落魄の境遇に甘んじる小野神社。
その存在そのものが、人生の歩み方に何らかのサジェスチョンを与えてくれたようにも思える。
そんなことを考えながら改札口へと足を向けた。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2013/06/06 10:10:46
- 小野神社
- 経堂薫さま、おはようございます。
武蔵国小野神社の旅行記を拝見させて頂きました。
仰せの通り、武蔵国に於ける本来の一之宮は現在の大宮氷川神社では無く、小野神社こそが元祖でしたが、戦国時代に力関係が逆転し、本来は三之宮だった氷川神社が一之宮になり、更に、明治維新の際に、氷川神社に明治天皇が行幸され勅語を賜った事で武蔵国一之宮の地位が決定的なものになりました。
然も、本来であれば府社相当が妥当だったものが、明治5年(1872年)に郷社列格のまま忘れ去られた存在になったのは、当時の内務省の怠慢も否定できないと思います。
横浜臨海公園
- 経堂薫さん からの返信 2013/06/07 05:38:55
- 横浜臨海公園様
- 横浜臨海公園様、こんにちわ。
ご投稿頂き有難うございます。
> 然も、本来であれば府社相当が妥当だったものが、明治5年(1872年)に郷社列格のまま忘れ去られた存在になったのは、当時の内務省の怠慢も否定できないと思います。
それ以前に、既に小野神社自身から一之宮としての格式を維持する力が失われていたのでしょう、きっと。
現代社会に例えて言うなら、小野神社は公共事業の大量受注で業界シェアトップに君臨する中堅ゼネコン。
一方の氷川神社は公共事業の受注競争で小野神社の後塵を拝し業界シェア3位に甘んじているものの、民間市場への積極的な営業で固い業績を維持している名門大手ゼネコン。
ところが行政改革で公共事業が大幅に削減されることになり、小野神社はシェアを失い業績も悪化、リストラを断行して小規模ゼネコンに転落する羽目に。
一方、行政改革の影響を受けなかった氷川神社は、これまで培ってきた営業力をテコに小野神社の牙城だった公共事業分野へ積極的に進出。
さらに関東一円に200もの支社を設立し、名実ともに業界トップのゼネコンへ躍進…といったところでしょうか。
小野神社と氷川神社の盛衰史からは、今も昔も“企業努力”は大切なんだと学んだ気がします。
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