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今回の「1974年卒業旅行・欧州1人旅」は<br />私の大学の卒業旅行(2月中旬~3月末)の<br />1人旅の話です。<br /><br />ベルギーのブリュセルから列車で、今回の旅<br />の最大の楽しみで有る、オランダのアムステ<br />ルダムのゴッホ美術館に行きます。<br /><br />中学時代に美術部に居た私は、美術の先生に<br />ゴッホの素晴らしさを教えられ、虜に成りました。<br /><br />私がこの旅行に行こうと決めたのは、旅行の前<br />年に大好きなゴッホ専門の美術館が、オランダ<br />のアムステルダムにオープンしたからです。<br /><br />不運な人生の天才画家ゴッホの、短い10年の<br />足跡を全て展示して居るのは、この美術館だけ<br />です。<br /><br /><br /><br /><br />この企画は、生前この企画を私が約束して果た<br />せないまま、第二の故郷デンマークで病死した、<br />4トラの悪友のGINさんに捧げます。<br /><br />※後半の美術館の絵画は、モノクロでは素晴らし<br />さを表現出来ないので、カラー写真を知人に借り<br />ました。<br /><br /><br />

JOSANの心の旅ー②「1974年卒業旅行・欧州1人旅(⑦オランダ編)」

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2013/07/18 - 2013/07/18

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josan

josanさん

今回の「1974年卒業旅行・欧州1人旅」は
私の大学の卒業旅行(2月中旬~3月末)の
1人旅の話です。

ベルギーのブリュセルから列車で、今回の旅
の最大の楽しみで有る、オランダのアムステ
ルダムのゴッホ美術館に行きます。

中学時代に美術部に居た私は、美術の先生に
ゴッホの素晴らしさを教えられ、虜に成りました。

私がこの旅行に行こうと決めたのは、旅行の前
年に大好きなゴッホ専門の美術館が、オランダ
のアムステルダムにオープンしたからです。

不運な人生の天才画家ゴッホの、短い10年の
足跡を全て展示して居るのは、この美術館だけ
です。




この企画は、生前この企画を私が約束して果た
せないまま、第二の故郷デンマークで病死した、
4トラの悪友のGINさんに捧げます。

※後半の美術館の絵画は、モノクロでは素晴らし
さを表現出来ないので、カラー写真を知人に借り
ました。


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  • 私はベルギーから列車に乗り、アムステルダム<br />まで車窓を眺めながら、食堂車でランチを取り<br />楽しい時間を過しました。<br /><br />先ずは私は運河沿いの小さなB&Bに宿を取り、<br />アムステルダム名物の路面電車に乗り、市内観<br />光に行きました。<br /><br />

    私はベルギーから列車に乗り、アムステルダム
    まで車窓を眺めながら、食堂車でランチを取り
    楽しい時間を過しました。

    先ずは私は運河沿いの小さなB&Bに宿を取り、
    アムステルダム名物の路面電車に乗り、市内観
    光に行きました。

  • 1270年頃、アムステル川のこの場所にダムが建<br />設されました、ですのでこの広場はダム広場と呼<br />ばれて居ます、アムステルダムのまさに中心地な<br />のです。<br /><br />アムステルダムはダムの街と言う意味だったんで<br />すね!初めて知りました〜。(祝)<br /><br />今日のダム広場は昔とは異なり、たくさんの鳩が<br />たわむれ大道芸人たちがパフォーマンスを披露す<br />る、とても平和的な感じがして居ます。<br /><br />しかしガイドブックに因ると、「ダム広場の歴史は<br />平穏なものではありませんでした、1535年、この<br />広場は再洗礼派教徒の暴動の場となり、その後<br />一世紀も満たないうちに「銀の艦隊」の略奪品を<br />原因とする反乱が起こりました。」<br /><br />「1935年に雇用給付が、減少したことで発生した<br />紛争も、この広場が舞台となっています、第二次<br />世界大戦の終盤には、激しい銃撃戦の最中一般<br />の市民がここでドイツ兵により殺されました。」<br /><br />「ダム広場はかつては、アムステルダムの中心的<br />なマーケットとして機能し、ありとあらゆる物がここ<br />で売られて居た広場です。」と書いて有ります。<br />

    1270年頃、アムステル川のこの場所にダムが建
    設されました、ですのでこの広場はダム広場と呼
    ばれて居ます、アムステルダムのまさに中心地な
    のです。

    アムステルダムはダムの街と言う意味だったんで
    すね!初めて知りました〜。(祝)

    今日のダム広場は昔とは異なり、たくさんの鳩が
    たわむれ大道芸人たちがパフォーマンスを披露す
    る、とても平和的な感じがして居ます。

    しかしガイドブックに因ると、「ダム広場の歴史は
    平穏なものではありませんでした、1535年、この
    広場は再洗礼派教徒の暴動の場となり、その後
    一世紀も満たないうちに「銀の艦隊」の略奪品を
    原因とする反乱が起こりました。」

    「1935年に雇用給付が、減少したことで発生した
    紛争も、この広場が舞台となっています、第二次
    世界大戦の終盤には、激しい銃撃戦の最中一般
    の市民がここでドイツ兵により殺されました。」

    「ダム広場はかつては、アムステルダムの中心的
    なマーケットとして機能し、ありとあらゆる物がここ
    で売られて居た広場です。」と書いて有ります。

  • またガイドブックに因ると、「アムステルダムの観光<br />で、観光船で運河を満喫せずして、アムステルダム<br />を見尽くしたとは言えません。」<br /><br />「運河はこの街の象徴であると同時に、文化的、歴<br />史的に重要な、価値を持って居ます。」と書いて有り<br />ました。<br /><br />パリならエッフェル塔、バルセロナならサグラダ・ファ<br />ミリアは必見でしょう、そしてアムステルダムなら、街<br />が誇る有名な運河を巡るツアーに、参加しない手は<br />有りませんね。<br /><br />観光船のガラス張りの天井は、景色が良く見えて最<br />高でした〜。(祝)<br /><br />

    またガイドブックに因ると、「アムステルダムの観光
    で、観光船で運河を満喫せずして、アムステルダム
    を見尽くしたとは言えません。」

    「運河はこの街の象徴であると同時に、文化的、歴
    史的に重要な、価値を持って居ます。」と書いて有り
    ました。

    パリならエッフェル塔、バルセロナならサグラダ・ファ
    ミリアは必見でしょう、そしてアムステルダムなら、街
    が誇る有名な運河を巡るツアーに、参加しない手は
    有りませんね。

    観光船のガラス張りの天井は、景色が良く見えて最
    高でした〜。(祝)

  • 観光船は観光客向けのアトラクションではあります<br />が、同時にアムステルダムの歴史を知るのに、最<br />高の乗り物なのです。<br /><br />アムステル川に架かったマヘレの跳ね橋は、アム<br />ステルダムで最も有名な跳ね橋です「北のベニス」<br />と呼ばれるアムステルダムの運河の魅力を、観光<br />船で十分楽しみめますよ!。<br />

    観光船は観光客向けのアトラクションではあります
    が、同時にアムステルダムの歴史を知るのに、最
    高の乗り物なのです。

    アムステル川に架かったマヘレの跳ね橋は、アム
    ステルダムで最も有名な跳ね橋です「北のベニス」
    と呼ばれるアムステルダムの運河の魅力を、観光
    船で十分楽しみめますよ!。

  • 実は階段の有る運河沿いの美しい家の数々は、<br />階段の段数でその家の格が分かるとされて居る<br />そうです。<br /><br />運河ツアーに参加すれば、アムステルダムのいろ<br />いろな面を、簡単に知ることが出来るのです。

    実は階段の有る運河沿いの美しい家の数々は、
    階段の段数でその家の格が分かるとされて居る
    そうです。

    運河ツアーに参加すれば、アムステルダムのいろ
    いろな面を、簡単に知ることが出来るのです。

  • 水が住まいの側に有る事は、とても気持ちが良<br />い物ですね、心がとても休まります。<br /><br />私もタイのビーチリゾートに、6年間住みましたが<br />、朝の散歩はまた格別でしたね〜。(祝) 

    水が住まいの側に有る事は、とても気持ちが良
    い物ですね、心がとても休まります。

    私もタイのビーチリゾートに、6年間住みましたが
    、朝の散歩はまた格別でしたね〜。(祝) 

  • このオランダ人建築家、へリート・リートフェエルト<br />によって設計された、ゴッホ美術館の建築費用は<br />オランダ国家の出資による物だそうです。<br /><br />この美術館にはファン・ゴッホ財団から永久貸与さ<br />れたコレクションを中心に、1840から1920年代の写<br />実主義、印象主義、後期印象主義そしてサロン芸<br />術、象徴主義といった幅広い流れを汲む、油彩・素<br />描・版画・彫刻がB2〜3Fに展示されています。<br /><br />美術館が最初に開館したのは、私が訪れた前年の<br />1973年でした、その後1999年、日本人建築家、黒川<br />紀章の設計による、特別展会場としての新館が開館<br />しました。<br /><br />ゴッホ美術館では、この偉大な芸術家の足跡を作品<br />の主題や技法、色使いが変化していく様子を順番に<br />たどる事が出来るだけで無く、美術館が所蔵する同<br />時代のその他の、芸術家の作品と彼の作品を、比較<br />する事も出来ます。<br /><br />このミュージアムでは、ファン・ゴッホの作品の他にも<br />、ファン・ゴッホの歩みを表すもの、交友のあった芸術<br />家や影響を受けた、芸術家の作品も多数所蔵して有<br />ります。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    このオランダ人建築家、へリート・リートフェエルト
    によって設計された、ゴッホ美術館の建築費用は
    オランダ国家の出資による物だそうです。

    この美術館にはファン・ゴッホ財団から永久貸与さ
    れたコレクションを中心に、1840から1920年代の写
    実主義、印象主義、後期印象主義そしてサロン芸
    術、象徴主義といった幅広い流れを汲む、油彩・素
    描・版画・彫刻がB2〜3Fに展示されています。

    美術館が最初に開館したのは、私が訪れた前年の
    1973年でした、その後1999年、日本人建築家、黒川
    紀章の設計による、特別展会場としての新館が開館
    しました。

    ゴッホ美術館では、この偉大な芸術家の足跡を作品
    の主題や技法、色使いが変化していく様子を順番に
    たどる事が出来るだけで無く、美術館が所蔵する同
    時代のその他の、芸術家の作品と彼の作品を、比較
    する事も出来ます。

    このミュージアムでは、ファン・ゴッホの作品の他にも
    、ファン・ゴッホの歩みを表すもの、交友のあった芸術
    家や影響を受けた、芸術家の作品も多数所蔵して有
    ります。











  • コレクションの始まりはゴッホ自身と彼の弟テオとの<br />時代までさかのぼります、ゴッホが画家として活動し<br />ていた頃、彼は画商であったテオの経済的援助を受<br />けて居ました、そしてテオと交わした膨大な書簡も、<br />地下のブースに展示されて居ます。<br /><br />ゴッホが弟テオに宛てて書いた書簡からは、芸術家<br />として彼が歩んだ軌跡の、紆余曲折をたどる事が出<br />来、感動せずにはおられませんよ。<br /><br />1890年7月のゴッホ没後、彼の作品のほとんどはテ<br />オの所蔵品となりましたが、しかしながらテオ自身も<br />ゴッホの死からわずか6ヵ月後に亡くなり、作品の管<br />理はその後テオの妻ヨハナ・ファン・ゴッホその後彼<br />女の息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホへと引<br />き継がれました。<br /><br />彼の作品は20世紀の芸術に多大な影響を与えまし<br />た、しかし生前はほとんど認められる事は無く、売<br />れた作品もたった一点でした。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    コレクションの始まりはゴッホ自身と彼の弟テオとの
    時代までさかのぼります、ゴッホが画家として活動し
    ていた頃、彼は画商であったテオの経済的援助を受
    けて居ました、そしてテオと交わした膨大な書簡も、
    地下のブースに展示されて居ます。

    ゴッホが弟テオに宛てて書いた書簡からは、芸術家
    として彼が歩んだ軌跡の、紆余曲折をたどる事が出
    来、感動せずにはおられませんよ。

    1890年7月のゴッホ没後、彼の作品のほとんどはテ
    オの所蔵品となりましたが、しかしながらテオ自身も
    ゴッホの死からわずか6ヵ月後に亡くなり、作品の管
    理はその後テオの妻ヨハナ・ファン・ゴッホその後彼
    女の息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホへと引
    き継がれました。

    彼の作品は20世紀の芸術に多大な影響を与えまし
    た、しかし生前はほとんど認められる事は無く、売
    れた作品もたった一点でした。





  • オランダで生まれたヴィンセント・ファン・ゴッホは<br />19世紀のポスト印象派の画家です。<br /><br />ゴッホが画家になる決心をしたのは1880年、27歳<br />の時でした、それまで教師、説教師、そして画廊で<br />働くなど職を転々としましたが、いずれも成功しま<br />せんでした。<br /><br />彼の短い人生の、わずか10年の間に描かれたゴッ<br />ホが制作した作品総数は、およそ油彩800点・水彩<br />・素描・スケッチ、エッチング等1000点にも上ります。<br /><br />ゴッホは初めほとんど独学で絵を学びました、ブリュ<br />ッセルやアントワープのアカデミーで授業を受けた事<br />は有る物の、自分で本を読み美術館に通い、友人の<br />画家達から助言を受けながら、伝統的な基礎技術を<br />習得したのです。<br /><br />彼は色々な画法も試してみましたが、−番影響を受<br />けたのは日本の浮世絵でした、この美術館には、彼<br />が油絵で模写した日本画が、館内に多数展示されて<br />居ます、みなさんー見の価値が有りですよ!。(マジ)<br /><br />

    オランダで生まれたヴィンセント・ファン・ゴッホは
    19世紀のポスト印象派の画家です。

    ゴッホが画家になる決心をしたのは1880年、27歳
    の時でした、それまで教師、説教師、そして画廊で
    働くなど職を転々としましたが、いずれも成功しま
    せんでした。

    彼の短い人生の、わずか10年の間に描かれたゴッ
    ホが制作した作品総数は、およそ油彩800点・水彩
    ・素描・スケッチ、エッチング等1000点にも上ります。

    ゴッホは初めほとんど独学で絵を学びました、ブリュ
    ッセルやアントワープのアカデミーで授業を受けた事
    は有る物の、自分で本を読み美術館に通い、友人の
    画家達から助言を受けながら、伝統的な基礎技術を
    習得したのです。

    彼は色々な画法も試してみましたが、−番影響を受
    けたのは日本の浮世絵でした、この美術館には、彼
    が油絵で模写した日本画が、館内に多数展示されて
    居ます、みなさんー見の価値が有りですよ!。(マジ)

  • ゴッホは色々な場所に住み、色々な違う画法の<br />作品を多数残しました。<br /><br />パリ時代のゴッホはひたすら学び、革新し、そし<br />て実験し尽くしました、彼は1886年の春から、芸<br />術家達の集まる、モンマルトルに住んで居た、弟<br />テオの家に同居し始めました。<br /><br />そして数カ月間、アカデミーの画家、フェルナン・<br />コルモンのアトリエで、シニャックやロートレック<br />といった、気の合う若い芸術家達と、知り合いま<br />した。<br /><br />ゴッホはパリで過ごした2年半の間に27点もの自<br />画像を制作しました、モデルを雇うお金がなかっ<br />た彼は、自分の顔を色彩や技法の実験台にした<br />のです。<br /><br />その頃、新印象主義の影響下にある彼は、明るく<br />鮮明な色の点や線で、カンヴァスを覆い尽くす様<br />に描いて居ます。<br /><br />しかしパリの喧燥に疲れたゴッホは太陽と安らぎ<br />を求め、1888年2月南フランスの街アルルへと向か<br />います、南の風景と光、そしてオランダにいた頃の<br />様な田舎の素朴な生活から、彼はインスピレーシ<br />ョンを得て居た様です。<br /><br />1888年5月、友人のポール・ゴーギャンやその他の<br />画家達とともに、芸術家共同体を築こうという目的<br />で、ゴッホはあの「黄色い家」を借りました。<br /><br />

    ゴッホは色々な場所に住み、色々な違う画法の
    作品を多数残しました。

    パリ時代のゴッホはひたすら学び、革新し、そし
    て実験し尽くしました、彼は1886年の春から、芸
    術家達の集まる、モンマルトルに住んで居た、弟
    テオの家に同居し始めました。

    そして数カ月間、アカデミーの画家、フェルナン・
    コルモンのアトリエで、シニャックやロートレック
    といった、気の合う若い芸術家達と、知り合いま
    した。

    ゴッホはパリで過ごした2年半の間に27点もの自
    画像を制作しました、モデルを雇うお金がなかっ
    た彼は、自分の顔を色彩や技法の実験台にした
    のです。

    その頃、新印象主義の影響下にある彼は、明るく
    鮮明な色の点や線で、カンヴァスを覆い尽くす様
    に描いて居ます。

    しかしパリの喧燥に疲れたゴッホは太陽と安らぎ
    を求め、1888年2月南フランスの街アルルへと向か
    います、南の風景と光、そしてオランダにいた頃の
    様な田舎の素朴な生活から、彼はインスピレーシ
    ョンを得て居た様です。

    1888年5月、友人のポール・ゴーギャンやその他の
    画家達とともに、芸術家共同体を築こうという目的
    で、ゴッホはあの「黄色い家」を借りました。

  • この家を飾るために、あの有名な「ひまわり」を<br />初めとする、彼の作品の数々が制作されました。<br /><br />そして10月、ゴッホの度重なる要請に応えつい<br />にゴーギャンがやって来ます、しかし間もなく二<br />人の関係が崩れ、緊張が高まり12月末、ゴッホ<br />がゴーギャンに剃刀をもって襲いかかり、挙げ<br />句の果てには自らの左耳の一部を切り落とすと<br />いう劇的な事件が起こります。<br /><br />錯乱状態となったゴッホはアルルの病院に収容<br />され、回復するまで入院しました、その後の研究<br />で、彼の病気が「てんかん」の一種であった事が<br />分かって居ます。<br /><br />ゴッホはサン・レミの療養院を出て、北の方に行<br />きたいと思う気持ちが募ります、そして1890年5月<br />パリ近郊の芸術家村オーヴェル・シュル・オワー<br />ズに移り住みました。<br /><br />盛んに制作活動し、作品もようやく評価され始め<br />て居たにもかかわらず、亡くなる前の数週間、ゴ<br />ッホは非常に憂鬱な気分に沈んで居ました。<br /><br />弟のテオは自らの給料で自分の家族はもちろん<br />の事、兄や母も養っていましたが、当時勤めてい<br />た画廊を辞め、独立しようと考え始めて居ました。<br /><br />ゴッホはテオの妻子、そして母のことを思うと不安<br />でたまらず、自分が彼の足手まといになって、居る<br />のではないかと、テオに手紙を書き送って居ます。<br /><br />1890年7月27日、ゴッホはピストルで自らの胸を打<br />ち、2日後、テオに看取られながら息を引き取りま<br />した、そしてその半年後、テオも亡くなりました。<br /><br />そしてゴッホ兄弟は今、オーヴェール・シュル・オワ<br />ーズの墓地に、2人並んで葬られて居ます。<br /><br />彼の没後、多くの人が彼の作品に魅了される様に<br />なりました、しかしとりわけ人々の胸を打ったのは、<br />恋に破れ、また生前世間にほとんど認められる事<br />もなく、病に苦しみ、挙げ句の果てには自ら命を絶<br />ったという、彼の悲劇的な人生その物だったと言え<br />るでしょうね。<br /><br />ゴツホ美術館は今では、年間150万人の観光客<br />が訪れる、アムステルダムでー番の人気のミュー<br />ジアムです。<br /><br /><br /><br />

    この家を飾るために、あの有名な「ひまわり」を
    初めとする、彼の作品の数々が制作されました。

    そして10月、ゴッホの度重なる要請に応えつい
    にゴーギャンがやって来ます、しかし間もなく二
    人の関係が崩れ、緊張が高まり12月末、ゴッホ
    がゴーギャンに剃刀をもって襲いかかり、挙げ
    句の果てには自らの左耳の一部を切り落とすと
    いう劇的な事件が起こります。

    錯乱状態となったゴッホはアルルの病院に収容
    され、回復するまで入院しました、その後の研究
    で、彼の病気が「てんかん」の一種であった事が
    分かって居ます。

    ゴッホはサン・レミの療養院を出て、北の方に行
    きたいと思う気持ちが募ります、そして1890年5月
    パリ近郊の芸術家村オーヴェル・シュル・オワー
    ズに移り住みました。

    盛んに制作活動し、作品もようやく評価され始め
    て居たにもかかわらず、亡くなる前の数週間、ゴ
    ッホは非常に憂鬱な気分に沈んで居ました。

    弟のテオは自らの給料で自分の家族はもちろん
    の事、兄や母も養っていましたが、当時勤めてい
    た画廊を辞め、独立しようと考え始めて居ました。

    ゴッホはテオの妻子、そして母のことを思うと不安
    でたまらず、自分が彼の足手まといになって、居る
    のではないかと、テオに手紙を書き送って居ます。

    1890年7月27日、ゴッホはピストルで自らの胸を打
    ち、2日後、テオに看取られながら息を引き取りま
    した、そしてその半年後、テオも亡くなりました。

    そしてゴッホ兄弟は今、オーヴェール・シュル・オワ
    ーズの墓地に、2人並んで葬られて居ます。

    彼の没後、多くの人が彼の作品に魅了される様に
    なりました、しかしとりわけ人々の胸を打ったのは、
    恋に破れ、また生前世間にほとんど認められる事
    もなく、病に苦しみ、挙げ句の果てには自ら命を絶
    ったという、彼の悲劇的な人生その物だったと言え
    るでしょうね。

    ゴツホ美術館は今では、年間150万人の観光客
    が訪れる、アムステルダムでー番の人気のミュー
    ジアムです。



  • アムステルダムに来たら、オランダのナショナルミ<br />ュージアム、アムステルダム国立美物館はゴッホ<br />美術館からも近いので見逃せません。<br /><br />街の中心部に位置するこの美術館は、オランダの<br />芸術と歴史を物語る、素晴らしい作品を多数所蔵<br />して居ます。 <br /><br />この美術館は建築家、ピエール・カウパースがデザ<br />インして、1885年に完成された「お伽の国のお城」<br />の様な外観です。<br /><br />アムステルダム国立美物館のコレクションの数々は、<br />1100年から現在までの、オランダの歩みを物語っ<br />て居ます、そして世界史の流れに沿ってオランダ史を<br />見ることが出来るのが、この美術館の特徴です。<br /><br />美術品の数々は、年代別に展示され見どころはやは<br />りオランダ芸術の黄金期とされる、「17世紀」の展示<br />エリアです。<br /><br />

    アムステルダムに来たら、オランダのナショナルミ
    ュージアム、アムステルダム国立美物館はゴッホ
    美術館からも近いので見逃せません。

    街の中心部に位置するこの美術館は、オランダの
    芸術と歴史を物語る、素晴らしい作品を多数所蔵
    して居ます。

    この美術館は建築家、ピエール・カウパースがデザ
    インして、1885年に完成された「お伽の国のお城」
    の様な外観です。

    アムステルダム国立美物館のコレクションの数々は、
    1100年から現在までの、オランダの歩みを物語っ
    て居ます、そして世界史の流れに沿ってオランダ史を
    見ることが出来るのが、この美術館の特徴です。

    美術品の数々は、年代別に展示され見どころはやは
    りオランダ芸術の黄金期とされる、「17世紀」の展示
    エリアです。

  • 「レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン」は17世<br />紀を代表するオランダの画家で、たんに「レンブ<br />ラント」と呼ばれる事も多いですね。<br /><br />彼は大画面と明暗を画面上に、強く押し出したル<br />ミニズムの技法を得意として居ます。<br /><br />ー般的には、「光の画家」「光と影の魔術師」の異<br />名を持ち、人物画の黒々とした瞳が特徴ですね。<br /><br />彼の代表作は「夜警」「テュルプ博士の解剖学講義」<br />「自画像」などが有名です。<br /><br />

    「レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン」は17世
    紀を代表するオランダの画家で、たんに「レンブ
    ラント」と呼ばれる事も多いですね。

    彼は大画面と明暗を画面上に、強く押し出したル
    ミニズムの技法を得意として居ます。

    ー般的には、「光の画家」「光と影の魔術師」の異
    名を持ち、人物画の黒々とした瞳が特徴ですね。

    彼の代表作は「夜警」「テュルプ博士の解剖学講義」
    「自画像」などが有名です。

  • レンブラントは、生涯を通じて自画像を数多く描<br />いた事でも、良く知られて居ます。<br /><br />その自画像は、その時々の彼の内面までも伝え<br />て居ると、評価が高い作品が多いですね。<br /><br />現代でもオランダには比類すべき画家が居ない<br />とさえ考えられた、若くして肖像画家として大成<br />功した、17世紀の画家です。<br /><br />

    レンブラントは、生涯を通じて自画像を数多く描
    いた事でも、良く知られて居ます。

    その自画像は、その時々の彼の内面までも伝え
    て居ると、評価が高い作品が多いですね。

    現代でもオランダには比類すべき画家が居ない
    とさえ考えられた、若くして肖像画家として大成
    功した、17世紀の画家です。

  • 「ヨハネス・フェルメール」は、17世紀にオランダ<br />で活躍した画家で、本名は「ヤン・ファン・デル・<br />メール・ファン・デルフト」で、ヤン・フェルメール<br />とも呼ばれて居ます。<br /><br />フェルメールはレンブラントと並び、17世紀のオ<br />ランダ美術を代表する、画家と言われて居ます。

    「ヨハネス・フェルメール」は、17世紀にオランダ
    で活躍した画家で、本名は「ヤン・ファン・デル・
    メール・ファン・デルフト」で、ヤン・フェルメール
    とも呼ばれて居ます。

    フェルメールはレンブラントと並び、17世紀のオ
    ランダ美術を代表する、画家と言われて居ます。

  • 彼の作品は精密で写実的な迫真性のある画面で、<br />綿密な空間構成と巧みな光と、質感の表現で描が<br />かれて居ると、世界中で高く評価されて居ます。<br /><br />現存する作品点数は、研究者によって違いは有る<br />物の、33〜36点と可也少ない画家ですね。<br /><br />代表作では「真珠の耳飾りの少女」「牛乳を注ぐ女」<br />が特に有名です。<br /><br />オランダの17世紀の画家達は、光と影を上手く使う<br />手法に長けて居ると、私は強く感じました。<br /><br /><br /><br /><br /><br />私は4日間のオランダの旅からパリに戻り、今回の<br />旅の最終観光地の8番目の国、大英帝国イギリス<br />のロンドンに、飛行機で向かいます。<br /><br /><br /><br />

    彼の作品は精密で写実的な迫真性のある画面で、
    綿密な空間構成と巧みな光と、質感の表現で描が
    かれて居ると、世界中で高く評価されて居ます。

    現存する作品点数は、研究者によって違いは有る
    物の、33〜36点と可也少ない画家ですね。

    代表作では「真珠の耳飾りの少女」「牛乳を注ぐ女」
    が特に有名です。

    オランダの17世紀の画家達は、光と影を上手く使う
    手法に長けて居ると、私は強く感じました。





    私は4日間のオランダの旅からパリに戻り、今回の
    旅の最終観光地の8番目の国、大英帝国イギリス
    のロンドンに、飛行機で向かいます。



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