2012/05/03 - 2012/05/03
1318位(同エリア5322件中)
吉備津彦さん
1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤(いんしん)に下賜した庭園がその起源となる。胤が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士のブノワ(en:Michel Benoist)、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。ヨーロッパでは"Old Summer Palace"などの名で紹介された。しかし、1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、イギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。ただし、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像がこの時破壊・略奪されたという見解があるが、実際にはこのときは被害を免れ移設されたものである。1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されており、その後首を切断され流出したものと考えられる(詳細は円明園十二生肖獣首銅像を参照)[1]。その後も、義和団の乱などの戦乱や文化大革命などにより、円明園は荒廃したまま放置された。1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に国の重点保護文化財に指定され、観光資源として数多くの観光客を集めている。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- 同行者
- 家族旅行
- 航空会社
- 中国東方航空
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