2007/04/30 - 2007/05/01
23位(同エリア105件中)
哈桑湖さん
4月29日
これから西ウクライナに向かうので、私は「西ウクライナと東ウクライナは、どうちがうのですか?」とキエフの空港で、ガイドのガリーナさんに尋ねると
「東ウクライナは、ロシアの帝国の一部でした。ところが、西ウクライナは、ポーランドがずっと支配民族で、ウクライナ人は被支配民族でした。ポーランド人と西ウクライナの人は、かつて何回も戦争をしています。それで、昔は西ウクライナ人とポーランド人は、今の日本人と韓国人よりはるかに仲が悪かったのです。私たち東ウクライナの人は、ポーランド人とは、とても仲がいいです。今は、西ウクライナ人とポーランド人はとても仲がいいです。しかし、西ウクライナの人は、ポーランド人に対して何かあります。それは、東ウクライナの私には分からないし、また、旅行者の貴方にもわからない。でも、何かあるんですよ。ちょうどフグの毒のようなものね。」と言って、微笑します。
彼女は、日本に来た事もありますが、フグは怖いので口にしなかったとの事です。
飛行機は、西ウクライナのリヴィウに向かいます。
キエフのガリーナさんの言った、『フグの毒』とは、何だろうかと、考えてみます。
第1次大戦後に、ポーランドは、独立を果たします。そして、西ウクライナは、ポーランド領に組み込まれます。
一方、西ウクライナ人たちは、1918年に、西ウクライナ共和国の独立を宣言し、ポーランドと戦争になります。
結局、ポーランドが勝ち、西ウクライナは、ポーランド領になります。
第2次大戦後には、西ウクライナは、ソ連領になります。そして、ソ連領となった西ウクライナに住むポーランド人は、新生ポーランドへ、ポーランド領内に住むウクライナ人は、ソ連に移住させられる事に決まります。
このウクライナ人たちは、大半が農民で、土地に対する執着心が強く、また恐ろしいスターリンが統治する、ソ連への移送を嫌がります。しかし共産主義政権のポーランド政府は,官憲をあげてウクライナ人を、ソ連に追放します。この時に、ウクライナの民族主義者のポーランド政府要人へのテロが頻発します。
ウクライナ人とポーランド人との間の、歴史的怨念が『フグの毒』なのだろうかと考えているうちに、リヴィウ空港に着陸します。
リヴィウ空港の建物は、スターリン様式の威圧的な建物です。
迎えに来てくれた車に乗り、リヴィウ市内に向います。
社会主義独特の箱型集合住宅の町並みから、いきなり石畳の細い路地に入り、年季の入った美しい建物が目に飛び込みます。
ピカピカに修復されておらず、生活感が滲み出ています。
まさにこの街は、磨かれざる珠というところでしょうか。
4月30日
ぐっすり寝て、気持ちのよい朝を迎えます。
ホテルのフロントに下りていくと、明るい金髪のガイドのディアナさんが、待っており、専用車「フォルクスワーゲン」に乗り込みます。
真っ先に向ったのは、「高い城壁」と呼ばれる、古いお城の跡です。この高台には、先客である、ご年配のポーランド人が、大勢います。ここからは、リヴィウの町を一望できるパノラマが広がります。
かつて、リヴィウの住民は、大半がポーランド人でした。
第二次大戦後に、この地にすむポーランド人は、新生ポーランドに移住させられました。ここにいるポーランド人の中には、自分たちの故郷を見に来た人がいるのかもしれません。
この高台には、朽ち果てたライオンの像があります。
ディアナさんは、「この町のシンボルは、ライオンなのです。ハプスブルク帝国時代は、リヴィウは、レンベルク、つまりライオンの町と言われていました」とライオン像の横で説明します。
車は、今来た道を引き返し、旧市街へ向います。最初は、オペラ・バレエ劇場です。この建物の中段に、向って右には「悲劇の像」が、左には「喜劇の像」が立っています。
中は、覗き見程度ですが、その素晴らしさに圧倒されます。
車を、ルィノック(マーケット)広場に停め、ディアナさんと歩いて以下の場所を、観光します。
ドミニカ教会 丸いドームの屋根を持っています。内装は、絢爛豪華で、大勢のポーランド人が、ミサに授かっています。
ボウイム家チャペル 外壁は、聖書のお話に基づいた、細かい彫刻が彫られています。
アルメニア教会 14世紀に建てられた教会。内部は、薄暗いので、目をこらさないといけないのですが、美しい壁画が、描かれています。中庭には、十字架に架けられたキリスト像があります。
私は、この教会が、一番好きです。
ユダヤ人住居跡がアルメニア教会の近くにあります。
かつては、シナゴーグがありましたが、ナチスが爆破したとのことです。
シナゴーグ跡は、現在でも空き地のままです。
ここに住むユダヤ人は、すべて追われ、今は貧しいウクライナの人が住んでいます。
黒い石造りの家 ルィノック広場で、真っ黒な建物ゆえ、とても目立ちます。中は、薬局博物館です。リヴィウで一番古い薬局で、今も営業中です。内部は、製薬の古い道具が並んでいます。
フグの剥製を見て、ガイドのディアナさんは、「フグには、テトロドトキシンというとても恐ろしい毒があります」と説明します。ウクライナ人にとって、フグは恐ろしいという生き物というイメージのようです。
再び車に乗り込み、リキチャフ墓地へいきます。ここには、興味深い彫像の墓石が並んでいます。さらに奥に進むと、第一次大戦後の、ポーランドと西ウクライナとの戦争で倒れた兵士のお墓が、広大な敷地の中にあります。
向って手前が、ウクライナ兵士のお墓で、その隣にポーランド兵士のお墓があります。ここには、白いモニュメントが建ち、中央には礼拝所があり、マリア様の像があります。
ここで、ポーランドの大統領とウクライナのユーシチェンコ大統領は、両国の不戦の誓い、そして和解をしました。ディアナさんは、「ポーランド人とウクライナ人は、仲良くなりました。私もポーランド人は好きです。しかしロシア人は好きではありません。」と言います。
ディアナさんに、オレンジ革命の事を、尋ねます。
「私は、ユーシチェンコ大統領も、ユリア・ティモシェンコ(ウクライナのオレンジ革命のジャンヌ・ダルクとい言われた美貌の女性政治家)も好きです。今は、あの2人は、袂を分ったようですが」と答えます。
若いドライバーの男性は、「私は、政治には関心がない」と答えますが。
この後、ドライバーとディアナさんとお別れして、一人で旧市街を、散策します。
私としては、ポーランド人観光客で溢れ、綺麗になりつつあるルィノック広場より、少し離れた所の建物の方が、落ち着いていて好きです。この古い町を歩けば、必ず新しい発見があります。
建物1つ1つに目を凝らすと、何か驚くものがあるのです。
そのうちに、どこを歩いているかわからくなったので、タクシーに乗り、ホテルに向います。
ロシア語を使っても、全く問題ありません。
5月1日
リヴィウ市を出ると、人家もまばらになり、ところどころに、ウクライナ正教会、ローマカトリック教会、そしてギリシャ・カトリック教会が目につきます。
途中ドイツ軍とソ連軍の激戦地であるテルノポリ市に入ります。
箱形の集合住宅ばかりで、あまり観光らしき目玉は、ないようです。ここで昼食用に、ピロシキを買い込みます。
若い売り子さんに、オレンジ革命のことを、尋ねると、「大統領も首相も、立派な事を言うけれど、どちらにもあまり関心はない。」と吐き捨てるように答えます。ウクライナ西部は、大統領派の牙城と考えていたので、拍子抜けしてしまいます。
深い谷間にかかる、川の橋を渡って、カーミャネツ・ポジーリスキーに入ります。とても美しい黄色の市庁舎が、目に飛び込んできます。
この街には、東ウクライナとポーランドから、観光バスに乗って大勢来ています。ディアナさんは、「ウクライナ人とポーランド人は、顔は同じです。ただポーランド人は、綺麗なバスに乗ってやって来るから分かります」と言います。また「ポーランド語とウクライナ語は、大変似ているので、十分通じます。」とも言います。
この町の教会に入ります。すでにそこには、ポーランド人観光客がいて、ポーランド人のガイドさんが、大きい声で説明しています。あたかも、この地の文化の担い手は、かつては、ポーランド人だったのだと、言わんばかりです。
このポーランド人たちの態度を見て、ディアナさんは、ドライバーの顔を見て、口を歪めて笑います。ドライバーの方も、面白くなさそうに口を歪めます。この2人の様子を見て、これがキエフのガイドさんの言う『フグの毒』だと理解します。
5月3日
空港には、ウクライナとポーランド両国共催のUEFA欧州選手権2012サッカー大会を祝した横断幕が張ってあります。
ウクライナもポーランドも、背後にロシアという大国を抱えているだけに、共に仲良くしていこうとの事です。(日本と韓国も、サッカー・ワールドカップを共催しましたが、歴史的な和解には程遠い感じですが)
ウクライナへ来てまず感じたのは、人々がとても明るい表情をしているということです。
そして一人ひとりが、とても人懐っこい感じがします。
あまり顔に表情を出さないモスクワの人を見ていると、ウクライナ人は、ロシア人に比べて、何て陽気なんだろうと思うかもしれません。しかしそうではありません。ロシアも、南へ行けば、行くほど人懐っこくなります。
ただ南へ行くと、チェチェンに近くなるため。街や道路に警官が結構います。
それゆえ、街を歩いていても、なんとなく緊張してしまいます。
貴重な文化遺産の建物の周りには、必ず警官がいます。
警官は、パスポートの提示を求めて、じっと見てから、賄賂を要求したりします。
それに比して、ウクライナには、あまり警官がいないのです。ウクライナには、テロも戦争もないのです。
このことが、ロシアとウクライナとのとても大きな違いに感じるのです。
ウクライナの街を歩いていると、日本での煩わしい事など、頭の片隅にすらなくなり、気持ちが浮き浮きします。
ところで、オレンジ革命のときに、ウクライナは東と西に国家が分裂する可能性すらあると、日本のテレビで放送されていました。
今回の旅で、この事について、自分の目で確かめたかったのです。
ウクライナに実際に来てみると、国家の分裂ということは、荒唐無稽だと知らされます。
ウクライナは、第二次大戦までは、幾つかの国に分裂して統治されていました。
西ウクライナでは、ウクライナの大半は、ポーランド人領主の農奴として虐げられてきました。
東ウクライナでは、スターリンの農業政策により、数百万人も餓死しました。
ウクライナ人は他国により、歴史の中で翻弄されてきたのです。
もちろんポーランドも、3つの国(ロシア、オーストリア、プロイセン)によって分割され、翻弄されてきました。
ポーランドもウクライナも、「国は滅びず」と、ともに国歌の中で唄われています。
ただポーランド国歌には、どことなくまだ明るさ、楽観さがあります。
しかし、ウクライナ国歌には、明るさなどなく、まさに自由を求める魂の叫びのように聞こえるのです。
今まで分裂していたウクライナが一つにまとまり、やっと独立をつかみ取ったのです。
あの美しいウクライナ国歌を聞く限り、ウクライナが今後、分裂するなど、考えも及ばないと感じるのは、私だけでしょうか。
最後にウクライナはとても平和です。
平和というのは、素晴らしい事だと、改めて実感させられた旅でありました。
リヴィウとキエフを見ただけで、ウクライナを見たなどとは、木を見て森を見ずというところでしょうか。
今後時間があれば、ハンガリー系住民と混住するザカルパチア州、ルーマニア系住民と混住するチェルノフツィ州、ロシア系住民が多数のハリコフ州、そしてブレジネフ書記長と関係の深いドニエプロペトロフスク州とザポロージェ州を順々に訪問していきたいと思います。リヴィウやキエフにはない、新しい発見を求めたいと思うのです。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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リヴィウ空港到着
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スターリン様式
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私の泊まったホテル。
フロントの女性が、ニコッとして、英語で挨拶。
びっくりです。
キエフでは、デプッとしたオバチャンが、「パースポルト」と無愛想に言ってきましたが。
この無愛想は、ロシアでも同じです。
でも、これで旧ソ連に来たのだと実感するのです。
あと、キエフのホテルに真夜中到着でしたが、強い香水をかけた、美しい夜のお姫様が、笑顔で整列していて、びっくりしましたが、ここにはいません。
ああ、もうここはヨーロッパだと実感します。
なお、モスクワ・キエフ間には、日本のオジサンが何人もいました。
このオジサンたとは、これからオンボロのツポレフに乗って、ドネツクに向かいます。
お見合い目的の人あり、エンコー(援助交際)目的の人あり。
ドネツクは、エイズが多いんですよ。
まあ、梅の毒よりは、はるかに感染力は低いですが。 -
教会です
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ライオンです。
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リヴィウが一望に。
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同じハプスブルク帝国のウィーン、プラハはアルミサッシです。
こちらは、木の窓枠です。
レンガの汚れとか、生活感が。
磨かれざる珠です。 -
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リヴィウ大学
ディアナさんの母校。
日本でいえば、京都大学でしょうか。
ディアナさんは、才色兼備、神は二物を与えています。
私は、一物も持ち合わせませんが。 -
ウクライナの精神的支柱
詩人のシェフチェンコさん。
なお、カザフスタンのアクタウは、かつてはシェフチェンコ市でした。
今は、アクタウの北に、フォルト・シェフチェンコ市があります。 -
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オペラ・バレイ劇場
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喜劇
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悲劇
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内部
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アルメニア教会
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内部
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ポペーダ(勝利)という車
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この町は、ピカピカでないところが、素晴らしいです。
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目を凝らすと、素晴らしい彫像が。
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古い薬局
ここに、フグの毒とフグが展示されています。
フグの毒は怖いです。イチコロです。
勿論、梅の毒も怖いです。エイズより、感染力ははるかに、はるかに、強いです。
リヴィウには、日本の通称「エンコー・オジサン」は、いませんが。
日本への麻薬の持ち込みもいけませんが、病気の持ち込みもいけませんね。 -
大挙してやってくるポーランド人。
このリヴィウの町は、第二次大戦終了前までは、住民はポーランド人でした。 -
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マリア様
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かつて、ユダヤ人居住区。
シナゴーグがナチスに燃やされました。
ナチスは、バルト三国でも、ウクライナでも、地元の協力者を使って、ユダヤ人を殺害させました。 -
かつてのユダヤ人居住区。
今は貧しいウクライナ人が、住んでいます。 -
ナチスと西ウクライナの民族主義者によって、追出されるユダヤ人
ポーランド人の荘園を管理していたのが、ユダヤ人でした。
それゆえ、西ウクライナの反ユダヤ感情は、とても強かったです。
でも、大半のユダヤ人は、貧しかったのです。 -
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建物の裏です。
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ここで、サーロを買います。西ウクライナでは、露語はニェットと聞いていましたが、ノン・プロブレムです。
豚の脂肪の塩漬けです。
日本に持ち込みました。
あとで知りましたが、肉類の持込は、いけないんですね。
固いです。噛み切るのに、一苦労。 -
犬も歩けば、棒にあたりますが。
この町を歩けば、必ず新しい発見が。 -
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キエフは、サンクトペテルブルクより美しいという人もいます。
確かに、キエフは美しいです。
でも、リヴィウに来たら、キエフの印象が、吹っ飛びました。
この町の魅力に、はまってしまいました。 -
ザポロージェッツ。
可愛い車です。 -
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ウクライナとポーランドの戦争犠牲者の墓地です
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ポーランドの大統領とユーシチェンコ大統領が、ここで不戦の誓いを。
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マリア様です。
これは、第一次大戦後の、ポーランド、ウクライナの両方の戦争での戦没者を慰霊したものです。
1944年8月1日、ナチス支配下のワルシャワで、ワルシャワ蜂起が起きます。ナチスの暴虐に、ワルシャワ市民が、立ち上がります。
このときに、ハインリヒ・ヒムラーは、ナチスに協力しているウクライナ人を送り込みます。ヒムラーは、ウクライナ人のポーランド人に対する、歴史的怨念を利用するのです。彼らは、ワルシャワで、略奪、殺人、強姦を繰り返します。ワイダ監督の「鷲の指輪」という映画で、ウクライナ兵が白昼堂々と、ポーランド女性を連れ去るシーンがあります。(ワイダ監督は、民族主義者で、ウクライナ人やリトアニア人から、よく思われていませんが)
一方、ポーランド人は、ウクライナの民間人の背中に、「U」の文字を背中に塗り、ドイツ軍との銃弾の飛び交う中、バリケード作りをさせるのです。 -
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カーミャネツ・ポジーリスキーに来ました。
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古い教会です
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中には、ポーランド人で一杯でした。
ポーランド人が、大きい声を出して、我が物顔でした。
ガイドのディアナさんは、ドライバーの顔を見て、顔を歪めて笑いました。
ドライバーの方も、意味ありげな笑いを。
ポーランド人に対する、フグの毒のようなものでしょうか。 -
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古いお城のなかです。
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1939年9月1日、ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻します。
つづいて、ソ連軍もポーランドに侵攻します。
ソ連のゲーペーウー(カーゲーベーの前身)は、ウクライナの民族主義者を、このお城に閉じ込め、殺害します。
1941年にナチス・ドイツが、この地にやってきます。
ゲーペーウーの犯罪が、明るみに。
戦後は、この殺害は、ナチスによるものと、ソ連政府は言ってきました。
現在は、これはソ連の仕業だと。
西ウクライナは、ただの一度も帝政ロシアに組み込まれたことはありません。それが、スターリンによってソ連の一部に。それゆえ、西ウクライナは反露感情が強いです。
才色兼備のディアナさんは、「私はプーチンが大嫌いだ。彼は、カーゲーベー出身だ」と言うのです。 -
もう私が行ったときには、オレンジ革命の熱気は、消えていました。
テルノポリの売り子さんは、「彼はうそつきだ「自分のことしか考えていない」と。 -
西ウクライナでは、支持者が多いです。
でも彼女は、東ウクライナ出身です。
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