2012/06/03 - 2012/06/04
3位(同エリア32件中)
ベームさん
11日目、6/3。
朝ミンデンを発ちヒルデスハイムに寄ってからブラウンシュヴァイクに行き2泊します。雨の1日でした。
ブラウンシュヴァイク:いよいよドイツ史の重要な地方に近づいてきました。ブラウンシュヴァイクは12世紀にドイツ東北地方を治め、優れた経済感覚で商業を振興し、リューベック、リューネブルク、ミュンヘンなどの町を興したハインリヒ獅子公の本拠地でした。その後もブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国、ブラウンシュヴァイク公国の都として栄える。
人口26万人。今は研究開発の拠点、科学都市を標榜。ハノーファーと共にニーダーザクセン州の主要都市。ハノーファーの南東55キロ、ハルツ山地の北辺に位置する。
写真はフェルメールの「ワイングラスを持つ娘」。
アントン・ウルリヒ公博物館所蔵(今は工事中のためダンクヴァルデローデ城に展示されています)。
ブラウンシュヴァイクには2泊して1日はマグデブルクに行きましたので旅行記は1と2に分けました。
その1はブルク広場、ダンクヴァルデローデ城、ブラウンシュヴァイク大聖堂、市庁舎です。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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ハルツに近づいてくると俄然地図が込み入ってきます。ゴスラー、ヴェルニゲローデの南一帯がハルツ山地です。
ヒルデスハイムからブラウンシュヴァイクへ。 -
ヒルデスハイム13:34発ICE、ブラウンシュヴァイク着13:58。
掲示板:2番線。13:34発ICE1178。ブラウンシュヴァイク、ヴォルフスブルク、ベルリン・シュパンダオ経由ベルリンHbf行。2番線。5分遅れ。 -
今回の旅行で後にも先にも座れなかったのはこの時だけでした。もっとも車両の中の方に行けば席はあったでしょうが、荷物があるので面倒くさかったのと目的地まですぐでしたので。ドイツ人は横着で、一人で2人、3人分の席を荷物で占領して人が来ても自ら席を空けるようなことはまずありません。気の弱い私なんか駄目ですね。
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おしゃまな女の子。
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ブラウンシュヴァイクHbf到着。
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ブラウンシュヴァイク駅。
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駅前のメルキュールホテル・アトリウム。
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ホテル。
さすが名の通ったチェーンホテルです。受付、設備、室内調度すべてきちんとしています。田舎のホテルはたとえ4つ星でも垢抜けしませんね。勿論ガストホーフみたいな居酒屋兼ホテルはそれで素朴で風情があってよろしい。 -
駅前のバス、トラムのターミナル。
人口26万といってもドイツでは大都市です。 -
トラムで早速街なかへ。
アントン・ウルリヒ公博物館に行くつもりなので外に必死に目を凝らし博物館らしき建物が見えたところで降ろしてもらいました。 -
良い勘で博物館には間違いなく行けましたが行くと看板が立っています。「改装工事中。展示品はダンクヴァルデローデ城にありますから”そっち”へ行ってください」。雨が降っているのになんてこった。建物の写真も撮っていませんでした。出ばなをくじかれ、それでも歩いて”そっち”へ向かいます。
途中シュロス広場のシュロス。これも城ですが博物館ではありません。なかはアーケードです。 -
シュロス。
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シュロス。
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シュロスの前に二つの騎馬像。
カール・ヴィルヘルム・フェルディナント。
ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公。1735~1806年。 -
黒公爵フリートリヒ・ヴィルヘルム。
ブラウンシュヴァイク公。1771~1815年。前の写真の人の息子。
王侯、軍人の銅像の好きな国民。 -
ブラウンシュヴァイク観光の中心ブルク広場にやってきました。
広場の模型がありました。
右の大きな建物が市庁舎。真ん中の十字形が大聖堂。その右上の小さな斜めの建物がダンクヴァルデローデ城、広場の真ん中にちょこんと見えるのがブラウンシュヴァイクの獅子像。 -
ブルク広場。
ダンクヴァルデローデ城。 -
ダンクヴァルデローデ城。
この中にアントン・ウルリヒ公博物館の品が疎開、展示されています。
石造りの外付け階段はドイツの古い大きな建物でよく見かけます。 -
広場をダンクヴァルデローデ城とブラウンシュヴァイク大聖堂、博物館などが取り囲んでいます。右が大聖堂。
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市庁舎の塔が覗いています。右の石の壁は大聖堂。左のダンクヴァルデローデ城と渡り廊下で繋がっています。
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渡り廊下をを潜って前の写真の外側から。
ダンクヴァルデローデ城の側面。 -
ブラウンシュヴァイクの大聖堂。
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正式には聖ブラジウス大聖堂。
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州立博物館。
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左州立博物館。右ハントヴェルカースカンマー。
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入り口の上にハントヴェルカースカンマーとなっています。手工業者組合みたいなものでしょうか。
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ブルク広場。
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広場の中央に青銅のライオンの像が建っています。
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これぞハインリヒ獅子公が造らせたもので(1166年)”ブラウンシュヴァイクのライオン/BRAUNSCHWEIGER LOEWE/ブラウンシュヴァイガー レーヴェ”と呼ばれています。
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ブラウンシュヴァイクは獅子公が居城を設けた拠点であり、獅子は公の紋章でした。
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ではダンクヴァルデローデ城に入ります。
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フレスコ画の壁画。
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かなり薄くなっています。
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天井。
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天井。
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以下、アントン・ウルリヒ公博物館の収蔵品です。
まずはフェルメール「ワイングラスを持つ娘」。
1658年。 -
フェルメール「ワイングラスを持つ娘」。
係員にフェルメールの絵はどこにあるかと訊いたら首をかしげる。パンフレットの写真を見せこれです、というとああこれですか、とすぐ案内してくれました。
フェルメールの名を知らないはずは有りません。私の発音が下手だったのです。 -
シュトロッツィ「聖カタリーナ」。1620年頃。
アントン・ウルリヒ公博物館はブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公だったアントン・ウルリヒ公(1633~1714年)のコレクションを基に1754年創設された博物館。
公は学術、芸術に理解が深くこれを庇護したそうです。 -
クラーナハ「オンファレのヘラクレス」。1537年。
ギリシャ神話最大の豪傑ヘラクレスもリュディアの王女オンファレの奴隷、愛人となり顎を撫でられ全くデレデレでふがいない。 -
ルーベンス「ホロフェルネスの首を持つユーディット」。1618年頃。
イスラエルの町を攻めるバビロニア軍の総大将ホロフェルネスを町の未亡人ユーディットがその美しさで籠絡し、ついにホロフェルネスの首を掻いて町を救ったという話。
クリムトにも同じ題材の有名な絵があるがユーディットをきわめて官能的に描いている。古来画家の好んだ題材です。 -
アーヘン「三美神」。
1604年頃。
三美神とはギリシャ神話やローマ神話に出てくる美と優雅の3人の女神で、ルネサンス期の画家にこのんで描かれています。 -
ラオシュナー「三美神」。
蝋の浮彫です。1767年。 -
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヤコポ「死にゆくクレオパトラ」。
1530年頃。
クレオパトラの腕に毒蛇が巻き付いている。 -
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精緻な工芸品もあります。
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「5人の楽士」。1765年。
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1600年製の回転する時計。青銅、金張り。
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素人が見ても質の高い工芸品が収蔵されていますね。
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雨に打たれる獅子。
ダンクヴァルデローデ城の窓から。 -
次はブラウンシュヴァイクの大聖堂/聖ブラジウス大聖堂。
ハインリヒ獅子公の設立、1195年。 -
大聖堂。
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大聖堂。
塔に時計が付いています。日時計のようです。今日は役に立たない。 -
大聖堂。
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大聖堂。
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以下大聖堂。
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祭壇と大燭台。
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4.5mの大燭台。
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天井にはフレスコ画が描かれています。
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よじれた柱が面白いです。
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大聖堂の祭壇まえに横たわるハインリヒ獅子公と妃マチルドの墓碑。1240年頃の作。
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ハインリヒ獅子公と王妃マチルドはここに眠っています。
ハインリヒ獅子公:1129~1195年。ザクセン・バイエルン公。ヴェルフェン家。商業を重視しミュンヘン、リューベックなど植民活動により町を建設、リューネブルク、ブラウンシュヴァイクをはじめ当時のドイツ国土の5分の2を支配する大諸侯だった。
従兄弟であるホーエンシュタオフェン家の神聖ローマ帝国皇帝フリートリヒ1世(赤髭王バルバロッサ)とは初めのうちは協力していたが、1176年のイタリア遠征で対立、ハインリヒ獅子公は兵を出さなかった。兵力不足のフリートリヒはイタリアで大敗してしまった。
これをもとについにフリートリヒはハインリヒ獅子公を皇帝不服従のとがで裁判にかけ帝国追放、領地没収に処した。ハインリヒ獅子公は一時妻の故国イギリスに亡命することになる。両雄並び立たずですね。
ハインリヒ獅子公がフリートリヒに屈服する場面の絵がエアフルトの市庁舎に掲げられています。私の旅行記「ゲーテの足跡を辿って」のエアフルト編にその写真があります。
ヴェルフェン家がこれで没落したのかというとそうではなく、後にハインリヒ獅子公の子がオットー4世として神聖ローマ帝国皇帝、ドイツ王になっている。なんとも複雑な歴史です。 -
マチルド(マチルデ):1157~1189年。イングランド王ヘンリー2世の娘、リチャード獅子心王の妹。1168年獅子公と結婚。
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足元にある碑。
ハインリヒ獅子公。ザクセン・バイエルン公。1195年8月6日死去。
イングランドのマチルド。ザクセン・バイエルン公妃。1189年6月28日死去。 -
獅子公と妃の足元の床には神聖ローマ帝国皇帝オットー4世と王妃ベアトリクスの碑がはめ込まれています。最初この碑がどこに有るかわからず係員に訊くも知らないようだ。クリプタを覗いて戻ってくるとその間に調べてくれたようで係員が”ここです”と教えてくれました。責任感の強いFrauでした。
”カイザー(皇帝)オットー4世。1218年死去。
カイザリン(皇帝妃)ベアトリクス。1212年死去。”
オットー4世はハインリヒ獅子公の息子で、父が果たせなかった神聖ローマ帝国皇帝の帝冠を得た。いわゆるヴェルフェン朝である。しかしヴェルフェン朝はオットー4世一代で終わる。皇帝在位1209~1215年。 -
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いずれ身分のある人の棺でしょう。
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地下のクリプタに降ります。
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地下のクリプタ。
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ここに獅子公と公妃の石棺があります。
左獅子公、右公妃マチルド。マチルドの棺のほうが大きい。 -
綺麗な棺です。
カロリーネ・アマーリエ・エリザベート、1821年。黒公爵フリートリヒ・ヴィルヘルム(前出の写真シュロス前の騎馬像)の姉。 -
ブラウンシュヴァイク公ヴィルヘルム・アウグスト・ルートヴィヒ、1884年。黒公爵の息子。
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ハインリヒ獅子公の福音書。
こんなにきれいな状態で残っているなんてすごいです。 -
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ドームプラッツ通り。
ダンクヴァルデローデ城、大聖堂訪問という大きな目的を達したのでホテルに戻ります。 -
ダンクヴァルデローデ城と背中合わせにある市庁舎。
1900年。 -
市庁舎。
ダンクヴァルデローデ城の裏に建つ大きな建物です。 -
市庁舎。
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市庁舎。
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ホテル・ドイッチェス・ハウス。高級そう。
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夕食はブルク広場の近くのレストランでレバーケーゼを試してみました。
コーンビーフかソーセージみたいな味でした。ビールとで9.45ユーロ。
明日は日帰りでマグデブルクに行きブラウンシュヴァイクに戻ってきます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2012/07/05 21:08:26
- ブラウンシュヴァイク
- ベームさん こんばんは。
ブラウンシュヴァイクにも行かれたのですね。
私も毎回スケジュールを決める際、候補地に上がるもののまだ一度も訪れていない地です。
今回も行けたら行こうと思い下調べをしていました。
博物館が工事中だということもちゃんと調べていたんですけどね。
残念ながら今回もパスでした。
フェルメールの「ワイングラスの女」、見たい絵の一つです。
いつも思うのですが、ベームさんの美術館の絵画のお写真きれいですね。
絵の写真って難しいのですよね。ガラスに反射する光が入り込まないように撮らなければならないし…。
ホントにブラウンシュヴァイクは歴史も芸術も充実した街ですね。
次回は是非…。
移動の際、座席に座れなかったとのこと。
ドイツはICであっても、ICEであっても、路線によっては驚くほど混雑することがありますね。
そうそう、座席を1人でいくつも占領して平気な人がいますね。若い人に多い。
私はそういう時は、わざと「ここ空いていますか?」ってあけてもらいます。
きっと、いやなアジアのオバサンだと思っているでしょう(笑)。
himmel
- ベームさん からの返信 2012/07/06 10:39:16
- RE: ブラウンシュヴァイク
- himmelさん、
お早うございます。
メッセージ有難うございます。
ヒルデスハイム、ゴスラー、ヴェルニゲローデに行かれたのに(あらためて旅行記を拝見しました。懐かしかったです)ブラウンシュヴァイクが入ってなかったのは残念でしたね。歴史を感じさせる町でした。私の場合惜しむらくは天気が悪かったことです。再訪したい町の一つです。
ヴェルニゲローデ、ゴスラーにもゲーテの足跡があったとは全く気が付きませんでした。
フライブルクでのリヴェンジ成功万歳!。人種差別的なところ全く無きにしも非ずですね。私が今回フランクフルト空港の税関でで所持金を見せろと言われたこともひょっとしたらそうだったかもしれません。
フライブルク、コルマール、いづれ私も心残りの町を訪ねることになると思いますがその訪問地リストに加えます。
お互い旅行記まだまだ続きますね、楽しみにしています。
ベーム
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