2011/04/06 - 2011/04/07
8位(同エリア44件中)
極楽人さん
ハマのリアドホテルが主催する二つのツアーに参加しました。
・4月6日 『クラック・デ・シュバリエ』ツアー
・4月7日 『アパメア遺跡とデッド・シティ』ツアー
いづれも参加者は私を含めて3人、これをベテラン運転手さんが引率します。
ツアーは前夜までに希望者を募ってアレンジされます。目的地の多くは単独で行くには少々面倒な場所、しかも複数の見どころを廻ってくれます。公共交通機関が少ないシリアではありがたいサービスです。値段もリーズナブルで、1日目が20ドル、2日目が25ドルと価格表どおり。ヨルダンのように、定員4人分を参加者3人で割ることもありませんでした。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
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-
●『クラック・デ・シュバリエ』ツアー ●●●●
朝9時まえ、ホテル前の通りに車が着きます。
一緒に行くのはイギリスから来ているロージーとアンディのカップル。運転はベテランのアブドゥラさんです。私が助手席に、カップルが後部座席に落ち着いて、すぐ出発です。 -
よく晴れた草原の道を、車は西へ走ります。
南東部の砂漠地帯と違って、このあたりは緑に覆われた農業地帯。シリアは『農業大国』でもあり、とくに野菜や果物は収穫量も多く種類も豊富です。
「この国でできないのはバナナくらい」とアブドゥラ運転手。
特産のオリーブやピスタチオの畑が、現れては後方に消えてゆきました。 -
40分ほどで最初の見学地『ミスヤフ城』へ。
駐車場のすぐ上に、大地と同じ色合いをしたいかつい岩の構築物が見えています。 -
正面から見ると、“堅牢な要塞”という感じです。8世紀から12世紀頃まで、周囲の異民族や十字軍の侵攻に備えて、あるいは十字軍が拠点とするために、このあたりにはたくさんの要塞が築かれました。
-
内部は、中世に破壊されたままの状態です。
見学コースの設定もなく、どこに登っても、どこに入っても自由になっています。入口に大統領の肖像がなければ、ただの廃墟とも見まがいます。 -
1時間ほどぶらついて、荒れ果てた古城を出てきました。
ツアーといっても取り立ててルールはなく、集合時間も“大まか”です。
「もっと居たければ、居ていいよ」とアブドゥラさん。3人とも、十分満喫しました。 -
車は、今度は南に方向を変えて走ります。
丘の麓に続く道はどこも花盛りで、ドライブだけでも満足してしまいそうです。気温は20度ちょっと、湿気も少なくて、今が一番いい季節だといいます。
「秋はどう?」とロージーが聞くと、
「秋もいいよ、でも花はこんなに咲いていないな。」
とアブドゥラ氏。 -
次は『聖ジョージ教会』へ。
マダバ(ヨルダン)にある同名の教会はモザイクで有名ですが、ここはひとつの建物に新旧ふたつの教会が同居しています。
地上には中世期の、地下通路の奥には古代の礼拝堂がひっそりと納まっていました。 -
それからまた車を走らせ、丘の道を登ってゆきます。
12時を少し過ぎた頃、最終目的地に到着しました。 -
花畑の向こうに姿を見せたのは、
丘の頂上にどっしりと構えた『クラック・デ・シュバリエ』。
和訳すると「騎士の砦」となります。堅牢さと優雅さを併せ持った中世の名城が、ほぼ完全な外形を残しています。 -
元々はアレッポの領主が立てたという城を十字軍が大規模改修して造り変え、難攻不落の砦となりました。
ここで「上手」から突然の闖入者。そのまま「下手」へ下がります。
かのアラビアのロレンスも「十字軍の城としては最も美しい」と絶賛、宮崎アニメ『ラピュタ』のモデルという“噂”もあるようです。 -
軍事技術の粋を集めた構造はエドワード一世によって英国へと伝えられ、後のイングランドやウェールズの城に大きな影響を与えたそうです。
-
高台のレストランにある駐車場に車を止めて、歩いて城を目指します。
ツアーで一緒の二人が、写真もそこそこに入口へ急いでいます。 -
こちらが入口。
丘の麓の『カラート・アル・ホスン』村へと繋がる道の、斜面の
途中にあります。 -
階段を上がるとすぐチケット売り場、大人150SP(300yen)。
先に入った二人が揉めていました。
学割のために提示した学生証が、係員に“偽造”と疑われているのです。
聞くと「こういうのは、ダマスカスで安値で手に入る」と言われて憤慨しています。僅か100円単位の抵抗ですが、“誇り”がかかっているようです。
長期戦の構えなので、合図して先へ向かいます。
部厚い外壁の下はトンネルのような通路になっています。 -
小窓からのぞく外壁。
-
ここは数百人が入るホールだとか。
他に、小部屋やチャペル、貯蔵庫などもありました。
往時は2,000人以上の騎士と、5年間篭城できるだけの食料が貯蔵されていたといいます。 -
外壁との間には狭い濠。
壁を乗り越えて侵入した外敵が大がかりな武器を持ち込めないように、敢えて狭く設計してあるそうです。
濠の一部には水が張られたところもありましたが、ここは春の野の花で埋め尽くされています。 -
外壁の上につけられた細い道を辿って、お城を半周できるようになっていました。
内部よりも、外側の景色に見とれます。 -
眼下には麓の村が一望。これなら、外敵が来ればすぐに発見できます。
ゆっくりひと周わりして、そろそろ出ようかというところで例の二人に逢いました。これから急いで廻るそうです。
長期戦の結果は「あいつも難攻不落だった」そうです。 -
丘のレストランに戻りました。
ここで昼食をとりながら、彼らを待つことにします。 -
窓の向こうに、お城の側面が大きく見える席です。
「何がありますか?]と聞くと、キッチンに並んだ料理を見せてくれました。
チキンとジャガイモと野菜の煮付け、ビールがないのでスプライトを注文しました。これで250SP(500yen)、有名観光地にしては良心的です。 -
窓側のフランス人ご家族が話しかけてきました。お城で何度か前後になった人たちです。そういえば「クラック・デ・シュバリエ」はフランス語です。
「フランスの方と外国で逢うのは珍しい」と言うと、「自分たちは学生時代から外国旅行が好き、例外ね」とのこと。アラブ圏は言葉が通じるので多少は多いかも、とも。震災や原子力事故についても心配してくれました。
娘さんのスカーフは「安全のため」ではなく、単に「好きだから」だそうです。 -
連れの二人がなかなか戻らないので、運転手さんとレストランの周囲を散歩しました。
「年中ここへ来ているが写真がない」というので、ちょっと気取って記念撮影を。
写真は今頃、手元に届いている筈です。 -
レストランの庭から見たクラック・デ・シュバリエ。
-
帰り道でもう一度、絶景ポイントに寄りました。
斜面の勾配が魅力的です。
上空に黒雲が出てきて、お城はまた違う表情になりました。 -
ひたすら眺め、写真を撮って・・・
午後4時過ぎ、ハマのホテルに戻りました。
1日目のツアーが終了しました。 -
●『アパメア遺跡とデッドシティ』ツアー ●●●●
次の日は「パルミラ・ツアー」のはずでしたが、予約したグループが到着せず急遽変更になりました。国境通過や交通事情などに流動的な要素が多いので、ギリギリの旅程を組むとこういうことが起こります。
パルミラはともかく、“途中で立ち寄る”ことになっていた場所にはどうしても行きたいので、別途方策を考えなくてはいけません。 -
もちろん、この日のコースにも魅力を感じていたので気分を切り替えて出発です。
同行者はオーストラリアのカップル、ドライバーは昨日とは別のフェイザーさんです。
朝9時過ぎに出発して、45分後に最初の見学地に着きました。 -
『シェイザール城』です。
階段を上ったところで入場料を払います。
75SP(150yen)でした。 -
片側は鋭く切れ込んだ断崖になっていて、人を寄せ付けません。
-
下を覗き込むと、谷底を渓流が走っていました。
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その斜面を、なんと羊飼いの一団が。
-
お城の中は、他と同じように廃墟です。
昔のまま、壊れたままの自然な姿で「案内板」の一枚もありません。“保存”というより“放置”に近い管理ですが、この方が風情はあります。 -
戦いが終わって800余年が流れて、誰もいなくなった城跡に草花が咲き乱れます。
40分ばかりいて、次に移ります。 -
丘の上に『マデック城』というお城が見えてきました。
アパメア遺跡のすぐ横にある、という古城です。 -
隣の丘から雄姿をパシャリ。
車は希望するところで止まってくれるので助かります。 -
アパメア遺跡の入口です。
シリア地方を治めていたセレウコス朝が紀元前3世紀に築いた都市。“アパメア”は、王の妻の名にちなんだということです。
崩壊後はローマ帝国の支配下で街の全盛期を迎えますが、6世紀頃からペルシャの侵攻を受けて衰退し、いつ間にか歴史から消えてしまいました。 -
今では高台の草原に列柱群を残すのみですが、これがナカナカで・・・
小さな小屋が料金所、ここで150SP(300yen)を払います。
明るく移っている写真は進行方向の先を、黒っぽく写っているのは後を振り返って撮影したものです。
この写真は、入口から少し歩いて振り返ったところです。 -
列柱は延々と、直線の広い道の両側に1.6km続きます。
我々はここを端から端まで歩いただけですが、ほかには特に何もないようです。でも、これだけでも十分満喫できます。 -
残っているのはローマ風の列柱。街がいちばん繁栄した紀元2世紀頃の名残りでしょう。
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「・・・・・・!」
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「・・・・・・!」
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「・・・・・・!」
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「・・・・・・!」
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1時間ほどかけて、写真を撮りながらゆっくり歩きました。
その間に出会ったのはアメリカ青年とアジア女性のカップル一組だけ。
緑の草原と静寂がとてもいいご馳走でした。 -
終点まで来て、最後にもう一度振り向いて終わりにします。運転手さんが、こちら側に車をまわしておいてくれました。
トイレを済ませて50SP(100yen)、これはちょっと相場より高いかも。 -
車に戻って、今度は『デッド・シティ』を訪ねます。
ときどき、羊の群れが行く手を塞ぎます。 -
デッド・シティとは、人が消えてしまった廃墟の集落。
ハマからアレッポに到るあたりにたくさん点在しています。
誰が住み、いつ、どうしていなくなったかはよく分からないそうです。 -
そのひとつ、『セルジッラー』の集落。
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かなり大きな集落で、粉引き小屋や教会の跡が残っていました。
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これは『アル・バラ』の集落。
独得な建物の形状が、不思議を膨らませます。 -
デッド・シティを3ヶ所ほど訪ねたあと、セルジッラー集落の入口にあるレストランで遅い昼食をとりました。
オーナーが、このあたりの特産という蜂蜜をたっぷり注いだお茶をご馳走してくれました。
私は焼きたてのピザを注文しましたが、同行の二人はカバンからパンを取り出して食べ始めます。欧米の若い旅行者たちは徹底的に“貧乏旅行”を貫くことが多く、それはそれで清々しいものです。 -
ビールを求めましたが置いてありません。立派な体格のオーナーは、衣装からして敬虔なムスリムのようです。乾いた陽射しに喉がカラカラですが、楽しみはハマに帰るまでお預けです。
レストランの入口で記念撮影。左側が運転手さんです。
ところで、同行の女性には岡山でホームステイの経験がありました。「日本語は?」と聞くと「チョットダケヨ!」と変な節をつけて言い、それきり日本語は出てきませんでした。陽気な性格で、常に若者をリードしていました。
どういう縁か、二人とはその後のアレッポとカッパドキアでも遭遇することになります。 -
ツアーは、最後にモザイク美術館を訪れて終了します。
草花や動物の意匠が多く、床一面の大きなものもありました。
内部は撮影禁止です。 -
それからかなり長い道のりを戻って、
夕方4時過ぎにハマの時計塔に帰りつきました。
この日はもう一ヶ所、どうしても行きたいところがあります。
喉は限りなく“冷えたビール”を求めていましたが、もう少しお預けです。帰ったらすぐレストランに駆けつけるから、「待ってろよ、缶ビール!」
♪ハマの〜ォ 酒場に〜ィ 戻ったその日から〜〜っ
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