2011/03/26 - 2011/03/26
1889位(同エリア3029件中)
み@さん
お散歩旅行。
天満町→住吉町→中町の順にぐるっと歩きました。
広島駅から天満町までは広電広電宮島線 天満町下車(150円)
徒歩5分。
天満町から住吉町までは徒歩40分。
住吉町から中町までは徒歩15分程度だと思います。
(寄り道してたので正確なところよく分かりませんが。。)
住吉神社では御朱印もいただけます。
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- 交通手段
- 徒歩
-
■天満宮
【御祭神】
主神 菅原道真命
配神(東座) 中将殿命(長男 高視公)
(西座) 吉祥尼(北の方)
【御由緒】
昔毛利の殿様が広島城を建築する際、普請小屋を建て住みついたのが、
沼田郡(ぬたごうり)広瀬新開小屋村→小屋新町です。
その頃、町内にたびたび火事が起こり、焼けた家は数え切れないほどでした。
町の人たちはとてもこわがって、安心して暮らすことができないありさまでした。町役人綿谷七左衛門知孝(わたやしちざえもんともたか)(白井進家)氏と、田中嘉三次幸福(かそうじゆきとみ)氏は心配して、天満宮
(天神様ともいう。御祭神菅原道真)のお力で、このわざわいをはらいのけようと天明8年(1788年)に天満町と町名をかえました。そして殿様にたのんで、天満宮を町の守り神として、文政5年(1822年)正月24日、天満小付近におまつりしたのです。しかし地理的に悪く文政10年(1827年)7月24日、今の地へおまつりしました。昭和20年8月6日、原子爆弾によってお宮の建物は焼けてしまい、宮司は御進退を天満小の防空壕に、9月には天満南町に仮のお宮をつくっておまつりしました。その後昭和21年8月後本殿、昭和29年8月24日拝殿を再建いたしました。
現在、教育の神様として有名な天満宮が、なぜ火防せの目的で建てられたのでしょうか?
御祭神管公(菅原道真)が、雷(雷神つまり火の御子)よけの神様だという信仰があるからです。
薨去(こうきょ)の年、雷様が京都の町中にたくさん落ち、各所を炎上させたうえ、ついに政敵藤原時平も落雷のため、即死するに至ったのです。世にこの天変地異は、管公の雷のたたりであるとされました。後世、火雷神のたたりを除けるため、火雷天神として厚く祀り、たたりがないようお祈りしたのです。
北野にて御霊会のおこなわれたことは、これによるものです。また、火雷神は管公の使者であって、雷神自体ではないとされています。かのごとき震災を降すのは、「世に不信の人々が多いので、そういう人々には、雷神に命じてこらしめるから心のよい者は、心配のあまり苦しまずともよい。」つまり天満宮はえん罪(無実の罪ばらし)の神としてお祀されたのです。以後関ヶ原の戦いも終わり、江戸時代元禄の世となると世の中も平和になり、読・書・算の寺子屋ができ。なかでも読・書が発展して書の神教育の神となったのです。氏神広瀬神社には、数十の御祭神が祀られていた中より当時すでに教育の神といわれていた天満宮を。当町にお迎えし、火防せの目的で建てたのは。鎮魂を意味していたからです。 -
旧山陽道の道路碑
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■住吉神社
【御祭神】
表筒男命(うわつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
・大国主命(おおくにぬしのみこと)
・事代主命(ことしろぬしのみこと)
【御由緒】
当神社は、享保18年(1733年)に住吉三神と相殿(あいどの)の神(大国主命、事代主命)を勧請したのにはじまる。
その後元文3年(1738年)船府一統の守護神となって、社殿・境内が拡張され信仰を集めた。寛政10年(1798年)水主町(現在の加古町)に大火があり、その火は当社で鎮火し、時の人は神威の偉大さに驚いた。しかし、社殿が煙によってけがされたとして、翌年6月。現在の地へ遷宮された。この日をもって夏の例大祭日とした。
【御神徳】
表筒男・中筒男・底筒男命の三神を総称して墨江(すみのえ)の神、または住吉の大神と呼んでいる。
神話によると、黄泉の国でイザナギノミコトがイザナミノミコトにお会いになり、逃げ帰られて水中でみそぎはらえされた際、住吉の三神が誕生された。
その後、神功皇后が熊襲(くまそ)、新羅(しらぎ)征伐の時にこの神を祀られ、三神の和魂(にぎみたま)は皇后の御身に付添うて御寿命を守った。そして荒魂(あらみたま)は皇后軍の先鋒となり御船を誘導したといわれる。
住吉の神は古来お祓い厄除け、海上、交通安全、漁業の守護神として特に信仰がある。また和歌三神の一つ、歌道の神として仰がれ、学問の神としても篤い信仰を集めている。 -
■白神社
【主祭神】
菊理媛神(くくりひめのかみ)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
【相殿神】
天御中主尊(あめのみなかぬしのかみ)
高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)
神皇産霊尊(かみむすびのかみ)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
【御由緒】
白神社のある中町一帯がまだ海であった頃、現在神社のある地点は海面から突き出た岩礁であった。そこに衝突する船が後を絶たないため、当時の船人により岩礁上に白い紙がたてられ、海難事故を防止する役目を果たしていた。
やがてこの岩礁は三角州の発達や干拓工事などにより徐々に地上に露出しはじめ、海難事故とは無縁になっていくが、船の安全な運航に貢献した白紙に代わる守り神の象徴として祠が建てられた。祠は白紙にちなみ「白神(しらかみ)」と呼ばれ、住民の信仰を集めた。これが建造物として信仰されるようになった始まりだが、その創建時期については記録がなく不詳。
祠は時を経て徐々に規模を拡大していき、16世紀頃には広島城を築いた毛利輝元により新しい社殿が建立された。この社殿を城主の氏神、広島城下の総産土神(そううぶすながみ)とし、最盛期には近隣の旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社に発展した。
1945年8月6日原爆投下により爆心地から約500mに位置する白神社は、地下に保存していた重要書類を残し建造物は完全に焼失したが、同年10月には祭祀執行のため急造の仮社殿が建てられ、10年後の1955年12月に現在の形に再建された。
【史跡・天然記念物】
・白神社の岩礁(1984年11月28日指定)
・旧国泰寺愛宕池(1984年11月28日指定) -
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