2013/01/27 - 2013/01/27
3371位(同エリア5446件中)
ひま人さん
名古屋市は、愛知県西部、尾張地方に位置します。同県の県庁所在地ですが、西暦113年に創建した熱田神宮の門前町が始まりです。全国第3位の人口の名古屋市ですが、観光には2度目の訪れになり、日本三名城に数えられる「名古屋城」から東へ「文化の道」と称する区域の名古屋の近代化の歴史を伝える建造物群を見学。さらに東へ尾張徳川藩の大名庭園だった広大な「徳川園」を見て回りました。
表紙写真は名古屋城天守閣です。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス JRローカル 私鉄
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名古屋城正門。明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年天守閣とともに再建されました。
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名古屋城天守閣。通称「金鯱城」、「金城」とも呼ばれました。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のため天下普請によって築城したとされています。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されました。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われています。
名古屋大空襲で焼失しましたが、昭和34年再建されました。 -
天守閣に上げられた金の鯱(金鯱・きんこ)は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。
鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るにふさわしいもので、張られた金の量は、慶長大判で1940枚といわれています。
現在の金鯱は雄(北側)で「うろこ112枚・金量44.69kg」、雌(南側)で「鱗126枚・金量43.39kg」でいずれも18kです。 -
金鯱(レプリカ)。
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名古屋城東南隅櫓(重文)。辰巳櫓ともいわれ、屋根二重・内部三階の櫓。東・南面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けています。この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られます。
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剣塀。軒桁に30?余りの槍の穂先を並べ、忍び返しとして使われたもので、名古屋城では、天守閣と小天守閣とを連結する橋台の西面や、不明門に見られます。
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石垣の刻紋。城内の石垣のここかしこに多種多様の記号を刻んだ石があります。築城に当たって、石垣の築城を命じられた諸大名が、自分の運んだ石を他大名の石と区別するために刻んだ「目印」です。
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名勝二之丸庭園。元和年間(1615〜23)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として設けられましたが、享保年間(1716〜36)以後たびたび改修され枯山水回遊式庭園に改められました。
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加藤清正公石曳きの像。慶長15年(1610)名古屋城築城に当たって、徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。
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本丸御殿復元姿図。名古屋大空襲により、天守閣と御殿が焼失しました。平成20年から寛永期の本丸御殿の復元工事が開始され総事業費約150億円で完成予定は平成29年です。
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名古屋城から徳川園に至るエリアは、江戸から明治、大正へと続く名古屋の近代化の歴史を伝える建造物などが多く残る地域で、「文化の道」と名付けられました。平成17年(2005年)に整備されました。
「百花百草」、岡谷鋼機の創業家である岡谷家の邸宅として大正9年(1920年)に建てられた書院・茶室・土蔵を改修し、多目的ホールを新築して開館しました。名称はかつて岡谷家が所有し徳川美術館に寄贈された百花百草図屏風(重文)に因みます。庭園では百花百草図屏風に描かれた草花が楽しめるそうです。訪れた日は休館日でした。 -
「文化の道」界隈。
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旧豊田佐助邸。豊田佐助は、兄の佐吉を支えた実業家です。佐助邸は大正12年(1923年)に建てられた白いタイル張りの洋館と広い間取りの和館で構成されています。尚、工事のため足場を組みシートで覆い、24年8月まで休館でした。で、見学できず、残念!
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旧春田鉄次郎邸。景観重要建造物。アールヌーボーの余韻漂う洋風数寄屋普請。陶磁器貿易商として成功し、大洋商工株式会社を設立した春田鉄次郎が武田五一に依頼し、造った住宅といわれています。春田邸は昭和22年(1947)から昭和26年(1951)まで米軍第五航空隊司令部により一時接収されました。現在は、創作フランス料理「デュボネ(1階)」として営業している部分と見学者用に解放している部分(2階)とあります。
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カトリック主税町教会。都市景観重要建築物。名古屋最古の教会です。鐘楼の鐘は100年前のフランス製。
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撞木館(しゅもくかん)。景観重要建造物。陶磁器商として活躍していた井元為三郎が大正末期から昭和初期に建てた邸宅です。
約600坪の武家屋敷の敷地割に、庭を囲むように大正浪漫あふれる洋館、和館、茶室や裏庭に東西二棟の蔵が残されています。洋館には、当時の流行を先取りしたステンドグラスがり、現在は喫茶室も併設されています。 -
二葉館。登録文化財(一部)、景観重要建造物。「日本の女優第一号」として名をはせた川上貞奴が、女優を引退した後、大正9年頃から電力王と呼ばれた福沢桃介とともに暮らしていた和洋折衷の建物を、創建当時の姿に、平成17年移築復元しました。
「文化の道」の拠点施設として甦りました。館内は文化の道の情報や川上貞奴に関する資料や郷土ゆかりの文学資料を展示しています。 -
徳川園黒門。明治33年(1900年)に完成した尾張徳川家の邸宅の遺構で、総けやき造りの三間薬医門です。連続する脇長屋と塀を含めて、昭和20年(1945年)の大空襲による焼失の被害を免れた数少ない遺産であり、武家屋敷の面影を伝える貴重な建造物群です。
徳川園は第2代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自らの隠居所として大曾根屋敷を造営したのが起源です。当時の敷地は13万坪で、光友の没後、三家老職に譲られたが、明治22年からは尾張徳川家の邸宅となりました。昭和6年(1631年)邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は一般公開しました。戦後、現代的な都市公園として改修し、平成13年から日本庭園として再整備を行い、平成16年に開園しました。 -
徳川園大曽根の瀧。落差6mの三段の滝です。上、中、下段の岩の組み方が異なるため、それぞれ水しぶきの表情には変化があります。滝の背後の山は徳川園の中で最も高く、龍仙湖水面との標高差は約11mあります。「大曽根」は古くからこの辺の地名です。
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徳川園龍仙湖。海に見立てた水面の周りに見どころを配する池泉回遊式庭園の中心的存在で、地下水を水源としています。クロマツを背にして浮かぶ島々、巨石に懸るもみじ、水際を渡る飛び石、突き出す砂嘴、船小屋のある渡し場などを巡りながら楽しむことができます。
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