2013/03/14 - 2013/03/17
34位(同エリア129件中)
JBさん
国宝の指定数は東京都が日本一で、実は京都府よりも多いです。
この一都一府計では国内の約半分になります(503件/1085件)。
これって少し意外でしょうか?
ところが国宝でも建造物に限ると、平成9年に迎賓館が指定されるまでは都内では此処一件だけだったんですよ。
これまた極端な話ですが・・・・・(種明かしは、博物館ですな)。
では鎌倉は?
実は国宝建造物となると、神奈川県の全域でも1件だけです。
埼玉県は去年1件目が指定されたばかり。
関東では他には栃木県(日光)の6件(9棟)だけなんですよ。
という訳で希少というか
東京都で最初に指定された国宝建造物を訪ねました。
古式ゆかしき、『禅宗様』でございまする?。 ”正福寺”地蔵堂
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
こんにちは。
きょうは禅宗様(ゼンシュウヨウ)の拝観ですが
まずは額縁様の確認からが
お作法でしょうか (=^・^=)
ピタリ、きちんと収まっていますね♪
南の山門から北の仏堂(地蔵堂)へ、真っ直ぐです。 -
ここの山門は
伽藍配置もですが、単体の建造物としても
1701年に建立された
元禄期(江戸)の素晴らしい禅宗様建築です。
地蔵堂との対比というと叱られそうですが
まずはこちらから見て行きましょう。 -
1973年(昭和48)の改修で
元の茅葺(カヤブキ)の形を残した銅板葺に改めたそうです。
屋根を端処理した曲線が綺麗ですね。
以前は唐様(カラヨウ)と表記された禅宗様ですが
唐の建築様式をそのままではなく
日本の建築技法として昇華された建築様式です。
禅宗と共に渡来したから
唐様でなく”禅宗様”と呼ぶ方が誤解を受けない との
太田教授(建築史家)の提唱から名称を改めたようです。 -
切妻(キリツマ)、
四脚門(シキャク・ヨツアシモン)で
桁行・梁行共に十尺(3.03m)。
柱底部から桁下までも 同じく十尺だそうです。
<平易な表現に直します>
Λ形の2面屋根、
6本の柱で 建つ門で
長辺・短辺共に3m (正方形で9?の建築敷地)。
地面から門扉の上までの高さも 同じく3mだそうです。 -
『四脚門』とは
門柱の前後にも柱を立てているので ついた名前です。
(前後(2本)×左右(2本)=4本(脚))
ですから
左右の門柱(2本)を入れると、合計では6本の脚です。
門の特徴は目線より上(下は地面)ですから
上を観ながら門をくぐって行きます (=^・^=) -
現地案内板ですが、素人には親切でない時もあります。
ここでも
『建築様式は禅宗様で・・・・江戸時代の伽藍の遺構を示す
貴重な禅宗様建築物です。』 と 説明されています。
「この四角い柱のどこが禅宗様なの?」って聞くと、
『貫』が、
『束に模様』が、という説明でしょうが、
その辺りの業界常識は、省略される事が多いです。 -
ところが
『化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと
考えられます。』 と プロの解説として書いてあります。
屋根に萱を葺く方法が
上記の 屋根裏に『直登』か 若しくは
『梯子かけ』『足場組み』だろうとは、容易に想像できます。
『屋根に登って茅葺したらしい』 と わざわざ解説するならば
そう解説すべき理由の方を知りたいのです・・・。
丁寧に語句を調べて 期待を裏切られるか
現地で見たからと 何かを知った心算になるか
残念な二者択一になる こともあります。 -
私は何十年もその事だけをやっている
『プロの常識』を まずは知りたいです。
冠木(カブキ:貫ですが、左右の建柱の上部を貫く横木)、
桁(ケタ:長手方向で橋板を支える水平材)、
束(ツカ:木の組物)
等もご覧ください。 -
解説には
『この朱色が建築当初からの痕跡で、もともとは全体が朱で塗装されていたらしい。』 と あります。
(最後は流石です)
解説で
赤くイタズラで塗られたのじゃないことが判明しましたから -
もう一度、門の前に戻って
『赤い額縁フィルター』でみると、さあ 如何でしょうか。
元禄で ございまするぅ! -
落ち着いた佇まい、なんて思いながら見ると
実は、こうして”色彩が枯れている”のをよく見かけます。
寺社は本来
厳島カラーみたいな鮮やかな朱か
日光式ゴテゴテが多いです。
だって信仰の象徴で
しかも数百年先もと考えて造るんですよ。
少しくらい気張ってても、当然でしょ。 -
さあ 山門を通過して いよいよ地蔵堂です。
お地蔵様がご本尊の仏殿(本堂)を 地蔵堂というそうです。
じゃ 観音様だったら、な〜んだ?
ピ〜ンPON! 観音堂です。
「舐めんなよ〜」でしょうが、
解説板だと皆さん感心顔で読んでますよ。
今度、観光地に行ったら、しっかり見てくださいね。
きっと、笑えますから。 -
なぜ同じような写真を2枚続けるか?
だって、上と比べて 何か変じゃないですか?
私が屈んだり背伸びして撮っている訳じゃないんですよ。
両端の灯篭の位置をご覧いただけたら分かるでしょうが
10歩くらい前に歩いて撮っただけです。
でも下のは屋根の裾が上に跳ね上がっているでしょう。
フレンチカンカンのスカート捲りみたいですね (=^・^=) -
実はこれは別の日に撮ったんですが
上と同位置から撮っています。比べて、今度はどうですか?
色が薄い。
下着が見えちゃってる。
そうですね。屋根の下辺りの構造物が判りますでしょ。
理由は
こうして七変化するところが”国宝たる由縁”です。(ウソ -
この大きくせり出した庇(ヒサシ)と光のなせる技です。
カイゼル髭(死語かなあ)みたいにピンと上向いて、
威張ってるみたいで、おもしろいでしょ。
こうすると堂々と見えますが、
”方三間(ホウサンゲン)”ですから、本当は小さいです。
方三間とは、正方形で、
各面の柱が4本で柱間の板間が3つの 平屋です。
自分には、柱が6本で柱間が5つの 2階建に見えるって?
そうですね。それが正常です。
(後で説明しますね) -
白線の上も下も、写真を撮る角度を変えているだけで
まったく同じ場所の二重の庇です。
上下どちらの写真でもいいですが
上の庇の下と、下の庇の下の垂木(タルギ:添え木)の
角度(向いている方向)に注目してください。
上下どちらの写真でも垂木が
上の庇は
建物の真ん中から放射状に広がっているので、”扇垂木”
下の庇は
壁から垂直に 隣と平行に出ているので、”平行垂木”
といいます。
*もう少し分かりやすく、後にモデルでも説明します。 -
飛び出している木を ”尾垂木(オダルギ)”といいます。
御神輿でみるような 組物が3段になっている”三手先”は
和様にもありますが
これは先が細くなっているのが分かりますか?
そこが禅宗様の特徴で
実際には5角形で、天狗の鼻か龍のようです。
その上にある
拳鼻(コブシハナ)とは先の角を丸くしている事なんですが
そこは角度が悪いですかねえ。 -
和様では組物(タテタテよこよこ)は柱の上だけですが
禅宗様では詰組といって柱の間の壁にも組物をつけます。
効果?
補強でしょうが、まあ飾りですな。
下の”弓欄間”と真ん中の”宝珠”も禅宗様の特徴です。 -
窓や入り口の上に波形の格子になっている欄間を
弓欄間(ユミランマ)。
弓形というか、縦ですが波形でしょう。
で、波欄間(ナミランマ)ともいいます。
その弓欄間の真ん中
扁額の下にある桃みたいなのが 宝珠(ホウジュ)です。 -
丸柱(マルハシラ)・粽(チマキ)・花頭窓(カトウマド)も
禅宗様の特徴です。
丸い柱だから丸柱。
その上の方が削られて少し窄まっているでしょう。
その窄まっている所を粽といいます。
(キュッと絞ることで柱全体を長く見せる効果があります)
”かわいい足首”効果ですな。
上が火炎形の窓を火灯(花頭・華頭とも)窓といいます。
銀閣寺等で有名ですが、結構”みたまんま”の名称です。 -
丸い柱の下の方も削って窄まっています。
そう、こちらも”粽”ですが
その下の木製受皿の「礎盤(そばん)」や石の台「礎石(そせき)」石垣の「基壇(きだん)」も全て禅宗様です。
「オイオイこの前、国分寺でも礎石とかあったじゃないか」
ですが
「大仏様との重複点は結構多いよ」ですね。
でも、それって・・・それで何で特徴って・・・???。
そんな小さなことでイチイチ目くじら立てちゃダメ!
らしいです。
ついでに言うと、何の変哲もない周りに張っている板壁
これも禅宗様の特徴です。 -
最後に格子戸ですが、実はこれも禅宗様の特徴です。
扉も桟唐戸(サンカラド)といって
木枠に板を嵌め込んでいます。
普通のお宅の木の扉もそうですよね。
一枚板の俎板扉じゃ重すぎです。
ということで、純和風の我が家は
実は禅宗様だらけ・・・、かもしれません。
話は違いますが、今日は中には入れません。
内部公開は、8/8・9/24・11/3の年3回だけです。
しようがないから今回は解体してお見せしますね (=^・^=) -
*内部が写っている写真をお願いしたら、発注側の書庫から昭和43年修理事の”工事報告書”が出てきただけです。
ここから先のモノ黒写真(昭和8年の解体修理で撮影)は、
『昭和43年11月 国宝正福寺地蔵堂修理工事報告書』
(原本文化庁建造物課蔵)からの転載です。
須弥壇の天井辺りですが
長押しの上に千体地蔵が置かれています。
(上の写真は、現地案内板の内部写真と同じようです)
*下のは、とてもピントが合っています?が
VTR映像を写真の上手な誰かがカメラ撮りしたものです。
ご勘弁ください。 -
上は、解体のために千体地蔵を除けて
一部の詰組も外してあります。
躯体がシンプルに判ります。
下は、鏡天井(須弥壇の上)を外して屋根裏をと思ったら
外し過ぎて屋根組みだけになっています。 -
ちょっとイジワルでしたね。
これが見舎(モヤ)の須弥壇位置(仏様の頭上)から
天井を見上げた写真です。
まさしく天上の光景でございまするな (=^・^=)
(扇垂木が各辺中心から綺麗に広がっています) -
参考に平行垂木の建築図面ですが、
同じ場所の扇垂木と比べてみてください。
(赤線が扇垂木・黄線が平行垂木のイメージ線です) -
1933年(昭和8)に解体修理するまでは萱葺でした。
(1777年(安政6)に萱葺に改められたみたいです)
それを1933年に柿葺(コケラブキ)に戻すと共に
端を跳ね上がらせた建築当初の形に改めたのが判ります。
ちなみに、木組みには躯体の解体を要する
尾垂木尻持送(オダルギジリモチオクリ)という箇所があり
そこに建築年紀が墨書されていました。
これによって
1407年の建築年や
1933年まで500年間、躯体変更がないことも判明しました。 -
下の断面図をご覧ください。
先ほどの方三間ですが
見舎(モヤ)の立柱4本(赤丸)が
天井まで通し柱になっていて柱間(×)は3つ
その周りを裳階(モコシ)というんですが
縁側みたいに両脇外側に1本ずつ
下の庇まで柱を立てているのが分かると思います。
それでこの形を
方三間裳階付き(ホウサンゲンモコシツキ)といいますが
外観からは「5間で2階建て」に見えます。
寺院建築ですが、裳階の語源は女性の御腰みたいです。 -
上は、地蔵堂のご本尊ですから
当然に地蔵菩薩(お地蔵さん)です。
1811年(文化8)の
「江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛」さんの
墨書銘(サイン)が発見されたそうです。
下は、長押に乗せられていた江戸時代の千体地蔵です。
真ん中のは箔押しですね。
総じて2〜30cmくらいです。
「1体を借りて帰って、念願成就すれば2体を返す」という
千体地蔵の信仰は
1700年頃(享保期)に確立されたそうです。
1300体くらいあったと昭和8年に報告されていますが
なぜか今は900体ほどしかありません。
どうやら換金価値の高い
箔押しの古地蔵さまを借りて帰った人ほど
念願は成就されなかったようで
そういうお地蔵さんはあまり戻されなかったんですね。
残念です。 -
地蔵さまはこの辺で一旦終了して
地蔵堂前の灯篭も一応押さえておきましょう。
関東の方
特に西武線沿線の歴史好きの方はご存じの立派な灯篭です。
文字が視難いからと寺も了解したのでしょうが
朱が少々醜いですね。 -
笠には「控えおろう!」が付いてます。
これは別に国宝の地蔵堂に という訳ではなく
増上寺横にプリンスタワーを建てるにあたって
整理された徳川家墓地の奉献灯篭だからです。
ここには
文昭院殿(6代家宣)の参道にあったものが6基あります。
写真掲載の一基は
奉献者が「從五位下肥後守豐臣朝臣木下氏公定」
となっています。
残念ながら
既に石が剥がれて奉献者が不明な物もあります。 -
山形から信越や伊豆にまで散逸しているそうで
研究者が情報提供を呼びかけていらっしゃいます。
ただ、新しく発見すればですが
昭和52年から既にここにあることが
東村山市のパンフでも紹介されていました。
字面のネット紹介もされていますから
写真はともかく
拓本取りは専門家にお任せしては如何でしょうか。
風化は心配ですが
近所の寺院で派手な朱を見かけたので
逆の懸念を感じました。 -
江戸期の地図をみると
地蔵堂の手前の植栽の所は茶畑になっていましたね。
でも、基本の敷地レイアウトは変わっていません。 -
上の写真の地蔵堂側からですが
茶畑の半分に今は立派な十三仏さんが出来ました。
この前を本堂に伺います。 -
いよいよ本堂なんですが
本堂前で上からぶら下がっている
コレは何だか分かりますか? -
本来は脇に隠すべき雨どいです。
風鐸を連ねたような鎖状の意匠で
前面に飾りとして出しているんですね。
こういう工夫を見かけると、うれしくなっちゃうんですよ!
屋根には、三角形を三つ山形に重ねた「ミツウロコ」の紋が
キンキラ輝いています。 -
以前の本堂のものだと思いますが
本来の禅宗様では瓦はあまり使わないようです。
この三鱗の家紋は、関東ではいろいろな所で見かけます。
小田原の北条家・鎌倉執権の北条家、そして弁天様。
三鱗紋自体は
江の島の北条時政(源頼朝の岳父)と龍の逸話が基です。
同じで当然なんですがね。
ただ、ここにあるという意味です。
「ウチは北条さんに関係があるよ」と訴えている訳ですね。 -
1988年(昭和63)に再建された庫裏も
禅宗様で綺麗にまとまっています。 -
横からも。
屋根の重なりが綺麗です。
その他にも
こちらには地域の文化状況を示すものがあります。 -
1394年(貞和5)制の「貞和の板碑」です。
板碑は近くの徳蔵寺さんのが有名ですが
実はこの板碑が都内で最も大きいらしいです。
(最大幅で285cm×55cm)
ブロック積みの保管庫にありますが
そこでは大きくて全体は撮れません。
梵字の下に光明真言があって帰源逆修と書いていますから
生前に造られた
「迷わず極楽浄土へ」のお願いのようですね。徳蔵寺 寺・神社・教会
-
実は東村山ふるさと歴史館にレプリカがあって
全体像がみられます。
自教庵という寺院(廃寺)にあったのを
江戸時代に川の橋桁にしてしまったようです。
川面に梵字が写っていたので念仏橋・経文橋ともいわれ
上は踏んで歩いていたんでしょうが
動かすと疫病が起きると伝えられていたみたいです。
橋桁にしておいて随分と勝手な話のようですが
昭和2年の橋の改修時に撤去したら
本当に赤痢が発生したので
「ひぇ〜、祟りじゃ〜〜」と正福寺に持ち込んだそうです。
私は
「寺も迷惑だったろうなあ」くらいの感覚ですが
心霊ファンの方には
『どきどきワクワク』のお話でございましょ。 -
入り口の四脚門の横にある別当寺だった八坂神社です。
江戸期の記述には稲荷社はありますが
八坂神社はありません。
こちらには神輿庫があって、お祭りには青梅街道の向うの八坂神社まで練り歩くそうです。
明治のことでも詳しくは分からなくなっています。 -
大正期の写本ですが、
?は新編武蔵風土記稿(幕府刊)、
?は武蔵名勝図会(昌平講献上)です。
どちらにも当時の最高の知識人だった
植田孟縉(モウシン)という方が関与していますが
開基が北条時頼(鉢の木にでてくる執権)か 子の時宗か
江戸時代でも既に怪しくなっています。
戦乱で、何も残らなかった。
地蔵堂が今日あるのすら、本当に奇跡的だった訳です。 -
後ろに見えるのが八国山緑地です。
その前は北山公園 (東京都) です。
久米川の合戦では
のどかなこの辺りも焦土と化したんじゃないかと
私は、想っています。
でも、今はそれすらも証明できません。 -
市内の知的障害者の方が手作り(木彫り)され
開眼後に有料領布(3000円)されている千体地蔵様です。
地蔵様がどうしても必要な末法の世ならば
せめて千体地蔵が増えて念願が成就されますことを
そんなことを想いながら帰途につきました。
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