2012/05/11 - 2012/05/11
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カピさん
「治部少(石田三成)に過ぎたるものは二つあり、鬼の左近に佐和山の城」と言われるほど、石田三成が鎌倉時代からあった佐和山城の城主についた際、山頂に五層とも三層とも言われる天守がそびえる立派な近代城郭を築いたそうです。
関ヶ原合戦後、小早川秀秋筆頭とする徳川方兵が佐和山城を猛攻撃し、関ヶ原合戦の3日後1600年9月18日に落城、その後、徳川四天王の1人井伊直政が入城。しかし、佐和山の領民に愛されていた三成の偉功を拭うことはできなかったのと、中世的な山城より近代的な平城へということで、琵琶湖湖畔に直政没後、彦根城天守築城後の1606年廃城となった。
廃城後、佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門は彦根城へ、正門は彦根市の宗安寺へ移築されますが、それ以外はことごとく、破壊されたので、佐和山城の遺構はほとんど残っていません。城内も三成時代は質素なもので、『甲子夜話』によると、唯一の宝は三成に豊臣秀吉から送られた感謝状だったとか。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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佐和山のふもとの佐和山会館前に佐和山城天守のミニチュアが置いてありました。
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実際は伏見奉行として伏見に滞在してたりで、佐和山城にはほとんどいなかったそうですが、佐和山城を立派にした石田三成公の像は佐和山城跡ハイキングコースの入り口の一つ、龍潭寺前にあります。
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「殿、おじゃましまーす」とご挨拶します。
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龍潭寺(りゅうたんじ)は井伊家の菩提寺で奈良時代に行基が静岡県井伊谷に開基。 井伊直政が佐和山城主になった際に、佐和山に移築。江戸時代は学僧が学ぶ大寺院だったそうです。
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龍潭寺を抜けると、しばらく墓場を歩きます。墓場を抜けると、山道になります。
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山頂からはフジテックの実験エレベーターがみえます。
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彦根城も見えます。
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唯一残っている二段重ねの石垣。
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千貫井戸。山城なので、水が千貫もの価値があったそう。
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千貫井戸の後は道なき道をあるいて、東側に到着。こちらは佐和山城の大手口。在りし日はこちらも武にぎやかな城下町だったそうです。(今は農道)。そして、小野川沿いには外堀がはりめぐらされています。 そして、いつの間にか米原市へ出て来てしまっていたので、また彦根へ戻ります。右端に彦根城(見えますか?)
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彦根藩最後の藩主井伊直憲の偉功を讃える石碑。直憲は桜田門外の変であまりにも有名な直弼の次男で直弼の罪を問われ10万石に減封されるが、その後、幕府軍として禁門の変、天狗党の乱、天誅組の変、長州征伐にも参加したそうだが、幕府からの彦根藩の扱いを不服としてか、大政奉還後は一転して新政府派となる。
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龍潭寺の隣にある井伊神社。1842年、井伊家の遠祖・井伊共保を祀る神社として創建されたそうです。井伊直政と直孝も祀られています。プレハブのようなものにかこまれていますが、彦根日光とも異名をもつ社殿は1846年建立。昭和に入り1938年からは佐和山神社も合祠。境内には大阪夏の陣の際当時の藩主井伊直孝を狙って来た大阪方の木村重成の血染めのすすきの株分けされたものがあり。(討ち取った彦根藩安藤長三郎は敵とはいえ哀れに思い、重成の首をすすきにくるんで彦根に持ち帰り安藤家の菩提寺宗安寺に葬り、すすきは佐和山神社に植えたそうですが、神社が合祠した際に、すすきは宗安寺へ移植されていたそうですが有志の方の力で平成10年に当地に株分けされたそうです。)
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彦根城城下街キャッスルロード沿いにある宗安寺の門は佐和山城の正門でもあり、彦根の大火によりお寺全焼したときもこの門は焼け残ったそうです。ちなみに、こちら宗安寺さんの安藤家のお墓の近くに木村重成の首塚があります。
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