2012/10/07 - 2012/10/07
484位(同エリア702件中)
ひま人さん
近くにあって、あまり行かないということは良くあることです。堺市は古から自由都市といわれ、権力者の統治を嫌い自主独立を築いてきた町です。その堺の歴史を見るべく訪ねました。まず、何と言っても世界三大墳墓の一つ「仁徳天皇陵」を見ましたが、あまりにも広大で、全体像を見るには空からでないと掴めません。堺といえばこの人「千利休」です。そのゆかりの「南宗寺」を訪ねました。そこから「千利休屋敷跡」・「与謝野晶子生家跡」を見て昼食。そして、幕末期、堺を警護していた土佐藩士が起こした「堺事件」の切腹場所となった蘇鉄庭園で知られている「妙国寺」を訪ねました。最後に河内・和泉・摂津の三国の境にあり、方位のない清地とされ方除祈願で知られている「方違神社」に参拝しました。まだまだ見るべき史跡はあったがぶらり町歩きということで、これで終了し帰路につきました。
写真は南宗寺「八方睨みの龍」の天井画です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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仁徳天皇陵。エジプトのクフ王のピラミット、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つです。上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳、南側の履中天皇陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれています。前方部を南に向けた墳丘は全長486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に構成されています。
宮内庁が管理しています。 -
仁徳天皇陵外濠。周りは三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。全周2.8kmの周遊路として整備され、南側前方部と西側には遊歩道、南側車道は桜並木になっていて、古墳の中には入ることはできません。
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仁徳天皇陵案内板。
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仁徳天皇陵石造の模型。出来上がった当時は石造りで、現在は植林をした関係上樹木が鬱蒼と繁っています。
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反正天皇陵古墳(仁徳天皇の皇子にあたる)。仁徳天皇陵の北側にあり、EH製菓江久庵の屋上庭園から撮影しました。
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龍興山南宗禅寺(なんしゅうぜんじ)総門、間口二間、奥行一間の四足門。臨済宗大徳寺派。弘治3年(1557年)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山しました。慶長20年(1615年)大坂夏の陣による焼失後、寺地を現在の場所に移し、沢庵宗彭(たくあんそうほう)らにより再建が行われました。
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甘露門(山門、国重文)、三間一戸楼門、入母屋造り、本瓦葺の建物で禅宗様と和様の折衷様式になっており、棟札により正保4年(1647年)の建立であることがわかる。清巌宗渭筆「甘露門」の額がかかっています。
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坐雲亭、重層の様式で山内最古の建築物。下層三間四方。内部に徳川秀忠、家光両将軍の御成りを記した板額がかかっています。
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千家一門の墓、中央に利休宗易居士の碑、右に不審庵(表千家)、左に今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の碑があります。
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三好家一門の墓。元長、長慶親子をはじめとする一族の墓です。
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伝説家康の墓、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、ここに埋葬されたという伝説の寺でもあります。
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徳川家康の墓(東照宮跡碑)、文政年間の建築と言われた東照宮は空襲で焼失し、その跡に東照宮跡碑が昭和42年建立されました。
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方丈(本堂)、戦後再建され、聖観音菩薩を祀っています。方丈前に枯山水の庭園が広がります。
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石庭(枯山水)、国指定名勝庭園。古田織部好みといわれる緑と白の境目がくっきりとしているのが特徴です。水を一滴も使わずに石と砂で山河を表現しています。
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枯山水の石庭。左側が方丈です。
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実相庵、利休好みの茶室であり、二畳台目、平天井と蒲の落天井の二段構成である。側壁は瓢形に壁を残し、給仕口を開襖とし、にじり口を点前座より開けるといった特色があります。
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唐門(国指定重文)、17世紀中頃のものと見られる。簡明な構造の向唐門です。
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仏殿(国指定重文)、大雄宝殿とも言われ、方三間の主室の周囲に裳階をまわした方五間本瓦の建物で小規模ながら純粋な禅宗様仏殿である。中央に釈迦如来、左右に文殊、普賢の両菩薩を安置し、天井には狩野信政筆「八方睨みの龍」が描かれています。棟札により承応元年(1652年)の建立であることがわかります。
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仏殿「八方睨みの龍」、天井の龍図はどの場所に立ち止って見ても、自分を見つめていてくれます。今ここに仏がいつでも自分を見守ってくれていることを実感できます。「看脚下(かんきゃっか)」「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」は禅宗の教義です。
龍は水の守り神であり、日本では古来より木造建築の防火を目的に井戸を掘り、龍を祀る風習があります。 -
仏殿内部、中央に釈迦如来が祀られています。
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千利休屋敷跡、千利休は大永2年(1522年)、堺今市町の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向井道陳に茶湯を学び、後に武野紹鷗に師事しわび茶を大成させました。
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千利休屋敷跡、井戸屋形。井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。屋形は千利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。
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与謝野晶子生家跡、堺に生まれ明治・大正・昭和を短歌とともに生きた「情熱の歌人」です。菓子商駿河屋の三女として生まれ、鉄幹と出会い家を出るまで堺ですごし、同じ文学者鉄幹の妻であり、11人の子供の母でもありました。明治34年(1901年)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌い上げ、浪漫主義の代表作となりました。又、詩、評論、古典研究などさまざまな執筆活動を展開する一方、女性の地位向上に積極的に取り組んだことでも有名です。
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与謝野晶子歌碑「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」と刻まれている。歌碑の上に、与謝野晶子が好きな花、アマリリス、ユリが造形しています。
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妙国寺本堂、1562年日蓮宗の日が開祖です。
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日本で唯一の蘇鉄の枯山水庭園です。
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蘇鉄の枯山水庭園、樹齢1100年(左側の)を超える蘇鉄が堺の町を見守っています。大蘇鉄は織田信長の所望で安土城に移植されましたが、毎夜「堺に帰りたい」と泣いたので、信長は激怒して「切り倒してしまえ」命じました。蘇鉄は切り口から鮮血を流し大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は再び妙国寺に返したという伝説の樹で国指定の天然記念物です。
千利休寄贈の六地蔵灯篭(右側)や瓢箪型手水鉢があります。 -
土佐十一烈士墓、幼稚園の敷地内にあるため、残念ながら中に入れず、墓石が見えます。堺事件と言いますが、慶応4年(1868年)堺港に上陸してきたフランス軍艦の兵に対し、堺の警護に当たっていた土佐藩士が阻止しようとしてフランス人22名を殺傷した事件で、土佐藩士11名がこの地で切腹したことでも有名です。
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土佐十一烈士墓の碑が山門を出たところにあります。
「とさのさむらいはらきりのはか」と刻まれています。 -
方違神社(ほうちがい)本殿。河内、和泉、摂津の三国の境にあり、方位のない清地のとされ方除祈願で知られています。古くから遠方へ出かける時その方向が良くない場合に、一度別方向に向かってから出かける風習がありました。方違神社はそのような時にお参りする全国でも珍しい神社で、遠くへ旅する時や家を移るときなどに、ここに参れば災難に会わないという言い伝えがあり、新築や転居等の厄除けで各地からたくさんの人々が参拝に来ます。
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