2013/01/26 - 2013/02/25
374位(同エリア1012件中)
アーサーさん
最初にハノイに到着して 10日程かけてベトナムを南下して カンボジアのプノンペンに入り シュリムアップからラオスのルアンパバーンへ向かい、ビエンチャンから 一旦ハノイに戻り、それから ミャンマーのヤンゴン、パガンを見物して 成田に戻った 約1か月の周遊(65歳)一人旅。
「何でも見てやろう」の気分とおっかなびっくりの実際。
(写真はパガンの夕暮れ。)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- ベトナム航空
- 旅行の手配内容
- その他
-
1)-①
1月26日(土)
年老いると 冬は辛い。例年 暖かいところを夢見る。
東南アジアの経済が成長率で新しい局面を迎え、脚光を浴びているのは知っていた。
「地球の歩き方」の「東南アジア」を買ってきて ザート読んだ。
どうも 一昨年のチェンマイのように滞在型(1か月)で 1か所に留まる魅力的なところは 見いだせなかった。多分飽きるだろうと。
渡り歩くプランに 気分は変わった。
「ベトナム」「カンボジア」「ラオス」と地球の歩き方を読んだ。
10月 早稲田界隈の旅行会社「株式会社ピース・イン・ツアー」で情報を仕入れようと訪ねた。話を聞いているうちに 面倒になり、こちらの希望を話し、プランと飛行機代、ホテルの見積もりを頼んだ。「ミャンマー」も行けそうなので ついでに頼んだ。
旅行会社に頼むのは初めての経験だったが 担当のEさんへの信頼度が高く 少し手数料を払っても 正解だったと思う。
(計画見積もりの途中で 妻の参加が決まり、予約終了後に事情があって 妻の参加が不可能になった。キャンセル手続きに 旅行社が入っていたので 取り消し料も最少で済んだし、何よりも簡単だった。)
そんなこんなで 大した準備もせずに 1月 気温0度近い東京を飛びった。
写真は 久しぶりの雪を被った富士山。 -
1)-②
クレジットカードのキャッシングを東南アジアで使うのは 何となく臆病だった。それで 成田で1000ドルへ両替えをした。前回のタイ旅行の残金約1万バーツもあったので。
飛行機はベトナム航空。事前にあまりサービスの期待できない航空会社と情報があった。 確かに見たい映画もなかったが 旅行ガイドブックを読むのに忙しく 6時間余の飛行時間は苦痛ではなかった。
写真の機内食も美味しく頂けた。 -
1)-③
ハノイは曇っていた。
飛行機からみると農村地帯のイメージ。用水池、水郷が整備されている。
ここが日本と同じ稲作地帯であることを実感した。 -
1)-④
降り立つと 思っていたより寒い。日本の服装からコートを脱いだぐらいで 丁度良い。
空港は小さく 荷物の出てくるのも遅い。
(隣接して新空港ターミナル建設中。)
空港の銀行両替え所で3万円を両替え。6,690千ドンに。
社会主義国と少し緊張したが 日本の観光客も多く、安心。
空港のタクシーは公定価格と言われ、17ドルでホテルまで。(約1時間)
途中 日系企業の看板、工場進出を見かける。
ハノイの都心に近ずくにつれ 高層ビルも見えるが 道路の渋滞が酷くなる。 -
1)-⑤
予約していたホテルは旧市街のど真ん中、「カメリア4ホテル」。
古いホテルだが 従業員は親切。部屋も充分な広さ。
ドアの鍵がスムーズに閉まらずに 少しイラつく。 -
1)-⑥
早速、旧市街近隣を探索。道は狭くて 雑踏。バイク等のクラクションが異国に来たと実感させられる。
近くの高級レストランでフォー(米麺)を食べた。68000ドン。
20万ドン札4枚を出して お勘定と言ったら ウエイトレスが驚いた顔をして
「Be Carefully.」と注意してくれた。
お金の単位が大きすぎて 慣れない。
帰りに ボトルの水を買ったら 5000ドン(約25円)
朝が早かったので 早めに眠ろうと 風呂に入ると 途中で水に。
(確かに温水タンク式で初体験。)
石鹸の泡だらけで 湯殿から出られない。我慢して冷水に近いシャワーを浴びて
ベットに潜り込んだ。
眠ったが、前途多難。 -
2)-①
1月27日(日)
外が煩くて それに思ったより寒くて 6時過ぎ目覚める。
1階の食堂へ行くと 西洋人もいて 食事は「口コミ」に書かれていたよりも豪華。たらふく食べた。 -
2)−2
ホテルの窓から見る 街並みは 旧市街ということで 雑然。
雨が降ったのか少し濡れていた。
実際、道は狭くて 一方通行が多く、都合三度 ホテルまでタクシーを利用したが 一度で来られたタクシードライバーは誰もいなかった。 -
2)−3
まず ベトナムに敬意を表して「ホーチミン廟」へ。
ホテルでタクシーを呼んでもらって、10分程で着く。
支払時「6万ドン(sixty」を6千ドン(six)と聞き違え 払おうとすると 運転手に猛烈に怒られた。
「ホーチミン廟」は日曜日の為か 小中学生の参観が多く、その列にならぶ。
私服の警備員が整然とした列を維持させようと厳しく対応。
デニム調の子供達も 何となく従う。 -
2)−4
その流れで次の「ホーチミンの家」を見学。
確かに 知的で簡素な生活がうかがい知れる。 -
2)−5
出口に近い休憩所で ペプシの商品が売られていた。
コカコーラとかペプシといえば アメリカ帝国主義の代表商品のように言われていたが 時代の変化かと少し驚く。 -
2)−6
見学の人の流れで 「一柱寺」に。日本人観光客もチラホラ。
ベンチで煙草を吸っていたら 中学生位の子が火を借りに来た。子供達で煙草の回し飲みをしている様だったが 先ほどの「厳格」な大人の指導との違和感に これも驚く。 -
2)−7
近接する「ホーチミン博物館」へ。 -
2)−8
個人崇拝の博物館と言うより その時代をべトナム側から見た「博物館」だった。
若い西欧人が熱心にメモを取っていたが 展示方法の抑えた感じに むしろ感心した。 -
2)−9
ベトナム戦争当時 B52が墜落して 池になったところが近くにあると言うので
博物館を出て 歩いたが見当たらなった。
少し 疲れて 一旦ホテルに戻っても良いかと 来合わせたタクシーを止め ホテルに戻った。(ハノイの流しのタクシーは危険との「歩き方」に注意があったものの 日本の感覚に完全に戻っていた。)
料金を払う段になって ポケットから 1万ドン札を何枚か出して 渡そうとした。運転手は大声を出して何かを言い出したので 20万ドン札でおつりを貰おうとしたら その20万ドン札を奪い去って 自分の札束に入れてしまった。焦って「お釣り」の英単語が出ず、「back me」とか言ったら もっと大声で 自分の50万ドン札を指示し これが無いかと睨み付ける。持って無いことを明らかにする為に ポケットの有り金を出したら 更に20万ドン札1枚を抜き取る。
これは泥棒と同じと 「ホテルに行こう。」と言っても 兎に角大声で何か言い続ける。身の危険も感じて ドアを開けて降りたら 悪態らしきものを叫びながら 車を発車させる。
ふがいなさと屈辱感と極度の緊張で疲れ果てる。ベトナムの印象が極度に悪化。
部屋に帰り 安心したが、なかなか冷静にはなれず。
被害額は40万ドン。日本円にしたら1600円。タクシー代の支払いもあるので実質1200円と分かってはいても 落ち着けなかった。
大きなお金は分散して保持し、当日必要なお金だけをポケットにいれていた。この方法でこれからも行こうと自分を慰めた。
写真は タクシーと揉めたホテルの玄関。 -
2)ー10
気を取り直して 街歩きに。
旧市街は 各種物売り、靴磨きの勧誘、バイクタクシーの誘い等、と雑踏の活気があると言えばあるが 煩さも感じた。
写真は途中で食べたベトナム風ハンバーガー。(30千ドン)
フランスパン文化の影響か 実に美味かった。
ベトナム、カンボジア、ラオスではこの種のパンを手軽に利用したが、期待を裏切られることはなかった。 -
2)ー11
ハノイは寒く感じていたので 念のためセーターを購入しておこうと考えて、「ドンスアン市場」へ行った。
市場の通路は狭く 現代日本人の感覚では 沢山の種類の商品はあるが 買いにくい。
やむを得ず 150千ドン(約800円)でセーターを買いわしたが。 -
2)−12
古い民家が「旧家保存館」として残っているそうなので、訪ねていく。
(意外にも ホテルから歩いて5分程の所だが ホテルの人はその存在を知らなっかった。)
写真はその玄関。 -
2)−13
京風の間口は狭く 奥行きのある 風通しの良い建物だった。私にはそれだけの感じ。
(外国人が一杯見物に訪れていた。) -
2)−14
夜はホテルの人に切符を頼んでいた 「水上人形劇」に。(100千ドン)
劇場はホテルから歩いて 10分位のところ。
結構 面白かった。 -
2)−15
最後に 種明かしのように人形の操作者が現れてお終い。
夜11時頃の旧市街の雰囲気は 人通りも多く、少し怪しげな感じ。 -
3)−1
1月28日(月)
本日は事前に日本で予約していた「ハロン湾ツアー(日本語)」に参加。
朝 ホテルまで迎えに来てくれて 昼食付きで68ドル。
参加者は3組4人のツアーだった。
写真は朝の旧市街。朝食の路上食堂は開いているが 静か。 -
3)−2
朝7時40分のホテルピックアップで 途中トイレ休憩を兼ね土産物屋に寄り、11時頃にクルーズ船乗り場(写真)に着く。波止場には多くの同じようなクルーズ船。
マイクロバスは 危険を感じるほどの かなりのスピードで追い抜きを繰り返し走ったが 結構時間が掛かる。
途中 ホン河?を渡る橋のところで ガイドが川の水量が減り、土が露わになった岸辺を指し示し、中国に建設されたダムのせいと批判した。
確かに ベトナムに来て 漢字表示の看板類は見られない。アルファベット表示が中心。
-
3)−3
他のツアーの方も含めて 日本人6グループ。総勢15人の日本人専用のクルーズ船。
ランチ 私のテーブルは四人でシェアして食べる中国式。
量もそこそこで、海鮮式のベトナム料理。
席について 持参したペットボトルの水を飲んでいたら 「一応ここはレストランですから。」とガイドさんに注意を受ける。慌ててボトルを隠し、水を注文。 -
3)−4
ランチを食べ終わる頃 船は「海の桂林」と言われるエリアへ。
残念ながら 空が曇っていて 陰鬱な感じ。デッキに出るとセーターを着込んでいるが寒い。(日本の防寒の服装が正解。南のホーチミンから周遊してきた人は あまりの寒さに 長時間デッキに出られず。) -
3)−5
ガイドさんによると 年間通して ハロン湾の晴天の日は少ないとか。 -
3)−6
同じような レストランクルーズ船が追い越していく。
乗っている客は少ない。 -
3)−7
途中 観光定番のダウゴー島の鍾乳洞に寄る。 -
3)−8
ティエンクン祠は階段を登った所から入場するが 鍾乳洞の内部がカラー照明されていて 見慣れると安っぽい地方キャバレーの感なきにしもあらず。 -
3)−9
3時過ぎ港に着岸し、又 元の道をハノイに。
世界遺産の定番観光コースで参加したが 時間の割には それだけと言う感じ。(私が瀬戸内海育ちの為?)ちょっと期待は連れ。
帰り立ち寄った土産物店で菊の花が咲いていた。
ハノイに帰ると 午後8時頃で暗くなっていた。
丸一日 乗り物を利用して 疲れた。 -
4)−1
1月29日(火)
ホテルを朝9時にチェックアウト。
ホテルで空港までのタクシーを呼んでもらうと、300千ドン、ドルだと12ドル?(空港からは何故高いの?)
ハノイの空港の整備拡大計画 日本政府、日本企業が関与しているみたい。工事現場の塀に日の丸が描かれていた。(北京空港の拡大時を思い出す。) -
4)−2
ハノイ空港で2度ほど一寸ミス。
チェックインをせずに、国内線のセキュリィティチェックの列ヘ。(チェックインカウンターが分かりにくい。)
該当搭乗ゲートの近くで パソコンを操作していた為、搭乗が始まったのに気づかず、名前を拡声器で呼び出され 慌てて飛行機に。
どうと言うことはないが、一人旅ではドキドキすること多し。
写真はハノイ ノイバイ空港国内線搭乗待合室。 -
4)−3
1時間程の飛行で 中部エリアの古都 フエに到着。
曇り空だが 少し温かい。
空港からタクシーでファン・ポイ・チャウ記念館経由ホテルへ。
(運転手はファン・ポイ・チャウ記念館を知らなかったみたい。) -
4)−4
ファン・ポイ・チャウ記念館は生家跡に立ち 確かに狭く目立ってはいなかった。
ファン・ポイ・チャウは日本との関係が深い、ベトナム民族独立運動の指導者。
敷地には静岡県の掛川市の方々が建立された 日本語の「碑」があった。 -
4)−5
それから 新市街のホテル「ドイタン」へ。
ホテルは格式を感じる古いホテル。
従業員の方はよく教育されていて好感を持てた。 -
4)−6
それから 周辺の街歩きに。車の往来が激しく 広い道路を渡れなく 近場を歩いた。
遅い昼御飯代わりに 小学生と一緒にパニーニのパンを食べた。どこの国の子供も元気。
ホテルの直ぐ横に日本語の旅行社(APT&TNKトラベルJAPAN)があり、立ち寄る。(英語の旅行社は先客がいてカウンター対応をしてくれず。)
日本語の久しぶりの気楽さもあり、翌日の半日DMZ観光、半日王宮観光をアレンジしてお願いする。(125ドル、専用車、日本語ガイド付き)
日本人の係りの人は親切で ホテルにまで出向いて、私のパソコンの無線通信の不具合を直してくれた。 -
4)−7
夕食はその流れで 旅行社を通して 「フエの宮廷料理」(13ドル)を予約。
ゆったりしたお店で それらしいフルコースの料理を経験できた。 -
5)−1
1月30日(水)
超豪華な朝飯。一泊3千円で申し訳ない気分。確かにシャワーの湯量が少なくて 給湯設備の古さは実感したが。 -
5)−2
9時にホテルピックアップで 川を渡った旧市街の王宮へ。
広い公園のようで 人はあまり居ない。
旧正月の飾り付けが進んでいる。 -
5)−3
周囲に濠をめぐらし 水を導入して 空間を作っている。
黄色の梅が盆栽風に置かれていたが 旧正月の飾りつけ? -
5)−4
王宮内部では 王の月命日とかで 関係者の追悼の供養が行われていた。
(中国風?) -
5)−5
阮朝が1945年に滅亡して 約70年。25人位の人だが 社会主義国でこうして供養が執り行われていて 少し驚く。 -
5)−6
王宮内の復元はある程度進んでいて 皇太后の住居には 蓮が咲いていた。 -
5)−7
進行中の復元回遊通路。
日本の大学の援助協力が記載されていた。 -
5)−8
約半分の敷地は 1968年の「テト攻勢」の戦場になり焼失したままになっている。
残された施設に今も戦闘の跡が残る。
ガイドさんも45歳で 伝聞でしか伝えようは無い感じ。
観光施設として 王宮の復元も意味はあるが、私には フエの旧市街で25日間に渡り 北ベトナム、解放戦線側が戦闘をしたその事実を残す方が意味があると思った。(思い込んでいた ゲリラ的な特攻戦闘行為とは違っていた。) -
5)−9
11時前 王宮「和平門」を出て、一路郊外のDMZ(非武装地帯)へ。
写真は途中見かけた「ベトナム」の墓地。一族の土葬墓地の為か 結構大規模。
祖先慰霊の土着信仰の強さを思う。
また ベトナムの道では警察のネズミ取り的な取り締まりをよく見た。
綺麗な制服で椅子に座り取り締まりを指揮する警官。交通の取り締まりが必要なのは理解できるが、運転手たちの反感は強そうだった。 -
5)−10
12時頃 北緯17度付近のベンハイ川南北分離の非武装地帯跡に着く。
ここが 厳しい世界東西対決の一つの焦点だったことは もう過ぎ去った歴史の一コマのように やさしい風が吹いていた。 -
5)−11
橋の畔に 記念館があり、入場してみたが 白人一組しかいなかった。
東西冷戦中 東側の世界の要人が この最先端の地を訪れた写真が展示されていた。 -
5)−12
ベンハイ川は思っていたより狭く、当時北と南の地元住民の交易は小舟を利用して 勿論 南北軍人の監視下で行われていたそうだ。 -
5)−13
それから 北側のヴィンモックトンネルへ。
66年頃から非武装地帯の北側に作られた 軍事トンネル。
写真は村の入口。今では観光施設の入り口風。 -
5)−14
村は東シナ海に即 面している。
今は静かだが 海からの艦砲射撃もあったでのあろう。 -
5)−15
トンネル入り口近くに 村の資料館があり、その前に 表示されていたトンネルの数キロに渡る全容。 -
5)−16
トンネル入り口。
ガイドさんが 足元を照明で照らしてくれる。 -
5)−17
トンネル内部は3層で 1層のみ公開している。
写真は村民家族の避難スペース。狭い。
中を歩くと
時代は違うが トルコのカイマルの地下都市を思い出した。 -
5)−18
展示されていた 米軍の投下した不発弾。
爆弾によって生じたクレーター状の地形を見ると 激しい爆弾投下があったのだろうと想像できる。 -
5)−19
一種の軍事施設に違いないが 村民の協力なしには このトンネルは作れなかったっと思った。
時代も土質も周辺環境も違うが 日本の防空壕とは雲泥の差。
ベトナム戦争は「象」と「蟻」の戦いの比喩も頷けた。
写真は陽光を浴び平和そうな村の道。(地下に過去の観光資産になったトンネルが張り巡らせれているが。) -
5)−20
それから 元来た道をフェに戻る。
車の中で ガイドさんに少し聞きにくいことを 聞く。
日本統治下のハノイ周辺の飢餓死亡の惨事について。
「ベトナム国民は高校の教科書でそのあらましを教えられている。」と抑揚のない声で答えられた。
ベトナムの人々の性根と強さを垣間見た気がした。
写真は 途中ランチ(ベトナム定食)を食べた 食堂から利用した専用車を写す。 -
5)ー21
帰りに フェの新大型商業施設を教えて貰い、そこで降ろしてもらう。
新市街大通りの党施設の並びに その高層商業施設はあった。
写真は入り口付近。 -
5)−22
店内をザート見ると 店のハード面は最新で 先進国を知っているなという気がした。商品も豊富で値段も安い。トレーランチが14000ドン60円位。
その意味では安心したが、店の警備員の対応など まだまだ権威主義の影響が残り、「お客様第一。」の考え方は浸透していないと思った。
写真はレジ周辺。 -
5)−23
早くホテルに戻ったので 夕刻 街歩きに出かける。
フォーン川の畔を散歩する。「ファン・ポイ・チャウ」の大きな胸像がある小公園に出会う。
周辺では夜市の開店準備が大分進んでいたが、眺めていると 余り興味を引く商品が無かったので そこを離れ 彫刻公園を歩き、師範大学のところから 西欧人観光客の多いところを散策する。
写真は フォーン川の夕日。 -
5)−24
外れに 日本家庭料理「子どもの家」 日本支援団体(JASS)が自立支援サポートする料理店があったので そこで夕飯を取る。
感じの良い娘さんが 日本語で応対してくれた。
ホテルに帰る夜道 道を失い 少し焦る。
写真はその食堂の前景 日本の暖簾が掛かっている。 -
6)−1
1月31日(木)
朝 起きると胃が痛い。少し熱っぽい。鼻水も出る。朝食は大事を取ってお粥中心。持参した風邪薬と胃腸薬を服用。
10時までホテルに留まり、それからタクシーで駅へ。
軟座の指定席券は予約入手済み。
駅で間違えて 普通席の待合室で座るが 途中で軟座の待合室に移動。
写真はその待合室を写す。少し落ち着いた雰囲気。外国人が多い。 -
6)−2
プラットフォームに出たが 列車は26分遅れ。
前日の郊外ドライブでも気づいたが 昔の日本の国鉄と似ている。保線が丁寧でベトナムの国鉄が国の機関であることを意識していると思った。
ローカル線は地元の足の役割を持っていた。
いづれベトナムにも近い将来 新幹線の時代が来ることは ローカル線の混み具合をみながら 予想出来た。 -
6)−3
実際入線してきた列車は 年代を感じさせるジーゼル車?
プラットフォームの高さが足りず 欧州の古い様式を思い出す。
降りる乗客を待ち、子連れの女性客を優先し 鷹揚に整列乗車をしていたたら 列車に乗れないことに 途中で気づき 割り込み客を押しのけ 必死でスーツケースを引っ張り上げ 乗り込んだ。話で聞いていた終戦直後の日本のような乗車風景。(列車の乗り込み口を制限していた為に発生したと考えられる。) -
6)−4
軟座の席は満席。
狭軌の為か 通路が狭く 車内販売のカートがあると スーツケースを持っての移動が困難。
車両の一番端の席であったため スーツケースの置き場を確保できず 苦労する。 -
6)−5
ダナンまで 約2時間半の列車の旅。
列車は海岸線の丘陵沿いも走り、結構綺麗な風景。
海の色は 濁っていたが。
台湾の東海岸走行時の風景と似ていた。 -
6)−6
ダナン駅からホイアンまではタクシーを利用。
ダナンは港湾商業都市のイメージで 高層ビルも立ち、ベトナム戦争当時のアメリカ軍の空港や荷揚げ係留港のイメージは残っていなかった。 -
6)−7
途中でガイドブックに出ていた「五行山」へ寄って貰う。
写真はタクシーから「五行山」全容が見えてきたので 写す。
想像より小さい。 -
6)−8
大理石の土産物店の並ぶ道を「五行山」入口に向かうが 道路工事中で
タクシーの待って貰う 適当な場所が無い。
シースルーのエレベータの前まで行って 興醒めして諦める。 -
6)−9
ダナンから約30分でホイアンの街に。
ベトナムもここまで来れば バイクを中心とする街の騒々しさが和らぐ。
気分的に楽。 -
6)−10
ホイアンのホテルはヴィンフン2 (一泊4200円)老舗ホテルで 狭い敷地に立っていたが、街の中心。従業員の教育も最高レベル。殆んどが欧米人の客。
ホテルの入口に菊の盆栽が置かれていた。(取り替え維持の業者がビジネスとして成立しているみたい。) -
6)−11
部屋がまだ準備できていず少し待たされる。
写真はロビーの正面片隅に 東南アジアでよく見る 祭壇。
仏教とは異なると思うが 信仰心の厚さを知る。 -
6)ー12
部屋の前の 狭いプール。
泳ぐ気はしないが ホテルの雰囲気は作っている。
ホテルの部屋に置いてあった 案内パンフレットから 明日の「ミーソン遺跡」英語ツアーに申し込む。130千ドン。(入場料含まず。ランチクルーズ付きで
日本円約600円。どんなツアーだろう?) -
6)−13
体調が本調子ではないので 軽くふらふら街歩き。
外国人観光客(日本人も含めて)の多い町。街全体が観光で成立している感じ。
夕食は露店でフランス風サンドのパニーニを買い、部屋で持参したインスタントの味噌汁を作って食べた。
こちらに来て 鼻毛が異常に伸びていることに気付く。空気が悪いことへの防御反応? -
7)−1
2月1日(金)
朝8時に ホテルにツアーバスがピックアップ。街の宿泊所各所を回り 実際に町を出発したのは 8時30分過ぎ。大型バスは満席。
ガイドさんの英語は聞きやすい。
(ツアーの途中で判明したが 日本人はもう一人の若者だけ。) -
7)−2
途中 トイレ休憩を挟み 10時過ぎ ミーソン遺跡に到着。
歩いて 林の中を抜け 遺跡入口に。 -
7)−3
遺跡概要MAPでおおまかな説明を受ける。
遺跡グループA、B,C、Dを見て回るみたい。
思ったより規模は小さそう。 -
7)−4
グループCから見学開始。
8世紀から13世紀に建てられたヒンズー教のシヴァ神等を祀る遺跡。
レンガで作られている為か 野草の力が強い為か 自然に戻ろうとする勢いの強さを見せつけられる。 -
7)−5
確かにレンガの積み上げにモルタル系の接着材を利用していなくて 建設している。 -
7)−6
装飾のレリーフも手が込んでいる 女神像。 -
7)−7
遺跡によっては内部見学ができる。
入口。 -
7)−8
内部から外を写す。 -
7)−9
遺跡上部を見ると 逆ピラミッド状にレンガを正確に積み上げているのが分かる。 -
7)−10
遺跡の内部中央には 女性のシンボルをかたどった石器。 -
7)−11
ベトナム戦争当時 ここも戦場。
米軍の爆撃によって破壊された石柱群。
近くに爆撃によって生じたクレーターも。 -
7)−12
自然のいとなみは幾世期も変わらない。 -
7)ー13
路傍の石碑
日本でも見たような風景。 -
7)−14
遺跡グループDの彫刻展示室には チャンバ文化の石像が展示されている。 -
7)−15
合わせて 米軍の不発弾と首から上の無い石像の展示。米仏両国への批判が。
さすがに 西欧人の中には ガイドのプロパガンダにうんざりの雰囲気。
我々 日本人も 中国等では こうして黙って耐えるしか 方法が無いのかと思った。 -
7)−16
少し離れたところから見た 遺跡グループB,C,D
規模としては 自然の中に埋もれようとする小さな遺跡。 -
7)−17
グループGの所では 遺跡の修復がヨーロッパの協力で進んでいた。 -
7)−18
帰り道の途中で バスでそのまま帰るグループとボートで帰るグループに分かれる。
写真は川に係留された小さなボート。 -
7)−19
用意されていたのは露店のプレートランチ位の昼食。
満席のバスとこの食事内容で 約600円のツアー代金に納得。 -
7)−20
のんびりと約1時間の船旅。
ボートに救命胴衣の準備はなさそうだが。 -
7)−21
途中で観光土産工芸村に立ち寄る。
写真でも 川が生活物流の大きなウエイトを占めているのが分かる。 -
7)−22
村の人も 案内のガイドも販売のアプローチはあまりなく、多分ツアーの誰も何も買わずに 時間を消化して また船に戻る。 -
7)−23
川から見たホイアンの街。 -
7)−24
ホテルへの帰り道、「日本橋」に寄る。
小さな橋。 -
7)−25
確かに木組みは一部日本式に見える。
安土桃山時代の末期に建造されたものらしい。
その時代 この地には 1000人以上の日本人が住んでいたとか。
歴史に「たら」「れば」は夢物語だが もともと島国で「島国根性」の閉鎖性は持っていたのだろうけれど
一方で こうして 南方を目指した人達 少数の人もいた。
鎖国がなかったら 現代の日本も もう少し違う姿になっていたのかしらと夢想した。 -
7)−26
ホテルに帰り、少し微睡む。
夕食は ホイアン名物ホワイト・ローズを食べに近くまで 歩いて出かける。
期待していた割には 別にどうということはなし。
写真はそのホワイト・ローズ -
8)−1
2月2日(土)
ここのホテルの朝食も種類はそれほど多くはなかったが 丁寧な感じ。
胃痛は収まったみたい。 -
8)−2
タクシーを呼んで貰い、ダナン空港へ。
途中 海岸が綺麗だったので 寄って貰う。
運転手さんが案内してくれたところは白砂の砂浜。
見渡す限り 誰もいない。 -
8)−3
反対側も同じ。
独り占めの勝手な満足。
オーストラリアのゴールドコーストに少し似ていると思った。 -
8)−4
陸側を見れば 先日 登るのを諦めた「五行山」が見える。 -
8)−5
海岸沿いでは リゾート施設の開設・建設が進んでいた。
人の気配は感じなかったが。
ベトナムにも豊かな層が出現している風だった。
確かに ダナン国際空港から30分位で 白砂のプライベートビーチを体験できるなら 周辺のフエ、ホイアンの観光施設もあり 観光資源としては大きな資産だろう。 -
8)−6
ダナン空港は新しく、利用客も少なかった。 -
8)−7
サイゴン市は飛行機の上から眺めると メコン川のデルタ地帯に建設され、高低差の無い 水路が張り巡らされた街であることが分かる。 -
8)−8
高速道路のインターチェンジも見え それなりに近代化した都市であることも分かる。
ただ実際に地上に降りてみると 老朽化した都市の側面も目につく。
ベトナム戦争が 東西対決の側面、民族解放の側面もあったが 北ベトナムと南ベトナムとの戦争の側面も否めない。
最近でこそ 南に経済開放で資本投下が始まっているが 1976年から戦勝国北が南を支配した結果、社会資本の投下に遅れがあったと思わざるを得ない。
(我々外部の人間が口出すことではないが。) -
8)−9
空港からホテルまでタクシーを利用した。
途中 タクシーの空港使用料について運転手が大声で要求し、直ぐに出なかったので10万ドン札を渡した。お釣りは帰ってこなかった。後で「歩き方」を見ると1万ドン。都会は人を貪欲にするのだろうか?
サイゴンでのホテルはホーセンホテル。(写真は夕方撮影)
小さなホテルだが立地が良くて 新しかった。 -
8)ー10
ホテルは日本人利用客が多くて ホテルスタッフも日本人客に慣れている。
(一泊3700円)
ロビーには旧正月の飾りつけが。 -
8)−11
遅い昼食に外に出かけ 歩く。
途中 面倒になり ケンタッキーの店に入る。
注文は世界共通で簡単だが 63千ドン(250円)はここでは結構高い感覚。
味ももう一つ。ただ店内で安心して居られた。 -
8)−12
途中見かけた サイゴン川沿いのミニスーパー。
先進国に近い形態。
市内にはサークルK系のコンビニが一杯あり、レシートが出て誤魔化しがない。 -
8)−13
サイゴン川の夕食クルーズの宣伝があったが 夕方のクルーズ船の乗り場を見て
期待できそうもなくて やめる。 -
8)ー14
一度ホテルに戻り、夕食にもう一度繁華街に出かける。 -
8)−15
繁華街「ドンコイ」通りの夜の装飾。
派手だが底が浅い感じ。 -
8)−16
夕食はホテル近くの繁盛していた「フォー24」で食べた。
チェーン店運営形態が通常化しているみたい。
別に美味くも不味くもない。69千ドン。高い。 -
9)−1
2月3日(日)
ホテルの朝食は満足。
日本人利用が多いのも頷ける。
右鼻だけ透明な鼻水がふんだんに流れる。ベトナム大気汚染による炎症? -
9)−2
サイゴン市内見物に出掛ける。日差しはきつい。
市の中心部は フランスの都市計画の残りでさすがにゆったり。
写真の市民劇場は開演していなかった。 -
9)−3
シンボルのサイゴン大教会 -
9)−4
それから ニュース番組の映像で見た統一会堂(旧大統領邸)へ -
9)−5
地下は当時の軍事司令室の一部が残っていた。
以前ロンドンで見た「チャーチル・ワー・ルーム」、日本でいえば霞が関の地下に戦争遂行最高司令部を構えているようなもの を思い出したが それと比較するとチャチなもの。 -
9)−6
2階の大統領の私室部分も 予想より簡素。 -
9)−7
統一会堂のベランダから正面のレユアン通りを写す。
この道を解放軍の戦車が入ってきた。 -
9)−8
屋上ではヘリポートが。
(捕獲したヘリとともに。ただ その傷み具合から 年月の風化を感じる。) -
9)−9
それから 近くの「戦争証跡博物館」へ。
欧米人も多く見学に訪れていた。
捕獲された「戦闘機」「戦車」の類が 前庭に所狭しと展示されている。
見学しているアメリカ人は何を感じているのだろうか? -
9)−10
「戦争証跡博物館」もベトナム共産党の輝かしい栄光を内外に誇示するプロパガンダで その気持ちも分からないではないが 過去の栄光の感なきにしもあらず。
私の若い時代 B52が大量の爆弾を無機質に振り落す画像を見ると 敗戦直後に生まれた世代としては 爆弾を落とされる側の立場で感じざるを得なかった。(B29の焼夷弾の投下の下で逃げ回った悲惨さを聞いていた身では)
だから 東西対決の「ドミノ理論」は理屈としては知っていたが 爆弾を落とす側に心情的になれなかった。「ベトナムのことはベトナム人で」の気分だった。
その私の思いは こうして現実になっているのだけれども 博物館の展示を見ても 気分は晴れず、それは過ぎ去った過去のことの気持ちの方が増してくる。
日本語の展示物に 誰が書いたか知らないが「ベトナムの今」と数行書かれていた。これがベトナムの現状認識なら 余りに悲しい。
-
9)−11
近くのスーパーを探していて 偶然「日本領事館」の公邸に突き当たった。
高い塀に守られ 静かに存在する日本政府の対外出先機関。 -
9)−12
探していたスーパーの入り口。
日曜日の為か 旺盛な購買意欲を示した客で一杯。
世界で変わらぬ風景。一安心した。 -
9)−13
それから ランチは「歩き方」に記載されていた 統一会堂近くのフランス料理店「ティコス・サイゴン」へ。
表通りから私有地のような路地を通って入って行く。写真の突き当り。レストランは3階。 -
9)−14
前菜、メイン、デザートの3コースランチ(370千ドン 約1500円)
それぞれの中から選択。
私は前菜はスープを選択。(写真)
本格的なフランス料理で美味しく頂けた。 -
9)−15
メインは鴨料理を選択。
シェフのフランス人は日本人の扱いに慣れた感じ。
後から 二組の日本人客が入ってきた。 -
9)−16
それから ホテルに一旦戻り、夕方再度街歩き。
旧正月の飾りつけも大規模。
一方で 街では枯葉剤の影響か 極端な身体障害者を見かける。
さすがに横断歩行時には全ての車両が止まり 渡り終わるのを待っていた。 -
9)−17
国営百貨店は 土産物屋のイメージも。
ただ 旧正月の巨大な飾りつけ準備は終了。
家族がその前で楽しそうに写真を撮っていた。 -
9)−18
街には 新しい 東京と同じようなモダンな商業ビルも。 -
9)−19
サイゴン最大の市場らしき「ベンタイン市場」へ。 -
9)−20
市場の内部は 雑多としていて 私には何も買えなかった。
結構外国人客もいたが。 -
9)−21
ナイトマーケットで夕食を取る案もあったが、
開店に時間がありそうなので、ホテルの方に帰る。
遠くに、新しいシンボル サイゴン・スカイデッキが見える。
サイゴンは外国の民間新規投資が多いのかなと思った。 -
9)−22
夕食に専門店の「ラップ&ロール」で名物の春巻きを食べる。
注文時4皿頼んで多すぎると忠告され 3皿に変更したが それでも結果は多すぎた。1皿に4本の大きな春巻きが出てくる。そうなると美味くも何ともない。
写真は途中で食べあぐねた春巻き。 -
10)−1
2月4日(月)
朝 目覚めて 違和感。ふらつき。浮揚感。収まるかと思ったが、吐き気。明らかに異常。 朝飯をやめて眠る。少しましになったが、大事をとって 本日のミトツアー参加を諦める。
朝8時 ロビーへ出て 旅行社の迎えの方に断る。それから眠り 9時に軽く朝飯。ふらつき直らず。再度眠る。12時過ぎ 起きると ほぼ元に戻っていた。
それから部屋で洗濯して 大丈夫そうなので 近くのJCBへ行くが何も有益な情報はなし。探していたレストランも見逃し、ホテルに戻る。
ネットで調べると 自律神経の異常みたい。
確かに周遊型の一人旅は疲れる。 移動距離があり、緊張もする。もう無理するのはやめようと決め、本日はホテルで休養日とする。外出はしない。
メコンデルタを見れなかったのは残念だが。
11)ー1
2月5日(火)
ゆっくり休養を取ったので 体調は元に戻ったみたい。
大事を取って 朝食締切時間の9時までベッドにいて それから降りて朝食。
美味しく 戴けれた。 -
11)−2
朝ゆっくりして 空港にはタクシーで飛行機出発時間の2時間前以上に 余裕をもって到着。
チェックインの際 次の飛行の リ・コンファームに気を取られているうちに (次に指示された窓口に行くと「カンボジアアンコールワット航空」のリコンファームの必要はなかったのだが。)チェクインカウンターで荷物を預けるのを忘れたのに気付き、 再度カウンターに並び直すが 時間の余裕があり 助かる。
搭乗飛行機は久し振りのプロペラ機 -
11)−3
プノンペン迄45分の飛行。カンボジアの入出書類等を書いているうちに 到着の感覚。
どのあたりで 国境を越えたのか 全く記憶が無い。同じような水田農村地帯の連続? プノンペン周辺の方が 純農村地帯に近いとは思ったが。(写真はベトナム領土内) -
11)−4
プノンペンの国際空港は 日本の地方空港の感じ。入国の係官が優しそう。
空港で 当座の金2000円を両替したがレート悪すぎる。以降 カンボジア国内はドル札で支払う。
空港ロビーにはシアヌーク殿下の遺影が飾れている。国葬期間中であることを示す。
1月の途中まで サイゴンからプノンペンへは バスで国境越えを計画していた。
国境を陸路で越えること拘っていたのは 過去の経験から 二国間の特徴を際立たせて 感じられるから。
残念ながら 今回は一月初めに シアヌーク殿下の国葬の儀のスケジュールが発表になり 突如バスの運行中止が発表され 詳細が不明の為 飛行機に変更していた。 -
11)−5
タクシーでホテルへ。街はベトナムより 遅れてはいるが 落ち着いた感じ。
ホテルはゴールデンゲートホテル。(一泊3400円 洗濯代無料。)
ホテルは古くて バスタブはないが 立地も良く 外国人旅行者 日本人も利用者多し。 -
11)−6
遅い昼食に 周辺を歩く。外国人を相手にする店多し。
目指した店と間違えて 新しい小奇麗な店に入り ビーフシチュウと鳥の照り焼き定食を注文。量も多く 格好はつけているが美味くは無い。でも安い。750円。WIFIを接続して滞在する外人客多し。
食後 近くのスーパーに行く。 -
11)−7
ベトナムの英語表記看板よりプノンペンは漢字看板が目に付く。
人々の肌の色も黒く インドに近づく感じ。
裏道は特に歩きずらい。社会資本がそこまで回っていない?
スーパーでは焼き立てパン屋が店頭にあり 先進国風。
庶民はあまり店に入っていないが 富裕層を中心にある程度の客数は確保。
全体に 街の印象は タイのチェンマイの数年遅れの感じ。
(社会主義国ベトナムとは少し違う気がした。)
写真はスーパの入り口 -
12)−1
2月6日(水)
ホテルの朝食は 種類も限定され 味ももう一つだったが 日本人の朝食には充分。
3日目の朝食はバイキングではなく 個別の料理注文制で変化を付けてくれて 私は満足。 -
12)−2
プノンペンにはタクシーがあまりなく オートバイに連結したトゥクトゥクが移動手段。
この日 ホテル前で客待ちしていた 若い運転手のトゥクトゥクを滞在中利用した。
値段交渉はいつもの通りで 吹っかけてくるが 約束を守る信義を感じたから。
(メモ帳に料金を書き 時間を書き 地図帳を示し意思疎通) -
12)−3
プノンペン中心部は フランスの都市計画の名残か 素晴らしい。
ホテル近くの「独立記念塔」 -
12)−4
最初にメコン川を見に行った。トレサップ川との合流地点。
水量も大きな川だが 流れは殆んど感じない。海の一部の感じ。
「やっと会えたなぁ」との感慨を持って眺めた。 -
12)−5
それから まず「王宮」へ。
ところが「王宮」前の道路は車両通行が禁止されていて 人が少ない。 -
12)−6
「王宮」入口も閉鎖されている風。 -
12)−7
代わりに 街路樹の花が咲いていた。(桜?) -
12)−8
国葬の儀がまだ執り行われているみたい。 -
12)−9
一般の人の流れみたいのに従うと (係りの人から カメラは仕舞うように優しく注意されたが。)王宮隣に敷地の 式典会場へ。
これも 何かの縁と礼拝を丁寧におこなう。
正装した庶民も 僧も 熱心にひれ伏している。 -
12)−10
望遠で敷地の外から 写したが この礼拝所の4方から 祭壇が見える構造。 -
12)ー11
王宮前の広場に戻ると 読経が流れ -
12)−12
数人の老人達が熱心に手を合わせ拝んでいる。 -
12)−13
トレサップ川畔の東屋では 王宮に向かって老女が熱心に祈りを捧げていた。
(カンボジアの人々の一部かも知れないが 激動の時代を生きたシアヌーク殿下への強い哀悼の意を知った。) -
12)−14
それから 国立博物館へ。 -
12)−15
残念ながら 館内は写真禁止。 -
12)−16
中庭には蓮の花の浮かぶ池が。
(ここから内部を撮影。) -
12)−17
盗難等によって切り落とされた 石像の頭部が展示。 -
12)−18
小さいが ミロのビーナスを思い出す女体の美しさ -
12)−19
クメール文化の水準の高さを知る。 -
12)−20
一方で 展示された 美術文化の対象としてだけではなく 今なおカンボジア仏教の信仰対象でもあることを知る。
熱心に礼拝する親娘。 -
12)−21
それから プノンペン発祥に関わる 「ワットプノン」へ行く。
写真は丘の登り口。 -
12)−22
日本の狛犬のような 玄関の守り -
12)−23
タイのお寺と酷似。お賽銭も誰でも取れるところに。 -
12)−24
小高い丘の上なので プノンペンの全貌がそれなりに見渡せる。
残念ながら「カンボジア日本友好橋」を私は見つけられなかった。
お寺に隣接して中国風の礼拝所併設。多くの人が熱心にお参りしていた。
日本も神仏混合の経験もあり、何となく理解できる。
キリスト教ではありえないことだろう。仏教の特質?それとも近代化の遅れ? -
12)−25
ついでに プノンペン最大の市場「セントラル・マーケット」に。
ベトナムの市場よりは買いやすいが 買う気がしない。 -
12)−26
市場の中心は「金製品」「宝石」類。
自国の通貨を信じられない不幸を感じる。
屋外では 地雷に触れたためか 足を失くした人の募金を見かける。 -
12)−27
ホテルに帰り 一休み。
それから近所のカンボジア料理店へ。午後1時を回っていたが 外国人客で一杯。
西欧人が好む 異国風の庭園を造っていた。
果物のデザートも注文したので 10ドル。 -
13)−1
2月7日(木)
朝 予約しておいたトゥクトゥクで 「トゥール・スレン博物館」へ。
ここでポルポト政権下 監禁 取り調べ、拷問、虐殺が行われた。
1975年当時 カンボジアの人口は750万人程度と推定されている。そこで100万人以上の人間が虐殺された。(虐殺の人数は正確には分かっていない。)
写真はその入り口
私の行った時 多くの西欧人が見学に来ていたが 東洋人は居なかった。 -
13)ー2
「トゥール・スレン博物館」は元高等学校の施設。
道路を隔てれば 普通の民家が並ぶ。
(当時がどうであったかは分からないが、野中の一軒家の高校でなかったのは推測できる。) -
13)−3
教室が 監禁部屋に。
今はむき出しのベットの骨組みと 監禁拷問の道具だけ。 -
13)−4
展示室には実際の様子を描いた絵が残されていた。
黒板の残る部屋に詰め込みの雑魚寝状況。 -
13)−5
展示室には亡くなった人達の顔写真が。表情に無念さが伝わってくる。
(官僚主義の生真面目さで死亡者の生前 直前 あるいは死後のの写真を記録 それが残る。)
私には言葉が分からないが 稀有に生きて脱出できた人の録音と看守の証言テープがあった。 -
13)−6
何故か展示室の一室に特別企画か 「沖縄・カンボジア平和博物館協力事業」
の展示があり、将来への希望が展示されていた。 -
13)−7
旧校庭の木の下で 暫し一服。
ポルポト虐殺は 私の生きている時代に起こった。
当時のことを思い出しながら 深く考えた。
世界の周辺環境の理由があるにせよ 日本政府はポルポト政権時代のカンボジアを援助した。国連の場でポルポト政権を正統と認めた。それが日本の利益になると考えたから。私もその日本政府を黙認していた。
多分 高校の周辺住民も 隣で何かが起きているのは気づいていただろうけれど
見て見ぬふりをした。自分や家族ののことを考えたら せざるを得なっかたにせよ。
西欧の人は こうして この虐殺の場に訪ねてくる。東洋の人は圧倒的に少ない。それは何故だろう。 -
13)−8
答えの出ぬまま 郊外12キロの「キリング・フィールド」(処刑場)に向かった。
写真は「キリング・フィールド」中央 遺骨の収まった慰霊塔。
(入口で日本語のイヤフォンガイドを貸し出してくれる。) -
13)−9
慰霊塔内部の 数段に渡る 頭蓋骨 -
13)−10
遺体が掘り起こされた穴が周辺に散在。 -
13)−11
まだ 骨片が残る穴も。 -
13)−12
この地も 周辺は農地で 処刑場の動きを気づかれないように色んなカムフラージュはしていたであろうが、当時も今と同じように畑で働いて人はいたはず。
(一説によれば国民の5人の一人が殺される) 大量虐殺は 日常の直ぐ横で行われている。
手が柔らかい(非労働者の印)理由だけでここに連れてこられて断罪される。
生後数か月の赤ん坊も木に打ち付けられて殺される。「腐った林檎は箱ごと捨てる」の論理で -
13)−13
「クメール・ルージュ裁判」は やっと2006年に開始され、始めて「トゥール・スレン刑務所」の所長に 2012年12月に終身刑の最終判決が降りた。
この遅さは 国際社会 カンボジアには ポルポトの虐殺を過去のことと蓋を閉めたがっている人達もいると考えざるを得ない。
日本は裁判の運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出して お金の貢献はしているが 日本の国民はクメール・ルージュ裁判は遠い異国のことと思ってる。
写真は跡地公園に咲いていた赤い花 -
13)−14
やはり キリング・フィールドを訪れる東洋人は少なかった。東洋人の中で起こったことなのに。
恩讐の彼方にと 仏教的な「慰霊」で済ませてしまうことなのだろうか?
虐殺の間接当事者(ポルポトを生み出し、協力した者・国)は知らぬ顔をして 生きているのに。
併設の資料館には当時の様子を描いた 暗い絵が数点展示されていた。
これで殺された人は慰めらて 納得しているのだろうか?将来二度と起きないと誓えるのだろうか?
重い気持ちで後にした。 -
13)−15
プノンペンへの帰り道 都市化の流れは キリングフィールドの近くまで来ていて 丁度昼時分だったので 高校生や中学生が大量に道路に出て来ていた。
虐殺から30年以上たち カンボジアの人口も2倍の1500万人を超え、新しい時代が来ているのも 認めざるを得ない現実だった。
また 交通整理の警官が 道路に出て 一生懸命交通整理をしているのを見ると 公務員の「公僕」の意識が日本に近いと嬉しかった。 -
13)−16
都心部に戻り 新しい商業施設「ソバンナショッピングセンター」へ寄る。
玄関には「シアヌーク殿下」の遺影が。 -
13)−17
建物のハード面は先進国並みだが テナント構成には無理があるように見えた。ウィークデイの昼下がりで 客数は少ない。 -
13)−18
ホテル近くのスーパー「ラッキーマート」も入店していた。 -
13)−19
午後 ホテル近くを散策。
都心の大きな「ワット・ランカー」に立ち寄る。
本日は「万仏節」だとかで 参詣したが 時間帯が異なったためか
森閑とした雰囲気。
写真は 座布団だけ用意された仏殿。 -
13)−20
裏に回って外に出たので 仏僧の日常生活に触れる。
洗濯、大工仕事、応対、ゴミ処理と結構生活雑事が多そう。 -
13)−21
遅い昼食に 探していた インドカレーの店が無くなっていたので
出会った 「日本語メニューあります」のビラにつられて 別のカレー店へ。
量は多かったが 店の選択誤り。美味しくない。 -
13)−22
5時頃 再度外出 マッサージを受ける。1時間8ドル
「御足」の店は繁盛していたが あまりマッサージの効果はなし。
帰りに 夕食用のベーグルパンを買って帰る。 -
14)−1
2月8日(金)
昨夜から下痢。こちらに来て 始めてお腹を壊す。原因特定できず。
朝10時半 ホテルチェックアウト。空港へ。
写真は プノンペンでお世話になったトゥクトゥクとドライバー。
運転は上手いが 昔のカミカゼタクシー。 -
14)−2
空港内部は広い。 閑散としていた。 -
14)−3
来た時と同じ型の飛行機。 -
14)−4
シュリムアップ空港に着く。 -
14)−5
タクシーでホテルへ。更に地方へ来た感じ。
街の喧騒が少ない。
ハングル文字の看板も目につく。
ドライバーは英語が上手い。滞在中の計画を話しかけてくるので 少し警戒。 -
14)−6
ホテルは「アンコールホリデイホテル」(一泊4300円)
ここも古いが 町の中心に立地して 格式は高そう。
部屋での喫煙は禁止。(今回の旅行で禁煙は こことビエンチャンのホテルだけ。)
ロビーにはいつもの「祭壇」が。 -
14)−7
夕方 「オールドマーケット」に歩いて 出かける。
途中で「クロマー・ツアー」に寄り、翌々日の一日観光を申し込む。
(「アンコールワット郊外のバンテアイ・スレイとトンレサップ湖」影絵ディナー付52ドル)
夜市での食事は大事を取って諦め スーパーで買って帰る。ここも「ラッキーマート」(外人用の感じ。)があった。 -
15)−1
2月9日(土)
今回の旅行の半分が終わった。ホッとした。
朝食はプールサイドで取る。
質、量、サービスともに一級レベル。 -
15)−2
日本で「とらバス」「アンコール・トム、アンコール・ワット」の一日日本語ツアーを申し込んでいた。(2400円)
ホテルに迎えに来てくれて 本日の客は 私一人と判明。(専用車で日本語ガイド付きの気分。)
最初に 一二世紀頃建造の アンコール・トムへ。
途中 料金所で三日見学券顔写真付を購入。
写真は南大門の入り口
周囲は堀が巡っている。(東洋、西洋共通の様式?) -
15)−3
「バイヨン」へ。
石の多用は トルコの「エフェス」遺跡を思い出す。 -
15)−4
回廊のレリーフは細かく 当時の物語を再現。
王の権威ではなく 生活の実態を掘り込んだ理由は何だったのか ガイドさんに尋ねたが 伝わらなかったのか 適切な回答は無かった。 -
15)−5
躍動感伝わるレリーフ -
15)−6
現在も信仰の対象。
仏像は後世に持ち込まれたものらしいが。 -
15)−7
全容。
中国人観光客が多い。
(旧正月休暇の影響。)
観光地の賑わいを呈して バイヨンの中心「観世音菩薩四面塔」では 上手い具合の写真撮れず。 -
15))−8
象のテラスに行くところで 見かけた 遺跡の破壊の跡。
ここも ポルポト軍が陣営を築き 破壊されたとのこと。 -
15)−9
王宮は木造であったために、何も残っていないが、石作りのところは残っている。
(レリ−フの頭部が削り取られた跡も。) -
15)−10
レリ-フの頭部。 -
15)−11
それから 追加で 近くの「タ・プローム」ヘ。
東西約一キロ、南北約0、7キロの石の塀に囲まれ、日本の寺院の雰囲気。
内部はとにかく自然の復元力の偉大さに圧倒される。 -
15)−12
木の根の間に 仏頭が見える。 -
15)−13
榕樹「ガジュマル」の生命力を見せつけられる。 -
15)−14
門の外では 障害者の方のカンボジア音楽の演奏。
日本を思い出す、音色。 -
15)−15
それから 街に帰り 昼食。
日本のお鍋。
ガイドさんに 滞在中4っ日間の予定をかなりしつこく聞かれ、根負けして 明後日のツアーを申し込む。(なかなか良い営業マン。)
昼食後 ホテルまで送って貰って 一休み。約2時間。 -
15)−16
2時間後ツアー再開。
暑い日中を避けるのは 高齢者には良い方法だとは思う。
西の「西塔門」から入る。 -
15)−17
「西塔門」から 外濠を 特徴のある「目隠し」スリット越しに写す。
スリットは「連子」と称するらしい。 -
15)−17
「西塔門」のレリーフ。艶めかしい。 -
15)−18
左右の「聖池」を従えて 遠くにアンコールワットの中心部が見えてくる。 -
15)−19
左の聖池越しに 中心部を写す。 -
15)−20
第一回廊を通り 第二回廊を通ると中央塔が見えてくる。
かなり急な階段。ガイドさんはここまでで 待ってくれている。 -
15)−21
最上階は観光客でいっぱい。
外を見れば かなり高いところから ジャングルが広がる。 -
15)−22
最上階の屋上ベランダからは 更にその上に伸びる「塔」がまじか見える。 -
15)−23
ここにも 現在も信仰の対象の仏像があり、観光客のざわつきとは無縁に祈る人達がいた。 -
15)−24
遠くにバルーンが見えた。明日の朝はあちら側から眺めると期待が膨らんだ。 -
15)−25
第二回廊に降り ガイドさんに再会。 -
15)−26
帰途 もう一度 振り返ると 写真で見慣れたアンコールワットの姿が。
老人には 一日中 見学していて 結構 疲れた。 -
15)−27
夜は ホテルの隣のアプサラ・ダンス・ショーを見学しながらビュッフェ・ディナーを食べれる「クーレン?」を予約して 一人で見に行った。
満席で、開場時から一杯食べたので ショーは飽きて途中で帰った。 -
16)−1
2月10日(日)
朝5時20分ホテルに旅行社からピックアップのトゥクトゥクのドライバーが迎えに来る。
まだ暗い中をバルーン搭乗場所に向かう。道路には早朝の朝日を見に行く車 多し。
搭乗場所では 他に日本人女性2人が待機中。 -
16)−2
夜が明けそうになって 本日天候不適に依って 「中止」と連絡を受ける。
確かに曇り空とは言えるとは思うが 「折角日本から来たのに。曇りでも上から見たい」と釈然とはしない。
旅行社のスケッチトラベルから電話があり、「受け取った23ドル中 15ドルを返還する。」とのこと。
他の二人は 地上から朝日を浴びた「アンコールワット」を見ようと 早速行動開始。
私のドライバーは次の予約が入っているとのこと。
仕方がないのでホテルに引き返す。 -
16)−3
ホテルに一旦帰り、朝食、それから先日予約した 一日ツアーのバスを待つ。
本日のツアーは日本人4人。
まず郊外の「パンテアイ・スレイ」に行く。10世紀に建てられ、「女の砦」の意味を持つそうだ。
「東洋のモナリザ」のデバターで有名らしいので選択をした。
約1時間掛かって到着。 -
16)−4
昨日の遺跡とは違い こじんまりした規模。
入口も狭い。
但し、有名なためか 中国人と多分アメリカ人等の観光客の数は多い。 -
16)−5
多分 これが「東洋のモナリザ」?
近ずけれない。 -
16)−6
何となく 遺跡には 女性用の感じが漂っている。 -
16)−7
これも「東洋のモナリザ」こちらが本当らしいが これも近ずけれない。
観光客が多くて ゆっくり見ていられない。 -
16)−8
池に睡蓮が咲いていた。 -
16)−9
少し離れたところから写した パンテアイ・スレイ中心部の全景。 -
16)−10
帰途立ち寄った 12世紀初頭建造「パンテアイ・サムレ」の前景 -
16)−11
「サムレ族の砦」という意味らしいが 確かに 高い塀で寺院だが要塞のようでもある。 -
16)−12
中は状態も良く 狭いが手が込んでいる。 -
16)−13
東西、南北の各門から向こう側を見通せれる。 -
16)−14
中央付近に ベトナムのミーソン遺跡で見た 男女のシンボルの組み合わせが 大切そうにおかれていた。 -
16)−15
回廊には一匹の猫がいた。
さすがにここは観光客少なし。 -
16)−16
街道沿いの出店が出ている一角で 散策の機会を得る。
ここはアンコールワットに近くて 電気が来ているが 途中 電柱もなく勿論TVのアンテナもなく 下が空間の高床式で屋根・壁が自然素材の村落が続いた。
貧しさと文明の波及度合いは 想像以上の状況。私有敷地境界の概念も薄そうだった。 -
16)−17
この辺りは たまに観光客も立ち寄り、現金収入の機会もあるのかなと思った。
小学3,4生位の女の子が 何かを売りに来て ちょうど旅行社からのプレゼントに ドラえもんのカンボジア語の漫画本を受け取っていたので 荷物処理に幸いと バスに戻り手渡した。女の子は にこっと笑い、バスが去るまで手を振っていた。 -
16)−18
一旦 ツアーバスは 街中に帰り ランチに。 -
16)−19
店内は日本人ツアー観光客ばかり。
料理はカンボジア料理でもう一つ。
食後 午後のツアー参加者2名増員の時間待ちの為
別の日本人用「お土産店」に寄る
。
氷のデザートを買い 4人でシェア。美味しかった。
写真は美味しくない方のカンボジア料理。 -
16)−20
それから 2人を加え ツアー客6人で 市の南部のトレサップ湖へ1時間ほど走り、クルーズ船乗り場へ。
途中 ハングル語の看板が見られ、この僻地まで韓国は来ているのかと驚く。
写真はクルーズ船から乗り場を写す。泥色の川。 -
16)−21
狭いクルーズ船。同じようなタイプの船が何艘も。
中学生と高校生位の年齢の若い乗組員 -
16)−22
船は「トレサップ湖」に。 -
16)−23
湖の水上生活者の船の一群が見えてくる。見える範囲で100隻以上。
後で知ったが 水上生活者は100万人とか。 -
16)−24
犬も乗っている。 -
16)−25
写真の右に見える 大型の観光売店拠点浮きドックに接岸し、説明資料パネル等の案内を受ける。 -
16)−26
雨季の面積で琵琶湖の約25倍。(乾季で4倍。)
確かに広い。メコン川の自然のダム的要素も。 -
16)−27
子どもが蛇を連れて来て 写真を撮らせ 観光客から1ドルの収入を。
ドックから離れて子ども同士で タライ船に乗り 遊んでいるところを写す。 -
16)−28
岸に戻り 自然の堤防の陸側を見ると 緑の草原。
「トレサップ湖」が豊かな自然を作り出しているのが分かる。
湖上の100万人の生活を支えている。 -
16)−29
疲れたので 私はオールドマーケット見学をパスして ホテルへ一人帰る。
シャワーを浴び 6時半から 影絵ショー付き夕飯に参加。(夕飯ツアーは二人だけ。)
ベトナムのハイフォンのメーカー現地駐在員の方で 30代後半とお見受けしたが その男性から ベトナム等のことをお聞きしながら食事をした。現役の方の苦労話を含め 参考になった。
それで 食事のことも 影絵のことも記憶に残っていない。
夜ホテルに明日のツアーについて ガイドの上司から 電話があった。明日のツアーは私一人の為 45ドルをプラス15ドルして60ドルにして欲しいと。了解する。 -
17)−1
2月11日(月)
朝食会場も中国人のグループで満席。
2月10日が今年の旧正月当日。これから 旅行する時 中国の方と複合するエリアはその時期を避けないと 混雑、価格高騰の可能性があることを知る。
8時半 ガイドさんが迎えにくる。一昨日のガイドさん、本日は乗用車でのツアー。 -
17)−2
まず 南東13キロ付近の「ロリュオス遺跡群」へ。
その中の一つ「ロレイ」(9世紀頃建造) -
17)−3
手頃な大きさで 親しみを感じる。 -
17)−4
傍らに いつの時代か分からないが石碑があった。ガイドさんは読めない。文字があったことに興味を持った。 -
17)−5
敷地内に現在も僧院があり、僧の姿も。 -
17)−6
次に「プリア・コー」(9世紀頃建造)へ。 アンコール遺跡中最古らしい。
敷地の入り口からの全景 -
17)−7
もう少し近ずく。
この辺りの遺跡には 土産物屋も少なく、観光客も少ない。 -
17)−8
この付近で 「ドサッ」と音がしたので そちらを見ると 青緑色原色の蛇が 石積みから落ちて 慌てて石の間に隠れた。ガイドさんも驚いていた。 -
17)−9
塔の内部 -
17)−10
次に 規模的には少し 大きな「パコン}(9世紀建造)へ。ヒンズー教寺院。
最初のピラミッド状の階層寺院だそうだ。 -
17)−11
左右の紅白の花に浮かぶ塔 -
17)−12
更に近づく。 -
17)−13
壁には砂岩の石積みに刻まれたレリ-フが。
アンコールワットのレリーフの原型と言う気がした。 -
17)−14
塔の内部には 現代のものらしい 小さな仏像が収まっていた。 -
17)−15
塔に登り、上部から 写す。
暑い。 -
17)−16
それから 街の方に戻り シュリムアップ最大の市場「マーケット」に立ち寄ってもらう。 -
17)−17
市場の中心には 金、貴金属売り場。客はほとんど居ないが。
貨幣を信じられなけば この市場が隆盛するのかと思った。 -
17)−18
市場では生活用品があふれ 独特の臭い。
外に出て サトウキビジュースを飲む。 -
17)−19
それから 街に帰り、昼食。
時間が早すぎて (11時ごろ)だれも客は居ず。
終わって出かける頃 お客が入ってくる。日本人ツアー客専用みたい。
一昨日のように ホテルで休憩の時間を取りたくて 交渉したが ガイドさんに負けて 次の北部の観光へ。 -
17)−20
最初に「ブリア・カン」(12世紀末 アンコールワットと同時期 建造)へ。
駐車場から長い参道。(日本の灯篭が並ぶ参道に似ている。) -
17)−21
濠を渡り -
17)−22
やっと入り口の感じ。(昼食後の暑さに参る。) -
17)−23
また入口
正直この辺りの記憶は無い。
ツアーの帰りにガイドさんにどこを行ったのか「歩き方」の写真を開けて 示して貰った。
ブリア・カンは行ったでしょうと言われも 二階建ての建物を見た記憶は残っていない。 -
17)−24
寺院内の破壊も酷い。 -
17)−25
ただひたすら 反対側の出口を目指す。 -
17)ー26
途中で回廊の空間部分もあるが、立ち寄らず、 -
17)−27
三基のリンガが納められていた 中央通路のリンガ台。 -
17)ー28
崩れ落ちた脇の通路。
たしか ホルポト軍の破壊と説明したはずだが、ガイドさんはポルポト(「悪い人」との言い方はしたが)の破壊に触れたくなそうだった。カンボジアの人にはそれなりの理由があるのかと推測した。 -
17)−29
仏陀像のレリーフ。 -
17)−30
やっと東門に -
17)−31
ガジュマルの樹勢と人間の戦い。 -
17)−32
東門を参道側から写す。
後で調べると この写真右部分に 二階建ての建造物があったはず。
直線的に歩いたので気づかず。 -
17)−33
東側の参道から
「ブリア・カン」を振り返る。 -
17)−34
次に「ニャック・ポアン」へ
車を降りると 池の風景が広がり、気分が晴れ晴れ。
池の上を流れる風も少し涼しい。 -
17)−35
湿地を木橋で渡り、遺跡へ。
ガイドさんが先導。 -
17)−36
木道の向こうに「ニャック・ポアン」遺跡が見えてくる。 -
17)−37
12世紀末建造の治水に関する信仰の寺院らしいが 保存の為 見学エリアを制限。 -
17)−38
遠くから眺めるだけ。 -
17)−39
それから 最後の見学地「タ・ソム」12世紀末建造へ。 -
17)−40
西門から入り、 -
17)−41
東門から出る。
(内部はそれなりに経年破壊が広がっている。) -
17)−42
東門を振り返るとリエップという木の根が。
これ以上遺跡を見ても 印象がこんがらがるだけと 見学は断念して 街の「キリング・フィールド」に帰り寄って貰う。
(お金を支払っても 年寄りは昼食後の休憩を取った方が 良かったと反省。)
アンコールワット エリアには 観光地として有名なところだけでなく クメール文化の栄華を 静かに残す いろんな遺跡があることは理解できた。 -
17)−43
写真はキリング・フィールドの入り口(実際は隣りの「戦士慰霊塔」の入り口)
観光の表通りから 一本奥まった通りに面する。それまで 近くを数度通っていたが 案内されるまで 気づかなかった。 -
17)ー44
この地(の隣)でも 虐殺が行われた。
実際は戦士慰霊塔(日本に帰り、調べているうちに分かった。)
何故ガイドさんが私を騙し キリング・フィールドの慰霊塔ではなくて隣の戦士慰霊塔に案内したのか今となっては不明だが 多分触れて欲しくはなかったのであろう。 -
17)−45
殺された人の名板と思ったが 戦死者の名板?
お寺の様相。(当然「残虐さ」の表現は控えているように思えた。) -
17)−46
それから ホテルに帰る。ガイドさんと運転手さんにお礼のチップを渡して分かれる。
ホテルで一休み。
夕方 翌日搭乗予定のリコンファームをしに ラオス航空の航空会社の事務所まで歩いて出かける。(シュリムアップの旅行社の人に 連絡しておいた方が安全と勧められたたため。)
航空会社の男性係り員の対応からは 必要だったかどうかは判断できず。
その帰り道 盲目の方のマッサージ屋に寄る。(2時間 10ドル。)
熱心に施術してくれたが、チェンマイのような 劇的な感動は無かった。
写真は翌日空港に行くとき撮った「アンコール・マッサージ・バイ・ブラインド」の店舗と看板。 -
18)−1
2月12日(火)
ゆっくり 朝「オールド・マーケット」で 妻に頼まれていた 土産物を探す。
シュリムアップ川に屋根付きの橋が数本あり、そこで一服しながら 買い物を楽しむ。 -
18)−2
川の反対側にも 新しい土産物屋のマーケットがあり、そこでも探す。
中国のツアー客はこちらに一杯来ていた。私は30分5ドルの観光客用フットマッサーを受けながら 行き交う人をぼんやり眺める。
カンボジアの人はおとなしい人が多いなぁと思う。周辺の国に翻弄されているなぁと思う。
12時にホテルをチェックアウトして 空港に向かう。 -
18)−3
空港では 時間があったので レストランに入り ランチを取りながら ネットに接続して過ごす。
昼の時間帯の為か 空港内は閑散。
空港内ではシアヌーク殿下の遺影は見当たらず、考えれば 国葬期間は終了したのか シュムリアップでは一度も気づかなかった。 -
18)−4
本日 搭乗のラオス航空の飛行機 -
18)−5
途中 着陸した ラオスの「パクセー空港」 -
18)−6
飛行中 左側に メコン川がずーと流れていた。
飛行機の上から眺めると ラオスは 山が多く 幾筋もの煙が野山から流れているように見えた。(遠いので自信はないが。) -
18)−7
暗くなって ルアンパバーン空港に到着。
日本の20年位前の地方空港のイメージ。
何となく 空港の係官は 朴訥な感じで 社会主義の国家に来たと 勝手に緊張する。 -
18)−8
飛行場からは 乗合タクシーでホテルへ。ドルで7ドルを支払い。(同乗 陽気なイタリア人のカップル。)
街が暗い。Agodaを通して予約していたホテルに着いた。 事情はよく分からないが 隣のゲストハウス(VILLA CHITDARA)へ案内される。結果に不満はないが。写真は木製品を多用した室内。 -
18)−9
暗い夜道を メインストリートの「サッカリン通り」に出て 夕食の所を探すが予約で一杯と断られ 面倒になり 地元の食堂に入る。言葉の分からない外国人の扱いに慣れた店で 結構美味いラオス料理を食べさせてくれる。タイバーツで支払う。(120バーツ 約400円 一昨年のチェンマイより少し高い気がした。) (年寄りのおばさんが親切。) -
19)−1
2月13日(水)
朝 5時半過ぎ 鶏の鳴き声に目を覚まし、有名な朝の托鉢が始まったのかと 意識が少し戻る。外の物音が気になり、ベランダの扉を開けると、暗闇がまだ残る中 敷地の外から 女性が外から話しかけてくる。適当に英語で答えて ベッドに戻り もう一度眠りに付こうとするが、眠れず。
仕方がないので 6時になり 様子見に外に出る。そのおばさんが近づいて来て、托鉢に供する食べ物を販売してくる。(100バーツ約300円で購入。)
6時半にならないと 托鉢は始まらないそうなので 「サッカリン通り」に出ると 托鉢を待つ多くの人が集まってくる。写真は薄明りのサッカリン通り。 -
19)−2
お寺の方に歩いて行くと 托鉢の出発を待つ僧が集まってきており 何かのグループで出発して行く。 -
19)−3
出発を確認して ブラブラとゲストハウスの前に戻る。
写真は 購入したお供え物。 -
19)−4
7時近くになって 托鉢僧の一団が通りかかる。
最初は グループが途切れ途切れに。 -
19)−5
後は 連続して 途切れなく 僧の列が。
こちらも 中腰で 対応に必死の感じ。
途中 お供えの品々が切れると 後ろから 補充。
3皿目になるとこちらも疲れ 僧の抱える托鉢受けの容器も満杯近いので
補充を断るが ジェスチャーで続けろと即される。
仕方がないかと お供えを続ける。
僧の列が途絶えたところで チャンスと立ち上がり離れる。
それでも 僧の列は続く。(圧巻) -
19)−6
7時過ぎ やっと終わった。
写真を撮り終わると 補充してくれた女性が二名 私の所に来て お金を要求する。仕方がないかとポケットから タイバーツを出すと 1000バーツ札を指し示す。これはおかしいと少額のバーツ札を渡し、ゲストハウスの人に仲介してもらおうと 敷地内に戻る。追いかけてはこなかった。 -
19)−7
それから 私の朝食。
ゲストハウスは 裏の庭を整備していて 庭を見ながら食べる。 -
19)−8
種類は少ないが センスの良い朝食。 -
19)−9
それから 街の探索に出かける。
ます 王宮跡を目指す。
全景の写真を撮ろうと 向かい側の階段を登り、途中で「プーシー」への道であることに気付きそのまま 登る。
写真は王宮前の入り口付近。 -
19)−10
「プーシーの丘」(高さ150メータ)の上から ルアンパバーンの街並みを見渡せれる。
向こうにメコン川の流れが見える。 -
19)−11
丘の上には 小さな寺院が。 -
19)−12
もう一度 王宮跡に戻り、博物館に入ろうとするが 「ロッカーにバックや写真機を預けないと 入場できない」と女性係官に阻止される。ロッカーの係官は「満杯」と利用ができない。先ほど入場券を販売した係官は その事情は無視して販売を続ける。
なんか官僚主義の典型。外から眺めて 諦めて帰る。
確かに 旧正月休暇の中国人で観光地は満杯なのはわかるが。 -
19)−13
ゲストハウスで一休みして 街の代表寺院「ワット・シェントーン」へ。 -
19)−14
タイともカンボジアとも 少し異なった様式の寺院。
扉のレリーフも人間臭さが。 -
19)−15
寺院の中は 日本を少し思い出させる古さの歴史を感じる。(16世紀建立) -
19)−16
後ろに涅槃仏が。 -
!9)−17
寺院の中で見かけた 少年僧と猫 -
19)−18
ランチは寺院近くのレストランで。(200バーツ)
高いが美味い。 -
19)−19
最初 レストランを出た近くで トゥクトゥクを拾い、織物工房の村に行ってもらった。値段交渉は 「歩き方」に記載されていた価格で 強引だが了解をとった。
漢字の看板の掛かる店先で降ろし ここだと言う。おかしいと思ったが 取りあえず降りて店に近ずいたが 商品から 明らかに違う。運転手にもう一度ガイドブックを示したら二倍の料金を言う。怒って 元来た道を歩き始めたら 暫くして 後ろから追いかけて来て 「OK」と言い、乗るように促す。
取りあえず乗ったが 、危険を感じて 見覚えのあるところで降ろしてもらい約束の料金を払った。
それからゲストハウスに戻り ハウスの人を介して 写真のトゥクトゥクを雇い 再度織物工芸の村へ。(新しい料金はやはり二倍の価格。)
-
19)−20
写真は織物工房の村「パーンサーンコーン&パーンシェンレック」の村道。(約30店舗の工房が点在。) -
19)−21
工房の中では織り機が並ぶ。
ただ 客は少なく ドル表示の価格結構高い。
絹織物だから戯れで買う金額とは異なることは理解できるが
いざ日本に持って帰って どう使うかとなると躊躇してしまう。
少し気を引いたものもあり 価格を尋ねてみた。
「いくらなら買うのか?」と逆に迫れらたが こちらも自信が無く 答えられず。 -
19)−22
手漉きの紙の工房もあり 見学を楽しむだけになってしまった。 -
19)−23
夕刻 ゲストハウス近くを散策。
お寺では夕べのお勤めが始まっていた。お経のトーンは日本と同じ。在家の人も加わっていたので 私も暫し瞑目して参加。
帰りに 扉のところに 各国語記載で托鉢見学時の注意が張り出されていた。
文字が小さく夕やみが迫っていたので 大体しか読み取れなかった。写真撮影時の注意とか 販売されている供物の注意・禁止?とかが記載されていた。 -
19)−24
夕食はそのお寺近くのレストランでスリーコースディナーを食べた。(1000バーツ 高かったけれど 本格的。) -
19)−25
夜は街中央の夜市へ。
沢山の出店数。中国人観光客が携帯無線で連絡を取りながら繰り出しているため 中国語がそこかしこで聞こえる。
ショートケーキを買って帰る。フランス文化?美味い。 -
20)−1
2月14日(木)
昨日のことがあったので 本日はベランダから朝の托鉢を眺める。 -
20)−2
昨日の女性 居ないのかと思ったら 隣の向かいのホテルに宿泊していた中国人と今日はトラブル。中国人は大声で怒鳴り 一銭も追加は払っていなかった。
ちょっと複雑な気分。
今朝から中国雲南州ナンバーの車は引き揚げ始める。旧正月休暇の終わり? -
20)−3
昨日午前中に予約しておいた「パークウー洞窟のクルーズ」(25ドル)に朝10時から参加。
写真はメコン川の船着き場 -
20)−4
船着き場に係留された「ナローボート」。 -
20)−5
定刻より かなり遅れて 上流に向かい出発。
流れは結構ある。 -
20)−6
両岸は自然の堤防。
カジュマルの木が持ちこたえようと抵抗しているのを幾つか見る。 -
20)−7
途中でおつまみの川海苔が出てくる。珍しい。
席は補助のテーブルも出て満席。
私はアルコールも飲まず、一人客で4人テーブルを占めているので 責任者風の女性にどうも嫌われたみたい。他の女性は優しかったが。 -
20)−8
途中で 観光村に上陸。 -
20)−9
昨日の織物工芸村以下のレベルで買うものなし。 -
20)−10
子犬がじゃれあっていた。 -
20)−11
結構高い険しい山も見えてくる。 -
20)−12
川縁に放牧された牛の群れ。
訪れた東南アジアでは 鶏や牛の家畜が囲いこまれずに 自由そうに餌を探す風景をよく見た。見慣れていなく不思議だった。(所有者は決まっているみたいだったが。) -
20)−13
「パークウー洞窟」の入り口船着き場。 -
20)ー14
洞窟内から川側を見る -
20)−15
洞窟内に4000体以上の仏像があるそうだが 規模は想像していたよりも小さな洞窟。 -
20)−16
私にはガイドがいなくて 最初は上部にもう一つの洞窟があることに気づかなかった。
(西欧人の観光客は専用のガイド連れが半分。そのガイドさんがサービスで英語の全体の連絡はしてくれていたが、観光案内まではしてくれない。英語で質問すれば答えてくれるが。)
写真はその上部の洞窟出入口。中は暗い。
上の洞窟に行った人は8組中私を含めて3組のみ。 -
20)−17
帰りのクルーズでランチ。初めてラオス料理のフルコースを食べる。日本料理を思い出す細やかさ。赤米も美味い。
私だけ写真の右側のスープが無かったので 例の女性に「スープは?」と質問したら 聞き返されて それから「no soup.」と邪見に言われ気分を害する。大分経って 別の女性が持ってきてくれたが。 -
20)−18
メコン川では 漁をする人 平地で畑を耕作する人 船を造る人 運ぶ人 そして川で遊ぶ子供たちと 川で生きる人たちの姿を見られた。 生活の中に川がしっかりあることが充分わかった。 -
20)−19
街に近ずいてくると 新築のモダンな家も見え 川には宿泊施設付のクルーズ船が見えた。
いつか 川風に吹かれ ゆったりと ベトナムからカンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー、中国まで こんな船でいけたらいいなぁと夢見た。勿論 現在は 滝の段差の物理的な問題はあるけれど。 -
20)−20
予定より1時間以上遅れて 3時半ごろハウスに帰り、休憩。
夜 昨夜に続いて夜市へ。
夜市では 中国人が減り、日本語も聞こえてくる。
記念に 山岳民族の布と安い刺繍を買う。
地元屋台市場(タラート)は凄い繁盛。安いが 買えず、食べれず。 -
20)−21
タラートにいた猫 -
21)−1
2月15日(金)
本日は道路に出て 朝の托鉢を写す。
写真はゲストハウス門前。 -
21)−2
ハウスの奥さん?も托鉢に供する。さすがに手馴れている。 -
21)−3
彼女は親切な人で なかなかのビジネスウーマン。フランス パリに2年居たことがあるとか。
ハウスにはフランス人の宿泊が多く 対応のフランス語もなめらか。英会話も私の英語より格段に上級。ラオスでその才能を生かせられば良いと思った。
(本日 例の販売女性は近くに見当たらなかった。) -
21)−4
今日も ガーデンでゆっくり朝食。 -
21)−5
空港に行く時間に余裕があったので 近くのマッサージ店へ行く。
施術者は若い女性で 丁寧に足マッサジーをしてくれた。(1時間4万キープ、400円)
ハウスで 空港までのタクシーを頼み 8ドルと言われたので 1000バーツをを支払った。お釣りが14万キープ。おかしいと思って再計算をお願いしたが やはり 14万キープ。
若い男性スタッフは 滞在中親切だったので 諦めた。ラオスではバーツのお釣りの端数は切り捨てられると聞いていたが 電卓を持ち出し計算する割には よく計算間違いをしていた。 -
21)−6
ルアンパバーンの空港で一寸アクシデント。
国内線だが パスポート管理などのイミグレーイションがあり、やっと狭い搭乗口前で待っていたら アナウンスで私の名前。何事かと イミグレーションを逆走して チェックインカウンターへ。窓口で聞くと 預けた手荷物に問題があるそうで そちらに行くように指示される。部屋に入ると 制服の係官が手荷物を開けるように と指示をする。女性の係りの人がうんざりした顔でライターと教えてくれた。それで一安心。探し出して放棄して一件落着。
搭乗が少し遅れて 私の席に老西欧人。私の搭乗券を示し 代わってくれるよう頼んだが それが何かと言う風で 通路側の席を示され諦める。 窓外の景色見れず。
写真はビエンチャン行の飛行機 -
21)−7
40分位の飛行でビエンチャンへ。国内線の到着で荷物を受け取り タクシーカウンターで行先を告げ 料金を支払い ホテルへ。
ビエンチャンのホテルは「アバロンホテル」(一泊4200円)
立地は良いがランクは大衆的。従業員は愛想のない人もいるが 多くの人は好感を持てた。
写真はホテルの玄関 玄関の狭い空間で朝食を取るのが原則。建物内禁煙。 -
21)−8
夕食を兼ね 近くの街歩きへ。
街には 白人が多いが風体から判断すると 崩れた感じ。
街にも 荒廃した感じを受ける。
日本語の旅行社に立ち寄ったが 有益な情報無さそう。
写真は 街中のお寺。公園のイメージ。 -
21)−9
一回りして 西欧風のレストランに入り チキン料理の夕食。食事は美味い。
写真はそのレストランから 外を写す。
チェーン展開の喫茶店に寄り ホテルに帰って 早めに寝る。
部屋の水栓の具合悪し。磨きこんでいるが設備の老朽化は目立つ。
ネットの接続状況も不安定。 -
22)−1
2月16日(土)
早朝から 外が騒がしい。怒鳴りあう声に聞こえる。
窓の外を見れば 隣りは空き地。周辺地図を見て 武道場の表示があり 多分それだろうと思う。 -
22)−2
朝食は種類も限られていたが スタッフの感じが良い。オムレツを焼いて玄関ロビーのテーブルまで届けてくれた。 -
22)−3
それから ラオス最大のマーケット「タラート・サオ」に行く。
写真はバスターミナル側の入り口。
実際は 本館、旧館、新館の3棟に分かれ ここは本館。 -
22)−4
本館を見て回り それから 旧館の布売り場で ラオス綿のショールがあり、
買い求める。3つで300バーツ約千円。
写真のマネキンが着用しているもの。 -
22)−5
ここも 本館、旧館、新館ともに 貴金属店が多くのスペースを閉め ラオスのキープ貨幣の信頼の無さを物語っている。
写真の旧館は暗い。客も少ない。 -
22)−6
本館に戻り 上階の食堂に行く。クーポン方式であまり考えずに 4000キープ分購入。各テナントの価格表を見て回ったら 一品大体2000キープ。(約200円) -
22)−7
仕方がないので 2回に分けることとして 取りあえず肉飯みたいなものを注文。セルフのお箸やスプーンを熱湯消毒できる設備があり 少し驚く。
昼前で客は少ない。 -
22)−8
新館は完成したばかりふうで 1階の入口は資生堂が占める。
東南アジア各国ともに 水準は異なるだろうが「美容院」の類の看板 店を 多く見た。理容は道端の露店だったが。(女性の力の強さかとも思った。) -
22)−9
新館は吹き抜け利用の超現代風。
そこを「僧」が見学?に歩いている風景を見ると ちょっと異様。
もっとも 日本の僧が妻帯している方が 彼等にはもっと異様だろうが。 -
22)ー10
もう一度 本館の食堂に帰り 麺を食べる。
昼過ぎで家族連れで一杯。(昔 日本でも見た風景。)
後で知ったが ラオスのここでは未使用クーポンの払い戻しはしてくれるみたい。 -
22)−11
一度 ホテルに帰り 休み 夕刻涼しくなって メコン川の夕日を見に出かける。
途中 コンビニまがいの店に入る。レジがあり レシートを呉れて安心。 -
22)−12
広いメコン川の河原に 静かに日が落ちる。
多くの市民が 土曜日と言うこともあるのか 堤防の広場に集まっている。 -
22)−13
堤防を降りると 夕闇の迫る中 まだ川の水たまりで漁をする女性の姿も。 -
22)−14
広い河原を突き抜けると メコン川の流れ。
この辺りの流れは結構速い。豊かな水量。 -
22)−15
一艘の船が着岸。
メコンの夕日を見るのが今回の旅の目的の一つだっただけに 満足。 -
22)−16
ただ 川面をよく見ると ところどころに泡が浮かんでいる。
先日の上流ルアンパバーンのクルーズでも 同じような泡が見えた。
川の汚染でなければ良いと願った。 -
22)−17
堤防の上では 夜市が開かれていて 多くの人で賑わっていた。中には事前価格表示の店もあった。安心して買いやすい。 -
22)−18
土曜日の夜の為か 屋台も大賑わい。
ホテル近くの店に入り 肉まんを頼む。2つで20バーツ約60円
一口食べると 美味そうだが 口の中に化学調味料の昔の記憶が広がる。
人々の健康に 味の素が貢献していれば良いと願わざるを得ない。 -
23)−1
2月17日(日)
前日予約していたトゥクトゥクで市内観光に出かける。
まず 街の中央パトゥーサイ(戦死者慰霊の門)へ。
上は展望台になっているが 階段の為登らず。 -
23)−2
パリの凱旋門を模したらしい。(フランス文化への憧れ?)
周辺は公園 官庁街。 -
23)−3
手入れされた公園。広くはないが 日本の皇居前公園? -
23)−4
隣接する 首相府? -
23)−5
それから ラオス人民軍歴史博物館へ。
ついでに寄ったが、日曜日で閉館。
(案内書では月曜日が休日になっていた。) -
23)−6
ビエンチャンのシンボルらしい「タート・ルアン」へ。 -
23)−7
確かに 熱心な仏教徒が拝んでいた。 -
23)−8
拝殿は狭い。 -
23)−9
敷地は 公園のようで 広いが 見るところもなく 30分も居られない。(暑いせいもあるが。)
僧のグループが 植木の整備をしていた。 -
23)−10
仕方がないので 案内書に記載されていた「タラート・レーン」(中国市場)へ行ってもらう。 -
23)−11
中国資本の屋内マーケットと記載されていたので 中国とラオスの経済関係の状況が 知れるかなぁと思っていた。
市場に客は皆無で 魅力のない商品が少しだけあり、空きテナントで半分ゴーストタウン。
ある意味では 中国の進出のレベルとラオス消費市場の底の浅さを知る。
予定より随分早く11時前にホテルに帰着。 -
23)−12
3時ごろ 部屋に居ても仕方がないので 近くの「ラオス国立博物館」へ行く。
途中 1000バーツ札をホテルのレセプションで細かくして貰おうとしたが、断られ、銀行の利用を案内される。日曜日なのに銀行の窓口はあいていて、無料で100バーツ札に両替えしてくれた。
一方 ラオス航空にリコンファームの電話をしたら 日曜日でお休みとのこと。
(翌 月曜日午前中に数度電話したらうまく繋がった。)
私の常識では なんかちぐはぐ。
写真は 博物館の前景 -
23)−13
ラオスは人口約600万人。その国力が現れた国立博物館。
(ラオスの2011年のGDPは日本の鳥取県のおよそ三分の一だそうだ。)
学芸員は若くて真面目そうな人だったが いかんともしようがない感じ。
内部は写真撮影禁止。 -
23)−14
政治体制は「マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による 社会主義一党独裁政治」だそうだ。 他の社会主義国と同じように一応 輝かしき人民革命党の歴史は賛美されているが 発展するラオスの将来展示に説得力はない。
むしろ 周辺諸外国に翻弄されてきた小国の悲哀を感じる。
庭には赤い花が満開。 -
23)−15
それから 先日夕食を食べたレストランの前のジュース屋さんで 休憩。
今日も外国人が集まっている。
「僻地」(ラオス)の時代に取り残された荒廃は 案外 先進国の競争に敗れた人間には 開き直った安堵の地なのかもしれないと思った。 -
23)−16
それから ブラブラ歩いて 夕食にラオスの食堂へ。店の人は言葉は分からなくても 親切。(鶏肉定食18000キープ、約180円) -
23)−17
夕方 ホテル近くの チェーン展開の喫茶店に行く。
本日も日本人客が数組。若い男性客が一人で居たので話しかけたら
「ビエンチャンは観光目的で来たら何も無いところですね。ただ まったりすろところですね。」と言われた。
同感。
ホテルの部屋に帰って ネットに接続しても極端に遅い。ゆっくりやるより仕方がないと開き直る。 -
24)−1
2月18日(月)
朝 時間つぶしに ホテル近くのマッサージ店で足マッサージ(1時間 180バーツ) 結構施術の腕は確か。
写真はその玄関。 -
24)−2
昼 チェックアウトして 荷物をホテルに預け、昨日の食堂へ。
本日は若いラオスの人で混んでいた。
日本の高校生か大学生位の年恰好。楽しそうだった。健康的に感じた。 -
24)−3
それから トゥクトゥクで空港へ。
タイ、カンボジア、ラオスとトゥクトゥクを経験したが 各国でその車両仕様が異なり 面白いものだと思った。
そういえば 東南アジア各国では 様相は異なるが「町の鉄工所」をよく見かけた。 日本で終戦後 町内に1、2軒あったのを思い出す。修理が大事にされた手工業の時代。半世紀たって 上場して世界市場に出て行った「町の鉄工所」もあったが 今は 日本の町では見かけなくなった。
東南アジアでは どうなるのだろうと考えた。 手工業でトゥクトゥクを作っている 「町の鉄工所」から 将来 トヨタやホンダが出てくるのだろうかと。
写真は ラオスのトゥクトゥク。(飛行場への道で) -
24)−4
ビエンチャンの国際空港は 立派なものだった。
中国系の航空機が駐機していたり ラオス航空の機材が中国製だったり、ボーディングブリッジの広告は中国の銀行だったりと 中国の進出に気づくが 私には表面的なものに思えた。
国際会議での中国寄りの姿勢も含め 小国の生き延びていく手段のように思えた。
空港の売店で2ドルとキープの残りで 竹製品を買う。店員さんは丁寧に包装してくれた。 -
24)−5
ベトナムのハノイに戻る飛行機から下を見ると 山の連続。南北を縦貫する道路(山の尾根を結ぶ道)はあったが 車両の運行できるものではなかった。
まだまだ ラオスの多くの人は自然に守られて 昔からの生活を続けられるのだと思った。 -
24)−6
ベトナムの領空に入り、ハノイに近ずくと、眼下の風景は都会に近ずいてきたと驚く。(カンボジア、ラオスを経験して)24日前に 初めてハノイを上空から見たイメ−ジとはとは随分違う。 -
24)−7
空港からタクシーでホテルへ。
大げさだが 喧騒の街 ハノイが懐かしい。
キャメリア4ホテルのスタッフも 私を勿論覚えてくれていて 歓迎してくれる。
部屋も前回よりグレードアップしてくれたみたい。(少なくとも湯沸し式のタンクは大型だった。) -
24)−8
ドンの支払いで間違えた思い出のレストランで夕食を食べ 今回は間違わずに支払う。(例の親切なウェートレスは残念ながら不在で見当たらず。)
(航空機料金を下げるため、成田から ハノイ経由ヤンゴン行き 往復早期割引券を購入。そのため 時間的には無駄をしているが 周遊してハノイに一旦戻る必要があった。) -
25)−1
2月19日(火)
朝、小雨で 10時過ぎ ホテルを出掛け「ホアンキエム湖」を目指す。
最初 道を間違え反対方向に歩く。
途中 街中の小規模なお寺があり、入る。 -
25)−2
中国 台湾のお寺と似ていて 中は整備されている。雑踏の中の異空間の雰囲気。
多くの参拝者が 静かにお参り中。
(ベトナムでは 僧の姿は見かけなかったが 仏教の国であることを知る。) -
25)−3
道を間違えていることに気づき 修正して 「ホアンキエム湖」に着く。
喧騒の都市のオアシス空間。 -
25)−4
湖に浮かぶ小島の「玉山祠」に参拝。
外国人観光客に交じって 熱心にお参りするベトナムの人もいる。 -
25)−5
湖の周りは公園になっていて 遊歩道が整備されている。
旧正月の飾りつけが残る。 -
25)−6
湖の周辺道路に面した一等地には「市人民委員会」の建物が悠然と建つ。
どうも 権威主義の殿堂みたいに見えて 好きになれない。
(遊歩道から写す。) -
25)−7
それから 近くの「女性博物館」へ。
柔らかい ピンク色の基調カラーに驚く。 -
25)−8
一部西欧の目を意識したのか ベトナム女性を多面的に捉えて ベトナム女性の強さがよく分かる。少数民族を「共に生きる同朋」の感じがよく出ている。
それで「ファッション」も現代的で垢抜けて見える。
女性が作り、運営している博物館の意図が伝わる。 -
25)−9
湖の遊歩道に戻り、散歩しながらホテルに戻る。
途中 朝の雨でベンチが濡れていて 座るのを諦めたら 反対側に座っていた 二人連れの 老婦人が自分たちが敷いていた 広告の紙を切り離し、手招きして これを使えと渡してくれる。
お礼を言って 受け取り それに座って ゆっくり煙草を吸う。ベトナム女性の一端を知る。 -
25)−10
ホテルを12時にチェックアウトして 前日予約しておいたタクシーで 陶芸の「バチャン」に行く。紅河沿いを郊外に走る。
途中の道で 3階建ての新しい 個人住宅をよく見かける。豊かそう。中産階級が、明確に育っているのを知る。(南ではあまり見かけなかった気がする。)
バチャンには30分程で着いた。
写真はバチャンの街の表通り。 -
25)−11
バチャンの店を覗いたが 買うものなし。売る気も観光用の特定の店を除いて無いように思えた。
通りも 少人数の外人観光客のみ。寂れた感じ。
1時間の滞在予定をタクシーのドライバーに告げていたが、時間つぶしに一苦労。
それから 空港に行ってもらう。
ハノイの東方向で 同じ東エリアのバチャンから北上すれば空港に行けるのかと
勝手に思っていたが 高速道路?を利用するためか 一度ハノイに戻り 空港へ。1時間以上の時間が掛かる。タクシー代はホテルのレセプションで交渉した通り20ドルと350千ドン。(ドンの残りを少額にする為 両通貨での変則支払い)
途中 都市勤労者用の高層アパ-ト群を見かける。10年前ぐらいの中国の様子を思い出す。また「METRO」の表示看板があり 郊外には地下鉄もと驚いたが ドイツ資本のスーパーの看板だった。 -
25)−12
空港でチェックインして サンドイッチの軽食。
食堂のガラス越しに 新しい空港の建設が進んでいるのが見える。
東南アジア各国の中で 一番日本に似ているのは ベトナムかなぁと思った。
過去に中国の文化を模倣導入し、海洋国家の一面もあり、世界に目を開き、工業国家への脱皮を図っている。日本が日露戦争で勝ったように ベトナムはアメリカに勝った。ただ過去栄光の共産党一党独裁で「ハンマーと鍬」の新しい中産階級の社会体制を作れるか疑問に思えるところも残るが。 -
25)−13
飛行機は定刻(16:35)に出発し、最後の訪問国ミャンマーへ。
写真はヤンゴン上空。眼下には水田地帯が広がる。 -
25)−14
ベトナム航空の飛行機の中では 機内食がサービスされる。
成田ーハノイ便よりは不味い。
東南アジアで搭乗した約10回の飛行機では 1時間以内の短時間飛行を除いて、
ランチボックス(サンドイッチと飲み物)が供された。凄く美味しいわけではないが 私には 食事の面倒から解放されて 助かった。 -
25)−15
ヤンゴン空港には時差が30分遅れで18時10分着。約2時間の飛行。
飛行機での東南アジアの狭さ、諸国の近接さを体感する。
写真はヤンゴン空港。
夕やみが近ずくなか 降り立って 空港施設に入り 社会資本の立ち遅れを痛感する。
空港内で100ドルをミャンマーチャット85,400Kに両替え。日本円は公定ルートでは 両替えできないことを知る。ドルの持ち合わせが少なく これからのことを思うと若干 焦る。 -
25)−16
空港から 予約していたホテルまでタクシーに乗る。
その間の道路は広く さすが英国の先進性の都市計画と思ったが、都心に近ずくにつれ 道路工事の渋滞に入る。日本の東急建設も加わった工事会社グループが施工していて驚く。
道路から見える看板類は英語表記が増える。タクシーのドライバーも訛りのある英語が上手い。
メイン道路から見える風景からは 他の国とは違い なんとなくヨーロッパの香がした。
ヤンゴンでのホテルは最初の2泊は 「パノラマホテル」(一泊9800円めちゃ高いが、最近 需給バランスがくずれ 高騰中とか。)
夜 9時近く ホテルの外に出て 買い物をしようと思ったが 店は閉まり、街は暗い。日本で言えば 東京駅の駅前に泊まっているホテル立地なのに。
歩くと 歩道の修復がされていなくて デコボコで危ない。
ネットの接続も不安定。 -
26)−1
2月20日(水)
朝2階の食堂で朝食を食べる。朝食内容は宿泊料を考えると不満だが まぁ満足。食堂で韓国人を見かける。
それから 街歩きに外出。
通りの高級そうなスーパーで 水のボトルを買い、レジで5000K札(約500円)を出したら 怪訝な顔。冷やした水の値段は150K(15円)だった。
ホテル代は急騰しているけれど 一般市民の生活必需品の値段は 私の感覚では極端に安い。
道路脇の露店で 中古本が並べられていた。固い内容の本が多く見られ、スーチー氏の写真が表紙の本も目についた。
ー -
26)−2
ヤンゴン川の方向に歩き 税関が近づくにつれ ヨーロッパの建物を思い出される風景。但し 近くで見ると耐久年数を超えた戦前の建物。
行き交うバスやタクシーも日本の中古車。(日本は左側通行、右ハンドルなのに、ここでは右側通行。) -
26)−3
道路の改装工事もダイナミックというより 歩行者無視。
写真のように 迂回の道はない。工事現場の中を歩くだけ。 -
26)−4
フェリー乗り場の露店の狭い中に車が入ってくる。 -
26)−5
フェリーの桟橋。多くの人が乗り込んでいく。
外国人用の切符売り場で切符を買うらしく、対岸に渡るのはやめる。 -
26)−6
出航して行くフェリー。
手前の岸はゴミの山。建物の陰では 数人のミャンマー人が賭博?ゲーム。
太陽の強い日差しの中 何となく バランスの悪さに不安感を持つ。 -
26)−7
税関近くで 目的のAIR KANBAWZAの事務所を見つけ、明日の飛行機のリコンファームを行う。
隣りのビルの看板にファミリーマートと書いてあったので、日本のコンビニエンスかと思い、入ってみると日本の100円ショップの商品を売る店。
帽子を昨日失くしていたので 求めるが 適当な商品はなし。 -
26)−8
「独立記念碑」の公園まで戻る。
公園は整備中で 外国人の私は入場料を払って入る。
独立記念碑の向こうは 「最高裁判所」の建物(英国植民地時代の建物)。 -
26)−9
公園の斜め隣の「スーレー・パヤー」(市街の中心に位置する寺院)に外国人専用入口から参拝。
大きなロータリーが 寺院の敷地。 -
26)−10
階段を登ると ピロティ状の境内。サンダルを脱いでいるので 焼きついたコンクリートの床面が足裏の皮膚に暑い。少数民族の衣装を着た人たちも参詣に。 -
26)−11
熱心にお参りする人の姿も。
日本の浅草寺を想起した。 -
26)−12
お寺の向こうにイスラム寺院が見える。
反対側には 十字架の教会も。 -
26)−13
ヤンゴンの街歩きをしていて 気づくのは 映画館の数。一等地の一階に映画館の入り口があり 利用されているみたい。昭和の昔 日本では見慣れた風景。 -
26)−14
駅近くには 新設の巨大なホテルの建物。
軍事政権下で新規投資が 全く止まっていた訳ではないみたい。 -
26)−15
日系企業の多く入る「SAKURA TOWER」も少し古いビルだが 目立った。 -
26)−16
ホテル近くの店で帽子の陳列があり購入。3500k 5000K札を出したらお釣りが無くて 奥さんが近くで崩してくる。 -
26)−17
その店の前から道路を挟んで 高架の駅を写す。日本で考えれば山手線の有楽町の駅に相当するところだろうけれど 列車の本数が少ないのか 走っている列車は見なかった。 -
26)−18
ホテル横のスーパーというより 多層階型小売店舗ビルの入り口。
(警備員が客のバックなどを別の袋に入れている?私はそのままで良いらしく 挨拶して素通り。)客数は思いのほか多かった。
上階に食堂もあったが 昼の食事用を購入して ホテルへ帰る。 -
26)−19
14時過ぎ シュエダゴォン・パヤーへタクシーで出掛ける。
途中 大きな池の公園の横を通り高級住宅街の道を抜けて坂を登る。
大きなホテルの広いアプローチの玄関みたいなところでタクシーが止まったが そこが外国人用の入り口。そこから案内されてエレベータで上に。
なんかお寺の参拝という気がしない。ホテルの催しものに参加している気分。
写真はその上階からヤンゴンの街を写す。 -
26)−20
さすがに 「シュエダゴォン・パヤー」はミャンマー最大の聖地。 とてつもなく大きく、金ぴか。 -
26)−21
多くの 参詣者も見かけた。
ただ 日本のように「本尊」という考え方はないらしい。境内では多くの仏様がいらした。
また 涅槃像の前で 一緒にごろ寝する姿を見かけた。 仏殿を通り抜ける風が気持ち良さそうだが 日本では見かけない姿。(はしたない理由で)
ミャンマーの潜在力には 圧倒されたが あまりの金ぴかに違和感も覚えた。 -
26)−22
ホテルに帰り後刻 夕食に再度外出。
道路の露店の出店が凄まじい。狭い通路を通り抜けるのが難しい程。
写真の花屋の露店の周辺はそれ程でもないが。 -
26)−23
探していたミャンマー料理の店が見つからないので 別の麺屋YKKOにはいる。
写真は店の入り口。(高級そう。) -
26)−24
麺と -
26)−25
ここは海に近いことを思い出し 海老の丸焼きを頼む。
支払いは全部で7750K(約800円) -
26)−26
帰りに スーパーで果物を買い、露店で「モンピャータレ」(日本のお好み焼きの簡素なもの)を買って帰る。
「モンピャータレ」は100K(10円)で美味かった。
この国では 外国人料金が色んなところで見られ その価格は安いけれど 現地生活価格はもっと安いことを理解した。いづれ物価上昇が生ずるだろうが。 -
27)−1
2月27日(木)
朝4時過ぎ ホテルのモーニングコールで起きる。(昨夜 携帯の目覚ましをミスセットしたみたいで 鳴らず。二重にモーニングコールを頼んでいて助かる。)
5時前チェックアウト。タクシーで空港へ。
AIR KANBAWZAのチェックインボックスは一番奥。(国内線の航空会社の数が多く わかりずらい。)
手書きのマニュアルチックな搭乗手続き。 -
27)−2
国内線の搭乗待合室は一か所。そこで ホテルで用意してくれた朝食を食べて待つ。観光客、ビジネスマン等の日本人を見かける。
該当の飛行機の搭乗案内は 写真のようにプラカードを持った係りの人が声を出しながら 待合所の中を回る。見慣れた電光掲示板はない。 -
27)−3
時間になり 案内されて外に出ると 飛行機の上に 朝日が見えた。
バガン行の飛行機にも日本人観光客のグループがいた。 -
27)−4
飛行機がパガンに近ずくと 地上は山の畑のようにも見える。むしろ砂漠に近ずいた感じ。 -
27)−5
パガンには朝8時頃着。
今回の旅行の最終目的地で やっと来れたことに安堵する。 -
27)−6
空港の規模は小さいが 新しい。
預けた荷物が最後に運ばれてきたので 受け取り、AIR KANABAZAの事務所で次の飛行のリコンファームを確認して、ついでにタクシー迄案内して貰う。
タクシーのドライバーと交渉して 45000K(約4500円)で ホッパ山経由ホテルまで行って貰うことにする。
ここで 一つミス。空港で入域料を払うところが分からず(まだオープンしていなかった?)10ドル払わず。 -
27)−7
舗装状態の悪い道を 道路の周囲には民家も少なく 痩せた灌木の生える赤土の道を 一時間以上かけて ホッパ山に向かう。
運転手は片言の英語と少し日本語を話す若いドライバー。
特徴のあるホッパ山が見えてくる。 -
27)−8
門前の観光土産物の並ぶところを通り、
所々に 猿がいる階段を登り頂上へ。
猿は 日本でのように 人間に攻撃的ではなく 安心した。
写真は結構 急勾配の階段。整備はされている。 -
27)−9
山頂の寺院。 -
27)−10
山頂からの風景 -
27)−11
仏教に関係のある寺院には違いないが 祀られた画像、彫像からはテキヤの親分集を想像する。
片言日本語で「おふせ」と言われるが パス。 -
27)−12
特異な形の岩山にある頂上のお寺といううことで ここまで来てみたが わざわざ遠い日本から来てみるものではなかったと後悔。
それから タクシーでホテルへ1時間以上を掛けて行く。
写真は麓から山頂を写す。
麓は門前前の土産物屋が軒を連ねる。買うものなし。 -
27)−13
バガンでの宿は ニューバガンエリアの ルービートゥルーホテル(一泊5400円)バンガロー形式の古いホテル。日本人が多く利用していた。ホテルの周囲は同じような宿泊施設で店もなく 街を散策するようなことはできない。またインターネットは接続できず。また 瞬間的だが停電をする。 -
27)−14
ホテルのレセプションの婦人に パガンでの観光について 上手に聞かれたので
思っていることを話してしまう。
仏塔、寺院の夕日シーンをを見たいこと。朝のバルーン飛行の体験をしたいこと。馬車での遺跡巡りをしたいこと など。
とりあえず バルーン料金は300ドルで バルーンの事務所は5時に再開されるそうなので 明日の予約を頼む。夕方の観光は 半日のタクシー予約になり 20000Kぐらい。馬車は一日20000Kぐらい。金額は個別に交渉して欲しいとのこと。それで 両方とも予約の連絡を頼む。
その話の中で ミャンマーチャットとドルの私の保有額を知られてしまった。
ホテルの庭には「paper flowers ブーゲンビリア」が満開。 -
27)−15
4時にタクシーが来て 遺跡見学に出かける。
途中 「歩き方」に出ていたパガンのショップ「ママタ・ブティック・ハウス」に寄って貰う。
現代風のお店だったが、取りあえず見学だけして出る。
写真はその庭。 -
27)−16
次に 漆器工芸の老舗「ゴールデン・カックー」に寄って貰う。
店内を案内してくれて 工房の中も見せてもらった。日本の輪島も知っていた。
値段を聞いて 「また明日。」と返事をして出る。
日本に持って帰って使えるかどうか?自信が無かった。 -
27)−17
最初に 「アーナンダ寺院}を見る。 -
27)−18
四方に向かって立つ四体の仏像の その内の一体。 -
27)−19
アーナンダ寺院の外観。 -
27)−20
それから 「タビィニュ寺院」へ -
27)−21
そして 夕日を見るポイントの「シェサンド・バヤー」へ。
観光客が三々五々集まってくる。物売りの子供たちも。
入口を入って 大分経って 後方から「ジャパニーズ」の大声。振り返ると私に何か言っている。「バカン入域票」の提示を求めれているみたい。威圧的な物言いに腹が立ったが 10ドルを支払って中に入る。
写真は地上から 夕闇が迫ってくる バガンの西方向のシルエットを写す。 -
27)−22
「シェサンド・バヤー」は5層の仏塔。塔の上まで登れて 見晴らしが良い。
既に 多くの人が。 -
27)−23
上に登ると バカンの全景が見える。圧巻。
写真は北側 -
27)−24
アップにすると。 -
27)−25
南側
柔らかな夕日に照らされて 仏の国に来た感じ。 -
27)−26
そして 西側 -
27)−27
アップにすると
現世ではない 不可思議の世界を見ている感じ。 -
27)−28
現実は
上階は登ってくる観光客で満杯状況。少し 危険を感じて 先に下層に降り始める。石の階段は一方通行ではなくて 結構急勾配。いつか事故が起きねばと懸念を持った。 -
27)−30
そして日が暮れた。この風景を見に来たのだ納得がいった。
満ち足りた気分でホテルに帰り レセプションでバルーンの予約が満杯で取れなかったことを聞いた。
残念だが それなりに 本日の夕景の見物で満足していたので 諦めがつく。
夕食は取り損ねたが 日本から持参していた 最後のインスタントの味噌汁を作って飲んだ。 -
28)−1
2月22日(金)
朝食はガーデンで清々しく美味しく頂けた。
ホテルで30ドルをチャット(24500K)に両替え、レートは少し悪いが仕方がない。
写真は朝食会場。 -
28)−2
朝8時に 馬車が来る。行きたいところの希望を伝えて、今日の夕日は「プー・パヤー」で と希望したら 料金は30000Kと言われて了承する。
御者の方は25歳で若く、英語を話す。(高校で習ったそうだ。)馬は牝馬。 -
28)−3
地元の朝市へ寄って貰う。市場の商品は 生活用品で ちょっと買えない。白人の観光客も見学していたが。 -
28)−4
最初に
ミィンカバー村の
セィンニェ・アマ寺院とセィンニェ・ニィーマ・パヤ
姉妹の仏塔。
仏塔の中には入れない。 -
28)−5
次に
ナガーヨン寺院 -
28)−6
ミィンカバー村から見学は始まり 幾つかの寺院、仏塔を見たが 内部は暗かったり 老朽化していたりで 考古学的な興味はともかく 正直 飽きてくる。
長時間の馬車は初めてで 道も悪く 揺れに思いのほか疲れ 暑さも加わり 参る。
写真 遺跡周辺の農夫も木陰で休んでいる。 -
28)−7
その中の一つで涅槃像を写す。 -
28)−8
寺院の名前は失念。 -
28)−9
ミィンカバー・バヤー? -
28)−10
ここでは塔の中腹まで登り、見渡すことができるが 昼間は クリアーに色々見えるので 昨日の夕方の方が雰囲気は出ていた。 -
28)−11
ゴドーパリィン寺院
オールドバガンエリアの寺院。
オールドバガンの城壁は殆んど現存せず。
城壁内の考古学博物館には寄らず。(何もないそうなので。) -
28)ー12
昼12時を過ぎたので タラバー門を出た広場に面するところで ミャンマー料理のレストランへ行く。
メニューはこの料理だけと言われた?ので 注文。3000K(300円)
周りを見渡すと 3人位で同じ料理を食べている。テーブル単位の注文?
生野菜は食べなかったが、お腹一杯で苦しい。
写真はテーブルセット料理、これ以外にフルーツと漬物?あり。
若い御者さんを誘ったが、仲間で食事を選択。 -
28)−13
トイレに行くとき レストランの裏方を通ったが 簡単な調理場。 -
28)−14
午後 まず
昨日訪れた「アーナンダ寺院」を本日はゆっくりと。 -
28)−15
昨日は別の入り口から入ったので同じものだとは気付かなかった。中の仏像で気づく。
出る時 別の出口へ出て戸惑う。 -
28)−16
南面の迦葉仏 -
28)−17
それから 先日は気づかなかったが 御者さんに言われ ダビィニュ寺院の前に日本人戦没者慰霊塔碑が設置されたお寺があり、訪れる。 -
28)−18
赤土の遠い異郷の地で 亡くなられた方を思い 暫し こうべを下げる。 -
28)−19
近くの シュエグーヂー寺院へ。 -
28)−20
上階のベランダでは 子供二人が楽しく ゴム飛び遊びに興じていた。
私が立ち去った後で 後ろの西欧人にお金をねだっていた。 -
28)−21
それから 夕方予定していた「ブー・バヤー」へ。
真昼は馬も疲れているようで 速度が上がらない。私もホテルにもう帰りかったので、夕方のサンセットはホテル近くのビューポイントでの変更提案を了承する。
写真はパガンのそばを流れるプー・パヤー川。 -
28)−22
円筒の仏塔。
川を臨む丘に建っていて 夕日の絶景の場所だと言うことは理解できた。
川のクルーズを勧められたが断る。 -
28)−23
行き帰りに 途中数軒のお店に寄る。露店で買い物をしたが やはり お店では買えない。
写真は途中で寄った 漆器店。
ホテルには4時頃帰り、再度5時に 「ローカナンダー・バヤー」?に出かける。 -
28)−24
「ローカナンダー・バヤー」?には 観光客は殆んど居なくて 現地の人が数人夕暮れを見に来ていただけ。近くの仏教教育施設から 日本と同じ音色の読経がスピーカーから流れ 西国浄土を思わす風景を眺められた。 -
28)−25
そして 日が落ちた。
「何もない。」感覚 -
28)−26
夕食を食べて帰ろうと思ったが 昼食べ過ぎていたので 果物だけ露店で買ってホテルに帰る。
馬車料金を払う時「チップを」と言われ 一瞬迷ったが 時間の短縮に協力していた事を思い出し 購入していた果物を示し 「これが私の夕食。」でお金がないと説明した。若い御者は苦笑いをして去って行った。悪いことをしたかなと少し思った。
写真はその果物。 -
29)−1
2月23日(土)
前夜 航空会社から連絡があって 8時6分発から10時40分発に変更。
当初の計画では 朝焼けのパガンを見て帰ろうと思っていたが 諦めてゆっくりする
昨日は食べ過ぎたのか胃が痛い。朝食をガーデンで お粥と卵にする。
例の婦人ともゆっくり話すことができた。最近日本からの客が増え 情報を知りたがっている風。オバマ大統領のミャンマー訪問の影響とか、日本の客のニーズとかについて。数年前の日本人ジャーナリストの殺害も知っていた。
10時にタクシーを呼んで貰い 空港へ。
タクシー代を婦人に70000K払ったが 10000K抜いて ドライバーに。(しっかりしている。) -
29)−2
今日は空港で「入域料」の支払いカウンターに気付く。
ロビーは無料でネット接続可能。日本人客を見かける。
飛行機はインレー湖のヘーホー経由ヤンゴン行。 -
29)−3
ヘーホー空港で一旦殆んどの客が降りて 少し焦るが また 別の客がヘーホーから乗り込んでくる。
写真はそのヘーホー空港。 -
29)−4
ヤンゴンへの飛行中高速道路らしき道路を見る。車は走っていなかったが。
そういう時代が来ているのかもしれない。
ヤンゴンの国内線ターミナルのタクシーカウンターでホテルまで12ドルと言われる。国際線で10ドルだったと言ったら10ドルになった。 -
29)−5
今回のヤンゴン宿泊は駅前のセントラルホテル。(一泊5800円) -
29)−6
さっそく 街歩きを兼ね 夕食に。「歩き方」レストラン編のトップに記載されていたビルマカレーの店「タヌビュー」を探す。
見つけ出したが 大衆食堂。 -
29)−7
生野菜は付いているが ちょっと食べれず。日本のカレーが恋しい。3000K -
29)−8
それから ヤンゴン最大のマーケット「ボージョーアウンサン・マーケット」を覗く。 -
29)−9
夕方閉店間際だけれど 多くの観光客も入っていた。
ざーと見て 明日の朝もう一度来ることにする。 -
29)−10
露店で「モンピャータレー」(お好み焼き)100Kとザボン(果物1000K)を買ってホテルで夕軽食。
ホテルに帰った時、部屋番号をを忘れて レセプションで 私の名前を告げ 番号を尋ねたら 横の男性が座ったままで あんたの名前は何だ?の感じで口出してくる。ミャンマーでは何度か 男性の横暴な物言いを体験した。軍事政権が長かった理由で?
隣室との壁が薄く、日本人ビジネスマンの話し声が筒抜け。 -
30)−1
2月24日(日)
朝食は美味しく戴けた。満席状態。隣りは韓国人の親娘。 -
30)−2
ロビーでミャンマーの裕福な家庭だろうが 結婚式を見かける。 -
30)−3
昨夕 閉店時間で引き揚げた 「ボーヂョーアウンサン・マーケット」ヘ再度 朝から行く。他の国と同じく 金や銀の貴金属売り場が広い。一応全部見たが 欲しいものはなし。ばら撒用の土産を数点買って引き上げる。 -
30)ー4
途中で 歩道橋があったので 登ってみると 線路。
現在はゴミが放置された汚い姿だが この先のバンコック迄 新幹線が通る日がいつかは来るのだろうと夢見た。現在のヨーロッパのように。
関連して 高速道路 ミャンマーは右側通行、タイは左側通行 連結をどうするのだろうと無責任に ふと思った。
12時にホテルをチェックアウトして 時間つぶしを兼ね 同じ建物のマッサージ店で 二時間施術を受ける。(16ドルプラス2ドルチップ)日曜の為か 日本人多し。 -
30)−5
空港に行く前に 最初に「ボーヂョーアウンサン博物館」へ寄って貰う。高級住宅街の一角に目を引くその洋館はあった。スーチ氏も一時ここで育ったようだ。
個人住宅をそのまま流用した博物館で規模は小さいが 微妙なミャンマーの政治バランスの上に博物館が成り立っているように思えた。 -
30)−6
それから 郊外の「日本人墓地」に 行って貰う。タクシーのドライバーさんも所在を明確には知らないようだった。
第2次世界大戦で約19万人の日本人の方がビルマで亡くなったそうだ。
写真は墓地の中央。 -
30)−7
写真は 日本政府の建立した慰霊碑。 -
30)−8
ビルマが提供してくれた用地の条件で 日本からの慰霊の受け入れを考えれば仕方がないが、19万人の殆んどはこんな所で死んだのではないとの感が強くした。
辺境の赤土の原野で 野垂れ死にされたのが多くの人だったのではないかと。 -
30)−9
郊外は 車の走っている道を横に逸れると 都市化の人の密集と貧困生活が見える。
私自身 東南アジアで歩いていると 人命を軽視した車優先の運転に腹を立て、遅れた国と思う。しかし一旦 車という道具を手にして 車に乗ると 早く着こうと思う。車を運転する側に立場が簡単に変わる。
ミャンマーの現状を 巨大な市場と見て なだれ込む世界の資本。遅れまいとする日本企業の戦士たち。(昨晩隣室で話していたビジネスマンを思い出し。)
大きな市場には違いないが 横道の経済的には貧しい生活者の立場に 中長期の視点に立たないと 67年前に この地で野垂れ死にした兵士のように 結果は空しい思いをする。先人達の経験を生かしてほしいと思った。
そう思いながら空港へ向かった。 -
30)−10
ヤンゴン空港の手続きはスムーズに行き 荷物も ハノイ経由成田で確認。
写真の空港待ち合い室でメモを作る。
一昨年のタイ滞在を含め 一応、東南アジアを見て回った。
簡単に結論が出るものでもないが
東南アジア諸国の共通性と各国の独自性を肌で触れた。
「共通性」
南の暑い風土の中で 生きてきた人々。我々北の民族とは大きく異なる。
自然と人間との関わりが違う。彼らは自然を開発する対象と見るのではなく、共生の道も追求。だから子沢山。個人よりも群の考え。絶対よりあいまいの容認。
彼らも グローバリゼーションの波(ドル通貨、インターネット情報網、英語言語、)の中で 大きく転換点を迎えているのは事実だが 南の彼らの道は彼らで切り開いていく必要がある。
「独自性」
当たり前だが 地政学的環境は 各国で異なり、独自の歴史、文化、言語を持つ。植民地時代の宗主国文化の受け入れ、台頭する北の大国 中国との関係、、政治体制の差、など思っている以上に 各国の独自性を感じた。
ヨーロッパの連合体のメリットを知った上で まだ 東南アジアでは連合の時代は遠く いづれ来るにせよ 彼らの主体的な判断に依拠すべきと思った。
日本と東南アジア諸国との関係も 大事にしなければならないが 短絡的な見方ではないはず。
「良き隣人」とは何か? 日本に帰り 考え続けようと思う。
19時10分ハノイに向け出発。 -
31)−1
ハノイ空港の国際線乗り換え(成田便の搭乗券発行)で 少し手間取る。
前回も利用したレストランで同じ麺を食べ、ネットを接続して出発を待つ。
搭乗口待合所は深夜になり、日本人ばかりの感じ。
一か月に渡る東南アジア周遊の旅が終わった満足感と来年はどこに行こうか楽しく夢見て過ごした。
翌朝 寒い成田に着いて 無料の更衣所を教えて貰い、冬用の衣類に全て着替えた。
日本は空気が美味くて 水もおいしいとつくづく思った。
(写真はハノイ空港国際線のレストラン。)
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