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淺間神社(あさま じんじゃ)は、山梨県笛吹市に所在する甲斐國一之宮神社である。<br /><br /><br />該社は、第11代 垂仁帝(すいにん てんのう)(崇神29年(前29年)1月27日〜垂仁99年(70年)8月8日)在位中たる垂仁8年(前22年)正月に摂社山宮に奉祭し、その後、三大竇録(さんだい じつろく)貞観7年(865年)12月9日條に於いて該地に遷座したとの記述が記載されている。<br /><br /><br />該社、御祭祀は、<br /><br />木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)<br /><br />の御1柱である。<br /><br /><br />因みに、駿河國一之宮富士山浅間神社の御祭神たる、<br />木花之佐久夜毘意命(このはなのさくやひめのみこと)<br />とは異字同神で、且つ、該神は、天照大神(あまてらすおおみのかみ)の孫たる 瓊瓊杵尊(にきぎのみこと)の妻で、故に、安産の神と位置付けられ崇敬されている。<br /><br /><br />淺間(あさま/せんげん)山とは、富士山(ふじさん)の古語でもある。<br /><br />延喜式神名帳に於いて、早くも名神大社とされているが、現在では異論も根強く存在する。<br /><br />即ち、前記 三大竇録に於ける該社記述に於いて、甲斐國山梨郡所在とする点に就いて、学説上、平安中期たる承永年間(931〜38年)に編纂された和名類聚抄(わみょうじゅしゅう)に拠れば、式内社として、淺間神社は、現在の南都留郡富士河口湖町所在の河口淺間神社、若しくは、西八代郡市川本町所在の浅間神社こそが真の淺間神社で該社は非該当社であるとの研究解釈が江戸中期以来絶えない。<br /><br />即ち、該社所在地たる東八代郡は明治11年(1878年)7月22日に八代郡を東西に分割した存在だが、該社が八代郡所属になったのは寛文年間(1661〜72年)であり、該以前は該社は山梨郡所属だった事や、戦国期に於ける古文書にも山梨郡一宮荘と記載されている事から、該社をして真淺間神社では無いとする解釈を採る研究者も存在するが、然し、該郡編入の経緯に鑑み、故に該論は成立せず、且つ、該社付近一帯に甲斐國日下部郷に官衛が設置され、甲斐国分寺史跡、及び、甲斐国分尼寺史跡が存在する史実に鑑み、該社否定論には牽強付会と云うべきものである。<br /><br />全国一之宮に於ける序列変移例で最たる存在は、武蔵國である。<br />即ち、武蔵國一之宮は、現在でこそ大宮氷川神社(ひかわ じんじゃ)に確定されているが、延喜式神名帳に於いて一之宮として記載されていたのは、実は、現在の多摩市所在の府中小野神社(おの じんじゃ)であり、氷川神社は武蔵國三之宮の存在に過ぎぬ格下社だったが、南北朝騒乱期係争の結果、立場が逆転した。<br />然も、氷川神社自体、江戸末期まで、現在の氷川女體神社、及び、中山神社と同格同列と見做されていたが、明治維新時に明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)の行幸を得た事がきっかけとなり、官幣大社指定を受けた事で、他2社は凋落し氷川神社の地位確定が成立した経緯を有する。<br /><br /><br />奈良期から平安中期に移行時期に於いて、当時の富士山を所管する行政取扱は駿河國々司の専任事項とされ、事実、当時の中央官庁への富士山に関する報告文書は、悉く駿河國司言と称する発信物ばかりである。<br /><br />尤も、当時の甲斐國は、国名こそ存在すれど、国司配置はおろか官衛すら存在しない辺境地だった。<br /><br />火山に於ける活動分類種別として、活火山、休火山、及び、死火山の3種類が存在する。<br /><br />以前の我が国に於いて、全国各地に多数の死火山が存在したが、然し、地震火山学研究向上と共に、現在では死火山に分類されていた山々に就いて、それまで死火山と信じられていた会津磐梯山が、明治21年(1888年)7月15日に、突如大噴火した歴史的経緯に鑑み、改めて検証された結果、死火山再噴火の可能性が完全に否定出来ぬとの学理解釈が主流を占め、死火山に分類されていた火山に就いては、現在は全部休火山に編入分類され、主流火山帯上に存在する我が国に死火山は存在せずとの解釈が成立している。<br /><br />富士山は、発生から近世に至るまで、まごう事無き活火山であり、記録上に残存する古代期に於ける大噴火に就いて、<br />即ち、<br />延暦19年(800年)4月11日〜5月15日 大噴火<br />貞観 6年(864年)6月 〜8年(866年)貞観大噴火<br />貞観12年(870年)7月          中央噴火<br />承平 7年(937年)11月         中央噴火<br />天暦 6年(952年)2月          中央、及び、北東噴火<br />正暦 4年(993年)8月          中央噴火<br />寛仁元年(1017年)9月          中央、及び、中腹噴火<br />永保3年(1076年)7月          7ヶ所より発火<br />該期に於ける富士山噴火を、別称 富士山八流(ふじさん はちながれ)とされ、噴火の都度、中央朝廷から現地に対して富士山噴火鎮静の為の奉斎が要求された。<br />即ち、八流とは、噴出した溶岩流が下方域まで流出した事実を言う。<br />永保3年(1076年)大噴火後は小噴火こそ反復発生すれど、大噴火は伊豆諸島火山に移動したとされ、宝永4年(1707年)11月23日に発生した宝永大噴火(ほうえい だいふんか)に至る631年間に、該山が人畜被害を及ぼした大噴火は発生せず、宝永大噴火以降、富士山は事実上休眠状態である。<br /><br /><br />該社は、平安末期の頃より荘園制度の衰退と共に、管理監督者が不在だったと見え、鎌倉初期に編纂された吾妻鏡(あづまかがみ)の建久5年(1194年)11月27日附項目に於いて、<br />近國一之宮井國分寺可修復破損之旨被候<br />なる記述が残存する事から、律令制度崩壊に伴う朝廷の権威凋落と共に、該社が無主の祠が破損倒壊し顧られぬままの状態が継続し、甲斐武田家に拠る修復手配が講じられた事実が読み取れる。<br /><br /><br />武田晴信(たけだ はるのぶ)(大永元年(1521年)12月1日〜元亀4年(1573年)5月13日)は、信玄として出家前に該社を参拝の折に、、<br />うつし植うる初瀬の花のしられるやふを、かけてそ祈る神のまにまに <br />と詠んでいる。<br /><br /><br />該社は、天忍日命を祖とする大伴連氏系統たる古屋家が宮司を務め、甲斐武田家の庇護下、保護されて来たが、武田家滅亡後は、徳川将軍家に拠り保護され、特に、慶長17年(1612年)4月21日)に発したキリスト教禁教政策と共に、全国有力社寺保護政策が推進され、造営物寄進が進められた。<br /><br />慶長8年(1603年)3月には、古屋神職家が関が原の合戦に於いて東軍徳川側に組し,西軍相手に戦った功績が戦後の恩賞になった事から 御神領賞 なる一文が現存し、該社世襲宮司たる古屋家、及び、社家一族管理が保証された。<br /><br />第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)は、該社に対し、寛永19年(1642年)に234石領の朱印状を下地した。<br /><br /><br />宝永3年(1706年)10月16日に、浅間山が歴史的大噴火し噴煙は遠く西欧にまで飛散したが、翌宝永4年(1707年)11月23日に今度は富士山が大噴火するという自然災害が連続発生し、此の為に、関東甲信越地域に膨大量の火山灰が降り注いだ結果、該各地に甚大な被害を及ぼしたが、該社は、両火山至近地に所在する為に、境内造営物、及び、所有地に多大な被害を生じせしめた。<br /><br />現本殿は記録上に於いて宝永3年(1706年)再建とされているが、然し、再建原因をして浅間山大噴火に拠る造営物損壊被害が原因と仮定すれば、被災時から復興再建に至る期間が無に均しい状態では、該記録に対し再考の余地大なりと疑問を呈さざるを得ない。<br />拝殿再建が寛政12年(1672年)5月12日、渡殿再建が寛政元年(1789年)3月24日と記録されている事から、本殿再建は、渡殿再建期の同時期か前後と考えるのが自然であり妥当なりと推定される。<br /><br /><br />徳川幕府は瓦解し、慶應4年(1868年)1月4日附で明治新政府は 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発し、国是として神道を唯一の国教とする祭政一致政策確立の方針から、同年2月10日附で神祇官を再興復活させ、神社管理を徹底化させた。<br /><br />該社は、明治4年(1871年)7月1日附を以って、該社は 國幣中社 指定拝命を受けたが、反面、該社資産は国家財産とされたが、旧幕府時代に拝領した黒印地、朱印地、及び、除地に就いては、同年2月23日附大政官布告 社寺上知令が交付され、同年8月29日に廃藩置県実施が濃厚だった事から、該地付与者が藩消失に拠り法的付与も消滅するとの政府解釈から、境内地のみ該社所有とされ、此れ以外の土地に就いては国有地として公収された。<br /><br />祭礼執行に就いても、該地域一帯は江戸期に於ける天領時代は幕府から潤沢に経費支出が施行されたが、明治維新と共に山梨県を仲介し政府の方針指示に従属せねばならず、国祀以外の祭礼実行は困難になった。<br />一例として、現在も該社主要祭礼たる 神幸(みゆき)祭は、明治初期まで春秋の祭祀として4月、及び、11月の2度執行されていたが、国家管理が原因は、天領廃止と共に民祭礼実施支出の為の経費捻出が困難化し、それ故に、秋祭は明治5年(1872年)執行を最後に廃絶を余儀無くさせられた。<br />該状況に対し、秋祭執行困難に危機感を抱いた該社総代、及び、氏子衆達の進言に拠り、当時の松岡時懋(まつおか ときしげ)(文政9年(1826年)1月10日〜明治16年(1883年)9月18日)宮司が、弐之宮美和(ひわ)神社、及び、参之宮玉諸(もろたま)神社と共に連署で、明治6年(1873年)11月19日附で、現在の県知事に相当する第5代山梨縣権令 藤村紫朗(ふじむら しろう)(弘化2年(1845年)4月7日〜明治41年(1908年)1月4日)に対し、國幣社経費出費是正を要求する陳情書を提出している。<br /><br />明治12年(1879年)4月附の大政官達に依り、官幣社、及び、國幣社に限定し、社殿装飾、社頭幕、提燈に限定し、皇室16菊花紋使用が可能になり、該社に於いても使用が開始された。<br /><br />然し、此れらの実施は、地元氏子達から見れば、該社が段々敷居が高くなり、氏子達の該社に対する認識へのズレと違和感とを感じさせずには抱かせずにはいられなかった事と思われる。<br /><br /><br />大東亜戦争終結後は、昭和20年(1945年)12月15日附で、連合国最高官・総司令部参謀副官より 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督、並ニ弘布ノ廃止ニ関スル覚書 なる神道指令が出され、全国諸神社が国家管理から離れた結果、経営が困窮する神社が続出する中で、該社は他社に先駆け、昭和26年(1951年)5月1日に境内に木の花保育園を開設経営している。<br /><br /><br /><br />明治4年(1871年)7月1日 國幣中社列格<br /><br /><br /><br />表紙写真は 表参道前大鳥居と國幣中社社号標<br /><br /><br />笛吹市一宮町一宮1684<br />?: 0553−47−0900<br />中央本線山梨市駅 徒歩60分<br />http://asamajinja.jp/<br />http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3062

甲斐國一之宮 淺間神社参拝記

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2013/04/28 - 2013/04/28

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横浜臨海公園

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淺間神社(あさま じんじゃ)は、山梨県笛吹市に所在する甲斐國一之宮神社である。


該社は、第11代 垂仁帝(すいにん てんのう)(崇神29年(前29年)1月27日〜垂仁99年(70年)8月8日)在位中たる垂仁8年(前22年)正月に摂社山宮に奉祭し、その後、三大竇録(さんだい じつろく)貞観7年(865年)12月9日條に於いて該地に遷座したとの記述が記載されている。


該社、御祭祀は、

木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

の御1柱である。


因みに、駿河國一之宮富士山浅間神社の御祭神たる、
木花之佐久夜毘意命(このはなのさくやひめのみこと)
とは異字同神で、且つ、該神は、天照大神(あまてらすおおみのかみ)の孫たる 瓊瓊杵尊(にきぎのみこと)の妻で、故に、安産の神と位置付けられ崇敬されている。


淺間(あさま/せんげん)山とは、富士山(ふじさん)の古語でもある。

延喜式神名帳に於いて、早くも名神大社とされているが、現在では異論も根強く存在する。

即ち、前記 三大竇録に於ける該社記述に於いて、甲斐國山梨郡所在とする点に就いて、学説上、平安中期たる承永年間(931〜38年)に編纂された和名類聚抄(わみょうじゅしゅう)に拠れば、式内社として、淺間神社は、現在の南都留郡富士河口湖町所在の河口淺間神社、若しくは、西八代郡市川本町所在の浅間神社こそが真の淺間神社で該社は非該当社であるとの研究解釈が江戸中期以来絶えない。

即ち、該社所在地たる東八代郡は明治11年(1878年)7月22日に八代郡を東西に分割した存在だが、該社が八代郡所属になったのは寛文年間(1661〜72年)であり、該以前は該社は山梨郡所属だった事や、戦国期に於ける古文書にも山梨郡一宮荘と記載されている事から、該社をして真淺間神社では無いとする解釈を採る研究者も存在するが、然し、該郡編入の経緯に鑑み、故に該論は成立せず、且つ、該社付近一帯に甲斐國日下部郷に官衛が設置され、甲斐国分寺史跡、及び、甲斐国分尼寺史跡が存在する史実に鑑み、該社否定論には牽強付会と云うべきものである。

全国一之宮に於ける序列変移例で最たる存在は、武蔵國である。
即ち、武蔵國一之宮は、現在でこそ大宮氷川神社(ひかわ じんじゃ)に確定されているが、延喜式神名帳に於いて一之宮として記載されていたのは、実は、現在の多摩市所在の府中小野神社(おの じんじゃ)であり、氷川神社は武蔵國三之宮の存在に過ぎぬ格下社だったが、南北朝騒乱期係争の結果、立場が逆転した。
然も、氷川神社自体、江戸末期まで、現在の氷川女體神社、及び、中山神社と同格同列と見做されていたが、明治維新時に明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)の行幸を得た事がきっかけとなり、官幣大社指定を受けた事で、他2社は凋落し氷川神社の地位確定が成立した経緯を有する。


奈良期から平安中期に移行時期に於いて、当時の富士山を所管する行政取扱は駿河國々司の専任事項とされ、事実、当時の中央官庁への富士山に関する報告文書は、悉く駿河國司言と称する発信物ばかりである。

尤も、当時の甲斐國は、国名こそ存在すれど、国司配置はおろか官衛すら存在しない辺境地だった。

火山に於ける活動分類種別として、活火山、休火山、及び、死火山の3種類が存在する。

以前の我が国に於いて、全国各地に多数の死火山が存在したが、然し、地震火山学研究向上と共に、現在では死火山に分類されていた山々に就いて、それまで死火山と信じられていた会津磐梯山が、明治21年(1888年)7月15日に、突如大噴火した歴史的経緯に鑑み、改めて検証された結果、死火山再噴火の可能性が完全に否定出来ぬとの学理解釈が主流を占め、死火山に分類されていた火山に就いては、現在は全部休火山に編入分類され、主流火山帯上に存在する我が国に死火山は存在せずとの解釈が成立している。

富士山は、発生から近世に至るまで、まごう事無き活火山であり、記録上に残存する古代期に於ける大噴火に就いて、
即ち、
延暦19年(800年)4月11日〜5月15日 大噴火
貞観 6年(864年)6月 〜8年(866年)貞観大噴火
貞観12年(870年)7月          中央噴火
承平 7年(937年)11月         中央噴火
天暦 6年(952年)2月          中央、及び、北東噴火
正暦 4年(993年)8月          中央噴火
寛仁元年(1017年)9月          中央、及び、中腹噴火
永保3年(1076年)7月          7ヶ所より発火
該期に於ける富士山噴火を、別称 富士山八流(ふじさん はちながれ)とされ、噴火の都度、中央朝廷から現地に対して富士山噴火鎮静の為の奉斎が要求された。
即ち、八流とは、噴出した溶岩流が下方域まで流出した事実を言う。
永保3年(1076年)大噴火後は小噴火こそ反復発生すれど、大噴火は伊豆諸島火山に移動したとされ、宝永4年(1707年)11月23日に発生した宝永大噴火(ほうえい だいふんか)に至る631年間に、該山が人畜被害を及ぼした大噴火は発生せず、宝永大噴火以降、富士山は事実上休眠状態である。


該社は、平安末期の頃より荘園制度の衰退と共に、管理監督者が不在だったと見え、鎌倉初期に編纂された吾妻鏡(あづまかがみ)の建久5年(1194年)11月27日附項目に於いて、
近國一之宮井國分寺可修復破損之旨被候
なる記述が残存する事から、律令制度崩壊に伴う朝廷の権威凋落と共に、該社が無主の祠が破損倒壊し顧られぬままの状態が継続し、甲斐武田家に拠る修復手配が講じられた事実が読み取れる。


武田晴信(たけだ はるのぶ)(大永元年(1521年)12月1日〜元亀4年(1573年)5月13日)は、信玄として出家前に該社を参拝の折に、、
うつし植うる初瀬の花のしられるやふを、かけてそ祈る神のまにまに
と詠んでいる。


該社は、天忍日命を祖とする大伴連氏系統たる古屋家が宮司を務め、甲斐武田家の庇護下、保護されて来たが、武田家滅亡後は、徳川将軍家に拠り保護され、特に、慶長17年(1612年)4月21日)に発したキリスト教禁教政策と共に、全国有力社寺保護政策が推進され、造営物寄進が進められた。

慶長8年(1603年)3月には、古屋神職家が関が原の合戦に於いて東軍徳川側に組し,西軍相手に戦った功績が戦後の恩賞になった事から 御神領賞 なる一文が現存し、該社世襲宮司たる古屋家、及び、社家一族管理が保証された。

第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)は、該社に対し、寛永19年(1642年)に234石領の朱印状を下地した。


宝永3年(1706年)10月16日に、浅間山が歴史的大噴火し噴煙は遠く西欧にまで飛散したが、翌宝永4年(1707年)11月23日に今度は富士山が大噴火するという自然災害が連続発生し、此の為に、関東甲信越地域に膨大量の火山灰が降り注いだ結果、該各地に甚大な被害を及ぼしたが、該社は、両火山至近地に所在する為に、境内造営物、及び、所有地に多大な被害を生じせしめた。

現本殿は記録上に於いて宝永3年(1706年)再建とされているが、然し、再建原因をして浅間山大噴火に拠る造営物損壊被害が原因と仮定すれば、被災時から復興再建に至る期間が無に均しい状態では、該記録に対し再考の余地大なりと疑問を呈さざるを得ない。
拝殿再建が寛政12年(1672年)5月12日、渡殿再建が寛政元年(1789年)3月24日と記録されている事から、本殿再建は、渡殿再建期の同時期か前後と考えるのが自然であり妥当なりと推定される。


徳川幕府は瓦解し、慶應4年(1868年)1月4日附で明治新政府は 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発し、国是として神道を唯一の国教とする祭政一致政策確立の方針から、同年2月10日附で神祇官を再興復活させ、神社管理を徹底化させた。

該社は、明治4年(1871年)7月1日附を以って、該社は 國幣中社 指定拝命を受けたが、反面、該社資産は国家財産とされたが、旧幕府時代に拝領した黒印地、朱印地、及び、除地に就いては、同年2月23日附大政官布告 社寺上知令が交付され、同年8月29日に廃藩置県実施が濃厚だった事から、該地付与者が藩消失に拠り法的付与も消滅するとの政府解釈から、境内地のみ該社所有とされ、此れ以外の土地に就いては国有地として公収された。

祭礼執行に就いても、該地域一帯は江戸期に於ける天領時代は幕府から潤沢に経費支出が施行されたが、明治維新と共に山梨県を仲介し政府の方針指示に従属せねばならず、国祀以外の祭礼実行は困難になった。
一例として、現在も該社主要祭礼たる 神幸(みゆき)祭は、明治初期まで春秋の祭祀として4月、及び、11月の2度執行されていたが、国家管理が原因は、天領廃止と共に民祭礼実施支出の為の経費捻出が困難化し、それ故に、秋祭は明治5年(1872年)執行を最後に廃絶を余儀無くさせられた。
該状況に対し、秋祭執行困難に危機感を抱いた該社総代、及び、氏子衆達の進言に拠り、当時の松岡時懋(まつおか ときしげ)(文政9年(1826年)1月10日〜明治16年(1883年)9月18日)宮司が、弐之宮美和(ひわ)神社、及び、参之宮玉諸(もろたま)神社と共に連署で、明治6年(1873年)11月19日附で、現在の県知事に相当する第5代山梨縣権令 藤村紫朗(ふじむら しろう)(弘化2年(1845年)4月7日〜明治41年(1908年)1月4日)に対し、國幣社経費出費是正を要求する陳情書を提出している。

明治12年(1879年)4月附の大政官達に依り、官幣社、及び、國幣社に限定し、社殿装飾、社頭幕、提燈に限定し、皇室16菊花紋使用が可能になり、該社に於いても使用が開始された。

然し、此れらの実施は、地元氏子達から見れば、該社が段々敷居が高くなり、氏子達の該社に対する認識へのズレと違和感とを感じさせずには抱かせずにはいられなかった事と思われる。


大東亜戦争終結後は、昭和20年(1945年)12月15日附で、連合国最高官・総司令部参謀副官より 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督、並ニ弘布ノ廃止ニ関スル覚書 なる神道指令が出され、全国諸神社が国家管理から離れた結果、経営が困窮する神社が続出する中で、該社は他社に先駆け、昭和26年(1951年)5月1日に境内に木の花保育園を開設経営している。



明治4年(1871年)7月1日 國幣中社列格



表紙写真は 表参道前大鳥居と國幣中社社号標


笛吹市一宮町一宮1684
?: 0553−47−0900
中央本線山梨市駅 徒歩60分
http://asamajinja.jp/
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3062

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JR特急 JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (4)

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  • JGC_SFCさん 2016/08/30 10:54:48
    笛吹市は故郷
    横浜臨海公園さん;

    JGC_SFCです、こんにちは。いつもご訪問、ありがとうございます。
    今日は、掲示板にお邪魔してしまいました m(__)m

    旅行記『甲斐國一之宮 淺間神社参拝記』を読ませて頂きました。
    山梨県笛吹市、実は僕の故郷・・・浅間神社へは、小学生の時に遠足で行った事があって、懐かしく拝見しました。
    僕は、笛吹市とは言っても、西の旧・境川村だったので、浅間神社にはその遠足の時一度だけしか行ってないのですが・・・
    記憶を辿ると、勝沼のブドウ園へのバス遠足の途中、立ち寄った事を思い出します。

    笛吹市は、フルーツで有名ですが、石器時代の数々が出土する『曽根丘陵』や俳人の『飯田蛇笏』翁の生家など等、史跡なども多いです。
    横浜臨海公園さんの旅行記を読んで、大人になった今、色々な場所を改めて訪れてみようかと思いました。

    笛吹市の旅行記、ありがとうございました。
    では、JGC_SFC

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2016/10/16 16:00:39
    拝復
    JGC_SFCさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、申し訳ございませんでした。


    笛吹市が、実は、JGC_SFCさまの故郷だったとは存じませんでした。

    浅間神社は甲斐國一宮神社として地元から崇敬されておりまして、初詣のときなど、山梨市駅から徒歩での参拝者は引きをもきらず続くそうです。

    40数年前に初めて参拝で訪れた際は、道路も狭かったでしたが、時の流れは町全体を変えてしまい、現在では神社の一帯だけが取り残されたかの如く時間が止まった様にも思える地になっておりました。

    また、時間がございましたら再訪を賜れば幸甚でございます。



    横浜臨海公園
  • norisaさん 2013/04/29 21:24:09
    久々のご投稿!
    横浜臨海公園様、

    久しぶりの旅行記投稿お疲れ様でした。

    限られたスペースに非常に多くの情報が満載で旅行記というよりも濃厚な解説書というべき秀作ですね。

    浅間神社は静岡はじめ幾つか参拝しましたが、この甲斐の一之宮浅間神社はとても由緒あるお宮ながら華美さを排した荘厳さが感じられます。

    富士山周辺に散在する神社、いずれは主要な所はお邪魔したくなりました。

    ありがとうございました。

    norisa

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/04/30 13:20:05
    拝復
    norisaさま、こんにちは。


    旅行記に投票と掲示板への投稿とを賜りまして誠に有難うございました。

    > 限られたスペースに非常に多くの情報が満載で旅行記というよりも濃厚な解説書というべき秀作ですね。
    →過分なお褒めのお言葉を賜りまして誠に有難うございます。
    甲斐國淺間神社に関しては、鹿嶋神宮や住吉大社の如く、世間で観覧可能な史料が極めて乏しく、旅行記を作成するのに苦労しました。
    >
    > 浅間神社は静岡はじめ幾つか参拝しましたが、この甲斐の一之宮浅間神社はとても由緒あるお宮ながら華美さを排した荘厳さが感じられます。
    →お宮参りの家族連れが数組来ていた以外、一般参拝者など誰もおりませんでした。
    境内も意外な程、狭隘で、山梨県内の他の神社の方がスペースが広い所など沢山存在するだけに、正に驚きでした。




    横浜臨海公園

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