2011/12/17 - 2011/12/19
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ANZdrifterさん
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1世紀末ころに東国を偵察した武内宿禰は「東のひなに日高見国あり。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」と景行天皇に奏言した(書紀)。景行天皇の皇子・ヤマトタケルにはじまるヤマトの北進はこうして始まったが、平泉の藤原氏が12世紀末に源頼朝に滅ぼされるまでは、東北地方の北半部はヤマトの支配の及ばない国であった。
この戦いの歴史を概観すると:
古代史では、仁徳帝が派遣した田道将軍は、367年頃エミシの反撃をうけ東日流(ツガル)で全滅している。5世紀末から6世紀始めは摩擦が少なかったが、7世紀になると、637年に舒明帝が派遣した上毛野君片名軍がエミシに大敗している。
774年にはヤマト北進に抗して海道エミシが蜂起し、38年戦争が始まった。以後エミシが攻勢に転じ、780年には伊治公呰麻呂が雄勝城をうばい(宝亀の乱)、多賀城を焼き払った。
789年の奥州市巣伏の戦いで、アテルイとモレは寡兵でもって5万人のヤマトの大軍を破った。この戦いは別項旅行記「奥州市水沢アテルイとその前後」に書いた。敗れた紀古佐美の報告は「続日本紀」にある。
アテルイとモレ(阿弖流為と母禮:モレはモライと書く地元史家もいる)はエミシの族長で、地名としては奥州市水沢区にアテルイにちなむ跡呂井地区があり、モライにちなむ地名としては、奥州市前沢区の「母体(モタイ)」地区をとりたい。また、甥の人首丸(ヒトカベマル)には人首という地名が奥州市にある。つまり3人のテリトリーは隣接していて、一族で奥州市を中心とするエリアを統治していたとみられる。
5万の大軍を破った巣伏の戦いの後、くり返された数万のヤマト軍との戦いでエミシの住民が疲弊消耗したので、アテルイとモレは数百の兵とともに802年に坂上田村麻呂に降伏し、二人は田村麻呂に伴われて都に上った(日本略記)。大化改新から157年あとのことである。
田村麻呂は、都に伴ったアテルイとモレを日高見国に帰してエミシを降伏させようとしたとされるが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、二人は802年8月13日に河内国で処刑された。生き埋め、斬首などという記載もある。
この一連の成り行きをヤマトによるだまし討ちとする見解も根強い。
アテルイとモレの魂は成仏を拒み、怨霊となって都の空をさまよい、真夜中の雷鳴となって悲痛な叫びを都の空にひびかせたともいう。
これを受けて、アテルイの弟の大岳丸と甥の人首丸は、地元でヤマトの侵攻に抵抗する戦いを続けたが、やがて敗れ去り、日高見国はこのころに衰亡したとみられる。
今回たずねたのは、田村麻呂が開山とされている京都・清水寺にある「アテルイとモレの顕彰碑」(1994年建立)と、アテルイとモレの首塚といわれる 大阪・枚方市牧野にある式内社、河州一ノ宮・片埜神社旧社域の牧野公園にある首塚で、ここには古い自然石の碑と2007年に建立された「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑がある。(さすらいおじさんのくちこみがある)
なお、別旅行記「奥州市 水沢、アテルイとその前後・・・・・・」の写真で紹介した奥州市水沢区の羽黒山にあるアテルイとモレの顕彰碑(2005年建立)には、この牧野公園内首塚の土が故郷の土に納められているという。
歴史は勝者によって書かれる。「撃ちて取るべし」とされた東北の民を率いてヤマトの侵攻に抵抗した先住民の英雄である彼らは、ヤマト政権による統一を本流とする歴史の中で、不当にも反逆者として扱われてきた。
この、アテルイとモレの処刑は 空海が遣唐使船で入唐する3年前のことであった。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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清水寺の田村堂(開山堂)
開山とされる坂上田村麻呂を祀って折り、拝観料300円の窓口の向かい側にある。 -
右が開山堂だが 田村堂が通称で通りがいい。
入り口の方を見ているので 入り口に近いことが判る。 -
舞台を通り過ぎて 音羽の滝におりる階段を見下ろした。
残りの紅葉の先が音羽の滝。そこを右に出口に向かう。 -
出口まで150メートルくらいのところに 1994年につくられた
阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ・モライ)の顕彰碑がある。
碑面には「北天の雄」とあり、花が供えられていた。
出口から 後ろ向きに後ずさりしてくればタダだし早いと思うけれど・・・・・・・。 -
顕彰碑の左側に 由緒を書いた碑がある。
立場は 田村麻呂の意に反して処刑されたという内容。 -
顕彰碑の裏に経緯が書かれている。
岩手県出身者が尽力したことがわかる。
阿弖流為と母禮を反乱者として扱われることが
岩手県人には受け入れられない というように感じられた。 -
参考までに:
奥州市巣伏の小公園にある巣伏の戦いの碑。(先月・2011年10月に訪問)
ヤマト軍の戦死者は20数名だったが、北上川におぼれた者が1000人以上であった。
碑面の上半分はその絵解きである。 -
大阪府枚方市牧野坂2−21−25 にある片埜神社。
河州一ノ宮で祭神はスサノオノミコトとその子孫とされる菅原道真が主祭神。 -
狛犬も古そうだった
社務所ではアテルイのお守りなどを売っている。
由緒略記と「伝・アテルイとモレの首塚」と題するA4のリーフレットは ただでいただいた。 -
豊臣秀頼が勧進した本殿は国指定の重要文化財。
桃山様式の美しい建物で、四面の刳り抜き蛙股は秀逸 とされる。
棟木には差配した片桐旦元自筆の棟札がある。 -
片埜神社の掲示板に郷土史読本「阿弖流為、田村麻呂」という広告が出ていた。
小学生向けの本で「絵本に毛が生えた程度」という説明だったので買わなかったが、買っておけばよかった。
300円でした。 -
アテルイのお守り札
「友情良縁祈願」だそうです。 -
お守りの裏にはアテルイの顔とされる絵と
右側に「大墓公阿弖流為」
左側に「坂上田村麻呂公」と記されている。 -
牧野公園は 昔は片埜神社の社域で、戦後に公園として整備されたが、
首塚という里伝のため地元の人々の要望で地均しをまぬかれたという。
しかし元来の首塚はもう少し牧野坂よりにあったらしい。
川原に放置された二人の遺体は近隣にいたエミシの浮囚(捕虜奴隷)によって丘に埋葬され、そこに2個の自然石を置いて墓標とされた という。 -
30年ほど前の写真には墓標とされた大小2個の自然石が映っているが
現在は大きい石のひとつしかない。
花を供えているのは岩手県人だろうか -
2007年に作られた「伝 阿弖流為 母禮の塚」。
右側奥、桜の老樹の下に 上の写真「アテルイの墓標」が夕陽の中にみえる。 -
もう一度、伝 阿弖流為 母禮の塚。ここにも花が供えられていた。
この公園がある牧野坂は 昔から語り告がれている「祟り坂」で、この坂で転んで怪我をすると治らないといわれてきた という。
坂をおりて北西に300メートルで京阪電車牧野駅である。
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