2012/09/05 - 2012/09/05
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marsyさん
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秀吉亡き後、急速に勢力を拡大し、豊臣家を滅ぼさんとする徳川家康。その家康と冬・夏2度にわたる「大坂の陣」で対決し、獅子奮迅の戦いを見せ壮絶な最期を遂げた真田幸村。彼に関わる史跡を旅してきました。
文献上は「真田信繁」という名しかでて来ず、幸村という名前は使われていなかったようですが、やはり「真田幸村」の方が通りがいいのでこの名前を使います。
なお、大阪市内の真田幸村縁の地を巡る際には、
「大阪まちあるき」内の”真田幸村と大坂の陣”のページから
mapや音声案内がダウンロードできますので参考にされるとよいでしょう。
http://www.osaka-info.jp/machiaruki/
大“坂”の陣と表記していますが誤字ではありません。昔は大“坂”と表記していましたが、明治時代ごろから大“阪”と書かれるようになったそうです。
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志紀長吉神社
真田幸村はこの志紀長神社にて戦勝を祈願し、軍刀一振りと六文銭の軍旗を奉納しご利益を得ました。
志紀長吉神社HP:http://www.shikinagayoshi-jinjya.org/yukimura.html -
赤地に六文銭を染め抜いた軍旗は幸村公だけのもので、これちなんだ勝御守りを販売しています。幸村公の知略と勇気を授かり勝利をつかみ取りましょう。
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真田家が旗印とした「六文銭」は、三途の川の渡し賃であり自らの退路を断ち、決死の覚悟での戦いに活路を見出すという「不惜身命」の心意気を表しています。
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真田幸村休憩所跡
大坂夏の陣道明寺の戦いで伊達政宗と戦った後、帰城の途中この地にて休憩をとりました。扉に六文銭が刻まれています。 -
奥にある真田幸村休憩所の碑
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樋ノ尻口地蔵
大坂夏の陣で、徳川家康が樋ノ尻口を通過すると予測した幸村は、この地蔵堂に地雷を仕掛けました。家康は予測通りここで休憩しましたが、調度座を外した時に地雷が爆発し危うく命拾いをしたという伝説があります。 -
大坂夏の陣で幸村が陣を構えた茶臼山は、天王寺公園の中にあります。そのため入場料を支払う必要があります。
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隣には天王寺動物園もありますのでこんなモニュメントもあります。
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旧黒田藩屋敷長屋門
この長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷遺構を残す貴重な門です。続に「後藤又兵衛開かずの門」とか「源蔵門」と呼ばれていたそうです。 -
天王寺公園内にある慶沢園
元は住友本邸の庭で、美術館敷地と一緒に寄贈されたもので、純日本風の回遊式庭園です。 -
公園からは通天閣が望めます。通天閣は百周年ということで様々なイベント行なっていて、入場客も増えているようですね。キン肉マンのイベントもあるようなので、また次回行ってみたいと思います。
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冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村がそれぞれ陣を置いた場所です。もとは前方後円墳で、南には周濠の名残をとどめる河亭池があります。
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本陣跡の遺構はよく残っていて、家康本陣の台所の一部なども発見されているそうです。
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慶長20年、茶臼山の幸村隊3,500は大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられました。数で劣る幸村隊でしたが、家康の本陣目掛けて三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも徳川方越前軍の猛攻により敗退しました。
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一心寺
法然の開創で、遺骨で阿弥陀仏を作る骨仏で有名です。慶長元年、三河の僧本誉存牟上人が法然の旧跡を慕い千日禁足、不眠不休の念仏を修し再興したことにより、その一心称名をもってできたことによるといわれています。 -
この寺の表門は黒門と呼ばれ、大阪城玉造御門を移築したと伝えられていますが、戦災で焼失しました。
現在は、建築家でもある現住職・高口恭行氏の設計による鉄とコンクリートの斬新な山門や仁王像があります。 -
この一心寺には大坂夏の陣で討ち死にした本田忠頼の墓もあります。
本田忠頼は徳川四天王といわれた本田忠勝の息子で、関ヶ原の合戦で武功をあげましたが、酒を過ごしたため大坂夏の陣で戦死しました。そのため酒封じの神としてお酒に苦しむ人が参拝に訪れています。 -
安居神社
真田幸村は、茶臼山の激戦で敗北した後、安居神社の一本松の下で休んでいるところを松平忠直隊の鉄砲頭西尾仁左衛門に討たれ戦死しました。
幸村が休息したとされる松は枯れてしまいましたが、2代目“さなだ松”が植えられています。 -
戦で疲れて休んでいる幸村公の像もあります。
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円珠庵(鎌八幡)
冬の陣の際、幸村が戦勝を祈願して神木に鎌を打ち込んだところ、真田丸で大勝利をおさめることができ、必勝祈願の神木として評判になったと言われています。なお、境内は写真撮影不可のため鎌の刺さった神木の写真はありません。 -
心眼寺
真田幸村とその子大助の供養のために、真田家の祖先滋賀野氏が江戸時代に建てた寺です。
ここから三光神社までが、大坂冬の陣の際に幸村が築いたとされる出城「真田丸」の跡地として伝えられています。 -
心眼寺扉にも六文銭があります。
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三光神社
大坂冬の陣の際に幸村が築いたとされる出城「真田丸」の跡地として伝えられています。 -
境内には、幸村が掘ったといわれる真田の抜け穴(大阪城までつながっているとのこと、映画プリンセストヨトミでも出てきましたね)
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真田石の上に立つ真田幸村公の像があります。
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神社には真田家の鎧、赤備えも飾ってありました。
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玉造稲荷神社
大阪城の鎮守として信仰された古社で、境内には豊臣秀頼寄進の石の鳥居が残っています。 -
利休井
拝殿前にある千利休を偲ぶ井戸で、利休はこの神社の南側に居を構え、生駒山系を眺め茶会を催したとの伝承があります。 -
越中井
細川忠興の妻、ガラシャ夫人が石田光成の人質になることを拒みこの地で果てた(キリスト教信者のため自害できず、従者が首を切り落としたとのこと)と言われています。 -
碑の側面には、ガラシャ夫人の辞世の句があります。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
近くのマリア大聖堂には夫人像があります。 -
難波宮跡公園
大化改心に伴う難波遷都以来約150年間、難波宮は日本の首都としてまた副都として、日本の古代史上に大きな役割を果たしました。長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二つの時期の難波宮跡が広がっており、内裏・朝堂院などの中枢部が国の史跡に指定されています。 -
大阪城
大坂夏の陣で焼け落ちた天守閣は、徳川幕府によって再築されますが、その後落雷で再び焼失。現在の天守閣は昭和6年に市民の寄付によって完成したものです。
この日はちょっと行けませんでしたが、城の北側には豊臣秀頼と淀殿自害の地があるそうです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- たらよろさん 2012/09/09 11:50:33
- 大阪城に自害の地
- こんにちは、marsyさま。
あまり戦国武将に詳しくないので、詳細は知りませんが、
でも、真田幸村は少しだけなら知ってます(笑)
ただ、お姿とかしっかり見たことがないから、
こんなに立派で恰幅のある方だったんだ〜と驚きました。
ところで、大阪城に秀吉と淀君の自害の地があるんですか〜
知らなかったなぁ。。。
ぜひ、見てみたい〜
また、レポートお願いします、、、って自分で行きなさいって?(笑)
たらよろ
- marsyさん からの返信 2012/09/09 23:07:32
- RE: 大阪城に自害の地
- こんばんはたらよろさん、カキコ&ポチッとなありがとうございます。
> でも、真田幸村は少しだけなら知ってます(笑)
> ただ、お姿とかしっかり見たことがないから、
> こんなに立派で恰幅のある方だったんだ〜と驚きました。
真田幸村は、戦国BASARAではものすごくかっこよく描かれていますからね、実際は戦国時代の人は背も小さく、50歳まで生きるのもまれだったらしいですからね。(信長が桶狭間合戦の際に舞った敦盛「人間50年下天のうちをくらぶれば…」でも有名ですね)
> ところで、大阪城に秀吉と淀君の自害の地があるんですか〜
> 知らなかったなぁ。。。
石碑があるだけですけどね。
昔からよく「淀君」と呼ばれていますが、君には蔑称の意味があり今では「淀殿」と呼ぶのが一般的らしいですね。
では失礼いたします。
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