1950/09/30 - 1950/10/20
40位(同エリア43件中)
早島 潮さん
N・Y氏は筆者が大学へ入学し、宇治の学寮に入寮したとき隣室であった。双方ともに戦前鎮南浦に居住していたことは承知していたがそれだけのことで鎮南浦のことについて語り合ったことはない。
時を経て筆者の旅行ブログを閲読したM・E女史から或る日以下のメールが届いた。
私も鎮南浦から帯江に引き揚げました
前略
私は15年2月生まれで、引き揚げ時栄養失調の6歳ゆえ、記憶は飛び飛びです。大学生の頃、今は亡き母にたくさんの質問状を送り、その返事が今も残っているのですが、
(1) 鎮南浦の「億両機の港」を出たのは「21年9月30日」で、約3500人近い人が「10隻以上」の船に分乗して出発。
(2)「38度線直前の5里ほどは、私と4歳の妹は牛車に乗った」この時「約150台の牛車が集められ、老人と幼児を有料で乗せた」
(3)「38度線の川を真夜中に越えた時、飛び石のように散らばっている石を飛んで、向こう岸へ渡った」
(4) 開城でのテント村には「123」のテントがあり、「8日間」いた。
(5) 開城から仁川のテント村へは「貨車」で運ばれた。
(6) 乗船用舟艇で4キロ沖に停泊中の「航空母艦・熊野丸」で2日かかって佐世保に着いたが、数日間上陸できず。
(7) 佐世保の海兵団で5日間列車待ちして、倉敷へ到着したのが、「10月23日」だった.
・・とのことでした。母は元小学校教師で、記憶力のいい方で、当時は50代でしたし、87歳で亡くなるまでボケることはなかったので、私はこれらの情報を真実だと思い、現在ある作品をほぼ仕上げ段階なのですが、ちょっと疑問もわいてきました。(実は20代の頃、一度書いたことがあり、それが日本児童文学者協会賞の最終8作品に選ばれたことがありますが、出版にはいたらず、そのままにしてあったのを、すっかり書き直すことにして、取り組み中なのです)
私の一家は、父が応召、38歳の母が、1歳半(女)、4歳(女)、6歳(女)、10歳(男)、12歳(女)、15歳(男)の六人を連れての逃避行で、経済的にはどん底でしたし、15歳の兄は結核の微熱を抱えた状態でしたから、実に悲惨でした。
あなたの旅と合致する点と、同じ頃に別働隊があったのかな(総勢400−500など)と思える部分とがあって、とても興味を惹かれました。私は18歳まで「倉敷青陵高校」で学び、大学は「東京女子大学」へ上京し、そのまま東京住まいで、高校の英語教師、短大と東京女子大の「英語の児童文学」のいずれも非常勤講師を勤めて、今年の3月で定年退職をしました。現在は「八王子中央図書館」で「イギリス児童文学を原書で楽しむ会=OE会」を主催して、5年経ちます。
つい先週の10月16−18日に、「OE会」の仲間3人を案内して、倉敷へ旅したばかりでした。鷲羽山へ向かう電車で「早島」を通過し、友達もおりますので、懐かしく駅名を見つめたものです。
私がもう一つ大いに興味を惹かれたのは、「鎮南浦の会」が今もあるらしい、ということでした。どうすれば連絡をつけられるのでしょうか?ぶしつけながら、教えていただけるとありがたいです。会報か何かあるのでしょうか?鎮南浦の地図が手に入らないものかと、切望しております。 お返事を心からお待ちしております。 M・E
- 交通手段
- 徒歩
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
その他の都市(北朝鮮) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
0